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19世紀フランスを分断したドレフュス事件とエミール・ゾラの裁判
やっと!!ネタニヤフの戦争犯罪に対して国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状が出されました。
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ICC、ネタニヤフ氏とハマス幹部の逮捕状請求 米など猛反発 | ロイター
「ネタニヤフ首相らがイタリアに来たら逮捕しなければならない」ICCの逮捕状発行受け伊国防相(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース
ネタニヤフ氏をほんとに逮捕する国があるかは別として、(ぶっちゃけ逮捕状が出たからと言ってガザの虐殺が終わるわけではない)「ガザで戦争犯罪が行われた」ことが世界中に多く認知されることは前進だと思います。
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でもネタニヤフ氏の言い分を聞いて、私はイラっとしております。
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「国際刑事裁判所の反ユダヤ主義的な決定は、現代のドレフュス裁判に匹敵するものであり、そしてそれは同じように終わるだろう」とネタニヤフは声明で述べ、フランスのユダヤ軍大尉アルフレッド・ドレフュスが反逆罪で誤って有罪判決を受けた悪名高い19世紀の事件に言及した。
詳しくは後述しますが、アルフレド・ドレフュスのルーツを辿りたく「ドレフュス」で検索しても、ドレフュス事件の事しか出てこないと言ってもいいぐらい。それだけ大問題だったということですね。
しかし、ドレフュスの冤罪とネタニヤフ氏が行ったことは、まったく違います!!
もしかすると、かつてフランスが宗主国だったレバノンを現在攻撃しているので、フランスを牽制しているつもりなのかもしれませんが。
先日のオランダ・アムステルダムの暴動事件といい、すぐに「イスラエル(ユダヤ人)は虐待されている」「反ユダヤ主義だ」という論法は、もう世界に見透かされています。
オランダの事件も事の発端はイスラエル人だったともうバレています。
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イーロンは変わらずネタニアフを支持。
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ドレフュス事件とは
1894年9月25日、パリのドイツ大使館のくず籠から、フランスの軍事機密が書かれた無記名の手書き文書が発見されました。
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この文書の発見者である掃除婦のマリー・バスティアンは、フランスの諜報機関のスパイでした。
破かれていた文書を繋ぎ合わせると、フランスの5つの軍事機密文書の発送リストだったそうです。各項目の詳細は書かれていません。
この事件は外交問題にもなるため、軍によって秘密裡に調査が進められました。
調査が始まってまもなく、筆跡が似ているということでアルフレド・ドレフュスが容疑者として逮捕されたのですが、当時のドレフュスの任務はリストに書かれていた機密情報にアクセス権がなかったそうです。
ドレフュスが犯人だと決定づける具体的な証拠がないまま、軍内部に詳しい者(誰?)からマスコミへの垂れこみがあり、新聞各紙は次々に事件を報じ、ドレフュスの名前、彼の年齢、階級を発表しました。
***
11月になるとマスコミの舌鋒も鋭くなり、反ユダヤ主義の新聞「ラ・リブレ・パロール(La Libre Parole)」は、被告人がユダヤ人であるために大臣が事件の調査を積極的に進めなかったと繰り返し非難しました。
「ラ・リブレ・パロール」の編集者で、フランスで最も有名な反ユダヤ主義者のエドゥアール・ドルモンは、ドレフュスは反逆罪を犯すためだけに軍隊に入隊したと主張しました。
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エドゥアール・ドルモンはフランス系ユダヤ人なのですが、カトリック教徒で右派のジャーナリストでした。
ユダヤ人が反ユダヤ主義ってなかなか理解しづらいですね。
詳しくは別の機会に。
エドゥアール・ドルモンは1898年から1902年までアルジェの代議院議員を務めたときに、彼はエドゥアール・アルフォンス・ド・ロスチャイルド(1906年から30年間、フランス銀行の理事を務めた)から賄賂を受け取り、銀行家が望んでいた法律を可決したとして非難されています。
反ユダヤ主義者とユダヤ人のロスチャイルドの関係ってなかなか裏暗い。
事件がマスコミに暴露されたため軍は対処を急ぎ、ドレフュスの裁判を終わらせて事態を鎮静化しようとしました。
ドレフュスは12月22日に終身刑を宣告され、翌年1月にはフランス領ギアナのデビルズ島の流刑地に送られ、その後5年間投獄されました。
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当時のフランスの世論では、ドレフュスの有罪を疑う人は彼の家族以外にはいなかったとも言われています。
また、この事件はドレフュスがユダヤ人であったために犯人にされたと言われていますが、たぶん、それは後付けだろうと思います。
アルフレド・ドレフュスについて
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国境のアルザスのミュルーズという町で、父親は綿花工場の所長の裕福な家庭に生まれたドレフュスは、1870年夏に普仏戦争後にドイツがアルザス=ロレーヌを併合したため、家族とともにスイスのバーゼルに移り、そこで高校に通った後、家族でパリに転居していました。
調べてみるとミュルーズは、18世紀後半に維産業となめし革産業によって発展した町でした。そのため町はアメリカ・ルイジアナやレバントから綿花を輸入していたそうです。
とくにケクラン家は綿織物製造の先駆者となり、ミュルーズは19世紀にフランス有数の繊維産業の中心地だったそうです。
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>>>余談
ドレフュスという姓は、20世紀以降、フランスに多くなったようですが、起源はドイツのドルフュスです。
バイエルン州のドレフュス家は、強力で名門的な地主一家だったとか。
同じアルザス地方出身の実業家に、レオポルド・ルイ・ドレフュス(Léopold Louis-Dreyfus、1833年3月5日 - 1915年4月9日)という人物がいまして、パリのルーマニア王国総領事を務め、1912年にフランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されています。
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レオポルドは、地元アルザスの農家から小麦を仕入れ、それをスイスのバーゼルで販売した。この国境を越えた穀物取引により、レオポールはまだ10代のうちに財産を築き上げ、そこから海運、軍需産業、農業、石油、銀行へと事業の多角化を進めてヨーロッパでも有数の資産家となった。
現在でも同社はレオポールの子孫が所有しており、20世紀初頭までにルイ=ドレフュス家は「フランスの5大財閥」の1つになった。
1909年にアメリカ・ミネソタ州ダルースにもオフィスを開設し、ブラジル、オーストラリアにも事業を拡大しました。
現在、ルイ・ドレフュス・グループは100か国以上に展開し、72のオフィスを構えている大企業に発展しています。
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普仏戦争でフランスが負け、アルザスがドイツに併合されたとき、ロレーヌ人とアルザス人はフランス国籍かドイツ国籍かを選ぶ機会がありました。
(アルザス=ロレーヌ地方にはユダヤ人が多かった)
上記のレオポルド・ルイ・ドレフュス同様、アルフレド・ドレフュス一家もフランス国籍を選択し、同じようにパリに居を移しています。
当時は「(戦争に勝った)ドイツ人になるより、フランス人になったほうがよい」という感じだったのでしょうかね。
フランスも中世からユダヤ人弾圧は酷かったはずですが、アルザスのユダヤ人はフランスに対する忠誠心が強かったとも言われています。
ドレフュザール派(ドレフュス事件の再審を求める運動)
アルフレドの兄マシュー・ドレフュス(Mathieu Dreyfus、1857年7月2日 - 1930年10月23日)は軍人にはならず、ドレフュス事件が起きた時は、ミュルーズに戻って綿花工場の所長になっていました。
マシューは兄の無実を信じて、法学者エドガー・デマンジュに弁護を依頼し、娘婿アドルフ・ライナッハ(エジプト考古学者)の父で政治家のヨーゼフ・ライナッハに助けを求めて、弟の冤罪を晴らすよう力を尽くしました。
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マシューは当初、友人やできるだけ多くの知人に兄が無実であることを説得することに集中しており、彼自身もフランスの諜報機関によって常に監視され、手紙も開封されていました。
しかし、マシューらの尽力も虚しく、アルフレドは終身刑となり流島になってしまいました。
翌1895年夏、マシューは『反ユダヤ主義、その歴史と原因』を出版したばかりのユダヤ人アナキスト・ジャーナリスト、ベルナール・ラザールに会い、彼が記事を作成するために必要なすべての関係文書を渡しました。
マシューをベルナール・ラザールに紹介したのは、パリの軍事刑務所シェルシュ・ミディ刑務所の司令官フェルディナンド・フォルツィネッティでした。
ドレフュスがデビルズ島の刑務所に行く前、シェルシュ・ミディ刑務所に収監されていました。フォルツィネッティは、ドレフュスの裁判に疑問を抱いていたようで、マシューの説得に心が動かされたようです。
ラザールは、ドレフュス裁判を単なる司法上の誤りではなく無実の人を陥れるための意図的な行為であると主張する小冊子『Une erreur judiciaire: La vérité sur l'affaire Dreyfus(司法の誤り:ドレフュス事件の真実)』を作成しましたがフランスでは出版できず、1896年11月にベルギーで出版されました。
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ラザールはパリの新聞にユダヤ人に対する力強い擁護を投稿し、それにより彼はドレフュスの有罪判決を支持していた世論と対立し、社会から非難されました。
新聞は、ラザールが以前には存在しなかった「反ユダヤ主義」のスキャンダルをわざと作り出していると反撃しました。
*****
アルザスの政治家で共産党のオーギュスト・ショイラー・ケストナーは、ベルナール・ラザールの影響を受け、陸軍大臣だったジャン・バティスト・ビロ将軍(ドレフュスの無実を隠蔽したと言われている)とアナキストの擁護者でフリーメイソンの第7代大統領フェリックス・フォールにドレフュスの無実を訴えました。
1897年11月、オーギュスト・ショイラー・ケストナーは、ユグノーの子孫でのちにフランスの首相となったジョルジュ・クレマンソー(在任:1906年 - 1909年、1917年 - 1920年)を引き入れ、ドレフュスの無実を述べた公開書簡を『ル・タン』誌に掲載しました。
ドレフュスが無罪になるまで、クレマンソーはドレフュスを擁護する記事を全部で665本掲載したそうです。
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ジョルジュ・クレマンソーは、カルボナリのメンバーだったフランスの革命家オーギュスト・ブランキ(短命だったパリ・コミューンの指導者)とともに受刑していたオーギュスト・ショイラー・ケストナーを獄中に訪ね、ナポレオン3世のフランスの第二帝政への憎悪をさらに深め、熱烈な共和主義を推進しました。
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パリ・コミューンについては、以下の記事に少し書いています。よかったらご覧ください。
カルボナリについてはこちらに書きました。
エミール・ゾラの裁判と突然死
1895年にベルナール・ラザールから打診を受けていた、小説家エミール・ゾラは、1896年5月に「ユダヤ人のために」と題する記事を発表しました。
ゾラは当時、ヴィクトル・ユーゴーに並ぶ人気の高いジャーナリスト&作家でした。
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1898年1月13日、クレマンソーはエミール・ゾラの『我弾劾す』("J'accuse") に始まる記事を、フランス大統領フェリックス・フォールへの公開書簡の形でパリの日刊紙『L'Aurore』(オーロール)に掲載しました。
『我弾劾す』は、軍部を中心とする不正と虚偽を徹底的に糾弾していました。
オーロールは通常約3万部を発行していましたが、この日の号はその発行部数を10倍の30万部となり、それは数時間で買い占められたそうです。
ゾラの告発の反響は大きく、フランス国内は二極化し、反ユダヤ主義の暴動がフランスの20以上の都市で勃発しました。
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マチュー・ドレフュスという名のぬいぐるみが燃やされる。
ゾラは1898年2月7日に名誉毀損罪で裁判にかけられ、2月23日に有罪判決を受け(1年の懲役と3,000フランの罰金)、レジオンドヌール勲章から除名されました。
ドレフュスの弁護もしていた弁護士フェルナンド・ラボリ(のちに暗殺未遂に遭う)は、約200人の証人を召喚しました。
これにより、ドレフュス事件の実態が一般大衆に知れ渡りました。
つまりゾラの裁判は、忘れ去られようとしていたドリュフス事件の矛盾を暴くためだったのです。
ゾラの意図は、ドレフュスの無実につながる新たな証拠が公表されるように、自分が名誉毀損で起訴されることだったそうです。
ん?これは、革命家がクーデターや要人暗殺事件を起こして、世間に問題点を喚起するやり方のアレンジじゃないか。
なぜにゾラはそれを引き受けたのか?ゾラはいったい何者?
ゾラの自らのキャリアを投げうった捨て身の裁判により、政府と軍の癒着と隠ぺいに気づいた世論はドリフュス事件の再審を請うようになりました。
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弁護士の助言でゾラがイギリスに亡命(翌年帰国)している間も、反ユダヤ主義の新聞では毎日のようにゾラに対する批判がなされ、フランスを代表する人気の思想家であったゾラの名誉は毀損されました。
ゾラは帰国後、『四福音書』の第1巻『豊穣』(1899)を出版しましたが、1902年9月29日に一酸化炭素中毒によって亡くなりました。
当時は事故として処理されましたが、煙突が塞がれており、暗殺の可能性も有力だそうです。
ドレフュス事件の真相
アルザス出身のマリー・ジョルジュ・ピカート(Marie-Georges Picquart)は、ドレフュス事件の真犯人を明らかにする重要な役割を果たしました。
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音楽家の息子であるピカートは、芸術と文学をこよなく愛し、劇場やコンサート、絵画展に足を運んでいました。
前述のジョルジュ・クレマンソーの兄ポール・クレマンソーと、オーストリア・ハンガリー帝国の有力ジャーナリストの娘である妻ソフィー・ゼープスの音楽サロンに頻繁に通っていました。
友人は、オーストリアの作曲家でユダヤ人のグスタフ・マーラーのほか、政治家や学者も多く、もちろん、エミール・ゾラとも懇意でした。
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真犯人の発見
ピカートは1872年に18歳で軍人としてのキャリアを開始し、その後、陸軍士官学校で地形学の教授をしていたとき、アルフレド・ドレフュスは彼の生徒でした。
ピカートが1895年に陸軍の諜報部門のチーフに任命された翌年、アルフレッド・ドレフュスが書いたとされた文書が、実はフェルディナント・ワルシン・エステルハージ少佐の捏造だったことを発見しました。
フェルディナント・ワルシン・エステルハージは、ハンガリーの名門貴族エステルハージ家の出身。
英国逃亡後の1899年、自分はドイツのスパイであり、ドレフュスの筆跡を真似て書類を捏造したと告白した。
1908年にジャン・ド・ヴォワルモン伯爵と改名し、その後も特に断罪されることなく1923年に死去。
エステルハージは、1880年から1882年にかけてフランス軍の防諜部門でドイツ語の翻訳に雇われていました。
そこで、のちにドレフュス事件の主要人物となったヘンリー少佐(1898年8月刑務所内で自殺)とドレフュスと同郷のサンドハー中佐(1896年に病死)と知り合いになったそうです。
サンドハー中佐は、ドレフュス事件では秘密の調査委員会を集め、ドレフュス大尉を犯人と断定しました。
犯人を見つけた褒美として大佐に昇進したサンダハーは、統計課(対スパイ活動を隠すために使われた諜報部署)を辞し、歩兵連隊の指揮官になりました。皮肉にも彼の後継者として統計課に入ってきたのが、彼らの陰謀を暴いたピカート中佐だったのです。
エステルハージは、フランスの主任ラビであるザドック・カーンの仲介を通じて、ロスチャイルド家から援助を得ていました(1894年6月)。
同時に彼は反ユダヤ主義の新聞「ラ・リブレ・パロール」の編集者(前述のエドゥアール・ドルモン)と良好な関係にあり、情報を提供していました。
また出て来ました。ロスチャイルドと反ユダヤ主義。
そもそもエステルハージはなぜドレフュスの筆跡を真似たのか?
もっと裏暗い事情があるように思います。
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1896年、ピカート中佐は、パリ駐在ドイツ軍駐在武官(任務はスパイ)のマクシミリアン・フォン・シュヴァルツコッペンがエステルハージに送った手紙を発見しました。
(ドイツ大使館は、1894年以降もずっとスパイされていたわけです)
エステルハージの筆跡とドレフュスのものとされた文書の筆跡を比較した後、ピカート中佐はエステルハージの関与を確信したそうです。
その後、ピカート中佐は調査妨害を受け、諜報長官を解任されてチュニジアの歩兵連隊に派遣されましたが、万が一のことがあった時のため、幼馴染で弁護士のルイ・ルブロワ氏に調査資料を託しました。
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1897年6月、ルイ・ルブロワ氏はそれをオーギュスト・ショイラー・ケストナー(前述)に伝えました。
1906年にドレフュスが無罪になったことで、ピカート少佐は准将に昇進し、同年、ジョルジュ・クレマンソーの初代内閣で陸軍大臣になりました。
反ドレフュス派
私たちが芸術鑑賞をするとき、作家は別として画家や音楽家がどんな思想を持っているか気にかけることは殆どないと思います。
フランス祖国同盟 (Ligue de la patrie française)には、私でも知っているエドガー・ドガやオーギュスト・ルノワール、「SFの父」のジュール・ヴェルヌほか著名な学者、科学者、作家などの知識人が3万人以上加盟し(最盛期には10万人を超えた)、ドレフュスの冤罪を晴らそうとする運動に激しく反対しました。
このような組織が誕生したことは、ドレフュス事件によって(というかゾラの裁判によって)、当時のフランスがひどく二極化していたことを表していると思います。
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フランス祖国同盟は、エミール・ゾラの裁判で高じたドレフェス擁護の動きに対して、すべての知識人がドレフュス派・左派の立場に立つわけではないこと、ドレフュスや政教分離の共和国を擁護する立場と同様に祖国を擁護する立場にも確固たる根拠があることを示すために立ち上げられた政治団体でした。
他のポピュリスト同盟とは異なり、暴力を拒否し、虐待的な言葉を避けたため、中産階級に受け入れられました。
しかし、やがて反ユダヤ主義者の割合が増え、フランス祖国同盟は分裂していきました。
◆反ユダヤ主義右翼運動アクション・フランセーズ
反共和主義、君主制を復古すべきであると主張。
そもそも反ユダヤ主義はいつから始まったのでしょう。
紀元前のヘロデ王の時代からだという人もいるし、ローマがキリスト教を国教にする前のユダヤ戦争を指す人もいます。
初期のキリスト教では、教父たちは人気があったユダヤ教に信徒を奪われないように、ユダヤ人を貶める説教を行いました。
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1897年に出版されたアイルランドの小説家ブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』は、ブラム・ストーカー自身が反ユダヤ主義者だったため、小説の舞台をユダヤ人が多かったルーマニアし、ユダヤ人が人間の血を飲んでいるという「血の中傷」をホラー小説化にしました。
「血の中傷」は、当初はイギリスとフランス国内でのみ、まことしやかに囁かれていたそうですが、やがてヨーロッパ全土を席巻するに至ったそうです。
フランスのほかの地域のユダヤ系新聞がドレフュス事件をどのように報道していたのか、参考になる資料があったのでまた書きますね。
フォール大統領の急死と風向きの変化
1899年になってドレフュスはデビルス島から帰国し、パリで再審理を受けました。
エミール・ゾラに弾劾されたフォール大統領は、ドレフュスの再審に否定的な立場を取っていました。
ところが1899年2月16日、フォール大統領はエリゼ宮(大統領公邸)で脳卒中により58歳で急逝。
大統領の急死がドレフュス事件に新たな展開をもたらしました。
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フォール大統領の後継、ピエール・ワルデック・ルソー氏(1899年から1902年まで内務大臣でした)は、ルソー氏はドレフュス事件の紛争を終わらせるために、誤審の根本的な修正ではなく、妥協案としてドレフュスに特赦を与えることで解決しました。
同時にルソー氏は、ドレフュス事件に関連するすべての法律違反に対する免責を保証しました。
1906年7月、ついにドレフュスは無罪となり、陸軍に復職して少佐に昇進しました。レジオンドヌール勲章を受章し、砲兵隊長に任命されました。
しかし悪魔島での獄中生活で健康を害していたドレフュスは、1907年10月に軍を退役し、第一次世界大戦が勃発すると再度招集されました。
また、1908年にエミール・ゾラの遺骨をパンテオンに奉納する式典に出席していた際、不満を持ったジャーナリストに銃撃され腕を負傷したそうです。
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近代シオニズムの誕生
ドレフュス事件を取材していたオーストリアのジャーナリストだったテオドール・ヘルツル(1860年5月2日 - 1904年7月3日)はその後シオニズム運動に関わり、シオニズムの中心的な人物になり、イスラエルでは「近代シオニズムの父」と呼ばれています。
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1897年にヘルツルは『Der Judenstaat』(ユダヤ人国家)を出版しました。
ヘルツルは当時、ユダヤ人がオスマン・パレスチナに移住することは、ヨーロッパ各地のディアスポラにおいて現地に同化せず浮いた存在であったユダヤ人、現地に同化したユダヤ人やキリスト教徒にとっても有益だと考えていたそうです。
これは彼自身のオリジナルの考えではなく、ドイツのユダヤ系社会主義者モーゼス・ヘスの影響があったと思われます。
モーゼス・ヘスは、ヨーロッパで台頭しつつあった民族運動に沿って、また現代世界で反ユダヤ主義に対抗しユダヤ人のアイデンティティを主張する唯一の方法として、パレスチナにユダヤ人の社会主義共和国を樹立することを呼びかけていた。
ヘルツルはシオニズム思想だけでなく、ロスチャイルドの支援をうけて当時のユダヤ人の集団移住の交渉人でもありました。
長くなりましたので、続きはまた書きます。
*****
ところでドレフュス事件の発端で、そもそもドイツ大使館のくず籠で発見された文書は、本当にドイツ大使武官(任務は諜報)が捨てたものだったのか?という疑問が私には残りました。
いくら自国に相当する大使館内(治外法権)だとはいえ、諜報員でもある武官が他国の軍事機密に関するリストを無造作に捨てるでしょうか。
私なら燃やすか食べるか(笑)します。
また、登場人物の多くがアルザス地方出身というのも、裏事情を感じてしまいました。
アルザスは先に述べたように1870年の普仏戦争でドイツに併合されています。ナショナリズムを煽るにはよい地域だったとも思います。
要するに「ドレフュスがユダヤ人だったから罪を着せられた」のは後付けで、ナショナリズムと反ユダヤ主義を際立たせるためだったと思います。
その数年後には戦争が待っていました。
現在の世界の状況とよく似ていると思います。
今日はこのへんで。
最後までお読みくださりありがとうございました。
ではまた近いうちに。