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紀元前のブリテン島とビーカー人

2月もマニアックな記事を書いていきたいと思います。
備忘録も兼ねているので、くどい内容になってしまいますがお許しください。

「西暦60年のブーディカの反乱」で、ローマ帝国のブリタンニア征服について書きましたが、ローマ帝国による最初のブリテン島の侵攻は、共和政ローマ末期の政務官ガイウス・ユリウス・カエサル(紀元前100年 - 紀元前44年)がガリアで戦っている最中の出来事でした。

ガイウス・ユリウス・カエサル Gaius Iulius Caesar(英語読みはジュリアス・シーザー)のガリア侵攻は長くなるので今回はスルーしますが、機会を見つけて書きたいと思います。


イギリス先史時代

※イギリスの先史時代は、紀元43年のローマ軍侵攻までを指すことが多いそうです。

グレートブリテン島は、8500年前までにはヨーロッパ大陸から分離していたと見られていますが、当時はまだブリテン島に文字がなかったため、歴史的資料は皆無とのこと。
しかし1万年前は、現在のフランスのセーヌ川とイギリスのテムズ川はひとつの川だったと言われています。(チャンネル川

現在からヴァイクゼー氷河期まで遡るドッガーランドの仮説上の範囲を示す地図(フランシス・リマ氏による)

ドッガーランド(Doggerland)は、今から1万年 - 8千年前の最終氷期、グレートブリテン島が大陸と陸続きであった時、現在のグレートブリテン島南東部に存在していたと考えられている陸地。現在は北海南部に水没し、ドッガーバンクとなっている。


グレートブリテン島の最古の名前は、紀元前6世紀頃のカルタゴ人航海者の記録にある「アルビオン」と言われています。
その後、紀元前330年から320年の間にブリテン島周辺の探検航海を行ったギリシャの地理学者ピュテアスが航海記に記していた「プレタニケ」が「ブリトニ」となったそうですが、ピュテアスの航海記は現存していないため、後の作家による引用や抄録が残っているだけだそうです。

ドーバーの白い崖

ドーバーの白い崖 は、イギリスのケント州にあるドーバー海峡に面した白亜の崖のこと。日本では、英語名をそのまま片仮名読みして「ホワイト・クリフ」ともいう。イギリスの通称「アルビオン」の由来とされている。

ローマ帝国が、ブリテン島を征服したのちに「ブリタンニア」と呼ばれるようになったそうです。

【イギリスの旧石器時代】

ブリテン島が大陸と陸続きになっている間に、ヨーロッパ本土から狩猟のために来た人々が最初に居住したと考えられます。
ブリテン島の人類最初の足跡として、80万年以上前のハピスバーグ原人の足跡の化石と石器が発見されています。


ブリテン島の旧石器時代は1万年前までで、この間に幾度かの氷期と間氷期がありました。
45万年前から30万年前にかけてのアングリア氷期には、ブリテン島は居住に適さなくなったため人類が去り、続くホクスン間氷期(40万-37万年前)には再び気候が温暖になったため、人類が戻り狩猟をした形跡が発見されているそうです。

その後も氷期と間氷期を繰り返し、ネアンデルタール人が南部に住むようになったのは6万年前ごろ。3万年前にホモ・サピエンスがブリテン島にやってきました。


オーリニャック文化

29,000年前のものと推定される"Red Lady of Paviland"と呼ばれる、赤土を塗って埋葬された女性(実際は男性だった)の化石がウェールズで発見されており、この時期はオーリニャック文化とよばれています。

中央ヨーロッパと西ヨーロッパのオリニャック人、人口の地域と西への進行の地図

オーリニャック文化はフランス・ピレネー地方を中心とする地域の旧石器時代後期に属する一文化。ヨーロッパにおいて更新世の最後の氷期である第4氷期の第1亜間氷期から第2亜間氷期まで続いていた。

30000年前のチェコや35000年前のベルギーの人骨からハプログループC1a2 (Y染色体)が検出されており、このタイプがヨーロッパで最古層としてオーリニャック文化を担ったと考えられる。
またヨーロッパ第二波のハプログループI (Y染色体)もこの文化を担った。


オーリニャック人は、アフリカから近東を通って旧石器時代のヨーロッパに広がったと考えられており、ヨーロッパの初期現生人類、またはクロマニヨン人として知られています。


【イギリスの中石器時代】(紀元前 9,000 年頃から 4,300 年頃)

ヤンガードリアス期(寒冷期)の後に、温暖な完新世(紀元前 9,700 年頃に始まった)が現在まで続いています。

最終氷期極大期以降の後氷期の気温の推移。ヤンガードリアの大部分で非常に低い気温を示し、その後急速に上昇して温暖な完新世のレベルに達しました。


紀元前 9,400 年から 9,200 年頃まで最後の気温低下期があり、紀元前 9,000 年頃までにブリテン島に人類が住み始めました。

気候が温暖になったため植物が繁茂し、動物が増える一方でトナカイや野生の馬の集団は減少し、人々が食する肉類は豚やイノシシ、ヘラジカ、アカシカ、牛などに置き換えられ、狩猟技術も変化しました。
この頃は西ヨーロッパ狩猟採集民に分類されています。

西ヨーロッパ狩猟採集民(c. 15,000~5,000 BP)は、中石器時代に、イギリス諸島から西ヨーロッパ、南ヨーロッパ、中央ヨーロッパに広がっていた狩猟採集民集団および子孫を指す。
考古遺伝学の用語。現代ヨーロッパ人の祖先構成要素の一つであり、東バルト海の住民にその遺伝子が多く残っている。


アメリカの遺伝学者デイヴィッド・エミル・ライク David Reich 氏によると、DNA 分析により、西部の狩猟採集民は典型的には浅黒い肌、黒い髪、青い目をしていたことが示されました。

肌の色が黒いのは、アフリカに起源があったためであり(すべてのホモ・サピエンス集団は最初から黒い肌をしていたらしい)、青い目は虹彩の色素脱失を引き起こしたOCA2遺伝子の変異の結果だそうです。

ホモ・エレクトス最大範囲(黄色)、 ホモ・ネアンデルターレンシス最大範囲(黄土色)と
ホモサピエンス(赤)

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サマセット州チェダー渓谷にあるゴフの洞窟で発見された人間の男性の化石チェダーマンは、英国最古のほぼ完全な人骨で紀元前約 7150 年のものと推定されています。

DNAの分析により、彼は当時の西ヨーロッパの狩猟採集民の典型的なメンバーであり、青緑色の目、暗褐色または黒色の髪、暗色または暗色から黒色の肌を持っていた可能性が高いことが示されているそうです。

チェダーマンのミトコンドリアDNA は、2018 年に自然史博物館が次世代シークエンシングを使用した研究によってハプログループ U5b1であることが発見されました。
西ヨーロッパ中石器時代の狩猟採集民の約 65% がハプログループ U5 を持っていました。現在では、低頻度で、ユーラシア西部とアフリカ北部に広く分布しています。

マグダレニアン文化

ゴフの洞窟ではチェダーマンとは別に、約14,700年前の動物の骨と人骨が発見されており、マグダレナ人が洞窟を使用していたことがわかったそうです。

マグダレニアン文化は、約17,000年から12,000年前に遡る西ヨーロッパの後期旧石器時代および中石器時代の後期の文化です。
フランスのドルドーニュ県のヴェゼール渓谷にある岩のシェルターであるラマドレーヌにちなんで名付けられました。
ヴェゼール渓谷の先史的景観と装飾洞窟群 - Wikipedia

ラスコー壁画は約 17,000 年 (マグダラ時代初期) と現在推定されています。


ゴフの洞窟で発見された人間の頭蓋骨は、肉を剥がした痕跡と儀式用のコップやボウルに加工された可能性があり、ドイツのブリレンヘーレホーレ・フェルス、ポーランドのマシツカ洞窟などの他のマグダレナ文化遺跡でも発見されている人肉食の証拠とみなされているそうです。

今聞くと「オエッ」となってしまう非人道的なカニバリズムですが、実は旧約聖書では禁じていないという・・・


【新石器革命で定住化】紀元前4000年頃

新石器時代(Neolithic)で、ブリテンは狩猟・採集を主とする生活から、定住し農耕・牧畜による生活へ変化しました。

農業は、紀元前10,000年頃に肥沃な三日月地帯で最初に行われたと考えられています。そこからヨーロッパ全土に伝播していきました。
中東からヨーロッパへの農業の広がりは、約9,000年前のアナトリアからの初期農民の移住(EEF)が強く影響したようです。

初期ヨーロッパの農民(EEF)は、ほとんどが黒髪黒目で、明るい肌だったと考えられています。

初期ヨーロッパの農民(EEF)


ブリテン島が大陸から切り離されたため、初期ヨーロッパの農民が移住して来るまで他のヨーロッパの地域より数千年の遅れがあったそうです。

ブリテン島の新石器時代の人々は、イベリアや中央ヨーロッパの初期・中期新石器時代の集団に近く、祖先の約75%が初期ヨーロッパ農耕民(EEF)、残りがヨーロッパ大陸の西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)に由来すると言われます。

彼らはその後、イギリス諸島の西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)集団とあまり混血することなく、西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)集団のほとんどに取って代わられたと見られています。

約5000年前のブリテン島の女性
約4400年前のブリテン島の男性


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農耕・牧畜の開始により安定した食料生産が可能になり、食生活の変化で人口が急増し、更なる生産力の向上に繋がり農耕・牧畜社会は拡大していきました。新石器革命

定住生活により集団・組織化が起き、やがて定着集落(村落)が形成されることになります。
また、一箇所に留まることが可能となったことで社会にゆとりが生まれ、時間を掛けて様々な物を製作できるようになったり、交易を行う行商や専門技術を担う職人が出てくるようになったのでした。

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新石器時代は共同埋葬

紀元前4000年頃の墓は、チェンバード・ケルン(石室のある記念碑)またはロングバロー(土を盛った長方形の墳墓)が使用されました。
このような共同墓地の存在は、集落の人びとの結びつきを強める役割があったと考えられています。

ブルターニュのガブリニス島にある新石器時代の通過墓のケルン
チェンバード・ケルン
オックスフォードシャー郡のアシュベリー村の近くにある新石器時代のロングバロー


紀元前3500年頃になると、「土手道のある囲い」causewayed enclosuresと呼ばれる溝と土手によって区切られた囲い地が造られました。
溝からは人や動物の頭蓋骨、土器や未使用の斧が発見されており、式典に使われた囲い地「 Ritual landscape 」だったと察せられています。

ロングバローと土手道のある囲いを中心に、多くの儀式用景観が徐々に構築されていきましたが、紀元前1500年からは使用されなくなったそうです。

最初のストーンヘンジが作られたのが同時期と思われます。


【青銅器時代のブリテン島】(紀元前2200年頃~紀元前750年頃)

紀元前1650-1400年頃に金属加工の技術が飛躍的に向上し、銅に錫を混ぜて青銅をつくる技術、鋳型によって大量生産する技術が急速に発達しました。錫鉱は豊富な埋蔵量があり、大陸に輸出されていたそうです。

この頃にビーカー人が定住したと見られています。
ビーカー人は人種ではなく、ビーカー文化圏の人という意味らしいです。もともとは放浪民。
ビーカー文化の起源はいくつかの地域、特にイベリア半島、オランダ、中央ヨーロッパであると推定されています。

ベルビーカー文化(Bell-beaker culture、あるいはビーカー文化、Beaker culture、広口杯文化、さらにはビーカー民、Beaker folk/Beaker people)は、紀元前2600年ごろから紀元前1900年ごろまでの、後期新石器時代から初期青銅器時代にかけて広がっていた、鐘状ビーカーと呼ばれる独特の大型広口杯の水平分布域(cultural horizon)。「文化」とつくが、単一の文化圏ではない。

ベルビーカー

ビーカー陶器は、平らな斧や埋葬の習慣とともに、マウント・プレザント期(紀元前 2700 ~ 2000 年) に出現しました。
ベルビーカー時代の初期の遺跡でもっとも有名なのは、ストーンヘンジとシルベリー・ヒルがあります。

ビーカー人は遺体のミイラ化、木の幹の棺(丸太棺)の埋葬、および新生児の頭蓋変形(頭蓋骨を意図的に変形させる)も伝えました。

フランスのトゥールーズ地方では、19世紀にトゥールーズ型という女性による鞍型の頭蓋変形が行われていたが、変形の目的は研究者間でも意見が分かれており、当時の女性の風俗である頭巾を被るためとも、美的観念からとも、骨相学からくる優生学的な意味合いからとも言われている。

日本の弥生時代終末期(3世紀)と古墳時代中期(5世紀)において限定的ではあるが、確認されている。弥生時代のものは、鹿児島県南種子町所在の史跡「広田遺跡」出土の人骨である。

コンゴ・マンベツの女性、写真:カジミエシュ・ザゴルスキー


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新石器時代の共同埋葬の習慣とは対照的に、青銅器時代のブリテンは個人埋葬へ変化しました。青銅器時代初期は個々のロングバローに、多くの場合ビーカーが遺体と一緒に埋葬されました。

木の幹の棺は、1191年にグラストンベリー修道院で発見されたと言われているアーサー王の遺体が納められた棺は、巨大なオークの幹のものであると記述されています。
ヨークシャーで発見された紀元前 2 千年紀の保存状態の良い人類「グリストソープ人」が 樫の木の幹の棺で埋葬されていたとのこと。彼は動物の皮に包まれ、鯨の骨と青銅の短剣、そして旅の食料を携えていたそうです。

丸太棺


ウェセックス文化

ウェセックス文化はオランダ南部、ベルギー、フランス北部などのヒルフェルスム文化と関連があり、同時にフランス北部のアルモリカ古墳群とも関連がある。

ウェセックス文化はストーンヘンジの建設と関わっています。

この時期のブリテンのユニークな輸出品は錫であったと考えられています。
現在のイングランド南西部のコーンウォールデヴォンで錫の採掘が始まり、南西部では貿易が盛んになりました。
錫、錫製品を輸出し、バルト海の琥珀やドイツの宝石、ブルターニュの金、ミケーネの短剣・ビーズなどを輸入していました。

このような貿易から得た富により、ストーンヘンジの第 2 期と第 3 期 (巨石)を建設することができたと見られます。

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2002年にストーンヘンジの近くで発見されたエイムズベリー・アーチャー(男性の遺骨)は、紀元前 2300 年頃のものと考えられています。

家族の絆:エイムズベリー・アーチャーとコンパニオンのDNAを解読する |過去の (the-past.com)

アーチャーの墓からは、青銅器時代初期の英国の埋葬でこれまでに発見された中で最も多くの遺物が出土したそうです。
ビーカー文化に関連するタイプの葬儀用の壺5 つ。3 つの小さな銅製のナイフ。16本のフリントの矢じり。
イノシシの牙、火打石打ちと金属加工の道具のキットなど。これは彼が銅細工師であったことを示唆しているようです。

ブリテン島で発見された初の「金」の髪飾り

歯のエナメル質の酸素同位体分析を使用した研究により、アーチャーの出身地は中央ヨーロッパの西アルプス周辺であったことがわかっています。
Y-DNA は R1b。
少し離れた場所に、同時期の埋葬ではないがコンパニオンと呼ばれる若い男性の遺骨があり、アーチャーの子孫と見られています。

ブリテン島に冶金技術を広めたのもビーカー人だと言われていますが、アーチャーの出身地であるアルプス方面で冶金加工術の文化があったと考えられます。


そしてビーカー人以後わずか数世紀の間に、突然の遺伝子の入れ替わりが起きたと言われています。
つまり、先住民族は疫病の伝染か、あるいは(ビーカー人による)大量虐殺で絶滅したということじゃないかと思います。

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ビーカー人は金属精錬の技術をもたらし、当初、彼らは銅から製品を作りましたが、紀元前2150年頃からは、銅と少量の錫を混合することで銅よりもはるかに硬い青銅を作る方法を発見しました。
この発見により、イギリスでは青銅器時代が始まりました。

イギリスの青銅器時代の宝物のリスト

青銅の槍先、紀元前 1200 ~ 800 年
モールドケープ、紀元前 1900~ 1600 年
リラトンゴールドカップ、紀元前1700年


青銅器時代後期の崩壊(紀元前 12 世紀)

紀元前12 世紀に広範な社会崩壊が起こりました。前1200年のカタストロフ

紀元前1200年ごろ、環東地中海を席巻する大規模な社会変動が発生した。現在、「前1200年のカタストロフ(破局とも)」と呼ばれるこの災厄は古代エジプト、西アジア、アナトリア半島、クレタ島、ギリシャ本土を襲った。この災厄は諸説存在しており、未だにその内容については結論を得ていない。

あいひんさんも前1200年のカタストロフについて書かれています。

カタストロフにより、ヒッタイトのみが所有していた鉄器の生産技術が地中海東部の各地や西アジアに広がり、青銅器時代は終焉を迎え、鉄器時代が始まりました。

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紀元前1300年頃、ドイツ北部のトレンセ渓谷で4,000人の戦士が戦いを繰り広げたと推定されています。

現在の研究では、中央ヨーロッパの南部や西部から来た武装集団が、北や東へ向かう途中に戦闘になったと考えられています。
考古学者のデトレフ・ヤンツェン氏は、「トレンセ渓谷はヨーロッパ最古の戦場であり、世界で最も重要な50の遺跡の1つである」と主張しています。

エジプトとヒッタイトがエジプト・ヒッタイト平和条約(紀元前1269年)を締結した頃に起きた戦争だということも興味深いです。
この戦い後、中央ヨ―ロッパからブリテン島へ多くの移住者がありました。


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ケルト文化

ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化(紀元前1200年 - 紀元前500年)を発展させたと考えられてきた。
当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアからの圧倒的な影響下で、ハルシュタット文化はラ・テーヌ文化(紀元前500年 - 紀元前200年)に発展する。

ハルシュタット文化とラ・テーヌ文化の概要。
濃い黄色:ハルシュタットの中核領域 (HaC、紀元前 800 年)
ハルシュタットの最終的な影響範囲 (紀元前 500 年まで、HaD) は薄黄色。
ラ テーヌ文化の中核地域 (紀元前 450 年) の緑一色。
薄緑色のラ・テーヌの最終的な影響地域(紀元前 250 年まで)。


ハルシュタット文化は、中央ヨーロッパにおいて青銅器時代後期(紀元前12世紀以降)の骨壺墓地文化から発展し、鉄器時代初期(紀元前8世紀から紀元前6世紀)にかけて主流となった文化。後に中央ヨーロッパのほとんどはラ・テーヌ文化に移行した。

ラ・テーヌ文化(紀元前450年から古代ローマによって征服される紀元前1世期まで)は、ヨーロッパの鉄器時代の文化であり、スイスのヌーシャテル湖北岸にあるラ・テーヌの考古遺跡で1857年 Hansli Kopp が多数の貴重な遺物を発掘したことから名付けられた。
ローマ以前にガリアに進出したギリシア人やエトルリア文明などの地中海からの影響を強く受けている。


ケルト民族とケルト言語が最初に英国に到達した時期については、仮説が複数存在します。
2021年、考古遺伝学の研究により、紀元前1,300年から紀元前800年までの500年間にわたり、ケルト人の英国南部への移住が明らかになりました。

ケルト人は「遺伝的にフランス(ガリア)から来た古代の人々に最も似ており」、より高いレベルの初期ヨーロッパ農民(EEF)の祖先を持っていることがわかっています。


【ブリテン島の鉄器時代】(紀元前 750 年頃 – 西暦 43 年頃)


紀元前 750 年頃、鉄の加工技術が伝わり、生活の多くの側面に革命をもたらしました。
農業においては鉄の鋤は、古い木製や青銅製の鋤よりも速く深く土を回すことができ、鉄の斧は農業のために森林をより効率的に伐採することができました。

鉄器時代はさらに細分化され、英国の「後期鉄器時代」はローマまたはガリア文化の影響を受けた新しいタイプの陶器の発展が見られます。
農作物栽培のための森林伐採が激化し、より重くて湿った土壌の地域が定住地になりました。スペルト小麦(Triticum spelta )は、ティーズ低地やイングランド北部の一部などの地域に植えられました。

バタシーシールド、c。紀元前 350 ~ 50 年
鏡(裏面)
ウォータールーのヘルメット


紀元前 8 世紀までにヨーロッパ大陸とイギリス南部と東部が密接に結びついた証拠が増えてきました。
フェニキアの商人たちが鉱物を求めてイギリスを訪れ始め、地中海から商品を持ち込んできたと考えられます。同時に、北ヨーロッパの陶磁器や工芸品が北海を越えて大量に英国東部に到着しました。

この時代には、巨石建造物(ストーンヘンジ)への興味が失われましたが、ヒルフォート(丘砦)やスコットランド北部のブロッホなど、印象的な遺跡が多くあります。

ヒルフォート(丘砦)の建設

メイデン キャッスル (ドーセット州)

ヒルフォート(Hillfort)は丘の上に作られた要塞化された集落を指す総称で、ヨーロッパの広い範囲で青銅器時代後期から鉄器時代にかけての時期に築かれました。

この頃から部族間の闘争が激しくなったと考えられています。
丘陵地の頂上部分に外周に沿って溝が掘られ、防衛の拠点や戦時の避難場所としてだけでなく食料の備蓄や交易・手工業の中心として発展しました。

ブリテン島でヒルフォートの建設が最初に行われたのは、ウェセックスでした。島全体では2000以上建設されています。

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上の写真のメイデン キャッスル(乙女の城)は、紀元前 600 年頃に建てられました。もともとは、新石器時代の「土手道のある囲い」がその場所にありました。
ヒルフォートと「土手道のある囲い」の明らかな違いは、溝の大きさ深さ。
「土手道のある囲い」は、ローマのポメリウム(聖域)のように境界線を示すためで、ヒルフォートは要塞の目的もあったので深い溝になりました。

メイデンキャッスルは、紀元前450年頃には大きく拡張され、ほぼ3倍の19ヘクタール (47 エーカー) となり、英国最大の丘陵要塞となりました。
紀元 1 世紀にローマがブリテンを征服した後、ローマ人が軍事駐留していた可能性があります。

ヒルフォートには、ラウンドハウス(円形住居)、貯蔵穴、農業用倉庫として使われたと思われる小型の四本柱の構造物などの建造物がありました。
ブリテン島のラウンドハウスの方位は、出入り口が東または南東を向いていたそうです。

アーサー王のキャメロットか?とも言われるサマセット州キャドベリー城砦


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スコットランドでは、ブロッホ( brochs )と呼ばれる、内部が空洞になった円形の石造りの建物が建設されました。
内部には木製の階段があり、おそらく2階が居住で、1階は家畜のスペースに使われていたようです。

この建築のアイデアは、どこから来たかは今だわかっておらず、考古学者は、この地域に新たに定住した人々の建造物であると考えているそうです。

ブロッホ
ブロッホ内部

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大陸との交易

大陸との商業的な接触は、紀元前124年にローマがガリア・トランサルピナ(ガリア・ナルボネンシスに改名)を征服してから増加しました。
イタリア製ワインは、アルモリカ部族との交易によりブリテン島南西部のヘンギストブリーの港に運ばれました。

ガリア・ナルボネンシス(Gallia Narbōnēnsis)は、ローマ帝国の属州のひとつ。現在のフランス南部、ラングドック地方およびプロヴァンス地方に該当する。
もとの呼び名はガリア・トランサルピナ(Gallia Transalpina、「アルプスの向こうのガリア」)。

ヘンギストブリーでは、ブルターニュ半島のアルモリカ(ArmoricaまたはAremorica)のコインや陶器、北イタリアのワインの輸送に使用されたアンフォラの破片が非常に大量に発見されています。

ワイン用アンフォラ

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ガリア時代のアルモリカと呼ばれる地域には、ケルト系の複数の部族が存在し、さらに複数の連合体を形成していました。
中でも力が強かったのが、西部のオシスミ族(この世で最も偉大な者と言う意味)、南部のヴェネティ族と見られます。

ヴェネティ族は、ブリテン島南西部のブリトニック文化に強い影響を与えました。

紀元前1世紀のガリア人を含むケルト人の各部族の居住範囲


オシスミ族のコイン
ヴェネティ族のコイン

ヴェネティVeneti族

ジュリアス・シーザーがその強さに一目置いたというヴェネティ族は、商人や航海術に長けた海洋民族で、長老で構成される元老院や大艦隊を持っていたそうです。
ヴェネティ族は、真珠、青銅製の壷、ワインやオリーブオイルで満たされたアンフォラ、彫像、宝石や豪華な装身具、そして武器を扱っていました。

ヴェネティ人はモルビアン湾に沿ってアルモリカ南部に居住し、満潮時には島となり干潮時には半島と陸続きとなる高台に砦(現在のヴァンヌ)を築いていました。

中世の街並みが残るヴァンヌ


紀元前100年頃、貨幣が使われ始める

イギリスの考古学的記録に登場する最古のコインは、紀元前3世紀または4世紀のカルタゴの青銅ですが、通貨として使用された可能性は低いようです。これらのコインは、カルタゴシラクサによって傭兵への支払いとしてケルト社会に入った可能性があります。

紀元前3世紀末から2世紀初頭のコインも発見されていますが、通貨として使用されたという証拠は見つかっていません。

紀元前50年頃にブリテン島で鋳造されたとみられるコイン

上の写真のコインを鋳造したカッシウェラウヌスは、『ブリタニア列王史』に登場する紀元前1世紀に実在したブリトン人の王で、ジュリアス・シーザーのブリタンニア遠征(紀元前54年)に抵抗しました。
カッシウェラウヌスについては、別の機会に書きますね。

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長くなりましたので、今日はこのへんで。
最後までお読みくださりありがとうございました。

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