17世紀イングランドから新大陸への移動*年季奉公制度のゆがみ
アメリカの奴隷制度の歴史は、アメリカに植民地が造られはじめた17世紀に帰します。この記事では、イギリスの植民地を中心に書いていきます。
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イギリスの植民地は、1600年代にアメリカ大陸に渡った入植者によって開拓されましたが、その植民地の労働力不足を補うために、さらに多くの「年季奉公人」がアメリカに送られました。
年季奉公人は、通常、労働契約が取り決められた使用人を指します。
イギリスが奴隷制を取り入れる前に、年季奉公と呼ばれる労働契約の仕組みがありました。
年季奉公は、特定の年数の間、無給で働くことを請け負う労働形態です。
17世紀に始まったアメリカ植民地
この時代のヨーロッパでは、小氷期による寒冷化が原因で17世紀の危機と呼ばれる混乱が生じ、各国で飢饉、戦争、内乱が相次ぎました。
そういった背景に加えイギリスでは宗教弾圧もあり、清教徒革命と名誉革命が起きました。
とくに1666年は、ロンドン大火、ペスト流行、第二次英蘭戦争と続き、イングランドでは「驚異の年(アヌス・ミラビリス)」と呼ばれています。
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年季奉公契約
植民地経営会社(例:バージニアカンパニー)が渡航者を募り、イングランド、スコットランド、アイルランドから多くの人がアメリカに渡りました。
主には貧困層あるいは元受刑者などが、故郷では仕事が見つからず、年季奉公の契約をしていました。
元受刑者というのが微妙なところで、多くは非国教徒(イングランド国教会に反対する者)であったり、食料品を万引きするような罪を犯した者です。
1577年のブラックアサイズで投獄されたローランド・ジェンキンスもローマ・カトリック信者だったため、罪をでっち上げられたと言われています。
彼らの多くは渡航費すら持っていなかったので、船賃や途中の食料(2週間分・・・絶対に足りない)、さらに新大陸での当面の生活費や土地の開拓に要する費用と引き換えに、年季奉公の契約をする場合が多かったそうです。
この場合、契約年限は7年とされることが普通でした。
奉公の契約には職業訓練を施すことが含まれる場合があり、例えば鍛冶屋の年季奉公では、契約年限が過ぎれば自分で鍛冶屋を開いて生活していくことも期待できたそうです。
契約期間が終わった奉公人は、新しい衣服、道具あるいは金を与えられて自由にされることになっていました。解放奴隷
このへんは、ローマの「自由奴隷」と似ていますね。
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しかし、植民地によって年季奉公人の待遇に差があったようです(後述)。
マサチューセッツではピューリタンの宗教的な教えが契約条件の一部となっており、年季奉公人は町の中で住む傾向がありました。
バージニアでは住人の大半がイングランド国教会員であり、年季奉公人は農園で働く傾向にありました。ベイコンの反乱(バージニアの反乱)
アッパー・サウス(南部の高度が高い地方)では、年季奉公人はタバコ畑での長時間労働を強いられました。
雇い主に暴力を振るわれ(女性の奉公人は性的虐待を受けた)、場合によっては死に至ることもありました。
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ヴァージニアカンパニーとプリマスカンパニー
ヴァージニアカンパニーは、アメリカ東海岸の植民地化を目的として、1606年 4月10日にジェームズ 1 世によって認可された英国の商社 でした。
生涯結婚しなかったエリザベス 1世にちなんでヴァージニアと名付けられ、管轄は現在のメイン州からカロライナ州まで広がっていました。
プリマスカンパニーは、ヴァージニアカンパニーとともに1606年にジェームズ王によって認可された会社であり、北緯38度から45度の間のアメリカ東海岸の植民地化の責任を負っていました。
イギリスがヴァージニアカンパニーとプリマスカンパニーを設立した目的は、金の探査(現実にはなかった)の為に植民地を造ること、スペイン船に対抗してイギリスの私掠船を支える基地を造ること、またスペイン(カトリック)と競合してアメリカにプロテスタントを広げることでした。
カナダの植民地は、1670 年にチャールズ2世によって認可されたハドソン・ベイ・カンパニー(現存する企業)の管轄でした。
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イギリスの植民地は、18世紀には3つのタイプ(勅許植民地、領主植民地、及び王室の直轄植民地)が存在しました。
たとえばヴァージニアは、1606年にジェームズ1世がバージニア・カンパニーに勅許状を発行した勅許植民地、前回の記事に書いたメリーランドは領主植民地でした。
ニューハンプシャーとニューヨークは王室直轄の植民地でした。
アメリカ独立戦争への発端は、1756年のフレンチ・インディアン戦争で、この戦争に勝利したイギリスによる「1763年宣言」に対する不満と反発が原因でした。
1775年、13植民地が反乱を起こして戦争となり(アメリカ独立戦争)、1776年にはアメリカ独立宣言が発表されました。
各植民地による奉公人の待遇
年季奉公は、イギリス領の植民地における顕著な労働システムでした。
13植民地の白人移民全体の半数近くが、年季奉公だったと言われています。
ヴァージニア州の年季奉公と奴隷制の導入
「オールドドミニオン(古い領土)」とも呼ばれるヴァージニア州は、「ヴァージン・クイーン」(生涯結婚しなかったエリザベス1世)に因んでいると言われています。
初期の大統領、初代ワシントン、第3代ジェファーソン、第4代マディソンおよび第5代モンローがバージニア出身です。
北アメリカ大陸における年季奉公は、1609年にバージニア植民地で最初に始まりました。ポウハタン族から獲得した土地にタバコ農場を作るため、大量の労働力が必要でした。
初期の頃は、各農場主によって労働者の取り合いになったそうです。
1619年は、ヴァージニア植民地の転換の年でした。
ヴァージニアカンパニーが開拓地の人口を増やすために、男性開拓者の妻候補として90人の独身女性をジェームズタウンに送りました。
同じ年に2隻のイギリス私掠船によって、20名ほどのアンゴラ人が到着しました。植民地では初めてのアフリカ人で、タバコ産業の拡大に貢献しました。これがアメリカにおける奴隷制の始まりとなったと言われています。
彼らは約4000人の白人の年季奉公人と同様に、1661年まで植民地で奴隷法が成立しなかったため、年季奉公人と見なされました。
しかし、タバコ栽培で利益を上げるためにさらに多くの土地が必要となり、入植者達が土地を拡張するにつれて、先住のインディアンとの対立が激しくなり、1622年3月22日の聖金曜日、約400人の入植者が殺されたジェームズタウンの虐殺が起きました。
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ペンシルベニア州の年季奉公
「キーストーンステート」と呼ばれるペンシルベニア州は、チャールズ2世によって命名されました。
イギリス人のウィリアム・ペンがシルベニアと名付け、さらにペンの父ウィリアム・ペン卿に敬意を表してペンシンルベニア(ラテン語で「ペンの森」)改称されたそうです。
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余談ですが、
ペンシルべニアが「キーストーンステート」と呼ばれるわけは、アメリカ独立戦争と独立戦争に関連する多くの重要な出来事(ジョージ・ワシントンのデラウェア川渡河、ブランディワインの戦い、ジャーマンタウンの戦いなど)や、フィラデルフィアで独立宣言が行われたからでしょう。
建国の父たちのほとんどはフリーメイソンでしたから、重要な場所であったペンシルベニアを「キーストーン」と呼んだのは、なんら不思議はないですね。
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ペンシルバニアの前身
ペンシルベニアは、もともと「ニュースウェーデン」(1638年~1655年)というスウェーデンの植民地の一部でしたが、1655年9月15日にオランダのニューネーデルラント植民地(1614年~674年)に併合されていました。
1651年にイギリスで制定された航海条例をきっかけに「第一次英蘭戦争」(1652年~1654年)が起きウェストミンスター条約が結ばれていましたが、1665年から1667年にかけて「第二次英蘭戦争」が起きました。
この戦争ではイギリスは敗退しているのですが、講和の条件をかなり譲歩したブレダ条約が結ばれ、オランダはニューアムステルダム(現在のニューヨーク)を含む北米植民地ニューネーデルラントをイギリスに割譲しました。
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国王の借金チャラにしたペンシルベニア
1681年3月4日、国王チャールズ2世は、国王がウィリアム・ペン卿に負っていた16,000ポンドの負債を清算する代わりに、ペンシルベニアをウィリアム・ペンに与えました。
クェーカー教徒だったウィリアム・ペンは宗教的寛容に基づいてペンシルベニア植民地を設立し、それにより多くのクエーカー教徒が入植しました。
1700年代半ばには、ドイツ人やスコットランド系アイルランド人が多く移住し、当時のフィラデルフィアは最大の都市になりました。
開拓者の多くは、ユグノー、ピューリタン、カルヴァン主義者、メノナイト、カトリック教徒など、故郷の政府に嫌われるキリスト教を崇拝していたため、信教の自由を求めてペンシルベニアにやってきたのです。
ペンシルベニアの年季奉公の特徴と変遷
年季奉公は、ペンシルベニアにとって他の植民地や州よりも重要で、他の地域よりも長く続きました。
当初、ペンシルベニアの年季奉公は家父長制的な性格を持っていました。主人と使用人の間で交わされる契約は口頭で行われていました。
「ヘッド・ライト」という制度があり、主人は連れてきた「ヘッド」(使用人/労働者)ごとに50エーカー(20ヘクタール)を受け取ることができ、年季奉公の期限が過ぎると50エーカーが使用人に与えられたそうです。
初期の頃、年季奉公人が行った仕事は森林の伐採などが主でしたが、産業が発展するにつれて熟練労働者の需要が高まり、また、さまざまな産業の出現により多様な労働力が必要となりました。
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未成年者の年季奉公
21歳未満は高官の同意と保護者の承認が必要でしたが、両親によって売られた売られた移民の子供たちは、ペンシルベニア州では「見習い」として登録され、「使用人」としてラベル付けされたのはごく一部でした。
しかし、子どもの見習いと隷属の境界は、かなり曖昧でした。見習いとして記録された子供たちが畑で働いていることも。
使用人であろうと見習いであろうと、子供たちは通常、男性が21歳、女性が18歳の成熟年齢に達するまで続く契約を結んでいました。
犯罪者の年季奉公
犯罪者にとっては、年季奉公は刑罰に代わる条件付きの代替手段でした。
恩赦を受け、年季奉公で一定の年数を過ごすことで法的に罪を免れられました。しかし、契約を反故にして本国に帰れば、死刑に処せられたそうです。
彼らの多くは、農場、イングリッシュ・エステート(英王室の所有地)、採石場で働きました。
ベンジャミン・フランクリンは、ペンシルベニア州で最も声高にこれを批判しました。フランクリンは、犯罪者を年季奉公させることが、公益事業の利益倍増につながるという考えを否定していました。
ペンシルベニアの住民は、重罪犯の移送の主要な場所であったメリーランドから逃亡した囚人が、ペンシルベニアに侵入するかもしれないと不安を感じていたそうです。
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かつてイギリスは、犯罪者に限らず目障りな人物をスコープゴートにして国外追放することが多かったようです。
島流し先だったのがオーストラリアでしたし。航海の途中で、飢餓や疫病にかかって亡くなっても別にいい、みたいな感じ。
まあ、イギリスだけじゃなかったと思います。
償還者の販売
17世紀後半から18世紀初頭の年季奉公人は、主にイングランド、スコットランド、ウェールズ(1707年の合同法以降のグレートブリテン)からの移住者でしたが、18世紀半ばから後半にかけては、アイルランド人やドイツ人/プファルツ人の移民が大半を占めました。
1720年代には贖罪主義制度が現れ、年季奉公は18世紀末までに最大の労働力源となっていきました。
贖罪主義制度は、移民が植民地に到着してから一定期間内に渡航費用などを返済することで年季奉公を免れることを可能にしました。
しかし、移民が商人に代金を払うことができないことが判明した場合は、移民年季奉公人として売却されました。
この制度はペンシルベニアで特に顕著な役割を果たし、フィラデルフィアは植民地や州内外からの買い手が、贖罪者の使用人を調達する主要な港となりました。
ぶっちゃけ、人身売買と同じですよね。
年季奉公とは異なり、償還者の売買は固定価格だったそうですが、勤続期間は変動したそうです。
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年季奉公制度はアメリカ独立戦争の間に中断があったものの、1780年代でもまだ広く行われていたそうです。
フェルナン・ブローデルは1783年の「アイルランドからの輸入」に関する例を挙げ、大きな利益を上げた船主あるいは船長の言葉を紹介しています。
アメリカの植民地史における奴隷制
18世紀には雇用主はアフリカの奴隷労働者を雇うようになりました。
背景には、イギリスの経済が持ち直し始めたので、年季奉公契約をする者が少なくなったということもあるようです。
奴隷は法的に動産財産として定義され、奴隷制の状態は世襲制とされました。こうして動産奴隷制の制度は、1865年の南北戦争の時に最終的に廃止されるまで、アメリカ合衆国南部全体に拡大し続けました。
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以前にも書きましたが、19世紀には奴隷の逃亡を助けた「地下鉄道」と言う名の秘密結社がありました。
組織は地域ごとの小さな班に分けられ、自分たちの地域だけにおける「地下鉄道」の詳細な情報を熟知していました。
ひとつの「停車駅」から次の「停車駅」へ、黒人たちは停止地点ごとに違う人々の補助を借りて目的地まで進んだため、逃亡中の奴隷たちの目的地までの道のりの全容を誰一人知ることがなく、地下鉄道の秘密と奴隷たちの安全が確保されたそうです。
フレンド会、会衆派教会、メソジスト教会、バプテスト教会などの宗教的な機関もこの地下鉄道に大きく貢献しました。
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13植民地の経済的な特色は、北部と南部では著しく異なりました。
プリマスやマサチューセッツなどを中心とするニューイングランド植民地(北部植民地)は、豊富な水力や木材を利用した工業が発達しましたが、プランテーションを作るための温暖な気候条件を備えていなかったこともあり、奴隷への依存度が低く奴隷制は大きく発展しませんでした。
バージニアやサウスカロライナなどの南部植民地では、大規模なプランテーションシステムによる大規模農業経営が広まり、奴隷制が最も顕著でした。当初は白人の年季奉公人を使用していましたが、労働力不足からしだいにアフリカ大陸から黒人を奴隷として輸入するようになっていきました。
ニューヨーク、ペンシルベニアなどの中部は小麦を中心とする農産物輸出が盛んで、プランテーションは発達せず農業と商業を中心に発達しました。
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奴隷制で思い出すのは、子どもの頃に読んだ、奴隷制度廃止論者ハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』(1852年3月20日発行)です。
いま思うと、すごい時期に出版されていますね。
それからマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』(1936年発行)。舞台は1860年代、南北戦争の頃のアメリカ。
ヒロインは、南部のジョージア州に住む裕福な白人女性という設定でしたので、奴隷所有者なわけです。
対比する2つの作品は、アメリカの奴隷制を垣間見ることができます。
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リンカーン大統領(1809年2月12日 - 1865年4月15日)は、奴隷制に反対する両親に育てられ、リンカーン自身も奴隷制廃止を信条としていたのに、妻の実家(トッド家)は奴隷所有者か、あるいは奴隷売買業者だったというのはなんたる皮肉でしょうか。
ちなみにリンカーン家はイングランド移民、トッド(Todd)家は、スコットランド移民です。
リンカーン家は曾孫のロバート・トッド・リンカーン・ベックウィズが亡くなったため断絶したそうですが、一方でリンカーン家と祖先が共通する親戚が存続しており、俳優のジョージ・クルーニーはリンカーンの母のナンシー・ハンクス・リンカーンとつながりがあるという。
最後に
年季奉公はかつては多くの国で合法とされていましたが、人権侵害が理由で現在は禁止されています。
日本では江戸時代に年季奉公が制度化されたそうです。
年代を見ると、アメリカ植民地の年季奉公の流れとほぼ同じ頃で、興味深いですね。
有名な豊臣秀吉による「バテレン追放令」(1587年7月24日)が発令される前、ポルトガルの奴隷貿易が問題になったと記録されています。
ポルトガル人が日本で購入した奴隷の中には、永年季奉公人だけでなく数年で解放される契約の年季奉公人も記録されているそうです。
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この記事もまた長くなってしまいましたので、このへんで終わりますね。
奴隷制についてはまた別の機会に書きたいと思います。
アメリカの歴史に決して消えることがない残酷な奴隷制の前に、年季奉公制度という、ある意味で貧困が招いたゆがみと悲しみもあったということを理解していただけたら幸いです。
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