失われたカトリックの避難所*メリーランドとボルチモア男爵*Part1
2024年3月26日にアメリカ・メリーランド州ボルチモアの港で、港湾にかかる橋に貨物船が衝突して橋が崩落したニュースがありました。
たまたまXを見ていたら速報で動画が上がってきて、CGみたいにあっさり壊れてしまったので驚きました。
この橋の名前はFrancis Scott Key Bridgeフランシス・スコット・キー橋。
珍しい名前の橋だなぁと思って調べたら(私はすぐ調べるクセがあります)、アメリカ国歌"The Star-Spangled Banner"(星条旗)の作詞者にちなんでつけられた名前でした。
あっ!と思ったのは、前回、1811年、1812年のニューマドリッド地震について書いたときに「星条旗」のことを書いていました。
この事故が「ボルチモア」で起きたということが、たまたまなんでしょうけど、たまたまとも言い切れない感じがしました。(陰謀論?(笑)
フランシス・スコット・キーについては別記事で書きたいことがありますが、この記事ではボルチモアの成り立ちについて書いていきます。
ボルチモアは英国の名前
ボルチモアの名前は、イギリスのメリーランド植民地の初代領主第2代ボルティモア男爵のセシル・カルバートに由来します。
ボルティモアは、「大きな家の町」を意味するアイルランド語「baile an thí mhóire」を英語化したものです。
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イングランドで宗教的迫害があった時代、メリーランドはアメリカ大陸でのカトリック教徒の避難場所となるはずでした。
アメリカの植民地の歴史では、17世紀に信教の自由を求めてイギリスから移住してきたピューリタン(プロテスタント)の分離派=ピルグリムファザーズが主に取り上げられます。
しかし、イギリスではピューリタン以上にローマ・カトリックが迫害され差別を受けていた時期がありました。
ローマ・カトリック教徒は公職に就くことを許可されず、1666年のロンドン大火は彼らのせいにされたといいます。
イギリスはヘンリー8世(在位:1509年 - 1547年)の宗教改革で、カトリックから英国国教会(プロテスタント)へ国教が替わり、1534年の「至上法」でイングランド王が教皇に代わる「イングランド教会の地上唯一の最高指導者」であると宣言されました。
それにより、国教(英国国教会)に従わない者は、国家に対する忠誠心がない、すなわち王に反逆する者とみなされ、処刑される事もありました。
エリザベス1世の反国教徒法は、英国国教会での礼拝を法的義務としました。
カトリック教徒が主導したとされる国王暗殺計画(1605年のガイ・フォークスの火薬陰謀事件を含む)は反カトリック主義を煽り、多くのプロテスタントが真実と信じたタイタス・オーツが捏造した「カトリック陰謀事件」(1678年から1681年にかけて)では、国民が集団ヒステリー状態になりました。
1829年のローマカトリック教徒救済法により、反カトリックの法律のほとんどが撤廃されたのは19世紀初頭になってからでした。
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イングランド国教会の同調圧力(反国教徒法)
セシル・カルバートの父初代ボルティモア男爵ジョージ・カルバートは、国会議員で、 1617年にナイトの爵位を授与され、ジェームズ1世の下で国務長官として成功していました。
ジョージが生まれたカルバート家はローマ・カトリック教徒でしたが、カルバート家は英国国教会(プロテスタント)に同調するように圧力(※)をかけられていたため、ジョージと兄弟たちは全員イングランド国教会の儀礼に従って洗礼を受けました。
反国教徒法(recusare)
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イングランド国教会の設立は16世紀
イングランドは、597年にカンタベリーのアウグスティヌスがケント王国にローマカトリックを布教し以後、ローマ教皇を頂点とするローマ・カトリック教会に属していました。
しかし、16世紀の国王ヘンリー8世から娘のエリザベス1世の時代にかけて、独自のキリスト教であるイングランド国教会を設立し、ローマ教皇庁から離脱しました。(1534年)
これにはヘンリー8世が、最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンと離婚するためにはローマ教皇の許しが必要だったが、許しがもらえなかったためローマ・カトリックを辞めたとか、教会税を払いたくなかったからだとか、いろいろ興味深いです。
ヘンリー8世が始めた宗教改革により修道院解散が行われた結果、教会の廃墟が今でもイギリスには残っています。
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火薬陰謀事件(国王暗殺未遂)
1603年に即位したジェームズ1世は英国国教会を支持したため、ローマカトリック教徒やピューリタンの分離派(1620年にメイフラワー号に乗った人たち)と国教会派の対立が深刻化しました。
ローマ・カトリック教徒だったガイ・フォークスらが、ジェームズ1世を暗殺しようとした火薬陰謀事件(1605年11月5日)の背景には、そういった宗教対立があります。
ガイ・フォークスについては以下の記事に書いています。
イングランド国教会の締め付けを嫌い、ピューリタンの非国教徒は信教の自由を求めてメイフラワー号に乗ったのです。
それゆえアメリカでは、メイフラワー号は自由の象徴とされています。
しかし、彼らはイギリスを捨てたわけではないんですよ。アメリカに移住しても英国王に忠誠を誓っています。メイフラワー誓約
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カルバート家は代々ローマ・カトリック
話を戻して・・・
カルバート家の祖先は、フランドル(現在のベルギーの英仏海峡を挟んだ現在のオランダ語圏)からイギリスに来たと言われています。
もともとカルバート家はローマ・カトリック教徒でした。
ジョージの父、レナードはジョージが生まれた1580年頃からヨークシャー当局に度重なる嫌がらせを受け、イングランド国教会の礼拝への出席や、子どもたちにプロテスタントの家庭教師をつけることを強要され、またカトリックの使用人を雇うことを禁じられたそうです。
そんな風に育てられたせいか、ジョージはプロテスタントを上手に装っていたのかもしれません。
女王エリザベス1世とジェームズ1世に信頼され、重臣として仕えていた初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシル(従兄弟がフランシス・ベーコン)の秘書官をジョージは務めました。1601年~1603年頃のこと。
ジョージはジェームズ1世にも気に入られ、国王代理として多くの外国大使館を訪問したり、1610年のルイ13世の戴冠式ではフランス宮廷への大使を務めるなど、大出世をしました。
ジェームズ1世は1623年、ジョージの忠誠心に報いてアイルランドのレンスター州ロングフォード郡に930 ヘクタールの土地を与え、そこは「ボルチモアの邸宅」として知られるようになりました。
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チャールズ1世の治世が始まる
ジョージは、1625年、45歳のときに政治家を辞任しました。
ちょうどジェームズ1世が逝去し、チャールズ1世が王位を継承した年です。
辞任のきっかけになったのは、1621年にチャールズ1世とスペイン・ハプスブルク家(カトリック)王女の縁談が国王ジェームズ1世から提案されましたが(国王は王女の持参金目当てだった)、それを議会が「カトリックと親戚になるのはどうなのか」と反対しました。
すでに議会はプロテスタントが優位になっていました。
ジョージ・カルバートは親スペインの立場を取り、カトリック教徒に対する刑法の緩和を擁護した結果、周囲から孤立してしまったことが関係しているようです。
ジョージは辞任後にローマ・カトリック信者であることを公言し、子どもたち全員もローマ・カトリックに改宗しました。
結局、チャールズ1世とスペイン王女の縁談はまとまらず、両家に確執が生まれることとなり、英西戦争 (1625–1630)にまで発展しました。
チャールズ1世はフランス王ルイ13世の妹ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスと結婚したのですが(1625年)、彼女もローマ・カトリック教徒だったため、またしてもチャールズ1世は議会の反カトリック派の反感を買うことになりました。
のちに宗教を英国国教会統一化するためピューリタンを弾圧したことから、イングランド内戦(清教徒革命)が起きて、最後はチャールズ1世は処刑されてしまうのですが。
チャールズ1世とスペイン王女、王妃ヘンリエッタの話、熱く熱く語りたいのですが、長くなるのでこのへんでやめておきましょう(苦笑)
カナダのイギリス人植民地*アヴァロン
ジョージ・カルバートは、公職を辞任後アイルランド貴族院のボルチモア男爵に叙されました。
ジョージはアメリカ大陸の植民地化に関心を持っていました。
最初は商業的な理由からでしたが、後にイギリスの反カトリック主義により迫害されたアイルランド人やイギリス人のカトリック教徒のための避難所を作ることにしました。
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