ボルチモア男爵ジョージ・カルバートとフランク王国*Part2
3月末に起きたボルチモアのフランシス・スコット・キー橋崩落を覚えていますか?
市の名前の由来になったボルチモア男爵(カルバート家)のことを以前に書きましたが、私は妙に気になってあの後もずっと調べていました。
この記事では、ボルチモア男爵カルバート家の血統を追っていった結果を追っていきたいと思います。
もともとカルバート家はローマ・カトリック教徒で、「先祖はフランドルの出身」ということがわかっていたので、となればフランク王国との関りがありそうだなとあたりをつけて調べ始めましたが、1000年以上前のことは記録が残っていない(そもそもイングランドは記録がない)のでなかなか調査が進みませんでした。
結論を先に言ってしまうと、初代ボルティモア男爵ジョージ・カルバートはイングランド王国プランタジネット朝の子孫でした。
ただ、その前もその後もとても興味深い家系でした。
初代ボルチモア男爵ジョージ・カルバート
George Calvert(1580年 - 1632年4月15日)のカルバートという姓が気になって、まず、この一族はどこから来たのか調べました。
Wikipediaによると、「彼の家族はもともとフランドルの出身であると主張された」とありました。
フランドルは、フランス語から由来している地域名で、英語ではフランダースです。場所は南ネーデルランドになります。
余計にわかりづらいですね(笑)
現在は、ベルギー北部とオランダ南西部にあたります。
先祖がイングランドに移住した時期はわかりませんでしたが、カルバート姓は1066年のノルマンコンクエスト後に初めてイングランドに伝わった名前でした。
もともとの綴りはCalbertまたはCaubertで、フランスのアブヴィルAbbevilleに由来しています。
アブヴィル市公式ページ (フランス語)
アブヴィルは、かつて西フランク王国のピカルディ地方を治めたポンテュー伯によって支配された町で、ノルマンコンクエストに至るまでの政治において重要な役割を果たしました。
ノルマンクエストでは、ウィリアム征服王はブルターニュとフランドルの大規模な分遣隊を含む軍隊を編成してイングランドで戦ったそうです。
カルバート家祖先もその中の一人でした。
1066年4月にハレー彗星が現れ、彗星の出現とイギリスの後継者戦争が結びついた出来事でした。
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余談ですが、
その頃のポンテュー伯はギイ1世(在位 1053 - 1100年)で、ウィリアム征服王と対立していました。
ポンテュー家は、ピカルディ地区をバイキングから守るために創設されたそうです。
ギイ1世の祖先をたどると、カペー朝のユーグカペー(在位987– 996年)に繋がります。ポンテュー伯エンゲラン 1世 (990-1045年頃)は、ユーグカペーの孫にあたります。
ポンテュー家を調べると、お約束のようにボールドウィンとの因縁が出てくるのも興味深いです。
前述のエンゲラン1世が、ブローニュ伯ボールドウィン2世(フランダース家)を殺害し、その後ボールドウィン 2 世の未亡人でオランダ伯ゲントのアルヌルフの娘アーデルハイドと結婚したとされています。
フランダース家からはウィリアム征服王に嫁いだマチルダ・オブ・フランダース、エルサレム王となったボールドウィン1世(1065-1118)がいます。
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カルバート家祖先
ジョージ・カルバートの父レナードは、ヨークシャーの地主だったそうです。
ヨークシャー村の歴史というサイトを見ると、カルバートの名前は「牛を飼う人」の意味があり、すなわち職業名でした。
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