見出し画像

「小説の神様」志賀直哉のホロスコープを読む

Twitterで、今日が志賀直哉の誕生日ということを知ったので、ホロスコープを出して見ました。出生時間がわからなかったので、12時で作成しました。

志賀直哉horoscope-chart8-700__radix_astroseek-20-2-1883_12-00

1883年〈明治16年〉2月20日 、出生時間が不明ですが、太陽魚座、月は獅子座です。牡牛座ステリウム。
太陽冥王星90度らしく環境の変化(転居転出)が多かったようです。

火エレメントは月のみですが、粗暴な面があったのでは?と感じてwikiを見てみたら、学習院中等科時代にバロン滋野(飛行家)を数名でボコボコにしていました。
理由は、「(滋野が)華族女学校の正門前に立ち尽くしているのがけしからん」ということだったそうですが、実際は、滋野は妹たちの送り迎えをしていたのだそうです。この集団暴行が直接の原因かはわかりませんが、滋野は学習院を中退しています。

バロン滋野(滋野清武)は、1882年10月6日、男爵滋野清彦の三男として生まれました。滋野は、1910年に渡仏し、1912年1月、フランスで日本人初の万国飛行免状(アエロ・クラブ)を取得。第一次世界大戦では、フランス陸軍飛行大尉として参戦、日本人唯一のエース・パイロットとして賞賛され、1915年10月にレジオン・ドヌール勲章とクロワ・ドゥ・ゲール勲章を叙勲しました。

画像2

              バロン滋野

バロンといえば、ジブリの『猫の恩返し』が思い浮かんでしまいます(笑)

志賀は『人を殴つた話』(1956年のエッセイ)の中で、滋野について「とにかく、妙に人に好かれない男だった」と書いていたそうです。
志賀と滋野は1年しか違わないですが、滋野のホロスコープを作ってみたところ、志賀の牡牛座ステリウムに対して、滋野の火星、水星、金星が対極の蠍座にありました。滋野も月は獅子座です。
滋野のあらゆる行動が志賀のカンに触ったということなんでしょうかね。

小説家を志すまで

志賀の作家活動の始まりは、学習院中等科2年生のころ。1896年(明治29年)、のちに滋野への集団暴行の仲間となる有島生馬らとともに同人誌を発行します。志賀は和歌を発表しています。
この頃はまだ作家志望ではなく、海軍軍人や実業家を目指していたとか。

中等科時代は、3年時と6年時に2回落第しています。wikiには、授業中、口の中に唾がたまると勝手に立ち上がり窓を開けて校庭に向かって唾を吐くなど、教室での落ち着きのなさが目立ったために低い点をつけられたようであると書かれています。
それぐらいで落第させるかな?という気もしますが。
火星と水星が合で、月と180度なので、思いついたらすぐにしないといられない、欲求を抑えらえれないところがあるのかな。

小説家を志望するようになったのは、高等科に入ってから。女義太夫の昇之助の公演を見て感動し「自分も人を感動させたい。自分の場合(それは)小説の創作だ」と考えたとのちに語っています。
この頃のトランシットを見ると、土星が志賀の水星に重なっています。
水星は、作家の場合は文才を表します。

1906年(明治39年)7月、学習院高等科を卒業。同年9月、東京帝国大学英文学科に入学。大学では、夏目漱石の講義以外にはほとんど出席せず、1908年に国文学科に編入しましたが、大学に籍を残したのは徴兵猶予のためで、相変わらず授業には出ていなかったようです。
1910年(明治43年)、大学を中退。そのため徴兵されますが、耳の疾患を理由に8日後に除隊しました。

志賀の、普通を嫌う、既成の型を拒絶するような性分は、水瓶座の火星水星と、水瓶座のルーラーの天王星が双子座木星と90度のせいかな。
双子座木星は、反体制や革命志向を感じさせます。

画像3

太陽冥王星スクエアの影響

私は、太陽と冥王星の90度のほうが気になっていました。太陽冥王星スクエア持ちは、環境が変化しやすく、晴天の霹靂のような出来事(事件事故)が起きやすいのです。

志賀は宮城県(現在の石巻市)で生まれますが、2歳のときに父、志賀直温(明治の実業家)の仕事の都合で東京に転居。1912年頃までは東京に住んでいましたが、小説家になることを反対した父親との不和から家を出て、岡山県尾道にひとり転居していました。
土星回帰の時期です。なぜ、尾道だったのかはわかりませんが。引越し魔かと思うほど、その後も転出転居を繰り返しています。生涯で23回転居したそうです。

1913年(大正2年)8月15日、帰京していた志賀は山手線の電車にはねられ重傷を負いました。太陽冥王星90度の事故アスペクトです。
事故当時は、志賀の水星にトランシット天王星が重なっていました。
現在の東京慈恵会医科大学附属病院に入院し、退院後(同年10月)養生のために兵庫県の城崎温泉に滞在。この療養生活の思い出が、のちに有名な『城の崎にて』に反映されます。

1914年(大正3年)9月に京都へ転居。同じ年の12月に武者小路実篤の従妹(勘解由小路康子さん・・・「勘解由小路=かでのこうじ」)と結婚しますが、志賀の父の望まぬ結婚であったため、親子の不和はさらに深まってしまったそうです。
(父とは1917年に和解)


1917年~1918年は志賀の水星に対してトランシット木星が調和の角度になっており、多くの作品を書いています。
しかし1922年(大正11年)後半から極度のスランプが訪れます。トランシット木星が蠍座に入り、志賀の火星水星と90度でした。
おまけにミドルエイジクライシス。そりゃ、やる気でないよね。

自信喪失した志賀は、1923年、千葉県我孫子から再び京都へ転居。京都では浮気が刺激になったのか、山科ものと呼ばれる四部作を発表しています。
1924年ごろのトランシットを見ると、木星が射手座にあり、志賀の双子座木星とオポジション、また冥王星が蟹座にあり、志賀の山羊座金星とオポジションで、イケナイことしたい感じですね。

プログレス月の影響

1925年になると、今度は奈良へ転出。奈良県内にみずから設計した家に1929年に再び転居しています。
この数年置きの転出転居は、プログレス月のサイクルに影響されているように思います。プログレス月は、約2年ごとにサインを移動するため移り気な行動を取ります。よく言われる「3年目の浮気」は、プログレス月の影響です。

奈良での暮らしでは、志賀を慕う文化人たちの交流が盛んになります。1925年頃のトランシットを見ると、木星が山羊座に入り、志賀の金星に重なっています。いわゆるモテ期ですね。

画像4

1938年(昭和13年)になると、子どもたちの教育のために東京へ戻ります。
前の年に廃業宣言をしていますが、トランシット天王星が志賀の火星水星と90度、志賀のSノード、海王星と合になっていました。
しかし、3年後に活動再開します。今度は、トランシットの木星土星が、志賀のSノードと海王星に合、トランシット天王星が志賀の冥王星に合でした。
やはり、ここもプログレス月のサイクルが影響しているようですね。

1942年~1945年戦時中は、いろいろな思いがあったようで作家活動を中断しています。2度目の土星回帰です。
戦時中は、トランシット冥王星が獅子座に入っており、志賀の水星火星と180度、志賀の月にも重なり、次々とアスペクトしています。
表立った言論はなかったようですが、反戦の思いがあったのでしょう。

戦後、作家活動を開始し、1949年(昭和24年)文化勲章を受章しました。

水瓶座の火星と水星によるユニークさ

志賀は無宗教だったと言われています。道端にあった石地蔵を蹴り倒したり、迷信や祟りも一切信じなかったと。
その辺は、水瓶座の火星水星に現れていると思います。双子座の木星が、現実主義者、または反体制に親しみやすいと思います。

しかし、学習院中等科時代にキリスト教の内村鑑三に影響を受け7年間師事していたそうです。
これは火星水星と月と海王星が作るTスクエアでしょうね。

また、日本の国語が不完全であると痛感したとして「日本は思ひ切って世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、その儘、国語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。」というびっくりな提案もしています。
志賀自身はフランス語を話せなかったが、「文化の進んだ国であり、小説を読んでみても何か日本と通ずるものがあると思はれる」という根拠でフランス語を推したそうです。
「小説の神様」として多くの作家に支持された志賀の提案に、周囲は困惑したそうです。丸谷才一、三島由紀夫は大反論したということでした。


魚座生まれですが、水のエレメントが少なく、もともと不動宮が強いので、思い込んだら・・・という頑固さがあったでしょう。
その割に、プログレス月に翻弄されてますけどね。それも水瓶座の火星水星、ルーラーの天王星の影響でしょう。
牡牛座ステリウムですので、本当は変化は苦手だったはずで、常に内面の葛藤はあったのじゃないでしょうか。融通もきかないタイプだったんじゃないかなと想像しました。

以上、「小説の神様」と志賀直哉のホロスコープ検証でした。最後までお読みいただきありがとうございました。


いいなと思ったら応援しよう!