12世紀*プランタジネット朝が創立されるまで
14世紀~15世紀に起きた百年戦争(1339~1453年)は、プランタジネット家とヴァロワ家のフランス王位をめぐる争いでした。
ぶっちゃけ「お家騒動」だったんですね。
この記事では、その遠因と言われているプランタジネット朝が創立されるまで経緯のあれやこれやを備忘録として書きます。
相変わらず長くマニアックな内容ですが、よかったらお時間あるときにゆっくりお読みください。
プランタジネット家
プランタジネット家はフランスのアンジュー郡に起源をもつ王家で、9世紀のカロリング朝の貴族アンジェルジェ家、フランス語ではインゲルガリウス(Ingelgeriens)、あるいはアンジュー家(Première maison d'Anjou)と呼ばれていました。
877年頃、西フランク王シャルル2世(のちの神聖ローマ皇帝カール2世)が発行した勅令(Capitulary of Quierzy)により、アンジェルジェ家はガティネとフランキア(イル=ド=フランス地域圏)の領地を獲得しました。
1060年、ジョフロワ2世に嗣子がなかったため、甥のジョフロワ3世・ダンジュージ(ガティネ家)がアンジュー伯位を相続し、アンジェルジェ家とガティネ家が融合しました。
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ガティネ家
ジョロワ3世も嫡子がないまま亡くなってしまったため(弟フルク4世と対立して、8年幽閉されたのち病死)、弟フルク4世が兄の領地を相続しました。
ほんとは奪い取ったんですけどね。
フルク4世は5回以上、結婚したと言われており、興味深いのは最後の妻ベルトラード・ド・モンフォール(Bertrade de Montfort, 1070年頃 - 1117年2月14日)は、夫のフルク4世を捨てて、フランス王フィリップ1世の2番目の妃になったこと。
フルク4世とは30歳以上の年齢差があったそうですが、何があったのか・・・。
フィリップ1世(カペー家)は、最初の妻ベルタが太りすぎて嫌いになったので幽閉し、離婚しないままベルトラ―ドと二重婚をしたことでローマ教皇から破門されています。
フランス王位は最初の妻との子ルイ6世(1081年 - 1137年)が継承しますが、そうなるとベルトラード側も黙ってはいないわけで、フィリップ1世との間に生まれた子フィリップ・ド・マントは反乱を起こし、ルイ6世の戴冠式を邪魔したそうです。
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またベルトラードの実家モンフォール家も悪名高く、シモン・ド・モンフォール (第5代レスター伯爵)は、キリスト教異端のカタリ派を討伐するアルビジョワ十字軍に参加し、1209年にカルカソンヌを攻撃し、カルカソンヌ領主トレンカヴェル家から没収した領地を継承しました。
1210年には、ミネルヴァの村でカタリ派140人を火刑に処しました。
イングランドのレスター伯爵位が叙されているのは、母アミシア・デ・ボーモントが、嗣子なく亡くなった第4代レスター伯爵ロバート・ド・ボーモントの妹だったからです。
孫の第6代シモン5世になると積極的にイングランドの政治に関わってきます。ヘンリー3世の娘エレノア・オブ・イングランドと結婚して、王室とも親戚になりました。
シモン5世はユダヤ人虐殺で有名です。https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Jews_in_England_(1066%E2%80%931290)#Increasing_persecution,_13th_century
しかし、ボーモント家はすごいですね。どこの貴族とも繋がっている。
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話を戻して・・・
フルク4世とベルトラード・ド・モンフォールは、プランタジネット家ヘンリー2世の曾祖父母になります。
ヘンリー2世の祖父・フルク5世
ふたりの間に生まれたアンジュー伯フルク5世・ダンジュー(Foulque V d'Anjou, 1143年没)は、ベルトラードが出奔するときに一緒に連れて行かれ、フランスの宮廷で育ったそうです。
フルク4世と最初の妻との間に生まれた、ジョフロワ4世マルテル(1106年没、父フルク4世に殺されたと言われている)が亡くなったあと、父のもとに戻されたそうです。
1109年にメーヌ伯エリー1世の娘エランブルジュと結婚。1113年にジョロワ5世(ヘンリー2世の父)が生まれました。
ロバート・オブ・ベーレムについては下の記事に書いています。
国王ヘンリー1世(在位 1100年 - 1135年)
ヘンリー1世の時代は「ノルマン朝」(1066年ー1154年)と言われます。1066年のウィリアム征服王によるノルマンコンクエストの結果、成立した征服王朝のため、当初から中央集権でした。
父ウィリアム征服王の死後、兄ふたりがそれぞれにノルマンディー公国と
イングランド王国を相続しましたが、ヘンリー1世には金銭のみが譲渡されました。
1100年にウィリアム2世が崩御すると、直ちにイングランド王に即位。
1106年にはノルマンディーに侵攻。兄を捕らえて幽閉し、ノルマンディー公国を手に入れました。
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しかし、前述のようにかねてからノルマンディー公国と対立していたフルク5世、フランス王ルイ6世の同盟が反乱を起こし、ヘンリー1世は窮地に立たされていました。
状況が好転したのは、ロバート・オブ・ベレームを逮捕投獄してから。
フルク5世もしだいに軟化し、和睦を結ぶためにヘンリー1世の息子とフルク5世の娘が結婚しました。(1119年)
ところがフルク5世の親戚、モンフォール卿アモーリーが再度ヘンリー1世に反乱を起こすと、ルイ6世とフルク5世は敵に戻り、フランドル伯ボールドウィン7世も介入してノルマンディーへ侵攻したため苦戦が続きました。
そんな折に、王太子が事故で亡くなってしまいました。
(1120年ホワイトシップの遭難・・・イングランド王ヘンリー1世の世継ぎウィリアム、王の庶子2人を始めとして、イングランド、ノルマンディーの王族、貴族多数が水死した)
すると、ヘンリー1世の甥ギヨーム・クリトンが王位を請求して反乱を起こし、ルイ6世やフルク5世はじめノルマン貴族の重要な者たちがギヨーム側につきました。
ルイ6世は、ギョームがフランドル伯ボードゥアン5世の曾孫であることを強調し、にあたる)、前年に暗殺されたフランドル伯シャルル1世の継承者としてギョームを勧め、フランドルの貴族たちを味方に引き入れました。
結局1128年7月にギョームは戦闘で負った怪我がもとで亡くなってしまい、ノルマン貴族たちの反乱も収まり、再びヘンリー1世とフルク5世は和睦を結ぶことになりました。
ヘンリー2世の母となったモード皇后
ヘンリー1世には20人を超える庶子がいたそうですが、相続権を持つ嫡子は亡くなった王太子と娘のマティルダ(Matilda, 1102年2月7日 - 1167年9月10日)の2人きりでした。
マティルダは最初に名付けられた名前はアデレードでしたが、12歳で神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世(ザーリアー朝)と結婚したときに、母の名前を取ってモードと改名しています。
ところが、23歳のときにハインリヒ5世が癌で亡くなり、嗣子もいなかったためザーリアー朝は断絶。
モード皇后はイングランドに帰らされていたので、1128年に和睦の為の政略結婚で、フルク5世の息子ジョロワ5世と再婚しました。
ジョロワ5世は、モードより11歳年下でした。
ヘンリー2世の父・ジョロワ5世
王太子が不慮の事故で亡くなったあと、嫡男を失ったヘンリー1世は男子を得るために再婚しましたが嫡男に恵まれませんでした。
そのため、モード皇后とその子孫を後継者とするとして、王族・貴族たちとモード皇后の王位継承を認める誓約を交わしました。
1133年、ジョロワ5世とモード皇后に長男アンリ(後のイングランド王ヘンリー2世)が生まれましたが、イングランド貴族たちはノルマンディーとイングランドがアンジュー家(ガティネ家)に乗っ取られると危惧するようになっていました。
ジョロワ5世は、イギリスのノルマン貴族には人気がありませんでした。彼は、アンジュー家の統治者として、伝統的にノルマン人の敵とみなされていたからです。
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一代限りのブロワ朝の王・スティーブン(在位1135年 - 1154年)
1135年にヘンリー1世が亡くなると、後継者をモード皇后とその子孫にするという宣誓を破り、ヘンリー1世の甥でブロワ家出身のスティーブンがイングランドを掌握し、強引にイングランド王に即位しました。
ブロワ家(フランス語: [blwa] ) は、10 世紀初頭に西フランク王国で興った貴族。のちにナバラ王国(824年 - 1620年)の王家にもなった。
ブロワ伯家はフランク王国時代カロリング朝の貴族で、ブロワ家の始祖と言われているティボー・ランシェン(テオバルド長老)はブルゴーニュを支配していました。
その息子ティボー1世(テオバルド1世、913年 - 975年)は、フランク公 ユーグ大王の忠実な家臣であり、960年頃にノルマンディー公リシャール1世と対立するようになり、その息子ウード1世(在位975年 - 995年)の時代には、アンジェルジェ家のアンジュー伯フルク2世(当時、カペー家についていた)と戦いました。
つまり、ブロワ伯家とアンジェルジェ家(のちのガティネ家)とは浅からぬ因縁がありました。その子孫エティエンヌ(ステファン)2世(1045年頃- 1102年5月19日)が、スティーブンの父親です。
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当然、モード皇后とジョロワ5世は反発するわけで、異母兄グロスター伯ロバートがモード皇后側に味方し、スティーブンと王位を争ったため、イングランドは無政府状態になりました。
しかし私は、スティーブンのやり方は強引だったけれど、望まれて(計画のうちに)即位したのではないかと思っています。
ロンドン市民と、スティーブンの弟であるウィンチェスター司教ヘンリーにカンタベリー大司教ウィリアム・ド・コルベイユを説得させ、教会主要人物もスティーブンの王位継承を承認しました。
たぶん、教皇庁も噛んでいたんじゃないかと察します。当時の教皇は、インノケンティウス2世。
この時代のイングランドは、まだローマ・カトリックが強く、カンタベリー大司教が教皇庁に話を通さず、承認するわけがないと思います。
潤沢な教会を味方につけたことで、スティーブンは軍資金にも困らなかったでしょう。
ノルマン貴族たちは、イングランドで初めての女王に対する抵抗感とノルマンディー公の代々の宿敵であるアンジュー伯に対する警戒心もあり、スティーブンを支持しました。
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当初は様子を見ていたモード皇后派は、1139年から活発に巻き返しを行いました。
1141年2月の第一次リンカーンの戦いでスティーブンを捕らえましたが、直後にグロスター伯ロバートがスティーブン側に捕らえられ、捕虜交換でその年のうちにスティーブンを釈放したため、スティーブンは王位を保ちました。
フランス王ルイ7世(在位1137年 - 1180年)
その頃フランスでは、王ルイ7世(カペー家)が1137年にアキテーヌ公ギヨーム10世(ポワティエ家)の長女、アリエノール(エレノア)・ダキテーヌと結婚しました。
ポワティエ家の始祖は、ジェラール 1世(オーヴェルニュ伯)という人物で、フランク王カール大帝の三男ルートヴィヒの娘、ロトルードまたはヒルデガルドと結婚しました。
その息子ラヌルフ1世(815年 - 866年)が、ルートヴィヒの所領であったアキテーヌ地方を継承し、当時は独立したアキテーヌ公国でした。
この頃は、ラムヌルフィッド家が支配していました。
その後、アキテーヌは西フランク王国の一部になりましたが、10世紀後半にポワトゥー伯ギヨーム(ウィリアム)3世がアキテーヌ公となって以降は、ポワトゥー伯家が12世紀まで公位を継承しました。
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王妃アリエノール・ダキテーヌの父ギヨーム(ウィリアム)10世(在位1126年 - 1137年)は、ジョロワ5世ともにモード皇后派に参加していました。1137年4月9日の聖金曜日に、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼中に食中毒に罹患して死去したと言われています。
その時の遺言で、友であったフランス王ルイ6世に長女アリエノール・ダキテーヌの縁組を頼み、ルイ6世は自分の息子のルイ7世と結婚させました。
それはつまり、アキテーヌの広大な領地がカペー家に移るということでした。
ルイ6世は、ルイ7世の結婚直後に赤痢に罹り、結婚式から7 日後の 1137 年 8 月 1 日に亡くなりました。
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ルイ7世(1120年生まれ)は、聖職者となるべく教育を受けていたのですが、兄フィリップが1131年に落馬事故によって15歳で急死したため、王位継承者となったばかりでした。
彼らの母親アデル・ド・サヴォワは、サヴォイア家の出身で、第162代ローマ教皇カリストゥス2世の姪でした。
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イングランド王スティーブンとモード皇后による内戦が始まった際は、ルイ7世はスティーブンを支持しており、スティーブンの息子ウスタシュ(ユースタス)と妹コンスタンス・ド・フランスを結婚させました。
父のルイ6世はアンジュー伯派の味方をしていたので、当然、ルイ7世もそれに倣うのかと思ったのに意外です。
しかし1144年にジョロワ5世がノルマンディーを奪うと、一転してジョフロワ4世のノルマンディー領有を認めました。
ルイ7世の心変わりの理由を察してみると、第165代ローマ教皇ケレスティヌス2世 (在位1143年9月26日 - 1144年3月8日)と、その次の第166代ローマ教皇ルシウス2世(在位1144年3月12日 - 1145年2月15日)の影響があるように思います。
ケレスティヌス2世は、前教皇が命令したルイ7世の破門を解き、3年にわたって続けられていたフランスの聖務停止命令も解除しました。
破門の理由はややこしいですが、簡単に言うと叙任権問題です。
ケレスティヌス2世は、スティーブン王の即位に反対しており、スティーブンの弟のウィンチェスター司教ヘンリーの更新を拒否していました。
教皇ルシウス2世もまたモード皇后の主張を支持しました。
修道院育ちの生真面目なルイ7世と、アリエノール・ダキテーヌは性格が合わず、娘を二人もうけていましたが1152年3月に離婚しました。
王族貴族の離婚は、教皇の許しが必要です。
当時の離婚成立の条件は、旧約聖書が禁じている「近親者と肉体関係を持ってはいけない」に抵触していることでした。
エレノアとルイ7世は、third cousin(またいとこの子ども・・・高祖父母を共有している)同士であり、フランス国王ロベール2世とその妻コンスタンスと共通の祖先を持っていました。
第167代ローマ教皇エウゲニウス3世の承認を得て、 4親等以内の血族関係を理由に結婚が無効とされました。
まあ、ほとんどの王族貴族はどこかの時点で親戚なんですけどね。
ところが、このあとすぐにアリエノールは11歳年下のヘンリー2世と結婚することになるのです。
フランス王妃からイングランド王妃へ*アリエノール・ダキテーヌ
ジョロワ5世は、1150年に息子ヘンリー2世にノルマンディー公位を譲ったあと、ルイ7世と対立していましたが、1151年1月にヘンリー2世をルイ7世に臣従させました。
ジョロワ5世には、アリエノールと息子ヘンリー2世を再婚させる目論見があったと見られています。
アリエノールは若いヘンリーが気に入り、1152年5月に二人は結婚しました。そうして、離婚で返還してもらったアキテーヌの領地もノルマンディー公国に移されました。
アリエノールがイングランド王位継承権を持つヘンリー2世と結婚し、フランスの西半分がヘンリー2世の手に渡ったことに、ルイ7世は危機感を抱き、その後ノルマンディーに侵攻しました。
は、50年以上続くアンジュー派とカペー派の紛争の始まりとなったのです。
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イングランド王ヘンリー2世(在位 1154年 - 1189年)
1153年1月、ヘンリー2世はイングランドに上陸し、西部を平定してロンドンを攻めました。
戦いに疲れたイングランド王スティーブンは和平を打診しましたが、スティーブンの息子ウスタシュ4世が和平に反対したため、交渉が長引きました。
交渉には、ウィンチェスター司教ヘンリーとカンタベリー大司教シオボルド・オブ・ベックがあたりました。
8月17日にウスタシュ4世が急死し、11月に和平協定(ウォーリングフォード協定、ウィンチェスター協定とも)を結んで、スティーブンの死後にヘンリー2世が王位継承する取り決めがなされました。
1154年10月にスティーブンは亡くなり、取り決め通りにヘンリー2世が即位。12月19日にウェストミンスター寺院でヘンリー2世と妻アリエノール・ダキテーヌの戴冠式が行われ、プランタジネット朝が成立しました。
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最後に
プランタジネット朝については、また続きを書くことになると思います(苦笑)
ちなみにスティーブンの生き残った三男ギヨーム(ウィリアム)1世・オブ ・ブロワ(1137年頃 - 1159年)は、ブローニュ伯を受け継ぎ、1148 年に第 4 代サリー伯爵夫人イザベル・ド・ワレンヌと結婚しました。
ギョーム1世とイザベルの間には嗣子がなく、ブローニュ伯位とブロワ家は妹のマリーに引き継がれました。
マリーの孫はポルトガル王妃、また別の孫はオーベルニュ家と融合しました。
スティーブン直系は途絶えましたが、スティーブンの兄ブロワ公ティボー 4 世がパッサウ家のマティルデ・フォン・シュポンハイムとの間に10人の子をもうけました。
五女アデル・ド・シャンパーニュがなんとルイ7世の三番目王妃になり、1165年に嫡男フィリップ2世(在位1180年 - 1223年)が生まれ、フィリップ2世は長じてプランタジネット朝のジョン王と争うことになります。
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今回もまた長くなってしまってごめんなさい。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
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