メディチ家以前のフィレンツェ*ヴェルフとギベリンの争い
同時進行で複数の記事を書く癖がありまして、いまも下書きが5本ぐらいあるんですが、つい脱線してしまいます(苦笑)
今回の記事も、イタリア・ルネサンスの中心地だったフィレンツェについて書き始めたところで思いついてしまったんです。
フィレンツェの成り立ち
始まりはシーザー
町の成り立ちは、紀元前 7 世紀から 6 世紀にかけてエトルリア人によって建設されましたが、直接の起源は紀元前59年にシーザーによって退役軍人のための村が作られたことによります。この村はマルス神に捧げられたと伝えられています。
フィレンツェは聖ヨハネ(洗礼者ヨハネ)を守護聖人としていますが、キリスト教以前はローマ神話のマルスによって守護されている町でした。
エトルリア人は、イタリア半島北部-中部に紀元前9世紀から紀元前1世紀まで住んでいた先住民族で、独自のエトルリア文化を築き、ギリシア人、フェニキア人と制海権を争い、特にギリシアでは海賊と見做され怖れられていたそうです。
ローマを最初に建設したのはエトルリア人だと言われており、王政ローマ時代はエトルリア人の王が多くいました。
町は、ふたつの川(アルノ川とムニョーネ川)に挟まれていた土地に造られました。川に挟まれているから防衛しやすいということで、その場所が選ばれたようです。
フィレンツェはかつて城壁にぐるりと囲まれた町でした。
紀元前59年に村が作られたとき、ローマの植民地でみられるような碁盤目に道路が作られ、20ヘクタールの面積の土地に2000人が住んでいたそうです。(最大の繁栄期には10,000人に達した。)
城壁4辺には1つづつ門がありました。
城壁の外側を流れているアルノ川の船着き場は、外部との交流の重要な施設でした。アルノ川を水路とする地理を活かして、町は繁栄していきました。
5世紀の西ローマ帝国の崩壊では、ギリシャ人やゴート族などの侵略で人口が1000人にまで落ち込み、建国時よりも小さな城壁を新たに作り直したそうです。
フィレンツェ共和国設立
フィレンツェ共和国が出来た12世紀は「地の時代」でした。
中世のイタリアは、自立した都市国家(コムーネ)がそれぞれに「〇〇共和国」を名乗っており、フィレンツェはフィレンツェ共和国の首都でした。
有名なレオナルド・ダ・ヴィンチや詩人のダンテ、ミケランジェロなどを輩出しました。
12世紀にフィレンツェおよびトスカーナを支配していたカノッサ家のマティルデ・ディ・カノッサ(1046年?- 1115年7月24日)が亡くなり、1115年にフェィレンツェは独立してコムーネになりました。
覚えていますか?カノッサ城の話。
このリンク記事の最後のほうに出てくるカノッサ城の城主マティルデ(マチルダ)です。
マチルダに後継者がいなかったので、カノッサ家は断絶しました。マチルダの遺領(現在のロンバルディア州、エミリア州、ロマーニャ州、トスカーナ州を含む広大な領土)は、遺言により教皇領、皇帝領となりましたが、領域内の各都市はその後自立の方向に向かい、北イタリアの都市国家群が形成されることになったのです。フィレンツェはそのひとつです。
フィレンツェの名前の由来と紋章
フィレンツェは、英語読みはフローレンス。フィレンツェの名前の由来についてはいくつか説があります。
古代ローマ時代、花の女神フローラ(Flōra)の町としてフローレンティア (Flōrentia) と名付けた事が語源となっている説が一般的です。
もともとは 2 つの川に挟まれた土地に建てられたことから、ラテン語でフルエンティア(Fluentia)と呼ばれていたのが、後にフローレンティアに変更された説のほうが私的にはしっくりきます。
フィレンツェ市の紋章は、紋章学ではユリに似たアイリスの花をシンボルに使用しています。フィレンツェ周辺には昔から、ジャーマン・アイリスが数多く生育しているそうです。フィレンツェのアイリスガーデン
いつから、この紋章が使われるようになったのか、はっきりとはわかっていません。
でもなぜに赤い花びら?と思ったら、中世に反転したのだそうです。
最初は赤地に銀色のユリだったのが、13 世紀に起きたローマ教皇支持のヴェルフ(ゲルフ)家と、神聖ローマ皇帝を支持するギベリン家の対立により、ヴェルフ(ゲルフ)とギベリンを区別するために、教皇派ヴェルフ(ゲルフ)は反転した「銀地に赤」を選びました。
ゲルフ族とギベリン族の戦争(後述)
1251年にヴェルフ(ゲルフ)が勝利し、ギベリンをフィレンツェから追放したとき、現在の銀地に赤のユリがフィレンツェのシンボルになりました。
マルス崇拝からキリスト教へ
285年、前の記事にも書いたディオクレティアヌス帝はフィレンツェに行政センターを設置し、トゥシア(エトルリア)全土を統括しました。
また東方の商人たちがイシス崇拝をもたらし、その後2世紀にキリスト教がもたらされました。
これもまた前の記事にちらっと書きましたが、5世紀初めのフィレンツェの初代司教聖ゼノビウス(パルミラの女王ゼノビアの子孫と言われている)が着任した頃、ゴート族の酋長ラダガイズが暴れまわっており、405年頃にフィレンツェを包囲した記録があります。
西ローマ帝国の将軍スティリコが到着した時、陥落寸前になっていたそうですが、ローマ軍が勝利しフィレンツェは占領を免れました。
ゴート族の脅威では、410年のアラリック1世によるローマ掠奪が有名です。ローマ掠奪はローマ市民のトラウマとなり、民衆に反キリスト教感情が広がったそうです。
多くのローマ人は、ローマ掠奪を「キリスト教を支持して、伝統的なローマの宗教を放棄したことに対する罰」とみなしました。
キリスト教会にとっては従来にない危機となり、教父アウグスティヌス(ヒッポのアウグスティヌス)は、逆にキリスト教本来の信仰を忘れたことに対する神の怒りの顕れであると主張しました。
しかしフィレンツェでは、多くの人がスティリコ将軍(ローマ)の勝利はゼノビウスの祈りによるものだと考えたので、キリスト教への改宗ブームが起きたそうです。
ゼノビウスは、何人かの死者を蘇らせる奇跡を行ったそうです。
また、彼の遺骨を別の教会に移している時に、棺に触れたニレの枯れ木が生き返ったという話も。
サンドロ・ボッティチェッリは、聖ゼノビウスの生涯と作品を4 枚の絵画に描きました。
市民がキリスト教に改宗するにつれ、マルス神殿は徐々に現在のフィレンツェの守護者である洗礼者ヨハネに捧げる教会に変わっていきました。
古代教会とイシス神殿跡
フィレンツェの象徴と言えば、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(1436年奉献)ですが、その地下に4世紀の古代教会サンタ・レパラータが1960年代に発見されました。
サンタ・レパラータ教会は、フィレンツェの共同守護聖人である聖レパラータに捧げられた教会でした。
レパラータは、ローマ皇帝デキウス(在位249-251)による大迫害で亡くなった女性でした。デキウスの迫害
コンスタンティヌス大帝の時代にキリスト教が国教になりましたが(ミラノ勅令以降)、アルノ川左岸のオルトラルノには、東洋の商人、特にシリア人の大規模なコミュニティがあり、イシスの崇拝、ミトラ崇拝などの発祥地でした。
フレンツェのイシス神殿は、現在のサン・フィレンツェ広場の近く、ボルゴ・デイ・グレチの隣にありました。
2008年10月、ボルゴ・デイ・グレチ通り(Via Borgo dei Greci)の脇の限られた地域での発掘調査により、13世紀のサン・フィオレンツォ教会跡が発掘され、さらにその教会がイシス神殿の上に建てられていたことがわかったそうです。
前述の聖ゼノビウスは417年に亡くなりましたが、まずサン・ロレンツォ・ディ・フィレンツェ大聖堂(393年に奉献)に埋葬され、9世紀にサンタ・レパラータ教会に移され、その上に現在のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂が建てられました。
ゼノビウスの遺骨がサン・ロレンツォから移された理由は、カテドラ(教皇座)がサンレバラータ教会に移されたからです。
調査不足で、なぜ司教座が移されたのかはわからなかったですが、9世紀のフィレンツェは、カロリング朝フランク王国(カール大帝)に併合され、町の再建が行われていました。
南部が繁栄したこともあり、城壁も南にずらされて再建され、現在のシニョーリア広場まで含んでいたそうです。
サン・ロレンツォ・ディ・フィレンツェ大聖堂は、15世紀のコジモ・イル・ヴェッキオ(コジモ・デ・メディチ1389年 - 1464年)から第6代トスカーナ大公コジモ3世(在位1670年 - 1723年)までのメディチ家の主要メンバー全員の埋葬地です。
メディチが台頭してくるのは14世紀からです。
百年戦争の時期の1378年から1417年の間、ローマとアヴィニヨンに同時に教皇が併存したことで、教会大分裂(シスマ)が起きていました。
メディチ家の祖と言われるジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(1360年 - 1429年)は、メディチ銀行をフィレンツェに創設しました。
メディチ家は教会大分裂に介入し、枢機卿バルダッサーレ・コッサを支援し、対立教皇ヨハネス23世(在位1410年 - 1415年)として即位させました。
これによって1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位になり、莫大な収益を手にすることに成功したのです。
メディチ家の話は長くなりますので、次回に譲ります。
教皇党(ヴエルフ)と皇帝党(ギベリン)
11世紀の叙任権闘争に始まったローマ教皇と神聖ローマ皇帝の対立は12世紀も続き、イタリア国内のコムーネ(都市国家)は、教皇を支持する派と皇帝を支持する派に分かれて争うようになっていました。
教皇党をヴェルフ(イタリアではゲルフと呼んでいました)、皇帝党はギベリンと呼ばれていました。
「カノッサの屈辱」のトスカーナ女伯マティルダは教皇党ということになります。
教皇党は商工業者、皇帝党は貴族の傾向がありました。
1215年頃にドイツで始まったヴェルフ(ゲルフ)とギベリンの争いが北イタリアにも波及し、フィレンツェ、ミラノ、ボローニャなどが教皇党ヴェルフでしたが、その都市の中でも皇帝支持のギベリンもいました。
フィレンツェのギベリンの代表は、貴族のウベルティ家のファリナータ・デッリ・ウベルティ(1212年ー1264年)でした。
人々は、教皇党か皇帝党かを見分けるために、帽子に特徴ある飾りなどをつけていたそうです。紋章もウベルティ家のように皇帝党は鷲、教皇党はライオンを追加しました。
フィレンツェでは、教皇ヴェルフ党支持者からポポロと呼ばれる人民組織が発展し、1250年から1260 年にかけて政府を掌握しました (イル プリモ ポポロとして知られる政権)。
ヴェルフ(ゲルフ)対ギベリンの争いは、1250年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が亡くなり、ヴェルフが優位になりました。
その勢いに乗じて、プリモポポロはギベリン(皇帝党)をフィレンツェから追放しました。
ギベリンを率いていたファリナータ・デッリ・ウベルティは、ギベリン党の本拠地シエーナに亡命しましたが、ファリナータは皇帝フリードリヒ2世の庶子シチリアのマンフレッドと同盟を結び、フィレンツェに戻るチャンスを狙っていました。
その頃のウベルティ家の紋章は、教皇派がフィレンツェの紋章を赤いユリにしてしまったのに対抗したのでしょうか。鷲を黒から白に変えています。
1260年、1万人以上の死者を出したモンタペルティの戦いで皇帝党が勝利し、ファリナータ・ウベルティはフィレンツェを占領しました。
今度は、教皇党ヴェルフのほうが追放されるわけです。教皇党の宮殿、屋敷、塔など数百の建築物が破壊されたそうです。
ファリナータ・ウベルティは、フィレンツェの繫栄を望んでいたので町の破壊には反対したそうで、その反対のおかげで教皇党ヴェルフの家々は破壊されたものの、街全体の破壊は小規模で済んだという見方もあるようです。
しかし、1266年にベネヴェントの戦いでは教皇党ヴェルフが勝利し、キベリンは徹底的に排除されました。
現在はシニョリーア広場になっている場所にあったウベルティの屋敷を破壊し、その場所には決して建物を建ててはならないと布告しました。
ウベルティ家に再び権力を持たせないためだったと言われています。
その後、広場横にヴェッキオ宮殿が建てられました。
ファリナータ・ウベルティは、実はカタリ派だったのではないかと見られています。
ファリナータは、1264 年にフィレンツェで亡くなり、サンタ・レパラータ教会に埋葬されましたが、1283年に遺体は掘り起こされてフランシスコ会主導の異端審問にかけられ、死後なのに処刑されました。
異端の理由は、ファリナータが死後の世界を否定していたことが発見されたためと言われています。彼は、魂は肉体とともに死ぬという考えを持ち、人間の幸福は一時的な快楽から成ると主張していたそうです。
『神曲』を書いたダンテ・アリギエーリは、地獄編に ファリナータを登場させています。
ところで『ロミオとジュリエット』の時代背景は、ちょうどこの時代。
場所はヴェローナですが、ロミオはギベリン(皇帝党)のモンタギュー家、ジュリエットは教皇党ヴェルフのキャピュレット家だったんです。
ギベリンを完全排除した後のフィレンツェでは、教皇党ヴェルフに内部分裂が起きました。
白ヴェルフguelfi bianchi(ビアンキ)は、フィレンツェの自立政策を掲げる富裕市民層で、黒ヴェルフguelfi neri(ネリ)は教皇に強く結びつこうとする封建貴族層でした。
ダンテは白ヴェルフ(ビアンキ)でした。
1289年カンパルディーノの戦いにダンテも参加しましたが、黒のネリが勝利したため、白はフィレンツェから追放されることに。
ダンテも同じビアンキのゲラルディーニ家とともに追放されることになりました。ダンテの追放は2年間だったそうです。
ゲラルディーニ家が追放された後(1302年以降)、メディチ家がフィレンツェに現れ、街を統治しました。
『モナリザ』のモデル、リザ・デル・ジョコンドは、ゲラルディーニ家の女性です。
15世紀のイタリア戦争では、フランスを支持したのがヴェルフ、スペイン(ハプスブルク)を支持したのがギベリンと呼ばれました。
16世紀に神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世がイタリア支配に成功すると、これらの呼称は用いられなくなりました。
この記事もまた長くなってしまいましたので、今日はこのへんで。
ヴェルフとギベリンについては、また別の記事で取り上げることになりそうです。
最後までお読みくださりありがとうございました。ではでは。
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