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火薬陰謀事件(1605年11月5日ジェームズ1世の暗殺未遂)とアランデル家
17世紀のイングランド王ジェームズ1世は、欽定訳聖書を作ったことでよく知られています。
また、1605年11月5日、ガイ・フォークスらによる火薬陰謀事件で暗殺対象になったことでも知られていますね。
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火薬陰謀事件は簡単に言うと、カトリック教徒の集団がヘンリー8世以降の宗教改革によるカトリック迫害を終わらせるため、国王を殺害して政権交代を狙ったものでした。
ガイ・フォークスら陰謀事件の主要メンバーは処刑されていますが、関与を疑われたカトリック貴族の中には、ボルチモア男爵カルバート家とも縁が深いトマス・アランデル男爵がいました。
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現在までUPしているボルチモア男爵シリーズは以下になります。
よかったらご覧ください。
Part1:メリーランドと第2代ボルチモア男爵について
Part1.5:第3代ボルチモア男爵について
Part2:初代ボルチモア男爵ジョージカルバートの先祖について
厳格なカトリック教徒のアランデル家
第2代ボルティモア男爵セシル・カルバート(1605年 - 1675年)は、1627年または1628年にアン・アランデル(1615 /1616ー1649年)と結婚しました。
メリーランド州のアンアランデル郡は、彼女の名前にちなんでいます。
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アンの父は上述のトマス・アランデル男爵です。
アンは、1615 年にウェストサセックス州アランデルにあるアランデル城で生まれたそうです。
アランデル城は、建造された11世紀からアランデル伯爵の居城ですが、アンの父トマス・アランデル(1560年頃 - 1639年)は伯爵ではなく、1605年にトマス・アランデルのために創設された初代ウォードアのアランデル男爵でした。
イギリスの爵位は以下の5種。公爵が最上位、男爵は最下位です。
公爵(Duke)
侯爵(Marquess)
伯爵(Earl)
子爵(Viscount)
男爵(Baron)
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初代ウォードールのアランデル男爵*トマス・アランデル
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火薬陰謀事件(1605年11月5日)の後、拷問を受けたガイ・フォークスが名前を明かした共謀者のひとりにトマス・アランデルがいたそうです。
しかし、トマス・アランデルは処罰を受けませんでした。
ジェームズ1世は(母であるスコットランドの女王メアリーはカトリック教徒)カトリックに対して寛容策を取っていたので、ジェームズ1世の治世では、国王に忠実なカトリック貴族は政府高官として働くことができていました。
初代ボルチモア男爵のジョージ・カルバート (1580年 - 1632年4月15日)もカトリック教徒でしたが、国王に対して忠実であったため国務長官(在任期間1618年–1625年)を務めるほどジェームズ1世から信頼されていました。
火薬陰謀事件の半年前、1605年5月4日にジェームズ 1 世は、トマス・アランデルを「初代ウォードールのアランデル男爵」に任命しました。
どういった理由で爵位が与えられたのか、AIに訊いてもトンチンカンだったので想像するしかありませんが。
初代の爵位が与えられるのは戦勝の褒美や、あるいは先祖が国王に反逆した罪で取り上げられた土地財産の返還とともに与えられます。
思い当たるのは、トマス・アランデルの祖父で、同名のトーマス・アランデルが反逆罪で処刑されています。
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戦争と言えば当時は八十年戦争(1566年/1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)のさなか、イングランドはスペインのハプスブルク家と断続的な英西戦争(1604年8月に終結)を繰り広げていました。
アランデル家の祖先と祈祷書の乱
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アランデルという姓は、1066年のノルマンコンクスト以降に新しく創設された家名で、アランデル城がある現在のウエスト・サセックス州アランにあるアランデルという町の名にちなんでいます。
ドゥームズデイ・ブックによると、ロジャー・デ・アランデル(1050年生まれ)という人物が、サセックス州サマセットに28の領主権を持っていたそうです。
ロジャー・デ・アンデル以前の家系が繋がっておらず、ノルマンディーでは別の姓を名乗っていたかもしれません。(※ウィリアム征服王の親族の可能性があります)
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ノルマンディーから来た初期のアランデル家は、コーンウォールのセントマイケル島(St. Michael's Mount)に邸宅を持っていたそうです。
St. Michael's Mountは、フランス語ではモン・サン=ミシェル(Mont Saint-Michel)。
セントマイケル島もフランスのモン・サン=ミシェルのように干潮時には地続きになるので、英国版モン・サン=ミシェルとも呼ばれています。
モン・サン=ミシェルはノルマンディーにあるので、アランデル家の初期メンバーがよく似た島を見つけて懐かしんでいたのかもしれません。
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セントマイケル島は、現在はナショナル・トラスト管理で、1650年以来、城と礼拝堂はセント・レヴァン男爵セントオービン家の所有になっています。
セントモーガンのアランデル家
トマス・アランデルの父マシュー・アランデル(1598年没)は、コーンウォールのランハーン(セントモーガン)のアランデル家の出身でした。
アランデル家の主要な一族は、コーンウォールのランハーン(セント・モーガン)、トレリス、トルバーン、メナダルヴァの荘園に居を構えていました。また、ウィルトシャーにいくつかの地所を所有していました。
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マシューの父であるサー・トーマス・アランデル(1502年頃 - 1552年)は、 1549年の祈祷書の反乱に共謀したとして処刑されています。
反乱のリーダーは、トーマスの叔父ハンフリー・アランデル(1513年頃 - 1550年、処刑)でした。
その際に、アランデル家の所有だったセント・マイケルズ・マウントは没収されました。
祈祷書の反乱または西部蜂起(1549年6月6日~8月17日)は、1549年にコーンウォールとデヴォンで起きた民衆の反乱である。
この年、イングランド宗教改革の神学を示す最初の祈祷書が導入された。
この変更は広く不評で、特にランカシャーなどカトリックの宗教的忠誠心が
まだ存在していた地域ではそうであった。
コンウォールでは、民族的アイデンティティの表現としてコーンウォール語が中心的な役割を果たしていました。
そのため英語の使用を強調した祈祷書は、コーンウォール人のアイデンティティに対する脅威とみなされて反対活動が起きたのでした。
調べてみたら、ちょっとした一揆ではなくかなり本格的な戦争でした。
双方合わせて約5500人が死亡したそうです。
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1549年の騒乱
同じく祈祷書に対する不満からバッキンガムシャーとオックスフォードシャーでも同じ年の7月に反乱が起きています。
また、ノーフォーク州では囲い込みに反発した農民の反乱(ケットの反乱:1549年7月8日 – 1549年8月27日)が起き、後にイングランドでは1549年を「騒乱の時代」と呼んでいたそうです。
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ちょうどこれらの騒乱が起きていた頃に生まれたイタリア・メディチ家のフェルディナンド1世 (1549年7月30日生まれ) の出生図を参照してみると、土星が山羊座にあり、天王星が乙女座、海王星は牡牛座にあって地星座強く、冥王星は水瓶座にあり、天王星とは150度でした。
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***余談****
余談ですが、ケットの反乱で反乱軍に敗れたノーサンプトン侯爵ウィリアム・パー( 1513年 - 1571年)は、ヘンリー8世の6番目で最後の妻だったキャサリン・パーの兄弟でした。
そしてケットの反乱を鎮めたのは、初代ノーサンバランド公爵ジョン・ダドリーで、のちの「9日間女王」ジェーン・グレイを擁立したため、1553年に大逆罪で処刑されています。
ジョン・ダドリーの母エリザベス・グレイは、ジェーン・グレイの高祖父ジョン・グレイの姪でした。
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アランデル家の没落
ところで、叔父のハンフリー・アランデルは、大逆罪で1550年1月27日に処刑されました。
トーマス・アランデルと弟のジョン(1550年頃-1557年)も嫌疑をかけられ、ふたりは2年間投獄されたのち釈放されました。
トーマス・アランデルの妻マーガレット(ハワード家)は、ヘンリー8世の5番目の妻であったキャサリン・ハワード女王(1542年に姦通罪で処刑)の妹であり、ヘンリー8世の2番目の妻であったアン・ブーリン女王(1536年に姦通罪で処刑、エリザベス1世の母)の従妹でした。
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また母のエレノア・グレイは、エドワード4世王妃だったエリザベス・ウッドウィルと最初の結婚相手ジョン・グレイの孫にあたります。
つまりジョン・ダドリーとも親戚です。
それゆえ、母エレノアは、エドワード4世とエリザベス・ウッドウィルとの間に生まれた王子王女とは従兄妹の関係でした。
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トーマスはヘンリー8世統治では重要な政府役人の一人でしたが、権力者たちはアランデル家がカトリック教徒であることを懸念していました。
この2年間の投獄はトーマスのキャリアを終わらせることになったのです。
トーマスは再び投獄されますが、上述のジョン・ダドリーと権力争いをしていた初代サマセット公爵エドワード・シーモア(ヘンリー8世の3番目の妃ジェーン・シーモアの兄)に味方していたため、ジョン・ダドリーの陰謀にはめられたようです。
トーマスは一貫して無実を主張しましたが、1552年2月に斬首されました。
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トーマス・アランデルが埋葬された聖ペテロ・アド・ヴィンクラ教会は、ロンドン塔で処刑された最も有名な囚人の埋葬地として知られています。
その中には、アン・ブーリン王妃、キャサリン・ハワード王妃、ジェーン・グレイ女王(夫のギルフォード・ダドリー卿とともに)、大法官サー・トーマス・モアなどが含まれます。
トーマス・アランデルの財産は没収され、妻マーガレット・ハワードと子どもたちは神聖ローマ帝国(ドイツあるいはオーストリア)に移住しました。
どういう所以で神聖ローマ帝国に移住したのかはわかりませんでしたが、そこで彼らはハワードの姓を名乗っていたようです。
そういえばハワード姓は、もともとドイツ由来です。
没収された財産がトーマスの妻子に返還されたのは、ジョン・ダドリーが失脚(1553年に処刑)し、カトリックのメアリー1世女王(在位:1553年 - 1558年)の統治が始まった1554年。長男マシューが21歳の時でした。
カトリック亡命者チャールズ・アランデル
マシューは、1559年にマーガレット・ウィロビーと結婚しました。
マーガレットの父サー・ヘンリー・ウィロビーは、1549年のケットの乱で殺害されていました。母のアン・グレイは、マシューの祖母エレノアの姪でした。
父の死後、伯父のヘンリー・グレイ(ジェーン・グレイの父)に引きとられたマーガレットは、ジェーン・グレイと姉妹のように育てられました。
彼女は、エリザベス1世が若い頃に住んでいたハットフィールド・ハウスで仕えていたそうです。
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マシューはカトリックを封印し、英国国教会に従順であったため順調に昇進していきましたが、弟のチャールズ・アランデルはカトリックを貫いたため投獄されています。
1580年、チャールズは、遠縁のエドワード・ド・ヴィアー (第17代オックスフォード伯)の告発により、スペインのフェリペ2世(在位:1556年 - 1598年)のスパイとして従兄弟のヘンリー・ハワード (初代ノーサンプトン伯)と共にロンドン塔に投獄されました。
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ヘンリー・ハワードの父で同名のヘンリー・ハワードは、1547年に上述の初代サマセット公爵エドワード・シーモア(王妃ジェーン・シーモアの兄)の策略により捕らえられ処刑されています。
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カトリックの陰謀事件
チャールズは1583年まで投獄されたままだったようで、釈放後も数か月間自宅軟禁されたそうです。
1583年にスロックモートン陰謀事件に失敗し、チャールズは共謀者トーマス・パジェット(第3代パジェット男爵)とともにパリに逃亡しました。
1583年のスロックモートン陰謀事件は、イングランドのローマカトリック教徒がエリザベス1世を廃位し、自宅軟禁されていたスコットランド女王メアリーを女王に置き換えようとした一連の試みのうちの1つである。
その目的は、スペインのイングランド侵攻を容易にし、エリザベスを暗殺し、メアリーをイングランド王位に就かせることだったとされている。
その後、1586年に再びエリザベス女王を廃位し、スコットランド女王メアリーをイングランド王位に就けようとするバビントンの陰謀が起き、1587年2月8日に首謀者としてメアリー女王(44歳)は処刑されました。
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スコットランド女王のメアリーとカトリックの陰謀については、別のシリーズ記事に詳しく綴りますね。
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1585年に始まった英西戦争も、スペインのフェリペ2世とカトリック教会が、テューダー家の血を引くカトリックのスコットランド女王メアリーこそが正統なイングランド君主であると考えていたことに端を発します。
1567年にスコットランドで反乱が起き、メアリー女王は幼い息子のジェームズ1世への譲位を強いられた。
その後メアリー女王はエリザベス1世によって幽閉され、続く約20年間、メアリー女王の支持者はいずれかの国もしくは両国の王位にメアリー女王を就けようと陰謀を続けた。
フェリペ2世は、ヘンリー8世と最初の妃キャサリン・オブ・アラゴンの長女メアリー1世女王と結婚していましたが、メアリー1世女王は1558年に亡くなっていました。
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イングランドのカトリック亡命者のリーダーとみなされていたチャールズ・アランデルは、1587年にパリで毒殺されたと言われています。
しかし、イングランドにおけるカトリックの陰謀は潰えず、1605年の火薬陰謀事件へと繋がっていくのです。
外国の爵位を持ったトマス・アランデル
マシューの長男で、本記事の主人公トマス・アランデルは、ハプスブルク君主国とオスマン帝国が戦ったトルコ長期戦争Long Turkish war(1593年7月29日 – 1606年11月11日)に加わって、その功績により1595年12月14日に神聖ローマ帝国の伯爵に叙せられています。
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トマスの武勲は敵の大将の首を取ったというものではなく、トルコ軍の旗を神聖ローマ帝国の紋章の鷲の旗に置き替えたことでしたが、帝国の象徴でもある旗がいかに重要だったか・・・ローマ帝国も同じようなことがあったように覚えています。
1595年9月7日、トマス・アランデルはグランの突破口を襲撃し、トルコ軍の旗を帝国の鷲に取り替えた。その功績が認められ、トマスは1595年12月14日に神聖ローマ帝国の伯爵に叙せられた。
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作られた皇帝用カズラ。
皇帝または帝国代理から特許状によって爵位を受け取った伯爵は、たとえその家族が帝国内で皇帝の直接権を持っていなかったとしても、その爵位を保持し、下位の君主によって昇格した伯爵以上の地位を保持していると認められた。
ドイツの主権者によって授与される公爵またはその他の称号は、原則としてその主権者の領土内でのみランクされますが 、他の地域では通常は儀礼的な称号として認識されます。
その時の神聖ローマ皇帝が、ルドルフ2世(在位:1576年 - 1612年)です。
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エリザベス1世の怒り&スパイ容疑
でも、この戦争にイギリスは参加していないんです。
エリザベス1世が、ルドルフ2世にトマス・アランデルを推薦したとか。
プロテスタントのエリザベス1世が、カトリックのハプスブルク家に自分の臣下を推薦したのはなぜか?
しかも八十年戦争が継続中で、英西戦争でスペインのハプスブルク家のフェリペ2世と戦っている時に?
エリザベス1世は、フランス宗教戦争(ユグノー戦争)やスペインに敵対するオランダ人の反乱(八十年戦争)のプロテスタント軍に援助を与えた。
一方、フェリペ2世はプロテスタントの拡大に激しく反対しており、フランスのカトリック同盟やアイルランドの第二次デズモンドの乱 (1579年から1583年まで続いたアイルランド・カトリックの反乱)を支援していた。
夜も眠れず半年ほど考えた結果(笑)見えてきたのは、戦う相手がオスマン帝国だったのでキリスト教国が終結した十字軍的な意味合いを持っていたことでした。
1594年、ローマ教皇クレメンス8世は、神聖同盟を設立しました。この同盟の目的は、オスマン帝国をヨーロッパから追い出すことでした。
連合軍を率いていたのがルドルフ2世でした。
教皇はラテン教会だけでなく東方教会(ロシアやルーマニア、セルビア)にも参加を説得していたので、もしかするとイングランドにも打診があったのかもしれません。
※ロシアはポーランドとの関係が悪かったため参加しませんでした。
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歴史家によるとアランデルは「才能があり学識も高かった」が、30代になるまで自分の才能を発揮する場を見つけられず、「勉強一筋の孤独な生活」を送っていたそうです。
父マシューは、トマスがトルコと戦う帝国軍に従軍できるよう、馬と1100ポンドを提供しました。
ところが、臣下が外国の爵位を受けたことにエリザベス1世は激怒し、帰国したトマス・アンデルはスパイ容疑をかけられて約1年ほど投獄されたそうです。
まあそりゃ、プロテスタントを進めている王の家臣が、カトリックの国の伯爵になるなんて。カトリックのあてつけと怒るのも当然でしょうし、スパイ疑惑を持たれるのも仕方ない。
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トマス・アランデルは、1580年に叔父のチャールズ・アランデルがスパイ容疑で投獄されたときにも一緒に投獄されたことがあったようです。
1601年、トマスの最初の妻の兄であるヘンリー・リズリー(第3代サウサンプトン伯爵)がエセックス伯の乱で投獄される事件がありました。
ヘンリー・リズリーは、1598年にも女王の許可なく結婚した罪で、妻ともどもフリート刑務所に投獄されています。
エセックス伯の乱は、ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)が対立していたロバート・セシルを排除しようとしたクーデターでした。
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ヘンリー・リズリーは死刑を免れ終身刑とされましたが、エリザベス1世が死去し、ジェームズ1世が即位するとただちに釈放となり、剥奪されていた爵位も回復しました。
火薬陰謀事件とカトリックの聖地
1605年3月、トマスとヘンリー・リズリーはバージニアに植民地を建設する計画で探検隊を派遣しています。
しかし、先住民とのトラブルにより入植者は全員帰国し、トマスたちの計画は頓挫したようです。
イングランドによる北アメリカの植民地計画は、エリザベス1世のお気に入りだったウォルター・ローリーによって1585年と1587年にロアノーク島への植民の試みがなされましたが、ロアノーク島が痩せた土地であったことや入植隊が全員行方不明になったり(飢餓や先住民との戦闘により)で大失敗していました。
結局、ジェームズ1世の時代になってバージニアカンパニーが設立され、1607年にジェームズタウンが建設されることになります。
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しかしトマスらが考えていた植民地は、初代ボルチモア男爵ジョージ・カルバートが実行した「カトリックの聖地」作りだったのではないかと思います。
1604年にジェームズ1世は、エリザベス1世の反カトリック政策を再開しました。1605年には、5,560人が国教忌避で有罪判決を受けています。
穏健派と思われていた国王の方向転換は、カトリック信者に大きな失望を与えました。
火薬陰謀事件の首謀者ロバート・ケイツビー(1605年11月8日射殺)は、1601年のエセックス伯の乱にも参加していました。
エセックス伯ロバート・デヴァルーの目的はカトリックの利益ではなく、宿敵ロバート・セシルを失脚させるためでしたが、ケイツビーは反乱が成功すればカトリックの君主に戻るかもしれないと期待していたそうです。
ロバート・ケイツビーの父は、カトリックだったため何年も投獄されていました。
また母の実家スロックモートン家のフランシス・スロックモートンは、トーマス・アランデルの叔父チャールズ・アランデルが関与した疑いのあるスロックモートン陰謀事件で1584年に処刑されています。
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始めに書いたように、ガイ・フォークスが火薬陰謀事件のメンバーにアランデルの名前を出しても、誰でも「ああ、なるほどね」と言って疑わないほどアランデル家は(父マシューを除いて)強固なカトリックの家系です。
とくにトマスは、儀礼的な称号とはいえ「神聖ローマ帝国の伯爵」だったので、ハプスブルク家のスパイの疑義をかけられてもいたでしょうし(国王の許しも得ず、勝手に大陸に渡ったこともあった)、貴族たちは自分より高い称号を持った彼をやっかんでいたとも言われています。
イングランドにおいても「神聖ローマ帝国伯爵」は、水戸黄門の印籠のような力があったのかも。
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1605年5月4日、ジェームズ1世はトマス・アランデルをウォードールのアランデル男爵に叙しました。
ウォードールというのは、アランデル家が所有するウィルトシャーのウォーダー城から得ています。
ウォーダー城はイングランド内戦では、1643年に2度も包囲されました。
もちろん、アランデル家はずっと王党派(騎士党)です。
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トマス・アランデルの最初の妻メアリーは1607年に亡くなり、1608年にトマスは再婚するのですが、新しい妻との間に生まれた子どものうちのひとり、アン・アランデルがボルチモア男爵カルバート家に嫁ぎました。
おそらくトマスが夢見ていたであろうカトリックの聖地建設は、カルバート家によって叶えられたのでした。(結局プロテスタントに追いやられたが)
長くなりましたので、今日はこのへんで。
最後までお読みくださりありがとうございました。
ボルチモア男爵シリーズはまだ続きます(笑)
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