草稿『愚者の石』
※
これは、宮沢賢治の「気のいい火山弾」という童話の冒頭部分である。ここに登場するベゴ石とは、表題にあるように、火山弾の一種、おそらくは紡錘状(ぼうすいじょう)火山弾であり、賢治童話に頻繁に現れる「デクノボー」的存在の一変奏でもある。物語の中で、ベゴは他の石やコケ、蚊などに「むだなもの」の象徴として扱われ、事あるごとに嘲笑される。しかし当のベゴは、「気のいい火山弾」のタイトルよろしく、泰然として笑っているのみで、なんら抵抗しない。
賢治が法華文学を志した頃に成立した作品であることから、文学研究者は仏教的な解釈を取ることが多いが、予備知識を入れず、ごく世俗的な観点から読む限り、スケープゴートの物語だ。勿論賢治は、童話作家として、物語に一応の救済を用意することも忘れてはいない。終盤、ベゴは研究者たちの目に留まり、実物標本として保護される。
温和な性格のベゴが、その実、人々の生命を脅かす、それ故研究対象としての価値をも有する噴石であるという巧妙な設定や、同じく火山の噴火を扱った「ペンネンネンネン・ネネムの伝記」及び「グスコーブドリの伝記」との関連性に惹かれもするが、私はやはり、たったひとつぶの石を主人公として不死なる存在を描き、一篇の童話として結晶化させた「石っ子賢さん」こと宮沢賢治のプリミティブな想像力にこそ感銘を受ける。
老眼と四十肩で喘ぐ知人K氏が3Dスキャナー及びプリンターを持て余していると聞き、何か立体化させるものを考案しようと目論んだとき、私は逡巡した挙句、どこにでもある、それでいてどこにもない石をスキャンし、その複製をこしらえ塗装することで、オリジンとコピーを並列させ、見るものの審美眼を問う「審美岩」シリーズという企画を思いついた。
アンディ・ウォーホルに代表されるポップアートからミニマル、シミュレーショニズム以降の複製技術の再検証というコンセプトを抜きにしたならば、賢治のプリミティブな想像力に現代のテクノロジーを掛け合わせることで変異を引き起こすという動機があった。いずれにせよそれは、自分自身の審美眼をも確かめる結果となるはずだった。
兎にも角にも、私はキャメラ片手に「デクノボー」よろしく近所をうろつき始めた。
現代のベゴ石を探す旅の始まりだった。
しかし、岩手県民でも山梨県民でもない私が、紡錘状火山弾とそっくり同じ形状の石を見つけ出し、自宅まで運び入れるというのは、あまり現実的ではないようにも思えた。だがとりあえずは、目の前にある道を外れ、石が落ちてそうなところを探り、時間をかけてそれらを吟味してゆくのみである。一体どの鉱物が現代のベゴ石足り得るのか。やれることはそれくらいしかなかった。
ベゴ石は何処だ、ベゴ石は何処だ。
あまりせっついてはいけない。童話の中のベゴ石の描写は限定的なものだし、またその記述に囚われすぎては目の前にある石の可能性を見落としてしまう。私は別段「気のいい火山弾」に出てくるベゴ石そのものを探しているわけではなく、今日にふさわしい、私自身の審美眼にかなう石をこそ探求しているのだ。
線路脇の敷石を手に取って眺める。それらはバラストと呼ばれているが、どれも歪で固く、童話の中のベゴとは似ても似つかない。だが、これらの石は線路を支えるクッションの役割を果たし、レールの錆防止と枕木の腐食防止にも役立っているという。現代のベゴになるには、いささか有用過ぎるといったところか。
石を求め流離うだけで、普段の道も新鮮に迫ってくる。それは小規模な道草ながらも、世界を探検しているという得も言われぬ実感を与えてくれる。或いは、肉眼で見る世界とキャメラを通して見る世界の違いのようなものかもしれない。では石を探していないとき、キャメラを覗いていないとき、私は世界を探検していないということになるのか。これはある意味では正しいし、またある意味では誤謬であろう。
グラフィックソフトの「校正設定」から、P型・D型の色覚を選ぶと、色覚多様性の一端を垣間見ることができるが、あくまでも疑似的な領域に留まっているのと同様に。
さて、歩を進めるうちに、私は至極シンプルな事実に気付きはじめていた。道に石が見当たらないのだ。公園にすらも。
都市における石は、不要な障害物として悉く片隅に追いやられているのか?
武満徹は、『音、沈黙と測りあえるほどに』の中で、「石という言葉は意志という意味ではないかと思う。」と語っていた。
言葉遊びのようだが、一旦そのように指摘されると、確かに石は意志だと納得されてくるようでもあるから、言葉とは不思議だ。ベゴを求めてそぞろ歩きしている私が、石のための意志を実践している真っ最中であるとしても。
線路沿いの公園をふたつほど通過すると、私は隣駅まで辿り着いていた。小腹がすいたので、かねてから気になっていた料理店でカレーライスを頼む。漆黒のカレーは、視覚的にも味覚的にも溶岩を彷彿とさせた。過剰な辛味成分とエネルギーを摂取し、内部から温まった私は、再び探索を始めた。
だが、一抹の不安もあるにはあった。
自宅から距離が開いていくにつけ、石の数は寧ろ減ってきており、あっても白玉砂利に代表されるこじんまりした人工石や庭石の類で、童話の中のベゴの魅力には到底張り合えそうになかった。
このまま漫然と歩み続けるよりか、踵を返し、来た道を戻るべきではないか。
利点は幾つかあった。往復することになるため、行きで石の多かったポイントを帰りに集中的に調査できる。また、うんと遠回りをして出発点に戻ったならば、私の選択にも迷妄がなくなるのではないか。
結論からいうと、私は前進することを選んだ。
もしここで探されているのがベゴ石ではなく、Philosopher's Stone(フィロソファー・ストーン)つまり賢者の石であったなら、私はけしてそれを手にすることができなかっただろう。だが幸運にも、今私が求めているのは、人を不老不死にするどころか殺しかねない紡錘状火山弾であり、金でも銀でも鉛でもなく、そのまんま石であるところの、Fool's Stone(フールズ・ストーン)つまりは、愚者の石なのである。「デクノボー」よろしく愚直に歩み続けることで、何らかの恩寵(おんちょう)が訪れないとも限らないではないか。
やがて、私の愚鈍な道草は唐突に報われることとなる。
それらは、緑色の金網に囲まれた万能物置の底に無造作に転がっていた。だが、遺跡のように、どこかしら荘厳に。
石のおもてには文字が浮かんでいる。
「LOVE」「EARTH」「ART」「ENDING」……
直接描かれたものではない。彫りこまれたものでもない。市販の安価なシールによって、一時的に定着されたものだ。幾つかのアルファベットは、今にも剥がれ落ちようとしている。石の形状と意味は其々照応しているようにも見えるし、まったく機能していないようにも見える。過剰に人為的でありながら、どこかしら白痴のようでもある。
誰が。何のために?
私は、それらの言葉の欠片を拾い上げ、中でも一等ベゴの形状に似つかわしいひとつを、つまりは「稜がなくて、丁度卵の両はじを、少しひらたくのばしたような」石をそっと握りしめた。
それからの私は実に切迫していた。老眼と四十肩で喘ぐ知人K氏に連絡を入れ、差し入れの炭酸水を手渡し、手中の石を順次3Dスキャンしてもらわねばならない。
何しろシールはいつ剥がれてもおかしくないし、母体となる石は罅だらけ、「EARTH」なんぞは持ち運んでる最中に砕け散ってしまった。近いうちにオリジンは、完膚無きまでに損なわれるだろう。だが、その時にこそ私の「審美岩」シリーズの真価が問われもするのだ。
コピーは、瑕疵の繰り返しの中でオリジンを乗り越え、いつしか永遠を宿す。
気付けば私は、火山弾よろしく夜道を突っ走っていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?