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9世紀*フランダースの恋人たち*ボールドウィンとジュディス

フランダースと聞くと、すぐに「フランダースの犬」(アニメ)を思い出す昭和テレビっ子世代の佐山みはるです。


このアニメを見ていた頃、フランダースがどこにあるかなんて考えたこともなかったんですが、今でもフランダースと聞くと懐かしさを感じます。

原作者は、19世紀のイギリスの作家ウィーダ(本名は、マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー (Marie Louise de la Ramée)によって書かれました。
当時売れっ子の作家だったそうです。

物語の舞台は、ベルギー北部のフラーンデーレンフランドル)地方。
現在ではアントワープ証券取引所を持つアントワープ(アントウェルペン)に隣接するホーボケン (Hoboken) が舞台となった村のモデルと考えられているそうです。

フランダースは英語読みで、もともとはフランス語のフランドルFlandreに由来し、オランダではフランデレンやフランデルン、ドイツではフランダーンとなるそうです。

ゲルマン祖語の* flaumdraは、「水浸しの土地」を指します。



フランドル地方

フランドルは、ベルギー西部(旧フランドル伯領)を中心とし、オランダ南西部、フランス北東部にまたがる地域。

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フランク王国の分割

843年、カール大帝の子孫の領土争いの結果によりヴェルダン条約でフランク王国が分割されたとき、フランドルは中フランク王国に属することになりました。

中フランク王国は、カール大帝の孫で神聖ローマ皇帝ロタール1世の領土を指します。

中フランク(843年)

ロタール1世の死後(855年)、遺領は3人の息子たちによってロタリンギア、プロヴァンスおよびイタリアに3分割されました(プリュム条約)

長男ルイ2世(875年没)は、皇帝の位とイタリア王国(当時はイタリア半島の北半分のみ)。下の地図のピンクの部分。

ロタール2世(869年没)は、ヴェルダン条約後も父の領土であったフリースラントおよびアウストラシアの一部(フランク人が定住したローマ帝国の元の地域と首都アーヘンを含む)。ロタンリンギアと呼ばれました。
下の地図の紫の部分。

シャルル(863年没)がプロヴァンス王となり、プロヴァンスと旧フランク王国ブルゴーニュの大部分を与えられました。
下の地図のオレンジの部分。

863年にシャルル、869年にロタール2世がそれぞれに嗣子がなく没したため、870年メルセン条約で、東フランク王国(国王ルートヴィヒ2世)、西フランク王国(国王シャルル2世)、イタリア王国(国王ロドヴィコ2世)にさらに割譲されました。

その結果、フランドル地方の北部と南西部は西フランク帝国の一部となり、南東部は東フランク帝国に属しました 。

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ボールドウィンの恋

ボールドウィンといっても、アメリカの俳優のアレック・ボールドウィンの話じゃなく(まったく関係ないとも言えませんが)


最初のフランドル伯と言われているのが、ボールドウィン1世(またはボードゥアン1世と呼ばれる。830年代 - 879年)です。

ボールドウィン1世の先祖はよくわかっていませんが、フランドリエ系譜委員会Flandrier Genealogy Committeeによると、曽祖父リドリック( 西ゴート族起源、808年頃死去) の代からカール大帝のフランク王国で「フランドルの森林官(Forestiers de Flandre)」と呼ばれる総督だったそうです。

曽祖父リドリックと祖父インゲルラム、父オドアケルは、西フランダースのHarelbeke(ハレルベケもしくはハーレベック)に居住していたようです。

ボールドウィン1世は、862年にカール大帝の孫・西フランク王シャルル2世によってフランドル辺境伯(Markgraf)に任命されました。


シャルル2世(赤い服)による初代フランドル伯ボールドウィン 1 世の叙任式


これは当時、西フランク王国を悩ませていたヴァイキングの襲撃を撃退する任務でした。
(ヴァイキング襲撃は、西フランクの国政を不安定化するために東フランク王ルートヴィヒ2世が雇ったヴァイキングが暴れまわったのが始まりだったようですが)

ボードルドウィン1世は背が高く、顔色が黒く、筋肉質でたくましい体つきで、機敏で乗馬が得意だったといわれています。

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12歳の女王

この前年の861年のクリスマスの頃に、ボールドウィン1世はシャルル2世の娘ジュディスと駆け落ちしました。


ジュディスの母エルマントルードは、オルレアン伯オドの娘。
シャルル2世とエルマントルードには10人の子どもが生まれ、ジュディスが長女、長男はルイ2世(西フランク王国 在位877年 - 879年)でした。


以下の記事にも書きましたが、当時、シャルル2世とウェセックス王国のエゼルウルフ王(在位839年 - 858年)とは懇意で、エゼルウルフ王が1年間のローマ巡礼の帰路に西フランクに立ち寄った際に、シャルル2世の娘ジュディス(当時12歳)を妃にしました。

エゼルウルフ王は当時50代半ばで6人の子供がおり、末息子アルフレッド大王を除くほとんどがジュディスより年上だったと思われています。

名門カロリング王朝と結びつくことは、ウェセックス王国にとってはもちろん利点でしたが、カロリング朝の王女たちはめったに結婚せず、しかも外国人と結婚することはほとんど前例のなかったため異例の結婚でした。

(オッファ王は、カール大帝の娘を自分の息子の嫁にしたいと言って、カール大帝に絶交されたことがあったぐらいですからね)


結婚式は、カール大帝が建てたヴェルベリーの宮殿で行われたそうです。
結婚式の途中にジュディスは油注がれて戴冠し、女王になりました。
ウェセックスの慣習では、王の妻は女王と呼ばれず、夫と一緒に王位に就くこともできませんでしたが、父シャルル2世はウェセックス王国でジュディスの地位を盤石にしたいという気持ちがあり、戴冠式を行ったようです。

それと、普通に考えると40歳以上も年上のエゼルウルフ王が先に亡くなるわけで、そうなったときにジュディスがないがしろにされないようにという親心もあったかもしれませんね。

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この時代のイングランドではどうだったかわかりませんが、女王は未亡人になっても自分で結婚相手を決めることができたと思います。
エゼルウルフ王が亡くなったら、女王ジュディスは自分で婿を指名できるはずで、フランス貴族をウェセックス王国の王にすることも可能・・という算段もひょっとしたらシャルル2世の胸のうちにあったかもしれないと想像しました。



858年にエゼルウルフ王が亡くなり、ジュディスはエゼルウルフの息子エゼルバルドと再婚しました。
この結婚は「不道徳」として批判されたと、ノルマンコンクエスト後(1066年以降)のイギリスの聖職者年代記作者は同時代のアッセル司教の見解を採用しているそうですが、私はジュディス女王と父シャルル2世の希望が反映された結婚かもしれないなと思っています。


アッセル司教(909年ごろ没) は、ウェールズ人の修道士だったそうですが出自は不明です。
885年ごろにウェセックス王アルフレッド大王に請われて、王の顧問となり、890年代にソールズベリー主教を務めた。

893年、アッサーはアルフレッド大王の伝記『アルフレッド王の生涯』(Life of King Alfred)を著した。この伝記の原典は現存していないが、アルフレッド大王の業績のみならずイングランド史初期の王についての最も重要な文献と位置付けられている。

トゥールのグレゴリーの創作の例もあるように、清く正しい?聖職者が書いたものだからと鵜呑みにすることは私はできません(苦笑)


エゼルバルドも860年に死去し、ジュディスはフランスに帰国しました。エゼルバルドが死亡した原因はわかりませんでした。
ジュディスは当時17歳ぐらいで、まだ子どもがいませんでした。

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ジュディスがイングランドから帰国した後に住んでいたと言われる
現在のサンリス・モーリス修道院


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恋はいつも突然に始まる

サン・ベルタン年代記ならびにランス大聖堂の司祭だったフロドアードによれば、シャルル2世はジュディスをサンリスの修道院に送り、そこでジュディスは王の保護と司教の保護下に置かれ、女王にふさわしいすべての名誉を受け、適切かつ合法的な方法で結婚できる時までそこに留まることになりました。

これはキリスト教国において、未亡人になった女性貴族によくあることです。おそらく前夫の子どもを妊娠している場合もあるので、秘密裏に出産させるためでもあったでしょう。

イングランドヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンも、初めはヘンリー8世の兄と結婚していたため、その兄が亡くなって数年間は修道院で過ごしたあとヘンリー8世と結婚しました。

フランスのサントメールにあるサン・ベルタン修道院で発見された、Annales Bertiniani (サン・ベルタン年代記) は 9世紀のフランク王国の主要な情報源の1つであり、特にシャルル2世(西フランク王国)の勢力圏での出来事について詳しく述べている。

ランスのフロドアードは、カロリング朝の崩壊後の数十年間、西フランク王国のランスの大聖堂の司祭であり、フランク 人の歴史家であった。
彼の歴史書は、10世紀初頭から中期の 西ヨーロッパ、特にフランスの歴史の主要な資料となっている。

余談ですが、『ハムレット』がオフィーリアに言い放った「尼寺へ行け」も修道院は安全だから身を隠せという意味がある気がします。
(内通者がいて、安全でないこともあるんですが・・・)



ジュディスとボールドウィン1世の出会いは、861年にボールドウィンがサンリスの修道院を訪問した時と言われています。
すぐに二人は恋に落ち、その年のクリスマスの頃に駆け落ちしたそうです。

そもそも女王は結婚相手を自分で決められるんですが、父シャルル2世の許しを得られなかったので駆け落ち、あるいは誘拐したと言われています。
しかし駆け落ち前にサンリス修道院で結婚の誓いを立てていたので、ジュディスの兄弟ルイ2世の同意と援助があったと考えられています。

私は別の記事で「ジュディスのほうから、ボールドウィンに結婚を持ちかけた」と読んだ記憶があります。


シャルル2世は駆け落ちに激怒し、教会は二人を破門にし、二人の結婚に同意したルイ2世は罰を受けサンマルタン修道院に幽閉されたと言う記録があるそうです。

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シャルル2世は、身分差に反対したのでしょう。王の娘が無冠の軍人に嫁ぐなど考えられない時代ですし。

あるいは、シャルル2世は別の嫁入り先を決めていた可能性もあります。
たとえば独立を許してしまったブルターニュ王国を味方に引き入れるために、ブルターニュの王子との結婚とか。

ベルティニアーニ年代記によると、シャルル2世の息子ルイ2世は856年にブルターニュ公エリスポエとの娘と婚約していたそうです。
婚約はエリスポエが殺害された後、857年に破棄された。


しかし、ほら、反対されればされるほど、恋は燃えるものでしょ(笑)
誰かに「やめろ」と言われて「はい、そうですか」となるのは、そもそも恋よりもずっと以前の問題。


結婚の許可とフランドル伯

ジュディスとボールドウィンは、シャルル2世の従兄弟でロタリンギア王のロタール2世の宮廷に逃れました。
最終的に彼らは、ローマ教皇ニコラウス1世に破門の取り消しと結婚の許可をもらうため、ローマへ向かいました。

教皇は彼らの主張に耳を傾け、彼らの結婚を法的に拘束力のあるものと認めて特使をシャルル2世のもとに派遣したそうです。
シャルル2世はしぶしぶ二人の結婚を許可し、二人は駆け落ちから約1年後、正式に結婚式を挙げました。

シャルル2世は、ボールドウィンにフランドル辺境伯領を与え、貴族にしました。

ヤン・ファン・デル・アセルト作
「フランドルのボードゥアン1世とその妻ユディット・オブ・フランス」


前述したようにフランドルはヴァイキングの攻撃が頻繁にありましたが、ボールドウィンはヴァイキングを鎮圧し、「鉄の手」というあだ名で呼ばれるようになりました。
ボールドウィンは義父シャルル2世に忠実であり続け、フランドル伯領はフランスで最も強力な領地の1つとなりました。

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ボールドウィン家族の屋敷は、ボテルベーケ川とロイア川の合流点にあった、バイキングの要塞が残っていたブルッジャと言う名前の島に建てられました。
そこは、現在ブルージュ(ブルッヘ)の市庁舎とブルク広場がある場所に建っており、ステーン城の遺跡が今も残っているそうです。

ブルージュの市庁舎
ブルク広場
フランドル伯の礼拝堂として建てられた聖ワリシイ礼拝堂
聖ドナティアヌス大聖堂は、フランス革命の余波で1799年に破壊された


ジュディスは3度目の結婚で、少なくとも3人の息子と2人の娘をもうけたようです。

長男ボールドウィン2世は、ウェセックス王国のアルフレッド大王の娘エルフトリスと結婚しました。

ジュディスの後、1世紀以上ウェセックスの女王が戴冠することはなかったようですが、この時点から女王は夫と一緒に戴冠するか、統治する国王によって結婚が厳粛に行われた場合は別々に戴冠するようになりました。
戴冠式により、女王たちは正式な地位を獲得しました。儀式の核心である油注ぎと厳粛な礼拝を伴う結婚式は、何世紀にもわたって変わっていません。


もう一人の息子ラルフは、896年にヴェルマンドワ伯爵エルベール1世(カール大帝の息子イタリア王ピピンの曽孫)に暗殺されています。
この殺害は、その後も禍根となって子孫たちに影響することになったんですが、その話はまたいつか。

ジュディスがいつ亡くなったのかはわかっていませんが、ジュディスは征服王ウィリアムの妻になったフランドルのマチルダの祖先でもあるため、その後のイングランド王の祖先でもあります。


私は、ジュディスはボールドウィン1世を大変愛していたと思います。
おそらく初めての恋愛だったのではないでしょうか。
最後の結婚が幸福なものでよかったです。

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フランドルの紋章

フランドルの紋章は、9世紀のフランドル伯の紋章に由来しています。

フランドル伯の紋章


ボールドウィン1世が持っていた盾とはまったく違いますよね。

9世紀に何が起きたのか・・・
そう、とても恐ろしいことが・・・

その話はまた今度に。ではでは。

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