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備忘録*16世紀イギリスの宗教改革と禁じられた聖書

リンカーン大統領の暗殺に関係している事柄について掘っているところですが、今回の記事はまったく関係なさそうで、広い意味では関係しているかも知れません。よかったらお付き合いください。

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第231代ローマ教皇クレメンス8世(在位:1592年 - 1605年)は、聖職者としても政治家としても優れた人物として評価されています。
それゆえに大きな問題をいくつも抱えていました。

クレメンス8世


クレメンス8世は、イエズス会のロベルト・ベラルミーノらによって進められていたウルガタ訳聖書の改訂版を発行させています。
「祈祷書」と同じように、中世のキリスト教では「聖書」のために血が流されたことも多かったと聞いています。

私がキリスト教徒でないので(遠い親戚がコテコテのプロテスタントらしいですが)、ウルガタ聖書の内容については知らないので触れませんが、聖書の違いで暗殺や虐殺も起きたことを覚えておいてくださいね。



イエズス会と異端審問所

さて、そのクレメンス8世は、ロベルト・ベラルミーノ異端審問担当枢機卿に任じました。

ロベルト・ベラルミーノ

ロベルト・フランチェスコ・ロモロ・ベラルミーノ(Roberto Francesco Romolo Bellarmino)は、イタリア出身のイエズス会司祭で、ローマ・カトリック教会の枢機卿。カトリック改革(反宗教改革)に最も功労のあった枢機卿の一人。
1930年、聖人および教会博士に列せられた。

異端審問は、10世紀ごろ、十字軍が開始された頃から始まりました。
キリスト教の正統信仰に反する教えを持つ「異端者」を取り締まり、裁判にかけるために設けられたシステムですが、中世のキリスト教の「異端者」とはローマ・カトリックの教義に従わない者すべてを指します。

この権限によってベラルミーノは、哲学者ジョルダーノ・ブルーノを異端者として焚刑に処することに同意しています。
ジョルダーノ・ブルーノの処刑は、クレメンス8世の後世の評価に汚点を残すことになりました。


ローマの異端審問所

ローマの異端審問所は、1542年に教皇パウルス3世(本名はアレッサンドロ・ファルネーゼ(Alessandro Farnese)、ファルネーゼ家の出身です)によって設けられました。

パウルス3世


パウルス3世と言えば、イエスズ会を承認(1540年)したことで知られていますね。

この時代は、ドイツから始まった宗教改革の勢いに、神聖ローマ皇帝カール5世もフランス王フランソワ1世も手を焼き、高みの見物だった教皇庁もお手上げ状態になっていました。

当初は対話で解決しようとしていたらしいパウルス3世が異端審問所を設置したのは、実力行使によってしかプロテスタントを倒せなくなったからだと見られています。

そこからローマ・カトリックの警察として、イエズス会が暗躍することになっていきました。

イエズス会は1773年に教皇クレメンス14世によって禁止されましたが(ただしロシアとプロイセンはイエズス会の存続を許可した)、ウィーン体制後の1822年にジュネーヴ密約があり、ピウス7世によって復活させられました。

この空白の50年あいだに、秘密結社がヨーロッパ中で勢力を増したことは、頭の隅に入れておきたいところです。

ローマの異端審問官の活動は、ほぼイタリアのみに限定されていたそうですが、少数の例外がありました。


イングランドの異端審問

ヘンリー8世の長女メアリー1世の治世にカンタベリー大司教だったレジナルド・ポールReginald Poleは、プロテスタントを徹底的に弾圧したことで知られています。

レジナルド・ポール

レジナルド・ポールは、ヨーク朝のエドワード4世の孫甥で、ヘンリー8世とは従兄弟同士でした。
彼の母マーガレット・ポール(第8代ソールズベリー伯爵夫人)は、ヨーク家の血筋を引くためテューダー朝にとっても重要な人物でしたが、1541年に息子たちが起こした反逆罪の共謀者として処刑されてしまいました。


ヨーク家のシンボル

ヘンリー8世の離婚問題に反対の立場を取ったレジナルドは、1532年にフランスとイタリアに亡命しました。
当時、神聖ローマ帝国の駐英大使だったユースタス・シャピュイは、メアリー1世とレジナルドの結婚をカール5世(メアリー1世と従兄弟)に提案していました。シャピュイはレジナルドの弟ジェフリーを通じて連絡を取っていたそうです。
結局、メアリー1世はスペイン・ハプスブルク家のフィリップと結婚しました。(1554年)

メアリー1世の結婚は、イングランドでは不評でした。
プロテスタントは、カトリックの復活とスペイン国王の到来により異端審問が行われることを恐れました。
多くのイングランド人は、異端審問の囚人が受けた拷問と残酷な仕打ちの話を知っていたそうです。

1536年12月にレジナルドは、パウルス3世より枢機卿に任ぜられました。
教皇はレジナルドに、グレースの巡礼(1536年10月 – 1537年2月)というカトリック教徒の反乱を組織させたと伝わっています。
レジナルドはイエズス会士とは書かれていませんが、可能性は高いと思います。


カトリック陰謀(エクセター陰謀)

イエス・キリストの聖なる傷を描いた旗。
グレースの巡礼の際に掲げられた。


ヘンリー8世に対する1538年のエクセター陰謀は、レジナルドとヘンリー8世の共通の従兄弟である初代エクセター侯爵ヘンリー・コートニーを王位に就けようとするものでした。

ヘンリー・コートニーは、ヘンリー8世の重臣トマス・クロムウェルの政敵でした。修道院解散政策によって、多くの信徒と聖職者が土地と家から追い出されたため、コートニーはクロムウェルとプロテスタントを憎むようになっていたそうです。

クロムウェルは、コートニー侯爵が陰謀に加担していると言って国王を説得し、1538年12月にコートニーとレジナルドの兄で初代モンタギュー男爵のヘンリー・ポール、(レジナルドと弟ジェフリーを除く)関係者全員が斬首されました。
しかし、コートニーが陰謀に関与した証拠は見つからなかったそうです。


トマス・クロムウェル

母のマーガレット・ポールまでも処刑され、財産を没収されたポール家は崩壊しました。王の離婚再婚に反対したレジナルドへのヘンリー8世の復讐だったと言われています。

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マリアン迫害(プロテスタント弾圧)

1555年メアリー1世が即位すると、レジナルドは教皇により母国に派遣されました。
カトリック信徒であるメアリー1世は、父ヘンリー8世以来の宗教改革を覆し、イングランドはローマ教皇を中心とするカトリック世界に復帰しました。

メアリー1世


それだけでなくメアリーはプロテスタントを迫害し、女性や子供を含む約300人を処刑したため、「ブラッディ・メアリー」 (Bloody Mary) と呼ばれました。

1553年から1558年の間に、800人以上のプロテスタントがヨーロッパ大陸に亡命したと言われています。(マリアン亡命者
迫害が酷かったのは、イエズス会の関与があったからと思われます。

最も有名な亡命者の一人ジョン・フォックスの『殉教者の書』には、想像をはるかに超えた処刑の記録が記されているそうです。

『殉教者の書』


ウィリアム・ティンダルの処刑

メアリー1世の治世でプロテスタントの最初の殉教者になった、ルター派のジョン・ロジャース(1505年頃 - 1555年)は、ウィリアム・ティンダルに出会い、カトリック教会から離れました。

ジョン・ロジャース

ウィリアム・ティンダル(1494年頃- 1536年10月)はイギリスの宗教改革家で、聖書をギリシャ語・ヘブライ語原典から初めて英語に翻訳した人物でした。
ティンダルは、はじめはヘンリー8世の好意を得ていましたが、王の離婚に反対して信任を失いました。宗教改革への弾圧により、ヨーロッパを逃亡しながら聖書翻訳を続けていましたが、1536年に逮捕されベルギーで焚刑に処されました。

ウィリアム・ティンダル
ティンダルの焚刑
処刑の際に「主よ、イギリス国王の目を開きたまえ」と叫んだと伝えられる


ティンダルは、聖書の原典の多くを英語に翻訳しました。ティンダル訳は、英語聖書の最初のものであり、エホバを神の名前として使用した最初の英語翻訳でした。
ティンダルの聖書は、カトリック教会の権威と教会の立場を維持するイングランドの法律に対する直接的な挑戦とみなされたので、彼は処刑されたのです。

最初のほうで書いたように、教皇庁が作成した聖書とは別の新しい聖書を作ったり、読んだりする者へ暗殺や虐殺が行われました。


聖書は「紙の教皇」

以前の記事で、ヴィクトル・ユーゴーの『ノートル・ダム・ド・パリ』から「これがあれを滅ぼすだろう」というせりふを引用しましたが、活版印刷が普及して聖書が以前より安価で手に入るようになったため、人々が聖書を読むようになりました。

まだ多くの人が自分用の聖書を持っていなかった時代には(文盲の人も多かった)、教会で聖書のストーリーにちなんだ絵画や彫刻を見たり、司祭による聖書を引用した説教を聞くことは神と自分を繋ぐ、とても大切な機会だったと思います。

個人が聖書を持てるようになったことは、キリスト教徒にとっては喜ばしくも、教会にとっては不都合でした。
信徒が聖書に詳しくなると、司祭の言うことを聞かなくなったり、聖書と違うことを言うと反論したり、聖書に書いていないことには従わなくなると思ったからです。

従順な羊が好戦的な山羊になっては困りますね。それゆえに聖書が広がるのを取り締まったわけです。


マシュー聖書

イングランドから逃亡したティンダルは、神聖ローマ皇帝カール5世のフランドル領に避難しましたが、ジョン・ロジャースは1534年に商人冒険家協会の神父としてアントワープに赴いた際にティンダルと出会いました。

ロジャースはティンダルの聖書翻訳に協力し、ティンダルの死後も旧約聖書の翻訳を進め、完全な聖書が1537年にトーマス・マシューの筆名で出版されました。
「マシュー」というペンネームは、ティンダル自身の名前を表している可能性が高いと思われています。ティンダルの名前は、当時イギリスで使用するのはとても危険でした。


『マシュー訳聖書』


マシュー訳聖書』はヘンリー8世に献呈され、王はこれを一般の読書用に1500部を許可しました。
もしもヘンリー8世がこれがティンダルによる聖書だと気づいていたら、王にマシューの聖書を推薦したクロムウェルとカンタベリー大司教のトマス・クランマー(Thomas Cranmer)の命はなかったでしょう。

結局、のちに二人とも処刑されてしまいますが。
クロムウェルはこっそりティンダル達を支援していたようです。


ジョン・ロジャースの処刑

ロジャースは1548年にイングランドに戻り、1551年にセント・ポール大聖堂の神学講師に任命されました。
彼は定められた祭服を着用することを拒否し、代わりにシンプルな丸い帽子をかぶっていました。

旧セントポール大聖堂(1561年頃)

メアリー1世の即位の際に、ロジャースはポールズ・クロスで説教し、聴衆に「有害なカトリック、偶像崇拝、迷信」に注意するよう警告しました。

宗教改革の間、教会の墓地にある野外説教壇、セント・ポールズ・クロスは、急進的な福音主義の説教やプロテスタントの書籍販売の場でした。

セント・ポールズ・クロス


異端審問の議長を務めていたエドマンド・ボナー(血まみれのボナー)は、1554年1月にロジャースを捕らえ、ロジャースはレジナルド・ポール枢機卿の委員会で異端者として死刑を宣告されました。

処刑の直前、プロテスタント信仰を撤回すれば恩赦を与えると言われたが、ロジャーズは拒否したそうです。


『殉教者の書』に描かれた、ロジャースの処刑の挿絵

以下の引用はジョン・フォックスの『殉教者録』第16章です。

彼がニューゲートから処刑場であるスミスフィールド(処刑場)に連行される時が来たとき、保安官の一人であるウッドロフ氏はまずロジャーズ氏のもとを訪れ、彼の忌まわしい教義と祭壇の聖餐に関する邪悪な意見を撤回するかどうか尋ねた。
ロジャーズ氏は、「私が説いたことは私の血で封印します」と答えた。
するとウッドルーフ氏は「あなたは異端者だ」と言った。
「それは審判の日に明らかになるでしょう」とロジャーズ氏は言った。

その同じ日、2月4日に保安官によってスミスフィールドへ連れて行かれ、道中、ミゼレーレの詩篇を唱え、すべての人々は彼の不屈の精神に驚くほど喜び、そのことに対して神に大いに賛美と感謝を捧げた。
大勢の人々が見守る中、彼は灰になるまで焼かれ、その炎の中で手を洗った。
焼かれる少し前に、もし彼が罪を悔い改めれば赦免されるという申し出があったが、彼はそれを断固拒否した。 彼は、メアリー女王の時代に苦しんだすべての祝福された仲間の中で、最初に火中へ飛び込んだ最初の殉教者だった。

クランマー司教の処刑

『マシュー訳聖書』を奨励していたトーマス・クランマー司教も、1553年に異端の罪で捕らえられ、1556年に処刑されました。
多数の証人が、クランマーが異端を奨励し、異端の著作を書いていたと証言したため、クランマーは異端者としてで告発されたのでした。


トーマス・クランマー

クランマーは処刑迄の約3年間、数度の撤回をし命を長らえていたとも言えますが、最大の撤回は、ルター派とツヴィングリ派の神学をすべて否定し、教皇至上主義やカトリックの神学を完全に受け入れ、カトリック教会の外に救いはないと述べたことでした。

しかし、メアリー1世はクランマーを赦免しませんでした。
1556年3月21日の処刑当日、彼は説教壇で国王と女王に従うよう祈りと勧告で始めましたが、全く予期せぬ形で説教を終えました。
彼は、自らの手で書いたり署名した撤回文を全否定し、虚偽を書いた自分の手が焼かれる罰を受けるだろうと言い、「教皇については、キリストの敵であり、偽りの教義を唱える反キリストである彼を拒否する」と述べました。

まあ、こんなことを言っちゃったら、有無を言わさずバッサリやられる時代でしたから死ぬ覚悟がないと言えません。

グレートバイブル(1539年)


トマス・クロムウェルの依頼を受けて、マイルス・ カバーデール(後述)によって作成され『グレートバイブル』は、ティンダル聖書に多く依っています。
なぜならカバーデールも亡命先のアントワープで、ティンダルの翻訳に協力していたからです。


余談*聖体とは

国王ヘンリー8世の積極的な参加のもと、以下の条項が1 か月間議論され、1539年6月に六箇条の法令が成立しました。
六箇条法に違反すると厳しい罰則が科せられ、ヘンリー8世の宗教寛容は終了しました。

1聖体がキリストの真のからだであり得るかどうか
2聖体は両方の種類の下で信徒に与えられる必要があるかどうか
3貞潔の誓いが神の法の一部として守られる必要があるかどうか
4聖職者の独身が強制されるべきかどうか
5私的(奉納)ミサが神の法によって要求される(正当な)かどうか
6聖職者への告解(つまり、告白)が神の法の一部として必要かどうか。

特に1の「聖体変化」を否定すると、撤回の猶予も与えられず火刑に処せられました。他の条項のいずれかを否定した場合は、絞首刑または終身刑に処せられました。


聖体変化

聖体は画像の小さなパン(せんべい?)のことなんですが、キリスト教徒にとってはただのパンじゃないのです。

新約聖書には、イエスが最後の晩餐の際に、弟子たちに自分の記念としてこの食事を行うよう命じたことが記されています。
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」(マタイ26:26)

私がキリスト教徒ではないせいもあるかもですが、このパンがキリストの肉体だと信じるか信じないかで、殺人や虐殺が起きた中世は「狂気の時代」としか言いようがありません。

聖体拝領

六箇条法は、ヘンリー8世の息子エドワード6世の治世中に制定された1547年の反逆法によって廃止されました。

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ピューリタンのジュネーヴ聖書

クロムウェルは1540年7月28日に処刑されましたが、彼はその1カ月前に反逆罪で告発され、突然逮捕されてロンドン塔に収監されました。

クロムウェルは少なくとも1527年以来カバーデールを保護しており、カバーデールは再び亡命しなければなりませんでした。

カバーデール


カバーデールと旧知のアウグスティノ会の指導者ロバート・バーンズは、クロムウェル処刑の2日後、7月30日に火刑に処されました。
過去にバーンズは、ティンダル聖書のコピーを密かに配布していたことがありました。
この日は、バーンズのほかにカトリックの司祭、ルター派の牧師も含め6人ほどが処刑されたそうです。

カバーデールは、エドワード6世が即位するとイングランドに帰国しましたが、メアリー1世時代になると3度目の亡命を余儀なくされ、当時ジャン・カルヴァンらが共和制を敷いていた、スイスのジュネーヴに亡命しました。

ジュネーヴには多くのプロテスタント神学者が集まっており、カバーデール達は新しい英語訳聖書『ジュネーヴ聖書』を作成しました。
『ジュネーブ聖書』もまたティンダル訳がもとになっています。


ジュネーヴ聖書

ジュネーヴ聖書( Geneva Bible)は16世紀の英語訳聖書。歴史上、最も重要なうちの1つに数えられる。初版は1560年に発行され、欽定訳聖書より約50年先行する。
ジュネーヴ聖書は宗教改革期プロテスタント運動における主要な聖書で、ウィリアム・シェイクスピア、ジョン・ミルトン、ウィリアム・ブラッドフォードと『天路歴程』を著したジョン・バニヤンらによって用いられた。

メイフラワー号に乗ったピルグリム・ファーザーズによりアメリカ大陸へもたらされた聖書のうちの1冊であり、多くのピューリタンに読まれた。
また清教徒革命(イングランド内戦)の際に、オリバー・クロムウェルに与する兵士たちにより携行された。

ジュネーヴ聖書が出版されるやいなや一般市民の支持を得たのは、エリザベス1世がこの聖書の普及を黙認していたという理由もあるようです。
のちにジェームズ1世によって出版された『欽定訳聖書』(1611年)は、ティンダル、カバーデール、マシュー訳聖書、ジュネーヴ聖書に拠っています。新約聖書の欽定訳は、8割ほどがティンダル訳のままとされています。

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カバーデールは1559年にイギリスに戻り、シティ・オブ・ロンドンにあるセント・マグナス殉教者教会の牧師を務めました。
彼は儀式や凝った聖職者服に断固反対したため(祭服論争)、ピューリタンの間で大変人気があったそうです。1569年に80歳ぐらいで亡くなりました。

祭服論争または聖職者服論争は、表面上は祭服または聖職者の服装に関するものでしたが、宗教改革時代における英国国教会内の教会のアイデンティティ、教義、教会の慣習に関する 懸念を明らかにしました。

祭服論争は、服だけの問題じゃなかったのです。
この論争やその後の論争で引用された聖書のテキストとその解釈方法は、保守的で清教徒的なプロテスタントの言説を特徴づけました。

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反宗教改革(カトリック改革)の本拠地

エリザベス1世は晩年にカトリックへの弾圧を強め、1591年にはカトリック世帯への訊問と監視権限が与えられた委員会が設置されました。

エリザベス1世は、20回以上命を狙われたそうです。

エリザベス1世


もしやエドワード6世の治世が短かったのも・・・そしてジェームズ1世が何度も危険な目にあったのも・・・。

研究者は、中世のイエズス会が仕掛けた陰謀事件でもっとも邪悪なのは、ジェームズ王の命を狙った「火薬陰謀事件」だったと言います。
おそらくジェームズ王が欽定訳聖書を作成しようとしていたことが関係しているかも知れません。
シェイクスピアは『マクベス』の中でイエズス会を批判していたそうです。(詳しくは次回)

また研究者たちは、イギリスは教皇庁による反宗教改革(カトリック改革)の本拠地だと言います。
イギリスを再びカトリックに戻すことが出来れば、ヨーロッパの他のプロテスタント国はもっと簡単にカトリックに戻せると考えられるとか。
そのためにイギリスでは現在まで色々な運動が行われており、カトリック教徒も増えてきているそうです。


長くなりましたので、今日はこのへんで。
最後までお読みくださりありがとうございました。


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