![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/146670728/rectangle_large_type_2_4935a831bd531102c33e2ce702e6f7a6.png?width=1200)
1688年名誉革命(反カトリック)と境界紛争*第3代ボルチモア男爵 PART1.5
だいぶ間が開いてしまいましたが、ボルチモア男爵(カルバート家)について書きます。
たまり過ぎた下書きをなんとか消化しないと・・・もう年が明けそうなスピードの2024年ですね。
カトリックが非合法化される
1688年、カトリック教徒を支持していたジェームズ2世が打倒され追放される名誉革命が起き、ジェームズ2世の娘メアリー2世と、その夫でプロテスタントのオランダ総督オラニエ公ウィリアム3世(ウィレム3世)がイングランド国王に即位しました。
![](https://assets.st-note.com/img/1720462297303-TSqILXgfuN.png?width=1200)
この革命により、イギリスにおけるカトリックの復権の可能性が完全に潰され、英国国教会の国教化が確定しただけでなく、権利の章典により国王の権限が制限され、イギリスにおける議会政治の基礎が築かれた。
カトリック教徒にとっては、名誉革命は以後数世紀に渡る苦難の始まりでした。
イギリス国内、各植民地では、公の場でのカトリック信仰の実践や、カトリック信徒が公職につくのを禁止されました。
1689 年に発布された権利の章典(Bill of Rights)により、植民地に対する王室憲章が撤回され、英国王室による直接統治が始まりました。
オラニエ公ウィリアム3世が🇬🇧国王に即位。
— 森の夢*michaela (@michael5131995) March 28, 2024
メリーランドのプロテスタントは寛容法を取り消し、カトリックが公に信仰を実践することを禁止。
1702年には植民地でも国教会が公式教会が設立された。
メリーランドが宗教の自由を取り戻すのは🇺🇸独立戦争までかかった。
権利の章典
イングランド国王の存在を絶対前提とした上で、国王に忠誠を誓う議会および国民のみが享受できる権利と自由を定めた法律である。国王といえども否定できない、国民が古来より相続してきた諸権利を確認した。
議会の同意を経ない法律の適用免除・執行停止の禁止。
議会の同意なき課税、平時の常備軍の禁止。
議会選挙の自由、議会内の発言の自由、国民の請願権の保障。
議会を召集すること。
国民の請願権、議会における議員の免責特権、人身の自由に関する諸規定。
王位継承者からカトリック教徒を排除すること。
*****
メリーランドでは、ピューリタン・プロテスタントが、(Part1で書いた)寛容法を取り消し、公の場でのカトリック信仰の実践を禁止しました。
メリーランドはカルバート家が運営する領主植民地でしたが、カルバート家は代々カトリック信徒だったため、権利を失うことになりました。
~~**◇◆◇**~~**◇◆◇**~~
第3代ボルチモア男爵チャールズ・カルバート
第2代ボルチモア男爵セシル・カルバート(1605–1675) の死により、息子チャールズ・カルバート(1637年8月27日 – 1715年2月21日)が、第3代ボルチモア男爵を継承しました。
![](https://assets.st-note.com/img/1720463016017-JQklH2BFVX.png?width=1200)
第3代ボルティモア男爵チャールズ・カルバート(Charles Calvert, 3rd Baron Baltimore, 1637年8月27日 - 1715年2月21日)は、イングランド生まれの政治家。
父である第2代ボルティモア男爵セシル・カルバート(1605年 - 1675年)の死後に北アメリカのメリーランド植民地を承継した。
1661年(24歳)に父セシルから副総督に任命されて、メリーランドで総督を代行していましたが、1684年にイングランドに帰国しました。
このときチャールズが帰国した理由は、ペンシルベニア植民地の総督ウィリアム・ペンとの長年の境界紛争について議会に報告&裁判のためでした。
後を追うようにウィリアム・ペンもイングランドに帰国しました。
詳しくは後述します。
しかし、まもなくチャールズ2世が心臓発作で死去し(1685年)、弟のヨーク公ジェームズ2世が即位するも直後にモンマスの反乱が起き、反乱平定後はジェームズ2世が親カトリックと専制を推し進めたため周囲の反発で政権は傾きました。
ジェームズ2世の即位からわずか3年で、上述の名誉革命が起こり、ジェームズ2世は追放されました。
チャールズ・カルバートは、メリーランド領主の権利を失ったため、彼は二度とボルチモアに戻ることはありませんでした。
ちなみにペンのほうは、1689年2月から1691年1月にかけてジェームズ2世との交友を理由に3度逮捕・投獄される羽目に陥りました。
加えて1693年3月にペンシルベニアの領有権も取り上げられて国王直轄地へと変えられましたが、友人たちの尽力で1694年8月にペンシルベニア領有権は返還されました。
![](https://assets.st-note.com/img/1720475264495-bMijJK0T6h.png)
![](https://assets.st-note.com/img/1720475362047-7PsV4uSWRv.png)
*****
メリーランドにおけるプロテスタント革命
メリーランドのプロテスタントは、この時までにかなりの多数派となっていました。
ウィリアム2 世とメアリー 2 世が王位に就き、ほかの植民地が次々と新しい主権を宣言する中で、帰国していたチャールズ・カルバートが派遣した使者が旅の途中で亡くなってしまっため、メリーランド植民地に知らせが届きませんでした。
プロテスタントは、領主には新国王と女王に対する支持が欠如しているとみなし、副知事であった農園主のヘンリー・ダーナル大佐のようなカトリック教徒が公的権力の地位に優遇されていることにも憤慨していました。
1689年夏、700名の武装したピューリタン(プロテスタント協会)が、ヘンリー・ダーナル大佐が率いる領主軍を破り、カトリックを非合法化する新政府を樹立しました。
1704年には「この管区における教皇の増加を阻止するため」の法律が可決され、カトリック教徒は公職に就くことができなくなりました。
![](https://assets.st-note.com/img/1720463142196-lhoIH9t0mp.png)
初代ボルチモア卿が願った「カトリックの避難場所となるコミュニティ」は50年で完全に消滅してしまいました。
メリーランド州では、おそらくメリーランド州で最も裕福なカトリック教徒であったヘンリー・ダーナル大佐の曾孫、チャールズ・キャロル・オブ・キャロルトンがアメリカ独立宣言に署名したアメリカ独立戦争まで、完全な宗教的寛容は回復されませんでした。
その後1715年に、第5代ボルティモア男爵にメリーランドの権利が戻ることになります。それは国教会に改宗したので、戻ることが許されたのでした。
それについては長くなるので、またの機会に。
反カトリックの集団ヒステリー事件
チャールズ・カルバートは、1694年に(Part1の記事に書いた)反カトリックの牧師タイタス・オーツがでっち上げた「ポピッシュ陰謀事件(カトリック陰謀事件)」への関与が疑われ逮捕されかかりました。
この陰謀事件が起きたのは、それより10年以上前のことです。
1678年から1681年に発生したイングランドのカトリック教徒が国家転覆の陰謀を企てているという陰謀の捏造と、それに伴う集団ヒステリーの事件・社会現象である。
捏造されたテロ計画が本当に存在していると信じられ、イングランドの反カトリック感情をあおって国全体がパニックに陥った。
首謀者のオーツは、チャールズ2世を暗殺するためのカトリックの大規模な陰謀があったと主張し、その告発によりイエズス会の聖職者を含む少なくとも22人のカトリック教徒が処刑された。
架空の「カトリック陰謀事件」は、ヘンリー8世から始まったイングランドの宗教改革と、清教徒革命(イングランド内戦1642年 - 1649年)が終わってまもない時期のイングランド国民に強い反カトリック 感情を刺激しました。
![](https://assets.st-note.com/img/1720532249256-uAa16ZQj2t.jpg?width=1200)
経緯は長いので割愛しますが、イングランド議会が架空の陰謀話を疑わなかったのが元凶でしょう。むしろ、それを利用しようと考えたのかも。
議会は、潜在的に反カトリックが多かったので、王(チャールズ1世)も処刑されたわけですから。
ほぼ3年が過ぎ、15人の無実の男たちが処刑された後(最終的に少なくとも22人が処刑された)、世論はようやく疑問を感じ始めました。
オーツが告発していた数百人の無実が裁判で証明され、オーツと彼のホイッグ党支持者に対する反発が起こりました。
1681年、オーツは扇動罪で逮捕され有罪判決を受け投獄されましたが、なんと、1689年の名誉革命で恩赦を受け、さらに年金も死ぬまでもらえることになりました。
なんだ、それって感じですが・・・オーツがイエズス会だったらとっくに四つ裂きの刑だったでしょう。
![](https://assets.st-note.com/img/1720534044668-nSHlhxAtDE.png)
タイタス・オーツがでっち上げで告発した5人のカトリックの貴族の中に、チャールズ・カルバート家の母方の親戚であるウィリアム・ハワード (初代スタッフォード子爵)、母方の祖父ヘンリー・アランデル、第3代ウォーダー・アランデル男爵が含まれており、それで関与が疑われたのかもしれません。
英国における反カトリック主義(英語)
アメリカ合衆国における反カトリック主義(英語)
反聖職者主義(日本語)
ペン・カルバート境界紛争
ウィリアム・ペンとチャールズ・カルバートの論争は、1632年にチャールズ1世がチェサピーク湾沿いの土地の特許状を与えたことに遡ります。
特許状の北の境界は北緯40度線、東の境界はデラウェア湾と大西洋でした。しかし、特許状はカルバート家に「未耕作」の土地の権利しか与えていませんでした。
論争の背景
デラウェア川流域にオランダの植民地ニューネーデルランドの建設が始まったのは、1614年でした。
スペインとの八十年戦争(1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)の休戦中のことです。
この期間、単独で武装しないオランダ船でもスペインからは攻撃されない状態でした。
1638年、スウェーデン政府は、ニューネーデルランドの領土が宣言されていたデラウェア川流域にニュースウェーデン植民地を創設しました。
ニュースウェーデンの植民地は、はじめにクリスティーナ砦が建設され、ここを拠点に周辺へ入植地を拡大していきました。
![](https://assets.st-note.com/img/1720467570492-Shy7SA5LTY.png)
オランダ人はこれを自国の領土への侵入とみなし、1651年に新しい前哨基地であるカジミール要塞を現在のデラウェア州ニューキャッスル、クリスティーナ砦の南に設立しました。
![](https://assets.st-note.com/img/1720467811436-OCEqgM2NFW.png)
1655年、スウェーデン本国で北方戦争が始まったため、オランダはこの期にニュースウェーデンの領土を奪還にかかり、ニュースウェーデンはニューネーデルランドに併合されました。
カジミール砦はニューアムステルと改名されました。
メリーランドは1659年にニューアムステルに代表者を派遣し、ボルティモア卿に与えられた土地に彼らが居住していることに抗議しました。
1664年、第二次英蘭戦争でイギリス軍はまずニューネーデルラントを占領し、ニューヨーク市と改名しました。
チャールズ2世は弟のヨーク公ジェームズ2世にコネチカット川とデラウェア川の間のすべての土地を与えました。
ニューアムステルはニューキャッスルと改名され、ニューアムステルダムは公爵にちなんでニューヨークと名付けられました。
![](https://assets.st-note.com/img/1720481783396-qxpU3vDbV3.png?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1720481632800-EYsGVHViRb.png?width=1200)
ここから先は
¥ 300
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?