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聖パウロとキリスト教徒の迫害
このところアメリカとイギリスについての記事が続いていて、ローマとキリスト教のことがちっとも書けていませんでしたが、今回はローマとキリスト教にちなんだ記事になります。
ローマでは、380年にテオドシウス 1世(在位:379年 - 395年)がテサロニケ勅令を発布するまで、キリスト教は国教ではありませんでした。
「ローマ宗教は絶対者という概念を欠いており、真の大母神をももたず、死後の生への希望を抱いていなかった」(ゴドウィン『古代密儀宗教』)。しかし(それ故にと云おうか)ローマが東方に勢力圏を拡大するとともに、霊的要求に応じたさまざまな宗教が流入するに至った。先ず、→ pic.twitter.com/bNYmezfkS3
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) February 24, 2024
1世紀のクリストゥス信奉者
イエス・キリストは西暦33年頃に亡くなったとされていますが、西暦70年ぐらいまでローマ市民はキリスト教を認知しておらず、ユダヤ教の新しい一派ぐらいに思っていたようです。
西暦1世紀頃のキリスト教徒は「クリストゥス信奉者」と呼ばれ、ローマの政府機関もキリスト教とユダヤ教を明確に区別できていませんでした。
聖パウロが、ローマ帝国から「イエスの追随者」が迫害を受けていることを新約聖書に書いていますが、はじめはパウロ自身も彼らを迫害する側でした。
上の記事に書いたステファノの処刑にパウロが関与したと言われています。
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パウロは西暦4年か5年に、トルコのタルススの裕福なユダヤ人の家に生まれました。タルススは、紀元前64年にローマ属州キリキア州の首都になり、全ての住民にローマの市民権が授与されました。
キリキアといえば海賊で有名な土地でした。
パウロはギリシア語とヘブライ語を話すことができたそうです。
パウロの元の名前は「サウロ」で、聖書に登場するイスラエルの初代王であり、パウロと同じくベニヤミン族の一員であったサウル王にちなんで名付けられたそうです。
キリスト教に改宗した後に、へり下って「パウロ」(ラテン語で小さき者)と改名したようです。
サウロの語源はヘブライ語の動詞 shaʾ(=「求める」、「祈る」)に関連しており、この名前は「(神に)求められた者」、「祈った者」を意味する。
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ベニヤミンは、旧約聖書の『創世記』に登場するヤコブの12番目の息子である。イスラエル十二支族のうちで彼を祖とする一族をベニヤミン族という。聖書の物語によるとベニヤミンはカナンの地で生まれました。
ヤコブを父とする12族は図のとおり。先妻と後妻、生まれた順序等を考えると興味深い。姉妹の姉レアとの間に4人が生まれ、その末子ユダが王家を継ぐ(「ユダヤ人」という言葉はこれを適用した語)。
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) February 12, 2024
そして、このユダを祖とするユダ族と、全体の末子ベニヤミンを祖とする部族とが、南王国に住す。 pic.twitter.com/WqNyLGEUOc
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パウロの回心
パウロは、ユダヤ教徒時代はファリサイ派に属していました。ファリサイ派は、ユダヤの律法を重視するグループでした。
パウロは分派を嫌っており、イエスの初期の弟子たちをユダヤ教の新しい一派で、ユダヤ教徒を分断している異端とみなし、迫害していたそうです。
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パウロが回心したのは、イエスが亡くなったあと紀元34年頃にイエスの幻を見てからとされていますが、パウロ自身は時期については言及していないようです。(イエスの直接の弟子ではないので12使徒には数えられていない)
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新約聖書には、パウロが伝道を始めた50年から60年の間に書いたとされる、13通の手紙シリーズが収録されていますが、現在はその半分が偽書だとされています。誰かがパウロに成りすまして書いたということですね・・・。
パウロは50年代初頭までにヨーロッパに移り、ギリシャのコリントにしばらく滞在したようですが、西暦60年頃にエルサレムに3回めの伝道に出かけ、そこで逮捕されてローマに送還されたそうです。
ローマでは軟禁生活を送り、60年代後半に殉教したと言われています。
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パウロの泉
そんなに熱心な伝道活動をしていたのに、「64年~67年頃に斬首されたらしいよ」としか伝えられていないのが不思議です。
さらに不思議なのは、斬首されたパウロの頭が地面を3回バウンドして、その各所に噴水が湧いたそうなんです。
(キリスト教ではよく「3回」を使います。トリニティですね)
その場所に建てられたのが、サン・パオロ・アッレ・トレ・フォンターネ(San Paolo alle Tre Fontane「3つの噴水の聖パウロ」という意味)のカトリック教会です。
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ラテン語でSancti Pauli ad Aquas Salvias(セントポール・アド・アクアスサルビアス)と言うそうですが、「Aquae Salviae」と呼ばれる泉はキリスト教以前の時代にすでに知られており、発掘調査によって古代のモザイク舗装も見つかったそうです。
発掘しなければよかったのにね。
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この教会自体は5世紀に建てられたそうですが、Wikipediaによると、パウロが殉教した直後に、ローマに住む「ルキナ」という裕福な女性がパウロの遺体を引き取り、自分の所有地に埋葬したことがわかりました。
スペイン語で書かれたローマのサイトを見ると、「Praedio Lucinae」(プラエディナ ルキナエ)という女性だと書かれていまして、以前に「1世紀のローマで初めてのキリスト教徒」に書いた「ルキナ」(洗礼名)と同一人物のようです。
パウロの墓
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コンスタンティヌス1世(大帝)により聖パウロの墓を祀る聖堂としてつくられ、386年にテオドシウス1世によって大規模に建設されたサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂。
サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂は、先のパウロの「3つの泉」と呼ばれる場所から約3 km離れた場所にあります。
ここが、プラエディナ ルキナエという女性の所有地だったそうです。
4世紀にコンスタンティヌス大帝が、最初の聖堂をを作り、324年11月18日に教皇シルウェステル1世(シルベスター)によって奉献されました。
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聖パウロの像が長剣を手にしているのは、彼の象徴的な意味を表している。十三世紀以降、書物にかわって長剣がパウロのシンボルとして用いられるようになった。
二本の剣を持ったパウロ像もある。
一本はパウロの殉教(彼は斬首されたため)
もう一本は、パウロが宣べ伝えた神の御言葉を表しているという。
「御言葉は霊の剣」(エフェソ6・17)
ローマ人は、町の周りを高い城壁でぐるりと囲むのが常ですが、この大聖堂は城壁の外に建てられていたので、9世紀にサラセン人の襲撃によって破壊や掠奪されたため、教皇ヨハネス8世(872年 - 882年)は巨大な防護壁を建てたそうです。
サラセン人とはアラブ人を指しますが、9世紀はローマ・カトリックには受難の世紀で、ひとつ前の記事に書いたトリーアの大聖堂を含むヨーロッパやイングランドの教会は、ゲルマン人(ヴァイキング)によって教会が破壊されています。
ヴァイキングの侵略は9世紀頃から活発になった。
— 森の夢*michaela (@michael5131995) April 10, 2024
「リンディスファーンの蹂躙は、カール大帝によるザクセン戦争、すなわちキリスト教徒による異教徒に対する戦争と時期を同じくする」という。
ヴァイキング=大異教徒軍だと色々腑に落ちる。https://t.co/gXsyGzG8FE
最近はアメリカではプロテスタントの教会が、フランスではカトリック教会が火事にあっています。
また宗教弾圧や宗教改革が行われるのかなと思ったりしています。
ああ、やっぱり💦
— 森の夢*michaela (@michael5131995) April 14, 2024
4月8日、ノートルダム・ド・ブリングロ教会(ブルターニュ地方)が全焼。
17世紀に建てられたカトリックの教会。
パリのノートルダム大聖堂の火事から4月15日で5年になるので、嫌な予感がしていた。https://t.co/Wszq41DGMA
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キリスト教徒の迫害
初期はユダヤ教徒とローマ人の両方から
エルサレムで始まったキリスト教が、ローマに到達したのは西暦60年頃と言われています。
初期のキリスト教徒は、キリスト教が生まれたユダヤ教の信者と、ローマ人の両方から迫害されていたそうです。
上述したように、パウロも「クリストゥス信奉者」をユダヤ教の一派だと思っていましたし、ユダヤ教徒と初期のキリスト教徒の違いは、パレスチナから離れたローマ人にはわかりませんでした。
キリスト教徒だから迫害されたわけではないのです。
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ユダヤ人追放令
ローマはもともと多神教でしたが、皇帝を神話の神の生まれ変わりとみなしていたので、異教徒に対して「神像を敬ってくれるなら、ローマにいてもいいよ」というスタンスでした。
ところが一神教が広まるにつれて、帝国崇拝とイデオロギー的に対立するようになるのは想像に難くないです。
シーザーの時代からユダヤ教は公認されていたのですが、クラウディウス帝(在位 41年 - 54年)が「ユダヤ人追放令」を出したのが49年のことです。
その後、第一次ユダヤ戦争が66年に、115年トラヤヌス帝(在位:98年 - 117年)治世中に第二次ユダヤ戦争(キートス戦争)、131年にはハドリアヌス帝(在位:117年 - 138年)による第3次ユダヤ戦争(バル・コクバの乱)が起きました。
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15 世紀の写本「皇帝の歴史」
バル・コクバの乱では、約58万人のユダヤ人が死亡したそうです。
反乱を鎮めたあと、ハドリアヌス帝はユダヤ国内のユダヤ民族主義を根絶することを目的とした一連の宗教勅令を公布しました。
彼はトーラー法とヘブライ暦を禁止し、ユダヤ学者を処刑しました。
しかし、これにより、ヘブライ語を理解する人が減少してしまったんです。
州の名前もユダヤからシリア・パレスティナに置き換え、エルサレムをアエリア・カピトリーナに改名し、ユダヤの文化を一掃しようとしたようです。
すべてのユダヤ人がエルサレムへの立ち入りを禁止され、ユダヤ人の多くは地中海各地に離散(ディアスポラ)していきました。
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ちなみに一神教が登場した要因として、紀元前1200年のカタストロフが考えられるそうです。
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(TOMITA Akio@Prokoptas氏)tweetより
北緯35°以南の気候変動による大地の荒廃が民族移動を引き起こし、牧畜民たちが砂漠を追われて農耕民の居住するオアシスや河畔に侵入し、侵略するようになる。天候神誕生の重要な契機となったというのである。
それとともに宗教は苛烈なものとなった。「こうしたきびしい気候条件のなかで、人身供犠や異常なまでの祭祀への傾倒が、引き起こされている」。「そうした苛酷な状況のなかで、人間が生きのびるためには、きびしい相互規制が必要だったのではないか」(安田喜憲『大地母神の時代』)。
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デシアンの迫害(キリスト教徒への迫害)
デキウス帝(在位 249年 - 251年)の時代に、公式に認められている最初のキリスト教徒迫害(250年デシアンの迫害)が起きています。
デキウス帝が皇帝に就任したとき、発布した勅令の本文は残っていないようですが、全国民に対して「皇帝の幸福のために、神々に犠牲を捧げるように」という命令を出したそうです。
(このとき、ローマにいたユダヤ教徒は特別に免除されています。)
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実は多くのキリスト教徒が、皇帝に忠誠を誓って犠牲を捧げたそうです。(証明書が交付されました)
しかし数は不明ですが、教皇ファビアンを含む、犠牲の執行を拒否した人は処刑されたり、獄中で死亡したり、逃亡した人もいたとのことです。
それまでローマはキリスト教に寛容であったのに、突然の弾圧にキリスト教徒は驚き、デシアンの迫害は後世に語り継がれていますが、翌年にはまたキリスト教に寛容な政府に戻ったそうです。
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歴史家タキトゥスだったかが「彼らは暗号で会話していた」と書いていたように、部外者にはわからない言葉でやりとりしている様子を現代にあてはめると「〇〇真理教」みたいな感じに見えていたんだろうと思います。
またタキトゥスは、キリスト教を迷信、過剰で非伝統的な宗教であり、社会を破壊するものであると言及しています。
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それから7年後、ウァレリアヌス帝(在位 253年11月頃〜260年)統治の時代にもキリスト教徒へ迫害が行われ(257年)ました。
キリスト教徒の墓地での崇拝行為が禁止されたため、カタコンベに聖人たちの遺骨を移したそうです。
彼(ウァレリアヌス帝)は、キリスト教徒に関する2通の手紙を上院に送った。 1つ目は257年で、彼はすべてのキリスト教の聖職者にローマの神々に犠牲を捧げるよう命令し、キリスト教徒が墓地で集会を開くことを禁じた。
258年の2通目の書簡では、司教やその他の教会高官を死刑にし、キリスト教徒である上院議員や議員はその称号を剥奪し、財産を失うことが命じられた。
ディオクレティアヌス帝の迫害
ディオクレティアヌス帝(在位284年 - 305年)の時代は、ローマ帝国においてキリスト教徒に対する最後で最も厳しい大迫害でした。( 303年)
ちょうどローマ帝国の「3世紀の危機」と言われた時代の後半です。
ディオクレティアヌス帝は、領土の拡大や分担統治により、民衆が国への帰属心を失いつつあることを危惧していました。
そのため皇帝権力の強化と愛国心の定着を図ろうとして、自らをユーピテル(ジュピター)の子であると宣言し、皇帝崇拝とローマの神々を礼拝することを国民に義務づけました。
この頃には、政府や軍内部にもキリスト教徒が増加しており(コンスタンティヌス大帝の父コンスタンティウス・クロルスのような隠れキリスト教徒もいた)、当初はローマの神々を礼拝すればキリスト教の信仰を保ってもよいと融和的な政策を行っていました。
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しかし、キリスト教徒が皇帝崇拝を無視し、ローマの神々を礼拝することもなく、キリスト教徒の兵士が軍から離脱するなど反逆行為が多発したそうです。
ディオクレティアヌス帝は、キリスト教に警戒感を抱くようになり、303年にローマ全土に、キリスト教徒の強制的な改宗、聖職者全員の逮捕および投獄などの勅令を出しました。
かつてない規模で、キリスト教徒への抑圧が全土で行われ、聖書は焼却、教会は破壊されて財産は没収されました。
公然と反抗したキリスト教徒は処刑され、その数は全土で数千人を数えたそうです。
聖バルバラも、ディオクレティアヌス帝の迫害で命を落としたと言われています。
しかし、この大迫害から8年後に、ローマ帝国におけるキリスト教徒に対する迫害が終結します。
そこからキリスト教の躍進が始まるのですが、長くなったので続きは次回に譲ります。
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余談*問題→混乱→解決→統一
ところでXを見ていたら、ブルービーム計画(新世界秩序計画)について投稿がありました。
私は数年前に話を聞いたことがあるので驚きもしなかったですが、初めて知った方もおられたようです。
内容は、日本政府も含め、西側諸国が行おうとしているNWOと同じことです。
ブルービーム計画
— 森の夢*michaela (@michael5131995) April 15, 2024
青・・・エグザイル
新世界秩序 https://t.co/eSyS5ps2LG
プロジェクト・ブルービームは、ペンタゴンとNASAのエージェントによって、人工的な再臨を実現し、全体主義的な世界政府を樹立することを目的に作られた秘密プロジェクトである。
その目的は、高度なテクノロジーと心理操作によって人々を操ることである。
新世界秩序計画
1. キリスト教や伝統的な宗教をすべて廃止し、人間のカルトに基づく単一世界宗教に置き換える。
2. 世界的なアイデンティティーと「世界的な誇り」を確立するために、すべての国家的アイデンティティーと国家的誇りを廃止する。
3.今日知られているような家族を廃止し、新しい世界政府の栄光のために働く個人と置き換える。
単一世界宗教にしたいのは、この記事でも書いたように支配者が統治しやすいからです。
昨今の様子を見ていると、「すべての宗教の廃止をするために」、宗教を対立させる流れが見えてきます。
ウクライナが自国から正教会を排除しようとしているのも、イスラエル(ユダヤ人)とパレスチナ(イスラム教)の聖地エルサレムを巡る攻防も、カトリック教会を迫害する動き(偽旗)も、各国でイスラム教徒の犯罪が取り上げられる(偽旗)のも、そのためです。
4月15日にオーストラリア・シドニー西部郊外のウェイクリーにあるChrist the Good Shepherd Churchで、司教が襲われるという事件がありました。
ウェイクリーは、アッシリア人コミュニティの拠点であり、その多くはイラクやシリアでの迫害や戦争から逃れてきた人たちとのことです。
またキリスト・ザ・グッド・シェパード教会は、約20万人のオンラインフォロワーがいるそうです。
しかもアッシリアとは・・・4月8日の日食にも遠からず関係がある国です。
マール・マリ・エマニュエル司教。
— 森の夢*michaela (@michael5131995) April 15, 2024
ガザ地区で見てきたことを話していたようです。
犯人はアラブ系の男性。メディアは15歳と報道していますが、見た目はもちょっと年上。
取り押さえられて笑っていました😲
「法則」として犯人がイスラム教徒なら名前も明かされます。ユダヤ人なら秘匿されます🤫 https://t.co/whrY4sd19L
シドニーでは、13日にショッピングモールで6人が刺殺される事件があったばかり。このときの犯人は、警官に射殺されましたが、イスラム教徒の移民で精神疾患があったジョエル・カウチという40歳の男性でした。
シドニーで再び刺傷事件 「人気」の司教ら4人けが 少年逮捕 | 毎日新聞 (mainichi.jp)
私は、ローマでユダヤ人が追放されたように、レコンキスタでヨーロッパからイスラム教徒が追放されたようなことが、これからアメリカやイギリス、フランス、イタリアで起きるだろうと思っています。
日本では埼玉県・川口市のクルド人問題が大きくなっているようですが、民族差別、人種差別が遅ればせながら日本でも起きて来ますね。
なかなか難しい問題ですが、ことさら問題を大きくし混乱させようとしている意図も感じられます。
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ローマ教皇が強かった中世キリスト教の勢いがそがれたのは、宗教改革以降、たくさんの会派が生まれ、それぞれが勝手なことを言い出し、もう収拾がつかなくなりました。
霜月やよいさんのMatrixシリーズの最新記事にもありましたが、エグザイルがコピーで増殖していったように・・・
ネタバレになるのでこれ以上書けないので、霜月さんの記事をぜひご覧ください。
よかったら、私のチャールズ3世戴冠シリーズもお読みください。
問題を作って、不安を煽り混乱させ、その混乱を治める人物(キリスト)が聖書の予言の通りに現れ、私たちを新しい世界に導くというストーリーが作られています。
でも、そこもMatrixです。
不安を感じさせることがあったら、思い出してください。
現実は幻想だということを。
今日はこのへんで。また近いうちに。
お読みくださりありがとうございました。