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備忘録*『我がアメリカのいとこ』リンカーン大統領のイギリスの先祖①

19世紀のイタリア統一運動を調べているときに、アメリカ大統領エイブラハム・リンカーンの暗殺(1865年4月15日金曜日)に奇妙な偶然の一致があるのに気づきました。

その後、今までまったく興味がなかったリンカーン大統領について調べました(苦笑)
この記事では主にリンカーン大統領の先祖について綴っていきます。
妻のメアリー・アンの先祖については、「きつねの紋章のトッド家の歴史」に書きましたのでよかったらご覧ください。


リンカーン大統領を殺害したジョン・ウィルクス・ブースは、前回の記事でも書きましたが、当時アメリカで有名な演劇一家のブース家の息子でした。

ブースという姓は、古英語のbotheに由来し(botheは古デンマーク語のbothに由来)、牛小屋や牧夫の小屋を意味します。



上演されていた『Our American Cousin(我がアメリカのいとこ)』 は、イギリスの劇作家トム・テイラーが1858年に書いた喜劇です。

トム・テイラー(1817年 - 1880年)は、イギリスの劇作家、評論家、伝記作家、公務員であり、雑誌「パンチ」の編集者であった。

トム・テイラーは「不思議の国のアリス」の作者ルイス・キャロル(本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン)と交流があったようでした。
テイラーについてはWikipedia以外の情報がほとんどなく、家系もよくわからなかったので「トム・テイラー」はペンネームかもしれません。


1863年頃


『我がアメリカのいとこ』 は19世紀に何度も再演され、大成功を収めた喜劇だったそうです。

犯人のブースはこれには出演していませんでしたが、内容をよく知っており、観客が大爆笑して銃声がかき消される瞬間を狙って狙撃しました。
またブースはフォード劇場で上演される芝居に何度も出演したことがあり、顔パス状態で劇場内を移動できたそうです。

リンカーン大統領暗殺後、フォード劇場は103年間閉鎖されました。
再開後も『我がアメリカのいとこ』は再演しない決定がなされています。




リンカーンの名前の由来

リンカーン家の名前の由来は、イギリス・リンカンシャー州にあるリンカーン市にあります。

リンカーンの名前は、湖を意味するLindoと、集落または植民地を意味するラテン語のcoloniaに由来しています。
"Lindum Colonia"が時代とともに縮まって、Lincolnになったそうです。


ノルマン・コンクエストの2年後の1068年、ウィリアム1世の命令によってリンカーン城が築かれ、1072年にリンカーン大聖堂が建てられました。
(大聖堂は、映画『ダヴィンチコード』の撮影に使用されました)


リンカーン城
リンカーン大聖堂

リンカン大聖堂の中央の塔は1311年に完成した。完成当時は現存する塔の上に尖塔が載っており、なかでも中央塔はそれを含めると160mの高さがあり、当時のリンカン大聖堂はギザの大ピラミッドを抜き世界で最も高い建築物であった。しかし、尖塔は1549年の嵐で吹き飛ばされたため現存しない。


リンカーン家祖先とピューリタン弾圧

イギリスのリンカーン家の最初の記録は、ノルマン・コンクエストでフランス・ノルマンディーから来たアルレッド・ド・リンカーンという貴族です。
彼は1086年にはリンカンシャーとベッドフォードシャーの大男爵領を保持していたそうです。


インターネット上で辿れるリンカーン大統領の古い祖先ロバート・リンカーンは、ノーフォーク州ヒンガムに住んでいました。

ヒンガムはウィリアム征服王の所有地で、町の名前ヒンガムは「Hega(ヘガ族)の家屋敷」(またはHegaの村)に由来しているそうです。
1600年代は、農業と織物が盛んな地域でした。かつては国王の城もあったそうです。


ノーフォーク州ヒンガム
リンカーン家紋章


ヒンガムはピューリタンが多く住み、チャールズ1世時代はカンタベリー大主教ウィリアム・ロードによる弾圧から逃れ、アメリカ大陸へ移住する人が多かったそうです。

ピューリタンのニューイングランドへの移住(1620年-1640年) - Wikipedia


アメリカのリンカーン家の祖と言われるサミュエル・リンカーンもその中のひとりでした(後述)
ピューリタンの移住は1630年代には約2万人だったそうですが、イングランド内戦が始まると移住計画は停止し、逆に相当数の男たちが戦争に参加するためにイングランドに帰国しました。

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ロバート・リンカーンの長男リチャード・リンカーン・シニア(1550年頃 - 1620年)は、サミュエルの祖父にあたります。
リチャードはスワントン・モーリーの教会長でした。

村の名前「スワントン」は、牧夫の囲いを意味する古英語に由来し、「モーリー」は、1346年に領主だったロバート・ド・モーリを指します。

ノーフォーク州スワントン・モーリーに現存するリチャード・リンカーンの家
(現在はパブになっている)


リチャードは1615年に遺言書を変更し、4人目の妻とその子供たちを新たな相続人としました。

その結果、サミュエルの父で、最初の妻エリザベスの子であったエドワード・リンカーン(1580年 - 1640年)は相続権を奪われてしまったそうです。


サミュエル・リンカーンがアメリカに移住

1600年頃にエドワードは、ヒンガムでブリジット・ギルマン(1582年頃-1665年)と結婚し、1622年頃に6人目の息子サミュエル(1690年没)が生まれました。
この頃サミュエルの家は大変困窮していたと言われています。



母ブリジットの父方は、アメリカ建国の父のひとりニコラス・ギルマン(1755年8月3日-1814年5月2日)の祖先です。

ニコラス・ギルマン


1637年、イングランド内戦が始まる前に、15歳(航海を許されるために年齢を偽っていたと言われています)のサミュエルは、ほかの兄弟二人と一緒に、マサチューセッツ湾会社が運航する移民船“Dorothy and John”に乗ってアメリカに向かいました。

父エドワードはイングランドのヒンガムに残り、1640年2月11日に亡くなり、セントアンドリュース教会の墓地に埋葬されました。

セントアンドリュース教会に奉献されたエイブラハム・リンカーンの胸像


マサチューセッツ植民地への入植

入植者は株主となり、ニューイングランドへの移住を希望する者は全員株を購入する必要があったそうです。
サミュエルたちはマサチューセッツ湾植民地に入植し、のちにニュー・ヒンガムに定住しました。


ヒンガムの町は、1633年に最初の植民者(イギリス人)によって「ベアコーブ」と呼ばれましたが、2年後にイギリスのヒンガムにちなんで「ヒンガム」という名前で町として法人化されました。


リンカーン大統領は、自分の家の宗教に関心がなくクェーカー教徒と勘違いしていたようですが、父トーマス・リンカーンがバプテスト派に転向する前までは代々ピューリタンでした。

1681年にヒンガムに建てられたピューリタン教会であるオールドシップチャーチの建設にサミュエルも協力しました。
オールドシップチャーチは1966年に国家歴史登録財に登録されました。


オールドシップチャーチ


サミュエルは、マーサ・ライフォード(1628年頃-1693年)と結婚しました。
彼女の父は、アイルランド出身のジョン・ライフォード牧師でした。
サミュエルには10人の子どもが生まれたそうです。

そのうちのモデルカイ・リンカーン・シニア(1657年 - 1727年)が、エイブラハム・リンカーンに繋がっていきます。

モデルカイ・リンカーン・シニアは、ペンシルベニア州バークス郡エクセター・タウンシップに家を建て、最初の妻サラ・ジョーンズとの間にモルデカイ・リンカーン・ジュニアを設けました。


モデルカイ・リンカーン・シニアの家の復元


ダニエル・ブーンとの繋がり

モデルカイ・リンカーン・ジュニアの弟、エイブラハム・リンカーン(1688年 - 1745年)は、アメリカのブーン家で特に有名な開拓者ダニエル・ブーンの姪レベッカ・アン・ブーンと結婚しました。


ダニエル・ブーンの生家(ダニエル・ブーン・ホームステッド


ダニエル・ブーンの家系はクェーカー教徒でした。
クェーカー教徒が非クェーカーと結婚した場合は、コミュニティから非難され閉め出された時代だったので、この結婚は大変なことだったと思います。
実際、ダニエル・ブーンの兄弟が非クェーカーと結婚した時には、コミュニティから村八分になり一家は別の州に移住しています。


【ブーン家=ボーフン家】
ダニエル・ブーンの一家は、父のスクワイア・ブーンが1713年頃にデボン州から移住したと言われています。

ブーン家の先祖はもともとはボーフンという姓で、ウィリアム征服王とともにノルマンディーから来たアングロ・ノルマン貴族でした。
ネット上で遡れる上限は、今のところ「あごひげを生やしたハンフリー(1113年以前に死亡)」までですが、子孫はフランス・カロリング朝の子孫(ボーモント家)との結婚や英国王族の子女との婚姻で繁栄していました。


13世紀のボーフン家紋章(6頭のライオン)


ハンフリー・ド・ボーフン (第4代ヘレフォード伯爵)は、エドワード1世のスコットランド征服でも重要な役割をしました。


ブーン家がアメリカに移住したのは、クェーカー教徒のウィリアム=ペン(William Penn, 1644年 - 1718年)がペンシルベニア植民地を設立した1680年以降です。

1660年の王政復古でチャールズ2世が即位したあと、ピューリタンを含む非国教徒への弾圧が強まり、クェーカー教徒はペンシルべニア植民地フィラデルフィアに集団移住しました。

クェーカーは、イングランド内戦の中で発生したプロテスタントの宗派で、教会の制度化・儀式化に反対し、霊的体験を重んじる。
この派の人びとが神秘体験にあって身を震わせる(quake)ことからクエーカー(震える人)と俗称されるようになった。会員自身はこの言葉を使わずに友会徒(Friends)と自称している。

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ちなみに上皇様の家庭教師は、クェーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング夫人でした。
新渡戸稲造もクェーカー教徒でした。

皇太子明仁親王とヴァイニング夫人(1949年)


彫刻家ウィリアム・ラッシュとの関係

モデルカイ・リンカーン・ジュニアの兄弟、エイブラハムの娘レベッカ(1725年-1798年)は、船大工のジョン・ジョセフ・ラッシュと結婚してウィリアム・ラッシュ(1756年 - 1833年)を生みました。

ラッシュ家もイングランド・ラッシュ家から分かれて1683年頃にアメリカに移住したクェーカー教徒でした。
アメリカ建国の父のひとりで医師のベンジャミン・ラッシュ(Dr. Benjamin Rush、1745年 - 1813年)が有名です。

ウィリアム・ラッシュは長じて彫刻家になり、ジョージ・ワシントンの立像など数々の大作を残しました。


第二合衆国銀行に展示されているワシントンの像
フィラデルフィアのフリーメイソン寺院に展示されているウィリアム・ラッシュの作品の一部。


建国の父ハリソン5世とバージニア植民地

モルデカイ・リンカーン・ジュニアの息子バージニア・ジョン・リンカーンは、レベッカ・フラワーズと結婚し、リンカーン大統領の祖父にあたるエイブラハム・フラワーズ・リンカーン大尉をもうけました。

レベッカは未亡人で、幼い息子ジョナサン・モリスがいました。
フラワー家も1660年代にイングランドから移住してきた家族です。

エイブラハム・フラワーズ・リンカーン大尉(Abraham Lincoln, 1744年 - 1786年)は、タナー(皮なめし職人)と毛皮の貿易をしていました。
皮なめし技術は、近くに住んでいたジェームズ・ブーン(1709年 - 1785年、前述のダニエル・ブーンのおじ)から指導を受けたと言われています。

2番目の妻、バトシェバ・ハリソンは、アメリカ建国の父ベンジャミン・ハリソン5世(1726年 - 1791年)の子孫でした。


【バージニア植民地】
ハリソン家は、アメリカで最初のプランテーションの1つであるバークレー・プランテーションと奴隷をバージニア植民地に所有していたプランター貴族でした。

バージニア植民地は、1607年にバージニア会社によって設立され、1624年にバージニア王室領植民地(Crown colony)になっていました。


バージニア植民地


バージニア植民地への本格的な移住はイングランド内戦が終わったあとからで、1624年には1275人だった人口は、1680年には4万4000人になりました。(そのうち年季契約奉公人が1万人1000人、黒人は3000人)
イングランド内戦後のクロムウェルの独裁政権から逃れてきた王党派(ロイヤリスト)の移住者が多かったそうです。

アメリカのハリソン家は2つの支流があり、ジェームズ川沿いに定住したハリソンはジェームズ川ハリソン家と呼ばれ、ハリソン5世の家はジェームズ川ハリソン家でした。

もうひとつは、イギリスのダーラムからニューイングランドに移住したアイザイア ハリソンから始まる支流。ジェームズ川ハリソン家とは親戚です。


1726年、ベンジャミン・ハリソン4世がバージニア州で最初の3階建てのレンガ造りの邸宅を建てました。
現在は博物館になっており一般公開されています。


ハリソン家から、1773年に生まれた第9代大統領ウィリアム・ヘンリー・ハリソンと、その孫の第23代大統領ベンジャミン・ハリソンという2人のアメリカ合衆国大統領が輩出されました。


ハリソン4世と、「キング」と呼ばれたロバート・カーターの娘であるアン・カーターが結婚した際に両家は統合されました。


ボストン茶会事件とアメリカ独立戦争

ボストン茶会事件は、1773年12月16日にマサチューセッツ湾直轄植民地のボストンにおいて、植民地人の急進派であるSons of Liberty(前身はロイヤル9と言われている)がイギリス本国議会に対する抗議として停泊中の船舶から積荷の茶箱を海に大量投棄しました。

自由の息子達Sons of Liberty
ロイヤル9について
政治団体ボストンコーカス


イギリス本国議会が茶法(茶条令)を制定し、イギリス東インド会社に茶の専売権を与えたことに対する反発でした。


事件を主導したサミュエル・アダムズ(Samuel Adams、1722年 - 1803年)は、1765年の印紙法に抗議した政治記者でした。
フレンチ・インディアン戦争七年戦争)の戦費増大による負債の支払いのため、イギリス本国議会は植民地を歳入の拡大源と見ており、1764年4月、砂糖法を通過させました。
砂糖法は、関税率を1ガロン当たり3ペンスに減額する一方で、徴税の強制力を強め、課税対象もワイン、コーヒー、衣類などに広げられました。

タウンゼンド諸法(1767年)

アダムズは、植民地課税に対する運動で中心人物になりましたが、当初はボストンを始め植民地からは砂糖法に対する抗議運動はそれほどには盛り上がらず、強い抗議が始まるのは印紙法が制定されてからでした。

アダムズは、砂糖法と彼がイギリスの不当な行動として認識しているものに対して民衆が声を上げないことに愕然としたそうです。
アダムズは抵抗も無しにいれば更に課税が強化されると思い、土地の商人を説得して輸入されたイギリス製品をボイコットさせました。


サミュエル・アダムズ


1770年のボストン虐殺(英国側はキングストリート事件と呼ぶ)は、国王ジョージ3世とイギリス議会の権威に対する植民地の感情を変えた最も重要な出来事の1つと考えられています。
サミュエル・アダムズの又従兄弟で、後の大統領ジョン・アダムズは「アメリカ独立の基礎が築かれた」と書き、サミュエル・アダムズや他の愛国派は毎年の記念行事として、独立への大衆の感情を煽りました。

続く1772年の自由の息子達によるガスピー号の焼き払い事件も、イギリスと植民地との間に生まれた溝を深めることになりました。


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ボストン茶会事件のニュースは植民地に歓喜を起こしましたが、前述のハリソン5世を含む一部の愛国派が憂いたように、翌1774年に本国議会は東インド会社が被った損失に対する懲罰措置(「耐え難き諸法」)を制定し、ボストン港を閉鎖すると共にマサチューセッツ湾植民地の自治権を奪いました。

ハリソン5世は、1774年5月24日に議会の措置を非難する新しい団体に署名しました。この団体は他の植民地に大陸会議を招集するよう呼びかけ、第1回バージニア会議においてハリソン5世はバージニアを代表する7名の1人に選ばれました。


リンカーン家とクリントン家の奇妙な偶然

グランド ユニオン フラグ(別名コンチネンタル カラー)

アメリカ独立戦争の指導者たちは、当初はイギリス国民としてさらなる自治権を求めていた植民地分離主義の指導者たちであったが、後に独立戦争を支持するために結集し、この戦争によって植民地に対するイギリスの植民地支配が終わり、1776年7月にアメリカ合衆国として独立が確立された。

独立戦争は、フランス王国が米国の同盟国として参戦しました。
1781年秋、米仏連合軍がヨークタウン包囲戦で英国軍を破ったことが決定的になり、英国議会の過半数が米国の条件で戦争を終わらせることに賛成しました。独立宣言(1776年7月4日)から5年後でした。


英国軍の降伏の証として、軍指揮官チャールズ・コーンウォリスの軍刀を受け取ったベンジャミン・リンカーン(Benjamin Lincoln, 1733年 - 1810年)は、リンカーン大統領と同じくロバート・リンカーンを祖先として持っています。彼は、スティーブン・リンカーンの子孫です。

ベンジャミン・リンカーン


植民地軍は1780年5月12日のチャールストン包囲戦でイギリス軍に最大の敗北を帰し、ベンジャミンはヘンリー・クリントン将軍に降伏しているのですが、興味深いことにヘンリー・クリントンは100年後にリンカーン大統領を殺害するジョン・ウィルクス・ブースの親戚なのです。
(詳しくは別の機会に)


長くなりましたので、その2に続きます。
その2ではリンカーン大統領の祖父以降~リンカーン大統領暗殺にまつわるエピソードについて書きます。
ではまた。

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