フリースラント王国と北のヴァイキング&ロロ(Part1)
以前、フランク王国とヴァイキングの関係を調べていたとき、ヴァイキングには2種類あることに気づきました。
スカンジナヴィア半島を出発し、イングランド、スコットランド、アイルランド、アイスランドへ拡大していった北方ヴァイキング(仮名)と、ヨーロッパの内陸部を侵略し居住地(国)を創ったヴァイキング(ヴァリャーグ)です。
ヴァリャーグについては超長くなるので、ひとまずこの記事ではフランク王国と関わったヴァイキングについて書きます。
備忘録ですが、よかったらお付き合いください。
フリースラント王国
ローマ帝国が衰退した後、ゲルマン人がオランダに進出しフリースラント王国(マグナ・フリージア)を建設しました。
当時の首都は、現在のオランダの首都アムステルダムから30キロほど南に位置するユトレヒトでした。
5世紀にはドイツ北西部やデンマーク南西部から、アングル人、サクソン人、ジュート人(ユダ人)が移住しました。
これらの新しい「フリース人」は、西フランダースのブルージュ(ブルッヘ)からドイツ北部のブレーメンにかけての海岸沿いの地域、および多くの小さな沖合の島々に住んでいました。
伝承によれば、450年頃に新しいフリース人とデンマーク人の間でフィンスブルグの戦いが起きた記録があります。フィンネスブルグ争乱断章
フリース人のフィン王が、妻の兄であるデンマークの王フネフをフリースラント王国に招待していたとき、理由は不明ですがフリース人によってフネフが殺害されてしまいました。
フネフの家臣ヘンギストが指揮を執り、両者は和平条約を結びましたが、ヘンギストとデンマーク人は後に復讐に転じ、フリース人を虐殺したと言われています。
ヘンギストは、5世紀にアングル人・サクソン人・ジュート人を率いてブリテン島に侵攻したとされる伝説的な兄弟(ヘンギストとホルサ)の兄ヘンギストと同一人物で、ヘンギストはケント王国の初代王ともされています。
※ヘンギストとホルサの兄弟については、SNSではなぜか拡散されにくくなっているのでご注意ください。
J・R・R・トールキンは、フィンスブルグの戦いを主題に『フィンとヘンギスト』を書きました。
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フリースラント・フランク戦争
フリース人は数々の小部族が緩やかに連携しており、対外戦争の指導者として王を選出していました。
7世紀から8世紀にかけて、フランク王国とフリースラント王国の間で領土争いが起きました。
フリースラントの王レッドボット(在位 680年頃 - 719年)は、前王がキリスト教を受け入れたのに対し、レッドボットは異教を復活してキリスト教を弾圧しました。
690年から692年までの間に、ユトレヒトがフランク王国の宮宰ピピン2世(中ピピン)の手に落ち、ライン川から北海に至る重要な交易路がフランク人のものとなりました。
このころ、ピピン2世はノーサンブリアから伝道師ウィリブロルドを招聘し、フリースラントにキリスト教の教区が設けられました。
ウィリブロルドは、695年にユトレヒト初の司教に任命され、711年には彼の仲介によって、ピピン2世の息子グリモアルド2世と、レッドボットの娘テウデシンダが結婚しています。
733年、カール・マルテルがボーン川の戦いでフリース人を破り、最後の王ポッポも敗死しました。
フランク王国はラウエルス川以西のフリースラント(西フリースラント)を支配下に置き、この地域のフリース人はフランク王国に従属することになりました。
一方フランクの支配をいったん免れた東フリースラントの部族は、ドイツ領となりました。
キリスト教徒であったフランク人は、フリース人の異教の神殿を略奪・破壊したと言われています。
フリースラントとヴァイキングの関係
フリースラントは、754年にボニファティウスが布教活動中に暗殺された場所でもあり、ザクセン戦争でヴィドゥキントの抵抗にカール大帝がてこずった地域です。
※そういえば、私の場合だけかもですが、ヴィドゥキントもSNSでは拡散されにくくなっています。
カール大帝が亡くなった(814年)あと、ヴァイキングがフランク王国の各地を荒らしまわるようになりました。
カール大帝の三男ルートヴィヒ1世(ルイ敬虔王)は、817年に「帝国計画令(Ordinatio imperii)」を発布し、帝国の領土をフランク族の伝統にしたがって自分の3人の息子に分け与えることにし、長男ロタール1世にはイタリアを含む広範な領土を、次男のピピンにはアキテーヌ、三男のルートヴィヒにはバイエルンの統治を委ねることとして、ロタールを共同皇帝とし、下の2人を副帝として皇帝の統制に従うことを定めました。
ロタール1世はその決定が気に入らず、何度も父に対する反乱を起こしていました。
父や他の兄弟たちがヴァイキングの略奪行為に手を焼いている中、ロタール1世は逆にヴァイキングを味方つけ、自分の反乱に利用しました。
ロタール1世は、父王の領土の一部だったフリースラントをヴァイキングに襲撃させ、王国を弱体化させようとしたのです。
ところが招き入れられたヴァイキングに、航行可能な川沿いの町が攻撃に対して脆弱であることを知らしめることになりました。
デンマーク王ハラルドとフランク王国
814年にデンマークの王子ハラルド・クラク・ハーフダンソン(812年から814年頃、および819年から827年にかけてデンマーク王だった)は、ルイ敬虔王の宮廷に亡命しました。
ルイ敬虔王は避難を許可し、軍事援助をしたと言われています。
ルイ敬虔王は、ハラルド・クラク・ハーフダンソンがデンマーク王に復位するのを支援し続け、826年にハラルド王がキリスト教の洗礼を受けるために、妻と大勢のデンマーク人を連れてフランク王国に再び来たときは、ハラルドにリュストリンゲン伯爵位を与えています。
それは、ハラルドが権力闘争で危険にさらされたときに、いつでもその領地に避難できるようにするためだったそうです。
ちなみにハラルド王が連れて来た、およそ400人以上のデンマーク人が洗礼を受けたそうです。
ルイ敬虔王の治世中、フランク王国には有効な艦隊がなく、そのためフリースラントの海岸は王国の防衛の弱点でした。
ハラルドにフリースラントの領地を与えた動機は、おそらくハラルドがヴァイキングの襲撃からフリースラントの海岸線を守ることを約束したことが関係していたと見られています。
827年、ハラルドは親戚のグドフレッドの息子たち(ホリック1世)によって追放され、廃位させられました。
ハラルドのその後はまったくわからないそうですが、おそらくフリースラントで生涯を終えたのでしょう。
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フリースラントの貿易港ドレスタッド
ドレスダッドは、7世紀~9世紀の間、国際貿易港として栄えていました。
9世紀までは造幣局があり、数人のフランク王の貨幣が鋳造されていました。
ヴァイキングはドレスタッドに注目し、834年に最初の攻撃を行いました。(最後の攻撃は863年)。
貿易港として栄えたドレスタッドは、9 世紀半ば頃に衰退しましたが、これは新しい貿易ルート(水路)が重宝されるようになったからなんです。
大陸に定住したヴァイキング(ヴァリャーグ人)が開いた、バルト海とカスピ海をつなぐヴォルガの交易路と、黒海とコンスタンティノープルに通じるドニエプルとドニエストルの交易路(ギリシャへの交易路)によって、フランクの王たちは輸入品の売買を利用するようになり、それによりドレスタッドは衰退していきました。
ヴァリャーグ人と新しい貿易ルートについては、また別の機会に書きます。
フランクの兄弟殺し戦争
そのハラルド王の甥で、ヴァイキングのロリク(Rorik)と弟のハラールは、何らかの理由(※権力闘争)でデンマークを追放になったため、ロタール1世と同盟を結んで830年頃からフリースラントを荒らしまわっていました。
ロタール1世は、ロリク兄弟にドレスタッドを焼き払うように命じたと言われています。
この結果、ルイ敬虔王とロタール1世が839年にヴォルムスで和解するまで、ドレスタッドは何度も襲撃と略奪を受けました。
840年にルイ敬虔王が死去し、フリースラントはマース川を境界線として、ロタール1世とシャルル2世に割譲され、ドレスタッドはロタール1世の領地となりました。
しかし兄弟による領地争いは収まるどころか激化し、841年にフォントノワの戦いが起きました。
「フランクの兄弟殺し戦争」(ある意味お家芸ですが)と呼ばれる敵対関係は2年間続き、843年のヴェルダン条約でロタール1世は中フランク(下図の黄色部分)を割譲されました。
ロタール1世は、イタリア王国(イタリア半島の北半分を占めていた)、アーヘンとローマの2つの帝国都市も獲得しました。
三男のルートヴィヒ2世は、東フランク(下図の水色部分)を継承し、この領土はのちに神聖ローマ帝国を構成する中世盛期 ドイツ王国となりました。末っ子のシャルル2世は西フランク王国(下図の紫色部分)を継承し、最終的にフランス王国になりました。
このように兄弟殺し戦争ヴェルダン条約は、その後のヨーロッパの歴史に大きな影響を与えています。
蛮族の王ロリク
兄弟間の戦争の過程で、ロタール1世はヴァイキングのロリク兄弟に爵位を授け、フリースラント沿岸部のいくつかの部分を与えました。
兄のロリク(Rorik)はフリースラントにノルマン人の侯国を建て、ドレスタッドを統治しました。
ロタール1世にとって、ロリク兄弟にフリースラント沿岸部を与えたのは、北のヴァイキングのさらなる襲撃から防衛するためでした。
デンマーク王の親族であるロリクが統治しているフリースラントを、同じデンマーク人のヴァイキングが襲撃することは滅多になかったのではないかと思われます。代わりに東フランク王国の沿岸部が、頻繁にバイキングの襲撃を受けるようになっていました。
この頃には、ヴァイキングは西フランク王国とイングランドに目を向け始めていました。
フリースラントが攻撃されなくなったため、ロタール1世にとってロリク兄弟が邪魔な存在になったのか、844年頃、兄弟は虚偽の反逆罪で告発されました。
ロリクは東フランクのルートヴィヒ2世のもとに亡命できましたが、弟ハーラルは捕虜になっている間に死亡したそうです。
生き残ったロリクは、従兄弟のゴドフリート・ハラルドソン(ハラルド・クラク・ハーフダンソン王の息子)と組んで、850年にドレスタッドとユトレヒトを襲撃し占領しました。
ロタール1世は、ロリクをドレスタッドの統治者として認めることで、自らの領土の一部として維持しました。
ロリクたちは、859年にブレーメンも略奪しましたが、860年にシャルル2世によって制圧されたそうです。
ロリクは、860年頃にキリスト教に改宗したと見られます。
シャルル2世の娘ジュディスとボールドウィン1世が駆け落ちした時、ランス大司教ヒンクマールは二人を匿うのを禁じる手紙をロリクに送ったと言われています。
第一次パリ包囲戦
845年に、東フランクのハンブルグに600隻のヴァイキング船団がエルベ川を遡りやってきた記録があります。
このとき大船団を率いていたのが、デンマーク王ホリック1世(813 – 854年)で、ロリク兄弟のごく近い親戚でした。
ハンブルクは、831年に大司教区に昇格し、ザクセン地方とスカンジナビアへのキリスト教導入の拠点になっていました。
そのためキリスト教化に反対するホリック1世の指揮により、ハンブルクは襲撃の的になったのです。
ヴァイキングは、ハンブルグの教会の財宝と書籍をすべて破壊しました。
同年3月28日に、ヴァイキングが120隻の船団でセーヌ川を遡上しパリ包囲(845年3月末)をしていますが、これはホリック1世の部下で、のちにイングランドを征服しノーサンブリア王となった大異教徒軍(865年頃から878年)の中心人物だったハルフダン・ラグナルソンによるものでした。
ハルフダン・ラグナルソンは、911年にノルマンディー公になったロロの兄弟と見られています。
西フランク王シャルル2世は多額の賠償金(立ち退き料)を支払い、パリからヴァイキングを追放しました。
パリ包囲戦中に多くのヴァイキングがペストで亡くなりましたが、ラグナルソンは生き延びてホリック王の元に帰還しました。
860年代には3度にわたりパリは襲撃されました。
864年、シャルル2世はピトル勅令を発し、ヴァイキングのロングシップの遡行を防ぐためにセーヌ川沿いのピトルとパリに要塞化した橋をかけました。
下の写真のような、当時は木橋と石橋で両岸が要塞になっていたようです。
橋をかけたおかげで、ヴァイキングが内陸部へ航行するのを防ぐことが出来き、無防備ままの下流と沿岸地域の教会は内陸部に移動しました。
教会の財産を奪うことが難しくなったため、ヴァイキングはイングランドに目を向けるようになったのです。
大異教徒軍と第2次パリ包囲戦
ノルマンディー公になる前のロロは、885年から886年にかけてのパリ包囲戦を指揮したことが知られています。
この事件は統一フランク王であった皇帝カール3世の在世中最大の事件であるとともに、パリ伯ウード(オド、在位 888年 - 898年)の名声を高め、カロリング帝国と後のフランスの歴史における転機となりました。
おそらくロロは、彼の兄弟がリーダーだった大異教徒軍に参加していました。
878年のエディントンの戦いでアルフレッド大王が勝利し、ヴァイキングと戦いを終わらせてウェドモーアの和議を結び、イングランド中央に「デーンロウ」という大きな移住地を用意しました。(詳細は別記事にて)
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勢いづいたヴァイキングは、885年11月に300隻の船と数万人の兵士を率いてフランスを再び襲撃し、セーヌ川を遡行しました。
その頃のパリは、シテ島の上に立つ街でした。
877年にシャルル2世が死去した後、西フランクでは統治期間の短い王が続き、すでにドイツ王とイタリア王であったカール3世に、王国の統一が委ねられていました。
パリ伯ウードは、ヴァイキングの襲来に備えて橋を要塞化していましたが、ウードのもとには200人足らずの手勢しか居ませんでした。
包囲戦は数ヶ月続き、ロロたちヴァイキングはその間にいくつかの橋を壊し、川が通行可能になったので、多くはさらに上流のル・マンやシャルトルへ進み、物資を求めて周辺地域への略奪を繰り返していました。
886年10月になってようやくカール3世の援軍が到着し、残っていたロロ軍を逆包囲しましたが、カール3世には戦う気がなかったため、反乱中のブルグンディア(ブルグント)をヴァイキングが略奪することを条件に彼らの撤退を認めてしまいました。
翌春ヴァイキングがパリを離れる際、カール3世は合意通りに彼らに700リーヴル(約257kg)の銀を与えたそうです。
888年にカール3世が死去すると、ウードが西フランク王に推戴されました。在位 888年 - 898年。
ウードは、カロリング一族でない最初の王でした。
10世紀を通じて、ロベール豪胆公を祖とするロベール家はカロリング家と王位を争い続け、ロベール家の公国(フランシア)の名がフランス王国の国名となりました。
これ以降、カロリング朝が再興されることはありませんでした。
その後のロロ
パリ包囲後のロロは、リーダーとなって西フランクを荒らしました。
911年、ロロ率いる集団がパリを攻撃し、シャルトル包囲戦ではフランク軍が勝利しました。
西フランク王シャルル3世(在位 893年 - 922年)は、ロロとサン=クレール=シュール=エプト条約を結び、ロロにノルマンディー地方を与えてノルマンディー公に封じました。
子孫には、有名なウィリアム征服王、その子孫はヘンリー2世となりプランタジネット家を興して英王室につなぎ、また別の子孫エマ・オブ・ノルマンディーを通して、デンマーク王室にもつないでいきます。
長くなりましたので、今日はこのへんで。
最後までおよみくださいましてありがとうございました。