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備忘録*『我がアメリカのいとこ』②リンカーン大統領の母は暗殺者を知っていた?

リンカーン大統領の先祖、サミュエル(サムエル)・リンカーンがマサチューセッツ湾植民地に入植した1630年時代は、故郷ヒンガムから多数のピューリタンが移住したためヒンガムの町は荒廃したそうです。

マサチューセッツ湾植民地にニューヒンガムが設立され、ヒンガム出身のピーター・ホバート牧師がオールド・シップ教会の初代牧師となりました。
1638年にホバート牧師の先輩だったロバート・ペック牧師もニューヒンガムに移住してしまったことで、精神的にも霊的にも衰退したとイギリスに残った人たちは感じていたかも知れませんね。


オールド・シップ教会
1966年に国家歴史登録財に追加されました。

サミュエル・リンカーンの息子モデルカイ・リンカーン・シニアは、ピーター・ホバート牧師の孫姪にあたるメアリー・ホバートと再婚しています。


マサチューセッツ湾植民地

マサチューセッツ州での最初の開拓者は、1620年にメイフラワー号に乗って移住したピューリタン分離派のピルグリム・ファザーズでした。


【1620年-1629年】
ピルグリムは、1620年にプリマス植民地を設立しました。
これはジェームズタウン植民地に次いで、アメリカで2番目の恒久的なイギリスの植民地でした。

【1628年-1686年】
ピルグリムに続いてピューリタンが続き、セイラム(1629年)とボストン(1630年)にマサチューセッツ湾植民地を設立しました。
※セイラムはサレム(エルサレム)と同じです。

ピューリタンの移住は主にイースト・アングリアとイングランド南西部から来ており、1628年から1642年の間に2万人の移民がいたと推定されています。

マサチューセッツ湾植民地は人口と経済でプリマス植民地を急速に凌駕し、主な要因は人口の大量流入、貿易に適した港湾施設、および繁栄した商人階級の成長だった。

【ニューイングランド自治領1686年-1692年】

1660年チャールズ2世が王位に復帰し、彼はニューイングランドの植民地を統合することを提案し、1685年にジェームズ2世は提案を実行しました。
マサチューセッツ湾植民地の勅許は無効になり、1686年にジョセフ・ダドリーをニューイングランド大統領に指名するまで政府は支配を続けました。

1688年~1689年にかけて起きた名誉革命は、アメリカ植民地にも多大な影響があり、1989年4月にボストン暴動が起こりました。

ボストン暴動は、ニューイングランド王領の総督であるサー・エドマンド・アンドロスの統治に反抗した民衆が起こした暴動。
ボストンの民兵と市民とで構成された、整然とした「暴徒たち」が植民地の官僚を逮捕した。ピューリタンから自治領の官僚たちの仲間と思われていた聖公会の信者も反乱軍から拘留された。
かつてのマサチューセッツ湾植民地の指導者たちは、その後行政府の支配権を取り戻した。ただ、その他の植民地では追放された行政官たちが、再び権力の座に返り咲き、アンドロスは無罪になり、ヴァージニア植民地及びメリーランド植民地の総督となった。

【マサチューセッツ湾王立植民地:1692年-1774年】

ボストン暴動の結果、1692年にマサチューセッツ湾直轄植民地が発足しました。
ウィリアム・フィップス卿が最初の知事になりましたが、彼はすぐにセイラムの集団ヒステリーに巻き込まれ、悪名高いセイラム魔女裁判を審理する裁判所を設立しました。


この事件は、植民地時代アメリカにおける集団パニックの最も深刻な事例の一つと言われています。
発端は、名家の子女たちによる降霊会で、参加者が奇怪な行動を取ったことが「悪魔憑き」と見なされ、娘たちに魔術をかけた魔女がいる説が支持され、魔女狩りに発展しました。

200名近い村人が魔女として告発され、19名が刑死、1名が拷問中に圧死、2人の乳児を含む5名が獄死したそうです。


マサチューセッツ湾植民地は、しだいにピューリタン以外の宗派を信仰する人やビジネスマンも増え繁栄していきました。

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さて、前回の続きです。
※似た名前が多いのでお気をつけください。

①ではリンカーン大統領のイギリスの祖先から祖父のエイブラハム・フラワーズ・リンカーン大尉が生まれるところまで書きましたが、遡って高祖父にあたるモデルカイ・リンカーン・ジュニア(1686-1736)を先に補足します。

モデルカイ・ジュニアは、1709年頃にハンナ・バウネ・ソルターと1回目の結婚をしました。

ハンナの父は、リチャード・ソルターはニュージャージー州モンマス郡の弁護士、政治家でした。
ソルター家はイギリスのハンプシャー州から1666年以前に移住しています。

ソルター家紋章

母方のボウネ家はオランダ出身で、1633年にイギリスのウェイマスから出航したリカバリー号(1633年3月31日付の乗客名簿)でマサチューセッツ湾植民地に入植しました。

ボウネ家


モデルカイ・ジュニアとハンナ・ソルターの間に、リンカーン大統領の曽祖父ジョン・バージニア・ジョン・リンカーン・シニアが生まれました。

モデルカイ・ジュニアは遺言で、ニュージャージー州の土地を最初の妻ハンナ・ソルターとの間にできた息子たちに残し、ペンシルバニア州の土地は2番目の妻との息子たちに残しました。


祖父エイブラハム・リンカーン大尉

バージニア・ジョンは、未亡人のレベッカ・フラワーズ(フラワー家は1660年代にイングランドから移住してきた)と1743年頃に結婚しました。

エイブラハム・リンカーン大尉の妹、リディア・メイはアイルランドのマクダウェル家の子孫と結婚しました。
バージニア・ジョンについては情報が少なく、リディア・メイとマクダウェル家の結婚で生まれた娘ハンナ・マクダウェルについての情報が多いです。

1768年にバージニア・ジョンが、バージニア植民地シェナンドー・バレーに土地を購入。またオーガスタ郡(現在のロッキンガム郡)リンビルクリークの600エーカー (2.4 km2)ほどの地を購入し、家を建て定住しました。


シェナンドー・バレー


エイブラハム・フラワーズ・リンカーン大尉(1744年 - 1786年)の職業と結婚については①の記事に書きました。

アメリカ独立戦争の際、エイブラハム・フラワーズ・リンカーン大尉は、オーガスタ郡(現在のロッキンガム郡)の民兵大尉を務め、ペンシルバニア州のマッキントッシュ砦とオハイオ州のローレンス砦の建設を支援しました。

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1770年頃に2人目の妻バトシェバと結婚し、5人の子供をもうけました。
長男モルデカイ、次男ジョサイア、長女メアリー、三男トーマス(リンカーン大統領の父)、ナンシー。

1781年に一家はケンタッキー州ジェファーソン郡に移住しました。
ところがそこはオハイオ川流域のインディアンとまだ争っていた土地でした。
入植者たちは、ステーションと呼ばれる砦(西部劇に出て来るバーや食料品店がある町)を中心に集落を作り、インディアンの襲撃があるとステーションに避難したそうです。

現存するストックヤード・ステーション(テキサス)


エイブラハム・リンカーン大尉は、親戚のダニエル・ブーン(①の記事に書いた)からケンタッキー州の一等地5544エーカーを取得していたそうです。
一家は、フロイドフォークのヒューズステーション近くに定住し、土地の開墾、トウモロコシの植え付け、小屋の建設を始めました。


エイブラハム・リンカーン大尉の家


1786年5月、大尉は息子3人と農作業中に撃たれて死亡しました。
長男モルデカイはすぐさま小屋にあった銃を取りに行き、父の脇に立っていたインディアンを撃ち殺害しました。
次男ジョサイアはヒューズステーションに助けを求め走り、末子トーマスはショックで立ち尽くしていたそうです。

エイブラハム・リンカーン大尉の三男、トーマス・リンカーンは後年、エイブラハム大尉が亡くなった日の出来事を、後にアメリカ合衆国第16代大統領となる息子のエイブラハムに詳しく語った。
「インディアンに殺された父の話と、当時14歳だったモデルカイ叔父がインディアンの一人を殺した話は、私の心と記憶に最も強く刻み込まれた伝説である」とリンカーン大統領は後に記している。

未亡人になったバトシェバと子どもたちは、インディアンの攻撃の危険性が少なく、国がより厚く定住を支援していたワシントン郡に引っ越しました。

法律に基づき、長男モルデカイはエイブラハムの財産の3分の2、妻バトシェバは3分の1を継承しましたが、他の子供たちは遺産はありませんでした。
特に末っ子のトーマスは学校教育をほとんど受けられず、早くから働くことを余儀なくされました。


長男モデルカイが建てた家

兄モデルカイは、メアリー・マッドと結婚しました。
これもまた奇遇なことに、リンカーン大統領暗殺の共謀者と言われたサミュエル・マッド医師(1833年 - 1883年)の先祖でした。

マッド家の先祖は、イギリスのローマ・カトリック家系で1679年以前にメリーランド植民地に移住してきました。


父トーマスと産みの母ナンシー・ハンクス

リンカーン大統領の父・トーマス

トーマスは大工を職業にしましたが、若い頃からバプテスト派の熱心な信徒になり、最終的には宗派の指導者となりました。


1805年にトーマスが建てた自宅(レプリカ)Lincoln Heritage House
ケンタッキー州エリザベスタウン


トーマスの最初の妻で、リンカーン大統領の実母であるナンシー・ハンクス(1784年頃-1818年)は父親が不明とされており、母ルーシー・ハンクス(1766年頃 - 1825年頃)の婚外子でした。
ルーシーはのちにヘンリー・スパロウという男性(ナンシーの実父ではないかと言われている)と結婚しました。


ナンシー・ハンクスの著名な親戚には、俳優のトム・ハンクス
同じく俳優のジョージ・クルーニーは、ナンシー・ハンクスの異母姉妹であるメアリー・アン・スパロウ(1791年頃 - 1861年)が祖先です。


ハンクス家は、1654年頃にトーマス・ハンクス3世 (1625年 - 1674年頃)が年季奉公人としてイギリス・ウィルトシャーのマルムズベリーからバージニアに移住しました。
トーマスは、1676年にバージニア植民地で起きた「ベイコンの反乱」で亡くなったと見られています。


イギリスのハンクス家の紋章


1807年に長女サラが生まれ、トーマスは1809年初頭までにホジェンビル近郊に300エーカー (1.2 km2)の農場を購入し、土間付き1部屋のみの丸太小屋を建てました。ここでリンカーン大統領は生まれたそうです。


ホジェンビルのエイブラハム・リンカーンの生家のレプリカ


一家はより多くの肥沃な土地を求めて、 1811年にノブクリーク農場に引っ越し、トウモロコシやカボチャを栽培し、98人の不動産所有者のうち15番目に裕福になったそうです。
ところが混沌としたケンタッキー州の土地法により、3回も農場を失ったため、1816年12月にインディアナ州ペリー郡(現スペンサー郡)に土地を購入し引っ越しました。


リンカーンの初期の家

当時は、母バトシェバ、妹ナンシー・ブルムフィールドの夫婦、従兄弟のデニス・ハンクスも同居していた大家族だったようです。
また隣には、妻のナンシーの伯父ジョン・ハンクスの家族、叔母エリザベス・スパロウの夫婦も住んでいました。

リトルピジョンクリークコミュニティ

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ナンシーは、リンカーン大統領が9歳のとき(1818年)に、毒草を食べた牛の乳を誤飲したことでミルク病(Milk sickness)になり、34歳で亡くなったと言われています。
リトルピジョンクリークにいた人々の大半がミルク病にかかり、ナンシーの伯父や叔母も亡くなったそうです。


育ての母サラ・ブッシュ

1年後、父トーマスは、3人の子持ちの未亡人サラ・ブッシュ・ジョンストンと再婚しました。トーマスとサラは、リンカーン家がケンタッキー州に住んでいた時代の幼馴染だったそうです。


サラ・ブッシュ・ジョンストン
サラの前夫との子ども


***

サラの父クリストファー・ブッシュはオランダ生まれですが、サラの祖父ヨハン・ルートヴィヒ・"ルイス"・ブッシュが1759年頃に一家でアメリカに移住してきました。

ブッシュ家はルター派プロテスタントだったと思われます。


18世紀、1701年から1775年の間に40 - 45万人のスコットランド人、スコットランド系アイルランド人、ドイツ人、オランダ人、スイス人、フランス人(ユグノー)、そして30万人のアフリカ人がアメリカに移住したそうです。
この時代に移住したひとたちは「旧移民」と呼ばれます。


トーマス・リンカーンとサラが結婚した後の家のレプリカ
(インディアナ州リンカーン少年国立記念碑)


サラは、面倒見がよく愛情深い女性だったようです。
前夫との子ども3人、トーマスとナンシーの子ども3人、それにナンシーの従兄弟デニス・ハンクス(リンカーン大統領より10歳上)を育てました。

のちに連れ子のエリザベスとデニス・ハンクスは結婚しました。


サラは、妻を亡くした後の散らかり放題だった男やもめの家を片付け、トーマスに木の床と男の子たちのためにロフトを作らせ、さらに屋根を完成させるように注文しました。

デニス・ハンクスの回想
冬が来る前に、彼は新しい床を敷き、彼女が磨けるように鋸で切って、かんなで削った。いいベッドを作って、寝ている屋根裏に雪が降らないように屋根をいじった。すぐに、ケントリーで一番いい家ができた。

サラ自身は無学だったと言われていますが、ケンタッキーから持ってきた聖書、イソップ物語、ロビンソン・クルーソーなどの本を、子どもたちに読ように勧めていました。
リンカーン大統領は、継母のサラを「ママ」と呼んでよく懐いており、のちに「継母はしっかりしているが心優しい、笑うことが大好きだった」とサラについて言っていた記録が残っているそうです。


父トーマスは家の近くにカルバン主義の原始バプテスト派教会、リトル・ピジョン・クリーク・プリミティブ・バプテスト教会を建て、サラもその会衆に加わりました。

原始バプテスト派は成人のみを会員としていたため、親が集会に出かけている間子どもたちは留守番をしていたそうです。
成人する前に家を出たリンカーン大統領が、実家の宗教をよく知らなかったのはそのせいだったのでしょうね。

リンカーン大統領は父トーマスと対立し疎遠になったそうですが、父が1851年に亡くなった後は何度かサラを訪ねたり、母親が不自由しないように土地を購入しました。


サラは暗殺犯を知っていた?

サラは1869年まで生きました。
リンカーン大統領が暗殺されたとき、サラは実の娘マチルダ・アンが結婚したスクワイア・ルーベン・ホールの家で暮らしていました。

ややこしいんですが、スクワイア・ルーベン・ホールは、デニス・ハンクスの父親違いの兄弟で、大地主だったそうです。

デニス・ ハンクスは1889年に当時のことを回想しました。
「彼女はただ顔にエプロンをかぶって『ああ、私の息子エイブラハム。奴らが彼を殺した。奴らが殺すとわかっていた。奴らが殺すとわかっていた』と叫んだことを覚えている。彼女はその後、以前のように元気で陽気な態度を取ることはなかった。」

サラは、何を知っていたのでしょう?
サラは娘夫婦に遠慮して、それ以上言わなかったようだともデニスは言っていたそうです。

ホール夫妻の長男ジョン・ジョンストン・ホールの妻、エリザベス・ジェーン・テイラーの先祖はメリーランド植民地にのローマ・カトリック教徒でした。ルーツはイギリスですが、先祖は簡単には辿れませんでした。

私はいつも数カ所の家系図サイトを閲覧しているので、あの手この手で検索し、ロバート・テイラーという先祖が1662年以前に移住したことは突き止められました。
たぶん先祖や子孫が権威者だったり、あるいは戦争犯罪者(ナチスとか)がいて、途中がうまく繋がらないようになっているのでしょう。

イギリスのテイラー家紋章

『我がアメリカのいとこ』の作者もトム・テイラーでしたし、気になるところです。


1861年のボルチモア陰謀とゴールデンサークル騎士団

あまり知られていない1861年2月の暗殺計画(ボルチモア陰謀Baltimore Plot)は、共和党から初めて選出されたリンカーン大統領がワシントンDCの就任式に向かうのを阻止するために、民主党支持のメリーランド州ボルチモアで講演する時を襲うという計画でした。

リンカーン大統領は講演をキャンセルし、真夜中にボルチモアを通過することで難を逃れましたが、反対派は激怒し、支持者は失望しました。
そしてマスコミからは「臆病者」と嘲笑されることになったのです。


「ボルチモア通過」。
大統領に選出されたリンカーンが、不名誉にも牛車に隠れている様子を描いた作品。


ボルチモアの陰謀で疑われたのが、コルシカ島出身のシプリアーノ・フェランディーニという理髪師で、ゴールデン・サークル騎士団(Knights of the Golden Circle)という秘密結社のメンバーでした。

そしてこの陰謀計画から2カ月後、南北戦争(1861年4月12日~1865年4月9日)が始まりました。


南北戦争(The Civil War)は、1861年4月12日から1865年4月9日にかけて、北部のアメリカ合衆国と合衆国から分離した南部のアメリカ連合国の間で行われた内戦である。
奴隷制存続を主張するミシシッピ州やフロリダ州など南部11州が、合衆国を脱退してアメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまったその他の北部23州との間で戦争となった。
この戦争では史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。

実際にリンカーン大統領を殺害したジョン・ウィルクス・ブースもゴールデンサークル騎士団に所属していました。



ゴールデンサークル騎士団の目的は、奴隷制が合法となるゴールデンサークルとして知られる新しい国を作ることでした。
南北戦争(1861年4月12日~1865年4月9日)ではゴールデンサークル騎士団と「自由の息子達」のメンバーが合同でゲリラ戦を行うなど過激化していました。


長くなりました。
暗殺犯のジョン・ウィルス・ブースと共犯者たちについては、次回に回します。よかったらまたお付き合いください。
ではまた。

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