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18世紀*ロンドン市長ジョン・ウィルクス(フリーメイソン)の半生とブース家

17世紀のイギリスの政治家ジョン・ウィルクス(John Wilkes FRS)は、ウィスキー醸造業の父イズラエル・ウィルクス(Israel Wilkes)の6人の子供の次男として生まれました。
母方の祖父のジョン・ヒートン(John Heaton)は、タナー (tanner=皮なめし職人)でした。


ジョン・ウィルクス 1769年頃


1754年に29歳で政界に入り、急進的なジャーナリストでもあったウィルクスは、1763年に国王ジョージ3世の演説内容を批判し、名誉棄損罪で逮捕されました。
ウィルクスは、国王がパリ条約を承認したことに反対していました。

パリ条約(Treaty of Paris)は、ヨーロッパの七年戦争と北アメリカ大陸のフレンチ・インディアン戦争とインドのカーナティック戦争などの講和条約。
1763年2月10日にグレートブリテン王国、フランス王国、スペイン帝国の間で締結され、欧州外での覇権は(西欧諸国の中では)大英帝国が握る時代の幕開けとなった。


パリ条約の影響は、イギリスがインドと北米植民地の覇権を確立したことでイギリスが広大な市場を確保でき、産業革命の進展に大きく寄与することになりましたが、一方で長期に渡った植民地抗争が深刻な経済難をもたらしていました。
そのためイギリスは北米植民地に対して経済統制を強め、それによって米13植民地の反発を招きアメリカ独立革命(1765年 – 1775年)に発展していくことになりました。

有名なボストン茶会事件とアメリカ独立戦争は、ジョージ3世の統治時代に起きています。

ジョン・トランブル画『独立宣言』


この記事では、冥王星が現在と同じように水瓶座を通過していた時代を生きたジョン・ウィルクスの半生を辿りながら、アメリカ独立戦争時代のイギリスの状況も見ていきます。

長くてマニアックな記事ですが、よかったらご覧ください。


政権批判と言論の自由

ジョージ3世の重臣ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯)は、ステュアートという名からもわかるようにスコットランド貴族出身です。
皇太子時代のジョージ3世の家庭教師を務め、1760年にジョージ3世が即位した後1762年に首相に就任しました。

ジョン・ステュアートは、1747年頃から(父王ジョージ2世とは不仲だった)皇太子フレデリック・ルイスの遊び仲間だったのですが、1751年にフレデリック皇太子は44歳で亡くなりました。
フレデリック皇太子亡き後、その長男ジョージ(後のジョージ3世)の家庭教師になったという経緯があります。

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フリーメイソンの始まりとヘルファイア(地獄の火)クラブ

皇太子フレデリック・ルイス(ドイツ語名:フリードリヒ・ルートヴィヒ(Friedrich Ludwig)は、英国王室にフリーメイソンを持ち込んだことでも知られています。

フレデリック・ルイス

フレデリック・ルイスは、1737年にロンドンのキュー宮殿の臨時ロッジにおいてフリーメイソンとなる。彼の加入がきっかけとなり、以降イギリス王族男子はフリーメイソンに加入するのが一般的となり、英国王室とフリーメイソンの一体化が急速に進展した。

※英国グランドロッジは、1717年6月24日に設立されました。


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1746年に、フレデリック・ルイス、ジョン・ステュアートの遊び仲間だった第11代ル・ディスペンサー男爵フランシス・ダッシュウッド卿が「聖フランシス騎士団」を設立しました。

のちに「ヘルファイア(地獄の火)クラブ」と呼ばれるようになりますが、当初は中世イタリアの聖人アッシジのフランチェスコの名前に引っ掛けた宗教団体のパロディで、実態は「上流階級の秘密の社交クラブ」でした。

ぶっちゃけると、社会的に不道徳なこと(大酒を呑む、博打を打つ、女を買う)を、人目をはばからずに思いっきりやりたいという貴族たちの欲望を叶えるのが目的です。


1750年代後半のウィリアム・ホガースによるフランシス・ダッシュウッドの肖像画。


会員は皇太子フレデリック・ルイス、ジョン・ステュアートのほかに、「サンドウィッチ」の由来とされる第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギュー、会員ではないが常連のベンジャミン・フランクリンはフランシス・ダッシュウッド卿の親友でした。

1760年代にはジョン・ウィルクスも、ジョン・オブ・アリスバーリーというペンネームで関わっています。

会員はお互いを「兄弟」と呼び、定期的に交代するリーダーは「修道院長」と呼んだ。
会合中、会員は白いズボン、ジャケット、帽子という儀式用の衣装を着用し、「修道院長」は同じスタイルの赤い衣装を着用していたとされる。
会議は月に2回開催され、年次総会は6月か9月に1週間以上続いた。

ウィルクスはいたずら好きで、クラブで催された降霊会に服を着せたマンドリルを連れて行き、みんなをパニックに陥れました。
一番の被害者はサンドウィッチ伯爵で、それ以来ウィルクスに個人的な恨みを持つようになったそうです。


第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギュー


イギリス人の反スコットランド感情

当時のイギリスで「ステュアート」姓は、ジャコバイト蜂起やイングランド国教会に反対するカトリック、フランスと結びつけられたため、大変嫌悪されていました。

反対派は、ジョン・スチュアートが国王の母(未亡人になったオーガスタ・フォン・ザクセン)と不倫関係にあるという中傷を広め、イギリス人の反スコットランド感情を利用しました。


ジョン・ウィルクスは愛国心が強く、1745年にジャコバイト蜂起が始まったときは、オランダのランデン大学留学中にも関わらず「祖国を守る」と決意して一時帰国したぐらいです。
実際に戦闘に参加したかはわからないですが、カロデンの戦いで政府軍が勝利したのを見届けて、オランダに戻ったそうです。



先代の王ジョージ2世の時代から南部担当国務大臣を務めていた「大ピット」ことウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)は、七年戦争を実質的に指導しており国民からも高く評価されていました。

ジョン・ウィルクスは大ピットの支持者でしたが、大ピットが辞職を余儀なくされ(→辞職の経緯)、ジョン・ステュアートが首相になったことをきっかけに「ザ・ノース・ブリトン」紙を創刊し、七年戦争を終わらせるためにフランスと合意したこと(パリ条約)は裏切りであるとして政府を非難しました。


ノース・ブリトンはペンネームとしても使用され、NO45の記事は匿名で書かれましたが、ヘルファイアクラブで行われたことを暴露したため、ウィルクスが書いたことがわかり、サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギューが陣頭に立って、名誉毀損その他諸々の罪でウィルクスを告訴しました。

ノース・ブリトン紙第45号(1763年4月23日)は、同紙の最も有名な号である。同紙は、ジョージ3世が七年戦争を終結させたパリ条約を賞賛した王室演説を批判した。
ウィルクスは名誉毀損罪で告発され、ロンドン塔に短期間投獄された。


ジョージ3世


煽動的誹謗中傷罪で投獄される

「ザ・ノース・ブリトン」紙以外の新聞・雑誌からも、国王と政権は批判の的になっていました。
1763年5月、印刷業者を含む49名が一斉に拘束され、ウィルクスは逮捕されました。しかし令状は違法であるとする民衆の圧倒的な支持を受けて釈放されました。

ウィルクスは逮捕は権利の侵害であるとして訴訟を開始し、民衆は「ウィルクスと自由、45(号)」をスローガンに抗議行動を行ったそうです。
ウィルクスは45号を再版しましたが、政府によって押収され、その後のピストル決闘で怪我をしたことにより、彼はフランスに亡命しました。

ピストル決闘が起きたのは1763年11月16日。
ジョージ3世の支持者サミュエル・マーティンに挑まれて、ウィルクスは腹部に重傷を負いました。

欠席裁判で、ウィルクスは冒涜と誹謗の罪で有罪宣告を受けました。


1768年、ウィルクスは生活資金が尽きたのでイギリスに戻り、反政府派として国会議員に立候補しました。
政府は支持者を煽りたくなかったため、逮捕令状を発行しませんでしたが、選挙後にウィルクスはロンドンのギングズベンチ刑務所に収監されました。

キングズベンチ刑務所は、中世から1880年に閉鎖されるまでロンドン南部サザークにあった刑務所である。
名誉毀損、破産、その他の軽犯罪を扱うキングズベンチ法廷にちなんで名付けられた。そのため、この刑務所は債務者監獄としてよく使われていたが、1860年代にこの慣習は廃止された。
1842年にクイーンズベンチ刑務所に改名され、1872年にサザーク囚人刑務所となった。


ウィルクスが投獄されたという知らせを受けて、支持者がキングズベンチ刑務所のすぐ南にあるセントジョージズフィールドと呼ばれる広場に続々と集まり、5月10日には1万5千人もの人々が終結したそうです。

支持者たちは「ウィルクスと自由」、「自由なしには国王なし」、「国王などくそくらえ! 政府などくそくらえ! 裁判官などくそくらえ!」と叫び始め、暴動に発展することを恐れて出動した軍隊と小競り合いになりました。
軍隊が発砲したため通行人を含む7人が死亡、少なくとも15名が負傷しました。セントジョージフィールドの虐殺


ギングズベンチ裁判所


銃撃後、群衆はすぐに解散しましたが、虐殺の噂は急速に広まりロンドン中で激しい暴動が起こりました。
当時ロンドンにいたベンジャミン・フランクリンは、「製材工が製材所を破壊し、船員が外航船の索具をすべて外し、水夫が個人のボートを破壊し、橋を脅かした」と記していたそうです。


フリーメイソン入会

ウィルクスは、服役中の1769年3月3日にフリーメイソンに入会しました。


フリーメイソンに入会からちょうど1年後の1770年3月にウィルクスは釈放され、直後にロンドンの保安官に任命されました。
同じ頃に、ジョイナーズ・アンド・シーラーズ・ワーシップフル・カンパニー(大工組合)の組合長にもなっています。


ジョン・ウィルクスが1770年に採用したモットーは、「忠誠と自由を結ぶ」


ロンドンの反カトリック運動

ウィルクスは1774年-1775年にロンドン市長になりました。

1766年、王位を主張していたジェームズ・フランシス・エドワード・スチュアートが亡くなり、ローマ教皇がハノーヴァー王朝の正統性を承認したことを受けて(ステュアート朝による王位奪還がの脅威が存在しなくなった)、1778年にジョージ3世は新しく「カトリック教徒法」を定めました。

名誉革命以降、ウィリアム3世の時代に制定された法律によって公的に差別されていたカトリック教徒の救済を目的としているほか、1775年に始まったアメリカ独立戦争がアイルランド(カトリック教徒)の反乱を引き起こす可能性があることに基づいていました。


しかし、この法改正によって2年後に、死者を数百人出したプロテスタントの反乱(ゴードン暴動)を引き起こすことになります。

ゴードン暴動はカトリック解放の問題とは別に、イギリスの経済状況の悪化だったとも言われている。戦争中の貿易の喪失は賃金の低下、物価の上昇、そして定期的な失業を招いていた。


ウィルクスが若い頃の急進派からしだいに保守派に転換していったのはこの頃のようで、フランス革命(1789年)後の社会改革には反対していたそうです。

1779年にウィルクスはロンドン市の侍従長(チェンバレン、実質的には市の財務官)に選出され、1797年に死去するまでその重責を担いました。

チェンバレンはロンドン市政府の財務顧問、会計士、管財人、主計官であり、ロンドン市の地方および私的信託基金の責任者になります。
もともとロンドン市内の歳入の徴収と分配に責任を持ち、名目上は国王によって任命されたこの役職者の任期は伝統的に夏至の日に始まり、「彼に対して何らかの重大な苦情がない限り」解任されることはない。

ゴードン暴動では、ウィルクスは民兵を率いてイングランド銀行を守りました。
しかし、ウィルクスの命令で軍隊が群衆に発砲したため、それまでウィルクスを「人民の味方」と見ていた労働者階級は彼を偽善者と批判し、ゴードン暴動を機にウィルクスの人気はほぼ消滅したと言われます。

1780年6月2日、外国大使館のカトリック教会の略奪と放火から暴動が始まった。地元の治安判事は暴徒の怒りを買うことを恐れ、暴動法を発動しなかった。政府が最終的に軍隊を派遣するまで鎮圧は行われず、推定300 ~700人が死亡した。主な暴動は1780年6月9日まで続いた。


ウィルクスは、カトリック解放を含む市民の自由と救済を主張していたオッドフェローズ(フリーメイソンのような団体)に所属していました。

「友情、愛、真実」を暗示している



イギリスのオッドフェローズが発展して、アメリカ・ボルチモアにインディペンデント・オーダー・オブ・オッド・フェローズ(IOOF)が設立されました。IOOFは、アメリカではフリーメイソンのロッジよりも拡大していたそうです。
アルバート・パイク、ユリシーズ・グラント大統領、ラザフォード・ヘイズ大統領、マッキンリー大統領、ルーズベルト大統領ほか多くの著名人がIOOFのメンバーでした。


アメリカへの影響

そういえば、先日のトランプ大統領の就任セレモニーでの一コマで、上の絵とよく似た赤い上着を着ている一群が映し出されていました。


ジョージア州のウィルクス郡とノースカロライナ州のウィルクス郡、ジョン・ウィルクスにちなんで名付けられました。
どちらもアメリカ独立戦争(1775年 - 1783年)中の1777年に設立されました。

そのほか、ウィルクスにちなんだペンシルベニア州ウィルクス・バリのウィルクス大学、米国バージニア州アレクサンドリアのウィルクス ストリートがあります。


ウィルクスは、アメリカ独立を支持したためにロンドン市長職を1年で罷免されたそうですが、アメリカのホイッグ党(パトリオット)に人気がありました。アメリカ植民地では、ウィルクスは「自由のための闘士」として尊敬されていたそうです。


ジョン・ウィルクスの家族

アメリカへ移住した兄

ジョン・ウィルクスの兄、イスラエルはまだアメリカ独立戦争が終わっていない1782年頃に一家でアメリカに移住しました。
このとき、ヨーロッパ訪問から帰国途中のジョン・ジェイコブ・アスターに同行したと言われています。

ジョン・ジェイコブ・アスター(John Jacob Astor)は、アメリカ合衆国の財閥アスター家の祖である実業家。アメリカ初のミリオネアになった。
アメリカで初めてトラストを創設し、毛皮貿易、不動産およびアヘンからその資産を築いた。

アメリカに到着してから2年後、イスラエルの次男チャールズ・ウィルクスアレクサンダー・ハミルトンとともにニューヨーク銀行の設立者になりました。1825年から1832年までニューヨーク銀行の総裁を務めました。


長男ジョン・デ・ポンチューの息子、チャールズ・デ・ポンチュー・ウィルクスは、アメリカ合衆国海軍の士官、探検家となり、1838年から1842年に行われたアメリカ合衆国探検遠征隊を指揮しました。
南北戦争初期の1861年に外交問題に発展したトレント号事件ではその船の指揮官でした。


チャールズ・デ・ポンチュー・ウィルクス
チャールズ・デ・ポンチュー・ウィルクスの紋章


1861年トレント号事件の要約
アメリカ海軍がイギリスの郵便船トレント号を拘束し、南軍の外交官を逮捕した事件。
1861年11月8日、アメリカ海軍(北軍)のチャールズ・ウィルクス海軍中佐が指揮するUSSサンジャシントがイギリスの郵便船RMSトレントを拘束し、南軍の外交官、ジェイムズ・マレー・メイソンとジョン・スライデルの2人を戦時禁制として連行した。
この2人はアメリカ連合国が独立国としてヨーロッパで外交認知されるために、イギリスとフランスに向かわせた使節だった。
イギリスの政府は謝罪と捕虜の解放を要求し、一方ではカナダと大西洋における軍事力増強に動いた。
この事件はアメリカ連合国の外交にとっては重大な打撃となり、イギリス政府の外交圧力のためリンカーン大統領はウィルクスの行動を否定することになった。

家業を継いだ弟


ジョン・ウィルクスの弟ヒートンは、父の蒸留酒事業を引き継ぎましたが、事業に失敗して(おそらくジン法の影響と思われます)、1803年に死去しました。ジン法 1751


1690年代、オランダから初めてイギリスに輸入されたジンは、価格が安かったため国内のアルコール消費が大幅に増加し、「ジン・クレイズ」として知られるようになりました。

1689年から1697年にかけて、イギリス政府はフランスからのブランデーの輸入を制限し、代わりにジンの生産を奨励することを目的とした一連の法律を可決しました。
この奨励は、蒸留酒に対する減税に表れました。一定の税金を支払うすべての英国人に蒸留業を開放したのです。
蒸留酒の製造に免許が必要なくなり、簡素な作業場を持つ小規模な蒸留所が多く造られました。

しかし、その後60年間、政府は一貫性のない課税政策でジンの販売を規制しました。
オーストリア継承戦争(1740-1748年)が始まり、政府は戦費を賄うために1743年のジン法案でライセンス料や課税を大幅に値下げしました。

1743年までに、イギリスでは1人当たり年間2.2ガロン(10リットル)のジンが消費され、政治家や宗教的な指導者は、ジンが人をだらしなくし、犯罪行為を助長していると批判しました。
ジンブームは、1751年のジン法(この法律は年間免許料を引き下げましたが、免許保有者に年間10ポンド以上の賃借料で営業することを義務付けた)制定後、収束していきました。

ジン・クレイズ(Gin Craze)-ジンに狂った時代は街に酔っ払いがあふれた


ジョン・ウィルクスの結婚

ウィルクスは英国国教会に属していましたが、ランデン大学在学中に出会った長老派教会の牧師アンドリュー・バクスターがウィルクスの宗教観に大きな影響を与えました。
ウィルクスはプロテスタントに深い共感を持ち、宗教的寛容を主張していたそうです。

ウィルクスは、大学卒業後(1747年)に10歳年上のメアリー・ミード(Mary Mead)とお見合い結婚をしました。
メアリー・ミードは裕福な家の相続人つまり一人娘だったので、ミード家の地所と財産はウィルクスを豊かにしました。


しかし、ウィルクスが放蕩な生活を好んだため(前述のヘルファイアクラブにも入っていた)、妻メアリー・ミードとその母親の厳格なピューリタンの性質とそりが合わず、数年のうちに別居しました。
最終的には離婚が成立し、ウィルクスが地所と親権を得ました。

ウィルクスは再婚しませんでしたが、婚外子が数人いたと言われています。


余談*ブース家との関係

似ている名前がでてくるので、ややこしいです(苦笑)

リンカーン大統領を暗殺したジョン・ウィルクス・ブースは、Wikipedia英語版に遠縁と書いてあります。
American actor and assassin of President Abraham Lincoln, John Wilkes Booth (1838–1865), a distant relative.


ジョン・ウィルクス・ブースの家は、当時有名な演劇一家で、父のジュニアス・ブルータスブースはイギリス生まれ。1830年以前にアメリカに移住しました。

ジュニアスの父、リチャードは弁護士、祖父ジョンは金細工職人(宝石職人ということかな)だったそうです。
ジョンの妻エリザベス・ウィルクスが、年齢的に見ると(前述のロンドン市長)ジョン・ウィルクスと従兄妹同士のようですが、家系図データベースではエリザベスの祖父トーマスより以前は不明となっています。



ロンドン・ウェストミンスター大聖堂に記念碑が残るバートン・ブース(1682年 - 1733年5月10日)という有名な舞台俳優がおり、1713年頃にロバート・ウィルクスと劇場を共同経営していたことがわかっています。

ブース家とウィルクス家は古い縁だったようで、どこかの時点で結婚していた親族がいたのじゃないかと思います。


バートン・ブース

バートンブース |ウェストミン スター


バートン・ブースの祖父は、チャールズ2世の即位を求め1659年に「ブースの反乱」を起こした初代デラマー男爵ジョージ・ブース(1622年 - 1684年)です。
ジョージ・ブースの妻が、悲劇の「9日間女王」で知られるジェーン・グレイの子孫エリザベス・グレイで、私的にここも興味深い繋がりです。
詳しい話は別の機会に。

初代デラマー男爵ジョージ・ブース

長くなりました。
最後までお読みくださりありがとうございました。
リンカーン大統領については次回に。ではまた。

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