「映画の細胞」とは?
パンデミック以降、ミニシアターが次々と閉鎖されてゆくのを観てきました。緊急事態宣言が解除された今も客足が戻ったとは言えず、代わりに映像配信サービスが隆盛を極めています。4K対応の高画質映像には、個人情報保護の目的で施されたモザイクが犇めき、ポリコレと表現の自由を巡る議論は水平線を辿るばかり。パワハラやセクハラも枚挙にいとまがなく、映画業界全体が機能不全に陥っています。
一体何が原因なのでしょうか。
リュミエール兄弟がシネマトグラフを開発して以降、映画はマスに向けて直線的に発展してきました。ところがパンデミックは、映画館に観客一人ないしは0の状況をも生み出しました。
私も何度か、自分一人だけで映画を観た記憶があります。
しかし当たり前ですが、観客が自分一人である時にも、映画館で上映される映像素材は〝不特定多数〟へ向けて作られたものです。
貸し切りの映画館で、私はふと思いました。
今上映されているのが、ぼく一人のためだけの映画だったら一生忘れられない映画体験になるのじゃないか――。
そのような着想から、一人の監督が一人の観客へ贈る新しい映像様式が生まれました。
「映画の細胞」という命名には、新陳代謝への期待が込められています。
一般的に映画祭では、完成した作品を募集しているため、複数の映画祭で同じ作品がノミネートされるということが頻繁に起きています。これは素直にみれば、作品の力の証明といえますが、一方で映画祭の審美眼ないしは審査基準の類型化および陳腐化を見て取ることもできます。
「映画の細胞」では、ノミネート後すぐに面談・打合せの場が設けられており、その後撮影日程が組まれ、上映日までに5分程度の短編映画を完成させるというオーダーメイド制をとっています。
またその際、「監督」には製作費1万円が支給されます。通常、映画祭によっては出展料がかかりますから、「細胞」のアプローチは真逆です。
しかし、幾ら撮影機材や編集ソフトが安価になったとはいえ、5分の映像を撮るのに製作費1万というのは安すぎるとは思います。
そこで「映画の細胞」は、ブリコラージュを推奨し、映画の作り方ないしは完成度をスライドしてもらうよう、「監督」の皆様にお願いしています。
映画祭の在り方を問う「細胞」のアイデンティティは、個々の「監督」に引き継がれ、参加者全員で〝映画とは何か?〟を問う場となっています。
また、「細胞」の全行程はドキュメントとして記録されてもいます。この記録は、ともすれば内輪で終わってしまうような最小単位の映画祭を、パブリックへ接続し、次回以降への導線とするためのものです。
マッチングから三か月後、5つの「細胞」が完成しました。
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『走る男』(9:43)
小林 真樹さん / いなみさん
マラソンが趣味のけんじは、マラソンコースを走っている最中、ふと喉に違和感を覚える…。
いなみさんのコンテから着想された幻想譚。観客も監督も映画の中を走り抜ける。
その先にあるのは…?
『廃屋に取り付かれたメスザルの物語』(10:57)
藏岡登志美さん / 小林 心彩さん
撮影を通して、廃墟や野生動物に触れた冒険の記憶。それが映画に置換されたとき、若い観客は何を目撃するのか?
二度目の冒険がはじまる。
『懺悔は懺悔である』(5:00)
山科 晃一さん / 三木はるかさん
観客の三木さんが懺悔を繰り広げる室内劇であり会話劇。撮影時には対話相手がいたが、上映時に告白を聞くのは、おそらく観客本人になるのではないか。
『包 bāo』(6:08)
フッ軽フッサールさん / 松山 義文さん
台本の代わりに渡されたのは、一枚のレシピだった――。
初めての餃子づくりを記録することで、観客自身も与り知らぬ姿を炙り出す。
視覚と聴覚に味覚をも包含した怪作が生まれた。
『結局お前次第』(7:18)
中村 友則さん / 小林 潤平さん
純一は、人生の岐路に立たされていた。同僚と別れ、夜の街を千鳥足で歩いていると、交差点の向こうから怪しい男が睨みつけてくる。
観客を「お前」と呼べるところまで追い詰めた監督の入魂の一作!
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次は、いよいよ上映です。
ところで、「映画の細胞」では、「監督」と「観客」は同時募集され、一組のカップルとしてノミネートしているため、最初からお客さんは定員に達しており、告知も宣伝も必要ありません。
公開にあたり、SNS等でアッピールする必要はなく、既成事実を記すだけでよいことに清々しさを感じたのを覚えています。
上映環境にこだわりはなかったのですが、「映画」と銘打っていることもあり、都内のプライベート・シアターをお借りしました。
「監督」と「観客」は出来上がった映画を前に文字通り体面します。一対一のティーチインは、満員御礼の席でのスピーチとは異なる種類の緊張を産み出し、2者の間にのみ流れる時間は、それ自体がひとつの映画のようです。
また、参加者には、試験管入りのUSBが手渡されます。
これは、「映画の細胞」のメインモチーフであり、映画祭におけるトロフィーの意味合いを兼ね具えています。
中には各作品のデータ一式が格納されており、自宅で好きな時に観ることもできます。
蛇足ですが、試験管の中のUSBというアイディアは、フランスの現代美術家マルセル・デュシャンの『パリの空気50cc』からヒントを得ました。
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観客を限定したことにより、5つの「細胞」は、見事に個性が分かれていました。「観客」が、〝不特定多数〟ではなく、顔と名前を持った〝主体〟として「監督」の前に立ち現れたのかもしれません。
また、興味深かったのは、「観客」の方々が全員主役を演じられていたということです。カラオケやプリクラは日本産ですが、「映画の細胞」でも同じ現象が起きていたのかもしれません。
製作費1万という上限を易々と越えていく作品や、ボランティア起用等、課題も複数見つかりましたが、5つの「細胞」が、参加された10名の方々にとって忘れられないものになるとしたら、コンテンツ過多の時代にこそ真価を発揮する形式なのだと思います。
少なくとも〝相手のことを考える〟ディシプリンとなり得るのではないでしょうか。
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