占星術*水の時代と大航海時代part③中央集権化と重商主義と奴隷貿易
この記事では、大航海時代の終わりとそれに続く重商主義について書いていきます。
15世紀半ばに始まった大航海時代は、16世紀になると冒険→征服→植民地化の流れに落ち着きました。
スペインのコンキスタドール(征服者)やヨーロッパからもたらされた伝染病などにより、インカ文明(アンデス文明)、アステカ文明は滅亡し、マヤ文明も衰退(17世紀に滅亡)してしまったのですが・・・。
日本は、室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代にあたり、戦国大名が乱立しましたが、織田信長に続く豊臣秀吉が天下を統一しました。
ヨーロッパではルネサンスと宗教改革が行われ、ニコラウス・コペルニクスが地動説を発表したり、ローマ教皇グレゴリウス13世がずれが累積していたユリウス暦を廃しグレゴリオ暦(新暦)を制定するなど、既存の価値観が破られ新しい世界観が生まれました。
ただ人間は変化が苦手なので、地動説も新暦も受け入れられるまで長くかかりました。
アレッサンドロ・ファルネーゼ大枢機卿(1520年10月5日 - 1589年3月2日)は、ローマ教皇「パウルス3世」(俗名アレッサンドロ・ファルネーゼ)の孫です。同名ややこしいですね。
また大枢機卿の甥にあたる第3代パルマ公も同名のアレッサンドロ・ファルネーゼなんですよ。もう同名やめてほしい(苦笑)
それだけこの名前に意味があるということなんでしょうけれど。
父は初代パルマ公ピエール・ルイージ・ファルネーゼ、母はジェローラマ・オルシーニです。
ファルネーゼ家とオルシーニ家といえば、泣く子も黙るイタリアの超有名貴族です。
大航海時代の終焉
ポルトガルとスペインは、長い間イスラムの圧迫を受けていたため民族主義が沸騰し、強力な国王を中心とした中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立していました。
スペインは国土の大きさからレコンキスタ(イベリア半島でのキリスト教勢力がイスラム勢力を排除する動き)に時間がかかりましたが、1492年1月にグラナダのアルハンブラ宮殿陥落でイスラムのナスル朝が滅亡し、レコンキスタは終結しました。
そのタイミングでコロンブスの提案を採用し、スペインは海外進出に乗り出したのです。
今年9月に北アフリカのリビア東部のデルナで世紀末的な洪水被害がありましたが、デルナの住民はレコンキスタでスペインを追われデルナに移住したイスラム教徒の子孫でした。
絶対王政(絶対主義)
絶対王政の特徴は、王権神授説や官僚制と常備軍、重商主義があります。
重商主義は、貿易などを通じて国富を増やすことを目的とした政策で、簡単に言えば「国をお金持ちにしよう」ということですね。
重商主義には、重金主義(植民地から金を獲ってくる政策)と貿易差額主義(輸出を増やして輸入を減らし、差額で儲ける政策)がありました。
イギリス、フランス、オランダも主権国家体制(絶対主義)を完成させて重商主義にたつ勢力圏獲得に乗り出すようになり、海外進出に先行していたポルトガルとスペインを凌駕していきました。
16世紀から17世紀にかけてのイングランドのテューダー朝、フランスのブルボン朝が絶対王政の典型例とされています。
太陽王と呼ばれたフランス王ルイ14世の「朕は国家なり(L'État, c'est moi=レタ・セ・モア)」という言葉は、「そんなことをなさっては国家と民のためになりません」と諫める家臣に対して「民だけでいい」に続いて言ったとされ、絶対王政を象徴する言葉と言われています。
(現在はルイ14世の言葉ではなく、捏造されたという説もあります)
ルイ14世は王権神授説を利用し、官僚制強化・中央集権化を推し進め、フランス絶対王政の絶頂期を築きました。
重商主義と植民地
【イギリス】
1580年、イギリス軍人フランシス・ドレークの2番目の世界一周で、北アメリカ大陸の海岸部の様相が明らかになりました。
イギリスは、1606年に北アメリカ海岸に植民地を建設する目的で、ジェームズ1世に勅許されたバージニア会社を設立しました。
2つの会社があり、「ロンドンのバージニア会社」(ロンドン会社)と「プリマスのバージニア会社」(プリマス会社)と呼ばれ、同一の勅許で異なる領域を運営していました。
プリマス会社が造った北アメリカ植民地は、ニューイングランドと呼ばれるようになりました。
その後、北アメリカ東海岸には、オランダのニューネーデルラント、ニューアムステルダム、イギリスのバージニア植民地、ニューヨーク植民地など大規模な植民地が築かれていきました。
また、アジア貿易においてはイギリス東インド会社が1757年に設立されています。単一の組織ではなく、ロンドン東インド会社、イングランド東インド会社、合同東インド会社という三つの会社の総称です。
当初は香辛料貿易を主業務としていましたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行うなど、インドの植民地統治機関へと変貌していきました。
ジャワ島のバンテンやインドのスーラトに拠点を置き、マレー半島のパタニ王国やタイのアユタヤ、日本の長崎県平戸、台湾にも商館を設けました。
イギリスはオランダとの対立により、アジアから撤退しインド貿易に切り替えました。(これについては別記事を作成中です)
イギリス東インド会社について、あいひんさんの記事(有料)も参考になさってください。
【フランス】
ルイ14世の時代の財務大臣ジャン=バティスト・コルベール(1619年8月29日 - 1683年9月6日)は、1664年にフランス東インド会社を設立し、インド・アメリカ大陸への進出を主導しました。
フランス東インド会社は、1660年設立のフランス中国会社、1642年設立の東方会社、1637年設立のマダガスカル会社の3つを統合したもので、東半球での貿易を目的としていました。
フランス東インド会社は、前年にインド航路が開拓されたことに触発され、1604年にアンリ4世によって15年間の有限の独占特許状 (Charter) を与えられて創設されました。
しかし、当時はインドとの直接交易は行われておらず、フランスのアジア交易の拠点はマダガスカル島で、マダカスカルを中心としてペルシアやインド、東南アジアと交易を行っていたそうです。
1635年に、宰相リシュリューがインドとの貿易を活発化させようとしましたが失敗に終わり、東インド会社の構想はしばらく放置されていました。
ルイ14世が重商主義を国策として採用し、コルベールはオランダ東インド会社を模範として会社を抜本的に改組しました。
コルベールはフランス東インド会社だけでなく、1664年にフランス西インド会社、1670年にルヴァン会社、1673年にセネガル会社、北方会社などの勅許会社を設立しました。
フランス西インド会社(Compagnie française des Indes occidentales)は、アフリカとアメリカの大西洋岸のフランス植民地を委譲され、40年間のアメリカとの貿易の独占を認められたほか、1658年にコルベールがノルマン会社を再編して設立した「カーボベルデとセネガル会社」の奴隷貿易独占権を譲渡され、大西洋奴隷貿易を行いました。
また砂糖事業の利益でカナダ植民地(ヌーベルフランス)への移住を支援するなどしました。
ルヴァン或いはレヴァン会社(Compagnie du Levant)が主に取り扱ったのは、繊維材料(綿、絹、ウール)の輸入、マルセイユ港から北アフリカへの輸出でした。イギリスにも同名の会社がありました。
1672年に設立されたセネガル会社は、フランス西インド会社(1674年に解散)に取って代わる存在でした。西インド会社の奴隷貿易独占権も移されました。
しかしフランスでは奴隷貿易への自由参加要求が強く、1674年に西インド貿易は自由化されました。
フランスは同盟国のオランダとの競合を避け、インド貿易に専念していましたが、1672年4月にルイ14世がオランダに宣戦布告し仏蘭戦争(1672年-1678年)が始まってしまったのでした。
その前月にイギリスも第三次英蘭戦争を始めており、そんな中で当時のチャールズ2世が日本に交易再開(1673年リターン号事件)を求めてきたので、オランダと懇ろだった日本は、オランダと同じプロテスタント国なのにイギリスを拒否するわけです。
【オランダ】
世界初の株式会社といわれるオランダ東インド会社、正式には統一東インド会社(略称VOC)が設立されたのは、17世紀初め1602年3月20日でした。
会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権、独自の硬貨発行、軍隊の交戦権、植民地経営権など諸種の特権を与えられた準政府的な権限を持った強力な企業でした。
設立の背景には、スペインと八十年戦争を行っていたため、スペインによる貿易制限、船舶拿捕などで経済的な打撃を受けていた事情があります。
香辛料交易で強い勢力を有していたポルトガルがスペインに併合された(1580年)ことで、リスボンを通じた香辛料入手も困難になり、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペインとポルトガルに対抗する必要がありました。
【八十年戦争の背景】
1477年にブルゴーニュのシャルル豪胆公が戦死すると、一人娘のマリー女公は後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、ネーデルラント地域はハプスブルク家の所領になりました。
神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)は、ネーデルラント17州すべての主権者として専制政治を行い、カール5世退位後はハプスブルク領がオーストリア系とスペイン系に分かれ、ネーデルラントはスペインの支配下に置かれました。
ネーデルラントでは、主にプロテスタントのカルヴァン派が広まっており、カトリックのフェリペ2世が異端審問を実施してプロテスタントを弾圧したため、ネーデルラント諸州は1568年、オラニエ公ウィレム1世(1533年-1584年、スペインに暗殺される)を先頭にスペインに対する反乱を起こしました。
1576年11月4日にアントワープ略奪のあと、11月8日にヘントの和約が締結されてカトリックとプロテスタントの融和が図られましたが、1579年には北部7州でユトレヒト同盟が結ばれ、北部7州はスペインと対決しました。
南部の州はカトリック派のパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼに制圧され、1585年にアントウェルペンが陥落。
南ネーデルラント(現在のベルギー、ルクセンブルク)は、カトリックの勢力が強かったので、スペインの支配下に留まることになりました。
この記事の最初に名前が出ているアレッサンドロ・ファルネーゼ大枢機卿の甥のパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼです。(ややこしい)
1600年頃までに北部7州はネーデルラント連邦共和国として実質的に独立しましたが、スペインとの戦争は終わりませんでした。
ネーデルラント連邦共和国は1602年、オランダ東インド会社を設立してアジアに進出し、オランダ・ポルトガル戦争(別名スパイス戦争1602年 - 1663年)では、オランダ東インド会社、オランダ西インド会社(略称GWCまたはWIC)の形でのオランダ軍とその同盟国が関与した世界的な武力紛争になりました。
1609 年に現在のジャカルタに首都バタビアを設立し、その後 2 世紀にわたって追加の貿易拠点として港を獲得し、植民地を建設するための労働力の多くは奴隷によるものでした。
日本へは1609年にイギリス人のウィリアム・アダムズ(1564年9月24日 - 1620年5月26日、日本名三浦按針の仲介により、「プロテスタントが布教を行わない」ことを条件にオランダ平戸商館を開設しました。
これを機に蘭学も日本に広めていきました。
また江戸幕府が手を焼いた島原の乱の制圧を支援するなどして、鎖国下の日本で欧州諸国として唯一、長崎出島での交易を認められました。
こうしてオランダはポルトガルの追い落としにも成功し、アジアにおいてオランダの一人勝ち状態になりました。
1623年にモルッカ諸島でイギリスとの間でアンボイナ事件が勃発し、イギリスが東南アジアから撤退することになったのですが、これはのちに英蘭戦争の火種になりました。
オランダは、東南アジアの香辛料の独占に飽き足らず、ブラジルの砂糖産業も独占しようと目論見、1624年にサルヴァドール・ダ・バイーアを占領するなどブラジル北東部を支配し、ポルトガルの占領地を脅かしました。
1624年から1661年までオランダ・ポルトガル戦争が、主にアフリカ、南アメリカを戦場にして行われ、第一次グアララペスの戦い(1648年)、続く第二次グアララペスの戦い(1649年)ではポルトガルが圧倒的な勝利を勝ち取り、1654年オランダ西インド会社はブラジルから撤退しました。
オランダ・ポルトガル戦争は1663 年まで続き、結果的にオランダは喜望峰と東インド諸島で勝利し、ジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)を拠点に東南アジアの香辛料貿易を押さえ、台湾、スリランカ、マラッカなども占領しました。
オランダの弱体化と「火の時代」へ
イギリスを追いやり、ポルトガルから香辛料貿易を奪取し、オランダは黄金時代を迎えることになりました。
ところがオランダ東インド会社が黄金時代を迎えていた一方で、オランダ本国は3次にわたる英蘭戦争で国力を消耗していました。
1677年、イギリス王チャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の娘メアリー(後のメアリー2世)と、オランダ総督・オラニエ公の息子ヴィレム3世(ウィリアム3世)の結婚により、フランスのオランダ侵攻は失敗に終わり、1678年ナイメーヘンの和約を結び講和しました。
1688年の名誉革命でヴィレム3世がイギリス王に迎えられた後は、オランダはイギリス東インド会社に植民地帝国の座を譲り渡し、以後イギリスが大英帝国として海上覇権を確立する事になっていったのです。
このようにして17世紀中ごろまでに一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達して、大航海時代(水の時代)は終焉を迎えました。
起承転結でいえば、水の時代は「結」にあたります。
そして次なる火の時代は「起」。直近の火の時代は、約400年前。世界的には火山噴火が多かった時代です。
日本は江戸時代後半で、大きな戦争がなく落ち着いた時代でした。浮世絵や浄瑠璃・歌舞伎など日本特有の文化が生み出されました。
ヨーロッパでは、イタリア・ルネサンスのあと、美術・文化面ではバロック建築やロココ様式に人気が集まり、バッハやモーツアルトなどの偉大な音楽家が生まれたほか、フランス革命が代表する市民革命が起きました。
※長くなってしまったので、ルネサンスと宗教改革については、またいつか別記事を立てたいと思います。
今回はこのへんで。最後までお読みくださいましてありがとうございました。ではでは。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?