女神ヘカテのこと
冥界の女神と言われるヘカテは、古代ローマにおいてはトリビア(Trivia、「3つの道」の意)という形容語で呼ばれていました。
ゼウス、ヘスティア(ベスタ)、ヘルメス、アポロンと並んで、オイコス(家庭)の守護者として、アテネで崇拝されていました。
トリカブトや犬、狼、牝馬、蛇(不死の象徴)、松明(月光の象徴)、ナイフ(助産術の象徴)等が、ヘカテの象徴とされています。
もともとはアナトリア半島のカリアや、トラーキアで信仰された女神でした。エジプトの豊饒と出産の女神ヘケトと同一の可能性もあるそうです。
ヘカテには、ペルセスとアステリアの娘であるという説と、ゼウスとデメテルの娘という説もあります。
現在は、狩りと月の女神アルテミスと同一視されていますが、ヘカテはアルテミスの従姉妹であり、月と魔術、豊穣、幻や幽霊、夜と暗闇、浄めと贖罪、出産を司っていました。
月のサイクルと月経の周期の関係から、月の女神は出産の守り神とされています。
三相の女神
ギリシャ後期(5世紀頃)にヘカテは3つの体を持ち、松明を持って地獄の犬を連れて、夜の十字路や三叉路に現れると考えられるようになりました。
交差点は、神々や精霊が訪れる特殊な場所だと考えられており、古代人は交差点で集会を開き、神々を傍聴人としていたとか。
日本でも、辻(交差点)は人だけでなく神も通る場所で考えられていました。万葉集の時代にも行われていた辻占(つじうら)という占いの一種がありますが、辻に立って、通りすがりの人々が話していることをご神託としたものです。似たようなもので橋占(はしうら)というのもあったそうです。
私も駅や道を歩いている時や、カフェなどで近くの人が話しているのが聞こえてきたときは、何かメッセージ性があるのだろうと考えています。
3つの体を持つヘカテは、天上、地上、地下の三世界に及ぶ力を持ち、新月、半月、満月(または上弦、満月、下弦)という月の三相、または処女、婦人、老婆という女性の三相や、過去、現在、未来という時の三相を表しています。
そして、アルテミスと同一視されているローマ神話の月の女神ダイアナ(ディアーナ)は、狩人としてのダイアナ(アルテミス)、月としてのダイアナ(セレーネ)、冥界のダイアナ(ヘカテ)の三神の側面を持っていました。
3は、クリエイティブなエネルギーです。
三銃士、御三家、三種の神器、三位一体などのように3つ組の概念のほかに、ヘルメス・トリスメギストスが「3倍偉大なヘルメス」「三重に偉大なヘルメス」と訳されるように、3は強調を意味するようです。
聖書では、悪魔はイエスを三度誘惑しました。また、イエスは死後三日目に復活しました。
境界線の女神
三叉路に3面3体のヘカテ像が立てられるようになり、旅人は満月の前夜に旅の安全を祈ったそうです。
このことからわかるのは、ヘカテは境界線の守護神だったということです。その後、ヘカテ像は道路だけでなく、寺院の入り口や礼拝所、神聖な場所のモチーフに使用されるようになります。
当然、ヘカテは悪霊を遠ざける女神としても知られるようになりました。
ヘカテは、たいまつ、鍵、蛇を持っているか、犬を連れている姿で描かれることが最も多かったそうです。
同一視されているダイアナとアルテミスの神話には鹿が関係しているのですが、ヘカテの場合は犬なのです。
現在ではあまり番犬の役目は必要でなくなっていますが、ギリシャローマ時代は、夜間に侵入者が近づくと吠えて知らせる犬はたいへん重宝されていました。犬も境界線を守る役目を負っていたのです。
そしてヘカテと同様に、冥界の門番でもありました。
ヘカテの連れていた犬は、やがて3つの頭を持つ地獄の番犬ケルベロスということになっていきます。
出産の女神
ヘカテと犬が密接だったのは、ヘカテが出産を司るエイレイテュイア(エイレイシア)と混同されたことも関係しています。
古代のエイレイシアの儀式では、犠牲として雌犬が捧げられたこともあったようです。
日本でも戌の日に安産祈願をしたり、妊婦が腹帯を巻く習慣があるように、犬と出産は関係があります。
ヘカテ崇拝でも、黒い雌の子犬が生贄として捧げられた記述が残っているそうです。通常、神への供物は「白い」ものが良いとされていますが、冥界の神へは「黒い」ものを捧げたそうです。
エイレイシアは、モイライ (運命の女神)の侍女でした。
モイライは、モイラの複数形で彼らもまた三女神でした。北欧神話のノルンと似ています。
モイラ(moira)は元々ギリシア語で「割り当て」という意味があり、その割り当てとは寿命のことで、個人の運命は、モイラたちが糸を紡ぎ、断ち切る長さによると考えられていたのです。
モイライの三女神もまた、それぞれに過去、現在、未来を司っていました。
冥界の女神
紀元前3世紀ごろ、ヘカテは冥界の女神としても認識されています。
冥界の管理人(鍵を持っている)と考えられるようになったのです。
ヘルメスと同様にヘカテは道路だけでなく、あの世への旅を含むあらゆる旅の守護者の役割を担いました。
これはおそらく、紀元前5世紀以前のテッサリアの女神エノディア(「旅人」の意味)との混同によるものと見られています。
エノディアの崇拝はテッサリアからマケドニア全土に広がり、主に墓地をエノディアが支配していると考えられていました。
エノディアへ供物は、青銅や鉄で作られたブローチ、鳥や動物の置物でした。動物の置物は犬 、馬、雄牛と蛇など。
これらはエノディアや冥界の神々、ヘカテにとっても神聖なものです。
道路の保護、動物の共有、悪の回避などの類似点により、エノディアとヘカテは同一視されたのでしょう。
テッサリアのコインには、馬に乗り、たいまつを持つエノディアが描かれていていたそうです。馬に乗り、犬を連れた姿の石碑もあったそうです。
エノディアの崇拝は、ヘレニズム時代とローマ時代に盛んだったようですが、2世紀終わりに忘れられた存在になっていきました。
ヘカテ崇拝では、新月の夜にヘカテ像にケーキやパン、卵、黒い仔犬、黒い牝の仔羊、魚(アカボラ)、にんにく、蜂蜜といった供物が供えられました。
冥界の女神ヘカテの周囲には死んだ人の魂が漂っていると信じられていたので、(死者が生者を妬んで悪さをしないように)供養と、家族の浄化の意味があったそうです。
また、これらの供物はそのままにしておかれたので、貧しい人たちのための食事になりました。裕福な家は、(貧しい人が自分たちを妬まないように)たくさんのごちそうを供えたと言われています。
魔術の女神
西暦1 世紀になると、ヘカテは魔術、魔女、魔法、魔術と深く関連した女神に変身しました。シェイクスピアは『マクベス』で、マクベスに予言を行った3人の魔女たちの支配者としてヘカテを描きました。
シェイクスピアは、『真夏の夜の夢』『リア王』でもヘカテの魔術に言及しています。
テッサリアには魔女伝説がありました。魔女の天国とも言われるほどで、「この地域に関する民間伝承は、ローマ時代以来、魔女、麻薬、毒薬、魔法の呪文の物語として根強く残っている」と言われていたそうです。
ヘカテは、ハーブや有毒植物の知識があり、他の多くの植物がヘカテと関連しています。トリカブト(ヘカテイスとも呼ばれる)はヘカテの象徴とされています。
西暦1世紀頃、マンドレーク(せん妄や幻覚を引き起こす幻覚成分がある)などの植物を掘り出すために犬が使われていたことも、ヘカテとの関連性を強くしました。
テッサリアでは、ヘカテを崇拝する女魔術師たちが変身用の軟膏(魔女の軟膏)を作り、ハエや鳥に変身して空を飛んだという話も。
闇に消えたヘカテ
以上のようにヘカテには様々な側面があり、時には矛盾する形容詞を持ちました。
初めはヘスティア(ベスタ)のように特徴が少なく控えめな女神だったのに、画家や彫刻家が3つの顔と3つの体を持つヘカテを描くようになってから彼女に注目が集まり、さらに他の女神と混同されることによって、人気が高まっていったようです。
まるで新しい武器を手に入れる度にレベルが上がって行くRPGのような女神です。
ところが、7世紀になるとキリスト教がヨーロッパに浸透して行き、ギリシャローマ時代の神は異教の神、不道徳の神と非難されるようになりました。
フランク王国の司祭だった聖エリギウスと聖オードウィンは、「クリスチャンは、3 つの道路が交わるトリヴィウムの神々などに対して、いかなる帰依も捧げるべきではありません。」と禁じました。
フランク王国は、教会の聖職者たちが国家運営の多くを担っていました。
歴代の王はローマ・カトリック教会と密接な関係を構築し、フランク王国は西ヨーロッパにおけるキリスト教の普及とキリスト教文化の発展に重要な役割を果たしました。
このようにしてキリスト教が異教を非難し、ヘカテを始め古代の女神たちは表舞台から姿を消していきました。
キリスト教はまじないを禁じていますが、天上・地上・地下あるいは現在・過去・未来の三相を持つ女神たちを魔女や悪魔と偽装して、民衆から崇拝を取り上げることも目的でした。
つまり、キリスト教会が、天上(神の国)、地上、地獄(誕生や死、洗礼や葬式などの行事を含む)を制することになったのです。
中世になるとヘカテは魔女の神とのみ人々に記憶されるようになり、ウィッカなどの女神崇拝者、魔術の愛好家に崇拝されています。