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「宝物」は小さなツヅラに

監督や役者による性加害報道が後を絶たないみたい。
どうにもひどい話。

現行の映画は、煩雑な共同作業が必要とされる総合芸術みたいなところがあるから、中には自身の地位を利用して「帝国」を築こうとする者もいるのだろうかと、いちいちの報道を特殊事例のように傍観してきたんだけど、自主映画と違い、一本の映画が上映されるまでには、制作陣以外にも宣伝、配給、その他諸々、たくさんの人間が関与するわけだから、「あれ? ちょっと様子がヘンだぞ」と気づいて声を上げる者が、今の今まで一人も出てこなかったというのはやはり奇妙だし、告発者達が今日までダンマリを決め込んでいた理由は何だったのかと探ってみると、新たに見えてくる「帝国」もありそうで、それはそれで不気味だったりする。

ぼくはこう見えて昔話の類が好きなので、今回の報道を「舌切り雀」に出てくる大きなツヅラと小さなツヅラで例えてみようと思う。

ここに、悪い噂はあるが知名度があり、名作を量産している売れっ子監督(大きなツヅラ)と、才能はないが性行為強要等はしない人畜無害で無名な監督(小さなツヅラ)がいる。
「どっちの監督の映画に出演したいですか?」と聞かれた時に、昔話の教訓通り、後者を選んでいれば「宝物」が手に入り、前者を選べば「お化け」が出てくるというのなら、誰もが後者を選び続けていただろうけど、現実はそう単純でもないんだよね。

「宝物」は、善良だが無名の監督作品に出演しても手に入らず、悪い噂が絶えない売れっ子監督の作品に出演してこそ得られたりすることは、出演者のみならず、関係者、いや子供ですらよく知っているんだからさ。

善良だけど、劇場公開もかなわぬ無名の映画監督と苦楽を共にしても、キャリアは形成できない。ならば、悪い噂が「噂レベル」であることを信じて、売れっ子監督に付き従うほうがマシではないかと考えるのは、映画という重労働に一度でも携わったことがある者には、ごく自然な判断であるようにも映るんだよね。

じゃあ、「お化け」は出てこないのかって?
昔話は、物事の本質を射抜いているからこそ生き永らえたわけで、やっぱりちゃんと出てくるんだな、これが。しかも予想もしなかった形で。

キャリア形成のために我慢に我慢を重ねて演じきった映画は大ヒット。役者としての知名度はうなぎ登りで、ドラマにCMに大忙し。ファンからはラブレターと脅迫状の嵐。
Congratulation!
ついに君は時の人となった。

だけど、それら一切が「お化け」になるための通過儀礼だったとしたら?

先にぼくは、売れっ子監督を大きなツヅラと、無名監督を小さなツヅラと書いた。でも本当は、それは数多の観客を容れる映画館と、その規模のことなんだよね。

大勢の観客が「面白い」と絶賛する映画を大事にすればこそ、映画監督や有名俳優の問題行動は不問に付されてきたし、彼らは彼らで、皆の大好きな映画を作るため「もっと面白く! もっと大胆に!」と、公私ともに努力しているつもりになっているのかもしれない。

悪いことに、そういうところに莫大な資金が流れていく。
また、批評が添えられる。
賞与も与えられる。
次回作が決定し、またぞろ莫大な資金が流れると、ツヅラの陰では同様の手口が横行しはじめ、暫し隠蔽されたのちに、性加害報道として巷間に膾炙する……

この無限運動こそが「お化け」の正体なんだ。

もし観客席にいる全員が、「こんな面白い映画二度と観たくない!」と一斉に劇場を去れば、本当の「宝物」が手に入るかもしれないのだけど、そのためには、今の映画の受容の仕方を変えなければならない。
そしてそのヒントは、ひょっとすると、先にあげた、才能がない無名映画監督の作り出す何かにあるのかもしれないのだが――。

ここまで読んで下さった奇特な読者諸氏は、才能のない監督とは、ぼく自身のことではないかと想像されたかもしれない。
確かにその通りなので否定しないけど、実のところ監督など誰でもいいのだ。

例えばぼくは、女性俳優を起用するシーンは、女性監督及び女性スタッフが専属になればいいのになと考えているんだ。韓国では、アクション・シーンはアクション監督が撮るっていうでしょう? あれと同じ要領で。勿論、男性俳優を起用するシーンは、男性監督と男性スタッフオンリーで。子役は子ども達のみで制作する体制にしてしまえば、ある程度やましい事件はなくなって、映画の質も変わってくると思うんだよね。だけど、監督が同性愛者だったらどうすんだっての。そういうリスクはあるんだけどね。

じゃあ、映画の新しい質って何だろう?

あるところは力強く、あるところは繊細で、稀に完璧で、時に稚拙であるような質。要は、ムラを許容する感性みたいなもの。

それは、ぼくにとっては大変好ましい変化に思えるのだけど、商品としては出荷しずらいとかあるのかもしれない。また哀しいかな、ぼくが思ってるだけでは事態は好転しないんだよね。ツヅラたる映画館の観客席にいるひとりひとりが、これらの変化を少なからず「面白い」と思って、絶賛は無理でも拍手くらいしてくれなきゃ、「お化け」の無限ループはぶち壊せやしない。映画が総合芸術である限り、常に質が問われ続けるわけだから。

だけど昔話の文脈でいうなら、「宝物」は小さなツヅラに戻さなくちゃならない筈だよね。職場の後輩に話したら、「そんなのコストがかかってダメですよ」と一蹴されちゃったんだけどね。

コスト削減というならさ、劇場公開を想定するような中規模クラスの映画なら、チーフ、セカンド、サードくらい人員がいるじゃない? それを親子でやったらだめなのかね。世襲とかじゃなくて、家内制手工業の意味でさ。存外楽しいと思うよ?

同じことはバスの運転手なんかにもいえてさ。高齢ドライバーが運転中に失神でもしたら、大事故につながるのは目に見えてるじゃない? だからドライバーを二人体制にしたらどうだろうって、事あるごとに言ってるんだけど、誰も真剣に共感してくれないんだよね。飛行機には必ず正操縦士と副操縦士がいるのにさ。交通事故で死亡する確率は0.2%で、航空機事故で死亡する確率は0.002%なわけだから、どういうジャッジでドライバーを一人に限定してるのか、皆目分からないな。

話が映画から脱線してしまったね。
ぼくがいいたかったのは、監督は複数でもいいんじゃないかってこと。

この脱線がいい例だよ。今これを書いているぼくですらも、数時間後にはまったく違うことを書いている可能性があるわけだから、「唯一無二の私」ってやつこそ幻想なんじゃないかね。いや、勿論こんな議論は太古の昔から延々と繰り返し為されているわけだけど、やっぱりそうなんじゃないかね。

映画関係者が軒並み「舌切り雀」状態で、何かに怯えたように沈黙しているのを見るにつけ、饒舌がひとつの抵抗足り得るんじゃないかと勘違いして長々と書きなぐってしまったけれども、この記事もちゃんと黙殺される筈なので、むしろ安心だ。

まぁ、ぼくの場合、「映画切り雀」だから、世間的には、映画関係者でも何でもないんだけどね。

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