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スコットランド・リンリスゴー宮殿とステュワート朝の始まり
子どもの頃の夢は「考古学者になりたい」でした。
女の子らしく「ケーキ屋さん」とか「お花屋さん」とか一度も思ったことがないんです(苦笑)
そういう私なので、歴史をほじくり返す毎日も楽しさしかありません(笑)
Xで見かけた翼を持った鹿の像が苔むしているけれど、とても素敵で忘れがたく、調べてみるとスコットランドのリンリスゴー宮殿の噴水の像でした。
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リンリスゴー宮殿の遺跡は、エディンバラの西15マイル(24 km)にあるスコットランドのウェストロージアンのリンリスゴーの町にあります。
宮殿は、15世紀と16世紀のスコットランドの君主の主要な住居の1つでした。1603年にスコットランドの君主がイングランドに去った後も維持されていましたが、宮殿はほとんど使用されず、1746年に焼失しました。
現在は、スコットランド歴史環境局(Historic Environment Scotland)の観光名所となっています。
リンリスゴー(Linlithgow)は、古ウェールズ語で「湿ったくぼみの湖」を意味するlynn llaith cauに由来しているそうです。
町の北にリンリスゴー湖があります。平均水深は2.3メートル、最大水深は9.2メートルと浅く、湖の2つの小島は、5,000年前のクラノグ(人口島)の遺跡であると考えられています。
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リンリスゴーとステュワート朝
宮殿は1424年に、スコットランドのジェームズ1世(在位1406年 - 1437年)によって建設(再建)されました。
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ジェームズ1世はステュワート朝の王で、彼らの祖先は現在はブランスのドル=ド=ブルターニュから、ヘンリー1世に従ってイングランドにやってきたアラン・フィッツ・フラード2世(Alan fitz Flaad)と見られています。
フラード2世の祖父フラード1世は、ドルのセネシャル(王室の執事)で今でいうと県知事?みたいな地位にあったようです。
詳しくは割愛しますが(ほんとは書きたくてウズウズ( ´艸`)、ヘンリー1世がイングランド国王になった後、廷臣となり大出世したようです。
フラード2世の長男、ウィリアムがアランデル伯爵の祖先となり、次男ウォルター・フィッツアランがステュワート家の祖先になりました。
兄のウィリアムも弟のウォルターも、ボルチモア男爵のカルバート家の親戚です。(詳しくはまた)
ウォルターは、スコットランド王デイヴィッド1世(在位1124年 - 1153年)の王室執事長(Lord High Steward)になり、これが家名になったそうです。
最初はステュワードだったのがステュワートになりました。
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ウィリアムとウォルターは、イングランドでブロワ朝の短期王スティーブン(在位1135年 - 1154年)が即位し、プランタジネット家のモード皇后(マティルダ)の間に王位争いが起きたときは、マティルダ支持をしたスコットランド王デイヴィッド1世(マティルダの兄弟)とともにイングランド領に攻め込みました。
ブロワ朝は、中世フランスの貴族の家系。
スティーブン王の父は、第一回十字軍のリーダーのひとり、ブロワ伯スティーブン(エティエンヌ2世)、母はウィリアム1世(征服王)の娘アデルでした。
具体的には、子孫の第6代執事長のウォルター・ステュワート( 1296年頃 - 1327年)が、スコットランド王ロバート1世 (在位1306年 - 1329年)の娘マージョリーと結婚したことでスコットランド王室に連なりました。
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ロバート1世の父もまた、ヘンリー1世に従ったノルマンディーのブリ(現在のブリックス)の貴族、ロバート・ド・ブルースですが、ブロワ家とプランタジネット家の王位争いでは、スティーブン側に付いたと言われています。
ロバート1世 は、スコットランド独立戦争中のメスベンの戦い(1306年6月)で敗北してアイルランドに亡命し、妻子や親族はイングランド王エドワード1世(ヘンリー3世の長男)の囚人になり、それぞれ別々の修道院に送られたそうです。
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当時12歳くらいだったマージョリーは、ワットンのギルバート派修道院に1314年まで監禁されましたが、バノックバーンの戦い(1314年6月)で父ロバート1世がイングランドに勝利し、その戦いで捕虜になった第4代ヘレフォード伯爵ハンフリー・ド・ボーハン(ボーハン家)と引き換えに解放されました。
ウォルター・スチュワートは、イングランドとスコットランドの国境でマージョリーを出迎え、スコットランドの宮廷に送り届ける役目でした。
その後まもなく二人は結婚し、マージョリーの持参金の一部にリンリスゴーシャーのバスゲイトの土地と男爵位を受け取りました。
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マージョリーは1316年に乗馬中の事故で困難な早産となり、出産中に亡くなったと言われています。
そのとき生まれたロバート2世が、嗣子がいなかった叔父のスコットランド王デイヴィッド2世の不慮の死(1371年)により後を継いで即位し、スコットランドにおけるステュワート朝が始まりました。
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スコットランドとフランスの古い同盟
スコットランドとフランスは、1295年に締結されてから1560年のエディンバラ条約まで軍事同盟関係にありました。
これはイングランドとフランスのパワーバランスに非常に重要でした。
同盟はスコットランド王ジョン・バリオールJohn Balliol(在位1292年 - 1296年)とフランス王フィリップ4世(在位1285年 - 1314年)が、反エドワード1世対策として結んだ条約に基づき、両国のうち片方がイングランドに攻撃される場合、もう片方はイングランド領を侵攻することが定められていました。
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フィリップ4世(カペー朝)は、ローマ教皇と対立(アヴィニョン捕囚)したことでも知られています。テンプル騎士団の弾圧もフィリップ4世でした。これらは教皇庁の財産没収の一環でした。
フィリップ4世は、父方の祖父を介してフランク王国カロリング朝の血を引いており、母方の祖母を介してカステーリャのアラゴン王国の血を引いていました。
このころのイングランド王家(プランタジネット朝)とは血のつながりがありませんでしたが、1299年に異母姉妹のマーガレットがエドワード1世の後妻になり両国に停戦協定が結ばれ、1308年には自分の娘イザベラをエドワード2世に嫁がせて外孫のエドワード3世が生まれました。
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しかし、イザベラとエドワード2世の結婚は幸福ではありませんでした(後述)。
不仲の原因には、スコットランド独立戦争の影響もあったと言われています。
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スコットランド王位継承戦争
ジョン・バリオールは、アサル朝またはダンケルド家と言われるスコットランド王アレクサンダー3世の不慮の死(1286年落馬して死亡)により混乱したスコットランド王家に介入したエドワード1世が任命した傀儡王でした。
アレクサンダー3世は、祖母を介してイングランド王ヘンリー1世の血を引いており、妻はマーガレットは、エドワード1世のすぐ下の妹でした。
アレクサンダー3世とマーガレットには2男1女が生まれましたが、いずれも早世したため、ノルウェー王エイリーク2世と結婚した娘マーガレットの子で、また同じ名前のマーガレット(1283年4月9日 - 1290年9月26日)がわずか3歳で即位しました。
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マーガレット王女の母方の大伯父にあたるエドワード1世は、スコットランド王位継承権を狙って自分の4歳の王太子エドワード(後のエドワード2世)とマーガレット王女の結婚を計画しました。
スコットランドの貴族たちは、ノルウェーの影響が強くなるよりはイングランドと関係を深めるほうを選択し、1290年結婚のためにマーガレット王女はノルウェーから船旅でスコットランドに到着しましたが、直後に病気になり7歳で亡くなりました。
マーガレットの死によってスコットランドのアサル王朝は断絶し、ジョン・バリオールや上述のロバート1世ら13人が王位請求する大混乱になりました。
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傀儡王ジョン・バリオールの反乱
エドワード1世は、従姉妹のイザベルと結婚していたジョン・バリオールを御しやすいと思ってスコットランド王に任命しましたが、すぐにエドワード1世の思惑は外れて、ジョン・バリオールはスコットランド独立を宣言しました。
ジョン・バリオールは1149年頃に生まれたと考えられていますが、初期の人生についてはほとんど情報がありません。
彼の父ジョン・ド・バリオールは、フランスのピカルディ地方のバイユール村に起源をもつバリオール家の出身の貴族です。
名前に「ド」がつくとフランス系貴族で、「フォン」がついているとドイツ系貴族です。
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バリオール家は、イングランド国王ウィリアム2世(ウィリアム征服王の息子で、ヘンリー1世の兄。赤毛の王William Rufusと呼ばれた)から、1090年代にイングランド北部ノーサンバランド伯爵領を下賜されたガイ1世・ド・バリオールに発すると見られます。
しかし、ジョン・バリオールは、ダンバーの戦い(1296年)でイングランドに大敗し、廃位されたジョンは長男エドワードとともにロンドン塔に3年間幽閉され、その後ピカルディに戻り引退したそうです。
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そのころイングランドではエドワード3世が成長し、1327年に母イザベラは愛人のロジャー・モーティマーと結託してエドワード2世を幽閉し、エドワード3世(15歳)に戴冠式を挙げさせました。
エドワード2世は、のちに処刑されたそうです。
スコットランド王ロバート1世は、これをチャンスとみてイングランド北部への侵攻を開始しました。
イザベラとモーティマーは、ロバート1世とエディンバラ=ノーサンプトン条約を結んで、スコットランドの独立を承認し、第一次スコットランド独立戦争は終結しました。
またエドワード3世の6歳の妹ジョーンは、ロバート1世の息子で4歳のデイビッド2世と結婚しました。
信じられない世界観ですね(苦笑)
百年戦争*イングランドVSフランス
ジョン・バリオールの息子エドワードは、1329年にロバート1世が亡くなり当時まだ5歳だったデイヴィッド2世が王位を継ぐと、バリオール派の貴族たちに担ぎ出され、1332年にスコットランドに進攻しました。
イングランド王エドワード3世の支援により、1333年にバリオール軍が勝利し、ディビット2世(まだ10歳)はフランスに亡命しました。
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フランス王フィリップ6世(在位1328年 - 1350年)は、エドワード3世にノルマンディーのガイヤール城(Château-Gaillard)を住居に提供しました。
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ガイヤール城は、イングランド王とノルマンディー公爵を兼ねたプランタジネット朝リチャード獅子心王によって1196年に建設されたそうです。
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エドワード・バリオールもエドワード3世の傀儡だったため、スコットランドの民からは支持されず、エドワード・バリオールの実効支配はスコットランド南部に限られていました。
フランスは、1334年にディビット2世の従兄弟であるマリ伯ジョン・ランドルフをスコットランドに帰国させ、ジョン・ランドルフはのちのスコットランド王になるロバート2世(ウォルター・スチュワートとマージョリー王女の子)をとともに共同摂政となり、ブルース派支持基盤を固めました。
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こうして、デイヴィッド2世支持のブルース派の貴族達が勢力を挽回したところに、イングランドとフランスの間に百年戦争(1337年‐1453年)が始まったのです。
百年戦争は、フランス王国を治めるヴァロワ朝と、イングランド王国を治めるプランタジネット朝およびランカスター朝というフランス人王朝同士の争いに、フランスの領主たちが2派に分かれて戦った内戦である。
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フィリップ6世(ヴァロワ朝)は、父がフィリップ4世の弟のシャルル (ヴァロワ伯)、母マルグリット・ダンジューはナポリ王国の王女で、イングランド王室とは血縁ではありませんでした。
百年戦争の実態は、 1312年に生まれたエドワード3世(フランス王フィリップ4世の外孫)が、フィリップ6世よりは自分のほうにフランス王位継承権があると主張したことから始まったのです。
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エドワード3世と言えば、ガーター勲章の創設(1348年)。
ガーター勲章は日本では陰謀論の的ですが、そもそもは「アーサー王と円卓の騎士」の故事に基づいて、フランスとの百年戦争への貴族の団結を強めるために始まったものでした。
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囚われの王ディビット2世
1341年にフィリップ6世は、イングランドを牽制する目的で、デイヴィッド2世(当時17歳)をブルース派貴族たちの結束が高まっていたスコットランドに帰国させました。
デイヴィッド2世は、スコットランドとフランス間の「古い同盟 (Auld Alliance)」 に従って1346年にイングランドに侵攻。
しかし、ディビット2世はイングランド軍に敗れ、11年間イングランドに人質として囚われることになりました。
と言っても、デイヴィッド2世は(4歳の時に)エドワード3世の妹ジョーンと結婚していただけでなく、自身もイングランド王家の血を引いていたので厚遇され、比較的自由な生活を送れていたそうです。
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当然、スコットランド議会は、王を人質に取ったイングランドに反発しました。
この頃、フランスはどうしていたか調べてみると、フィリップ6世は1346年8月のクレシーの戦いでイングランドに大敗北を喫し、港町カレーを占領されて経済が混乱していました。
やはり港町を押さえることは、はずせない重要戦略ですね。
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余談ですが、日本も平安時代から石川や福井に宋船が現れていました。
2024年に石川県で大地震が起きたのも、ある意味・・・下の図を見るとわかりますが日本海側は・・・能登半島は内陸からの交通路は不便だと言われていますが、空軍基地することは可能かもしれません。
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話をフランスに戻して・・・
1350年にフィリップ6世は崩御し、長子のジャン2世(在位1350年 - 1364年)が跡を継いでいました。
ジャン2世は、1356年にポワティエの戦い(現在のフランス・ヌアイエ=モーペルテュイ付近)でイングランド軍に大敗し、捕虜のままロンドンで死去し、フランス王位はシャルル5世(在位1364年 - 1380年)が継承しました。
フランスの混乱ぶりを見ると、スコットランドに味方する余裕がなかったのがわかります。
イングランドもまたフランスとの交戦に忙しく、スコットランドに進攻する余裕がなかったため、デイヴィッド2世の釈放と引き換えにスコットランドに王の身代金を10年の分割払いで支払わせることでで合意し、1357年にデイヴィッド2世は釈放されました。
ところが、身代金の支払いは国家財政を逼迫させ、更なる重税負担が国民に重くのしかかり、内乱で国政が不安定になりました。
加えて1349年からペストが蔓延し、スコットランドは荒廃しました。
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ディビット2世は、イングランドに身代金の取り消しを求める代わりに、スコットランド王位をエドワード3世またはその嗣子に継承させるという密約を交わし、自身も1367年にロンドンへ戻ってしまいました。
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1371年に嗣子がないままデイヴィッド2世は突然死去(46歳)し、甥のロバート2世・ステュワートがスコットランド王に即位し、ステュワート朝が始まりました。
スコットランド・スチュワート朝
イングランド王エドワード3世が1377年に死去したため、前王ディビット2世の身代金の残金は実質上チャラになり、ロバート2世の治世ではスコットランドの財政は安定しました。
即位時すでに54歳になっていたロバート2世は、実権は息子たちに移行し、長男のジョン・ステュアート(のちのロバート3世)は1384年に議会の承認により国王の副官に任命されました。
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この頃のイングランド王は、10歳で即位したリチャード2世(在位 1377年 - 1399年)でした。
リチャード2世は、百年戦争の戦費調達のため人頭税(イングランドに居住している全ての人にかけられた住民税)を導入したため、国内の農民らが反乱を起こしました。ワットタイラーの乱(1381年)
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1384年にリチャード2世は、フランスと休戦協定を結び、その後も休戦を延長し、1396年にパリでフランス王シャルル6世と「1398年から1426年までの休戦協定」を結びました。
またシャルル6世の娘イザベラ・オブ・ヴァロワ(6歳)を2番目の王妃にしました。年齢差22歳。
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スコットランドでは、ジョンが実権を握るようになるとイングランド国境での紛争が再燃。
オッターバーンの戦い(1388年8月)はスコットランドが勝利したものの、軍の指揮官サー・ジェームズ・ダグラス(第2代ダグラス伯爵)が戦死したため、スコットランド貴族の士気は低下しました。
ジョンは1387年頃に馬に蹴られて重傷を負って障がいが残っており、貴族たちの支持は弟のロバート・ステュアート (オールバニ公)に移り、評議会は弟ロバートを副官に任命しました。
ジョンは1390年に即位しましたが、息子のデイヴィッド・スチュワート(ロスシー公爵)は、1402年に不可解な罪状で捕らえられ、幽閉された先で23歳で亡くなりました。
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父王ロバート3世は、長男デイヴィッドの死が自分のオールバニ公ロバートによる暗殺ではないかと疑い、1406年に当時まだ11歳だったジェームズを同盟国フランスへ逃れさせようとしましたが、イングランド軍に捕らえられ、王ヘンリー4世の人質になりました。
父王ロバート3世は、その失意がもとで死期が早まったと言われています。
ヘンリー4世はスコットランドに対してジェームズの身代金を要求しましたが、ロバート3世亡き後摂政となっていた叔父オールバニ公ロバートは身代金を払おうとしなかったため、結局ジェームズは18年間イングランドで過ごしました。
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しかし、これはジェームズ少年にとってはそう悪くはなかったかもしれません。
ヘンリー4世は、この若いスコットランド王を安全にウィンザー城に留め、最高の教育も与えました。
フランスに圧勝したヘンリー5世もジェームズを厚遇し、ヘンリー5世が34歳で急死(病死)すると、ランカスター朝最後の王となった生後9か月のヘンリー6世(在位1422年 - 1453年)が即位しました。
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ヘンリー6世の母方の祖父、フランス王シャルル6世(在位1380年 - 1422年)の死に伴い、1420年のトロワ条約に従ってヘンリー6世はフランス王位も継ぎました。
それによりイングランドはフランスの同盟国であるスコットランドに一定の配慮を行う必要が生じ、ジェームズはさらに厚遇されるようになりました。
ジェームズはイングランド貴族の娘たちとの交際も認められ、ヘンリー5世の従妹でジョン・オブ・ゴーントの孫娘であるジョウン・ボーフォートと恋に落ち、1424年に結婚しました。
二人の間には8人の子どもが生まれ、長女マーガレット(1424年 - 1445年)とフランス王太子ルイ(後のルイ11世)と結婚しました。
1420年に叔父ロバートが亡くなると、スコットランドはジェームズの身代金として4万ポンドを支払い、ジェームズは1424年5月にようやくスコットランドへの帰国がかない、正式にスコットランド国王として即位しました。
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1437年2月21日夜、スコットランド人集団によってジェームズ1世は暗殺され、首謀者としてジェームズ1世の叔父アサル伯ウォルターやその孫ロバート・ステュアート卿(2人ともロバート2世の子孫)らが処刑されました。
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こんなふうに、ステュワート朝のスコットランド王はここに書いた100年の間に乗馬中の事故や突然死、暗殺など不穏な運命をたどっていますが、これで終わったわけでもないんです。
最後のスコットランド・ステュワート家の女王メアリー(治世1542年 – 1567年)は、フランスのアンリ2世の王太子フランソワ(母はカトリーヌ・ド・メディシス)と結婚し、子どもが出来る前にフランソワが亡くなってしまったのでスコットランドに帰国しました。
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今度はヨーロッパ大陸で始まった宗教革命に、カトリックの女王としてメアリー・ステュワートは巻き込まれ、悲しい運命をたどることになるのです。
ヘンリー8世の処刑された妃たちもそうです。
そしてどちらにも、代々カトリックのボルチモア男爵カルバート家の先祖たちも関わっていました。
長くなりましたので、続きはまた。
リンリスゴー宮殿の話ももう少し続けたいです(^^)
最後までお読みくださりありがとうございました。