アナーニ黄金時代の教皇とフィレンツェを追放されたダンテの話
前の記事でフランス王フィリップ4世のアナーニ事件のことを書いたので、昨年から下書きのままだった「アナーニ」について調べたことをUPします。
ローマの東約60kmに位置するアナーニ(Anagni)は、古くはアナグニア(Anagnia)と呼ばれていました。
ローマ帝国時代には皇帝の避暑地となり、中世にはローマ教皇がしばしば滞在した教皇の街でした。
紀元前のアナーニは、ヘルニキ族Herniciの土地でした。紀元前6世紀ごろに、ヘルニキとエトルリアが経済的・文化的交流があったことが明らかになっているそうです。
ヘルニキは、岩石を意味するhernaに由来しており、Herniciは「石の多い丘に住んでいる人々」といった意味を持っています。
そういえばギリシャ神話のヘルメスも岩に関係した名前でしたね。
紀元前4世紀のローマ・ヘルニキ戦争はローマの勝利に終わり、ヘルニキはローマに併合されました。
紀元前3世紀になると、ヘルニキ族は民族としては消滅したそうです。
アナーニの黄金時代
5世紀以後、アナーニにはカトリックの司教座(カテドラル)が置かれ、9世紀にはケレース神殿跡に最初の大聖堂が建設されました。
12世紀から13世紀にかけて、教皇は好んでアナーニに滞在するようになり、この時期の教皇権と皇帝権(教皇派と皇帝派)の抗争の重要なできごとの舞台になりました。
13世紀はアナーニの黄金時代で、100年間に4人の教皇を輩出しています。
そのうち3人が、有名貴族コンティ家 (Conti di Segni) 出身でした。
第176代ローマ教皇インノケンティウス3世(在位1198年 - 1216年。本名は本名はロタリオ・ディ・コンティ(Lotario dei Conti)は、教皇権の絶頂期を築きました。
コンティ家はインノケンティウス3世のほかに、グレゴリウス9世、アレクサンデル4世、インノケンティウス13世を含む9人の教皇を輩出したそうです。
インノケンティウス3世のエピソード
インノケンティウス3世については、エピソードがたくさんあって全てお伝え出来ないですが、代表的なのは第4回十字軍(1202年 - 1204年)でしょう。
十字軍の背景にはいろいろありますが、主な大義は「聖地エルサレムをイスラーム勢力から奪還する」ことであり、エジプトに本拠を置くアイユーブ朝を打倒することが意図されていました。
第1回十字軍(1096年 - 1099年)の成功で、エルサレムに十字軍国家を建国しましたが、第2回、第3回は(キリスト教国の視点では)ほとんど失敗に終わりました。
ところが名誉挽回のはずの第4回十字軍は、聖地には向かわず東ローマ帝国を攻略し、首都コンスタンティノポリスを陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くした悪名の高さで知られています。
コンスタンティノポリスを攻撃するのは教皇の意図にはなかったようですが、十字軍の輸送を請け負っていたヴェネツィア共和国が、契約金額を払えなかった十字軍に代替え案としてヴェネツィア共和国に対して反乱を起こしていたアドリア海東岸の都市ザラ(現在のクロアチアのザダル)を攻撃するように持ち掛けたことが発端になったと言われています。
カトリックの都市がカトリックの十字軍によって初めて攻撃されるという事態となり、第4回十字軍の悪行は東西教会の分裂を決定的なものにしたと考えられています。
しかしこの十字軍の方向転換には、ローマ教皇の勢いをくじこうとするローマ皇帝(ドイツ)側の意図も大きく影響していたと思います。
教皇と皇帝の対立
イノケンティウス3世は、1208年のホーエンシュタウフェン朝第5代ローマ王フィリップ(在位1198年 - 1208年)の暗殺に関与したと言われています。
このフィリップこそが、第4回十字軍の方向転換(コンスタンティノポリスの襲撃)を主導した人物でした。
フィリップは、バルバロッサと呼ばれたローマ皇帝フリードリヒ1世(1190年没)の末の息子でした。
父フリードリヒ1世は第3回十字軍(1189年 - 1192年)の遠征中に突然亡くなりました(暗殺とみられている)。
後継のローマ皇帝はフィリップの兄でシチリア王のハインリヒ6世でしたが、そのハインリヒ6世が1197年に亡くなり、フィリップは兄の子フリードリヒ2世(当時3歳)の後見人を務めることになりました。
フィリップはキリスト教の司教でしたが、父の死後に還俗していました。
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ローマ王選挙と教皇の介入
ところがホーエンシュタウフェン家と対立していたヴェルフ家のオットー4世(在位1198年 - 1215年)が対立皇帝として擁立されたため、幼いフリードリヒ2世では対抗できないと見たホーエンシュタウフェン家派の諸侯は、1198年にフィリップをローマ王に推戴しました。
オットー4世は、養育者であるイングランド王リチャード1世の支援を受け、フィリップはフランス王フィリップ2世と同盟していたため、オットーの即位はイングランドとフランスの衝突も引き起こしました。
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そのころ教皇インノケンティウス3世は、幼王フリードリヒ2世の母コンスタンツァ(シチリア女王、1198年没)から相談を受け、フリードリヒ2世の後見人になっていました。
教皇はイングランド育ちでドイツ諸侯に支持者が少ないオットー4世に肩入れし(傀儡皇帝にしようとしていた)、1201年にローマ王選挙に介入しました。
オットーは教皇の支援の見返りに、中部イタリアにおける教会の権利の保障、シチリア王国に対する教皇の封主権の承認など、イタリア政策における教皇の意向の尊重しました。
しかし、1204年にイングランドがフランスに敗れ(↓下の記事に書きました。ジョン王の時です)たため、イングランドからの資金援助を絶たれたオットーは苦境に陥りました。
多くの諸侯がフィリップに味方するようになってしまったのです。
その後1207年頃にはほぼフィリップの勝利となっていたのですが、1208年にヴィッテルスバッハ家のオットー8世によってフィリップは暗殺されてしまい(この暗殺は教皇の指示がありました)、ローマ皇帝にはオットー4世が就くことになったのでした。
しかし、オットー4世は教皇インノケンティウス3世がもくろんでいたような傀儡皇帝にはならなかったので、教皇は1210年にオットー4世を破門し、暗殺したフィリップの甥のフリードリヒ2世を帝位に就けて、オットー4世を廃位しました。
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ホーエンシュタウヘン家の断絶
アナーニ出身の4人目の教皇であるボニファティウス8世(在位1294年 - 1303年)と、フランス王フィリップ4世およびローマ貴族コロンナ家の対立(前回の記事)で書ききれなかったことを書いておきます。
ボニファティウス8世の母(ミリア・パトラッソ・ディ・グアルチーノ)は、前述のコンティ家 (Conti di Segni) 出身の教皇アレクサンデル4世(在位:1254年 - 1261年)の姪でした。
教皇アレクサンドル4世とシャルル・ダンジューの陰謀
アレクサンデル4世は、シャルル・ダンジューに捕らえられ処刑された最後のホーエンシュタウフェン家のシチリア王コッラディーノ(在位:1254年 - 1268年)の後見人でした。
アレクサンドル4世が、コッラディーノが「ローマ王=ドイツ王」になるのを禁じたため、父のコンラート4世(1254年没)が亡き後は1257年にイングランドのジョン王の次男リチャード (コーンウォール伯)が選出されました。
イギリス人が1272年まで名目上の「ローマ王=ドイツ王」になるという、よくわからない状態になっていたのです。
リチャードはヨーロッパで最も裕福な人物の一人であり、「ローマ王=ドイツ王」選挙でも買収行為が行われていたことは明らかです。
陰謀論よりもコワイ陰謀があったのだろうと思うのは、コッラディーノは第1回十字軍の結果で生じたエルサレム王国の王位を継承していたのですが、16歳で亡くなってしまったので(未婚だった?)後継者がなく、エルサレム王国の領土は親族間の争議の素となり、1277年にシャルル・ダンジューに売却されてしまいました。
よりによって、コッラディーノを処刑したシャルル・ダンジュー(アンジュー・シチリア家)にとは。
教皇アレクサンドル4世は、ホーエンシュタウヘン家に対して十字軍を動員する計画もしていたそうです。
歴代の教皇とシャルル・ダンジューは、ホーエンシュタウヘン家を潰すだけでなく、本気で東ローマ帝国の征服を考えていたんだなぁ。(これについてはまたの機会に)
コッラディーノら7人が処刑された場所には、そのときの死刑執行人だったドメニコ・プンツォの子孫によってサンタ・クローチェ・アル・メルカート教会(ナポリ)が建てられています。
悲しいかな、この教会の初期の建物は、コッラディーノを鎮魂する目的で建てられたのではなかったようです。
教皇派と皇帝派の対立
ローマの北に、過去の教皇たちのお気に入りだったヴィテルボという都市があります。
ここは12世紀にパタリネス派(カタリ派)の本拠地でしたが、カタリ派は13世紀に異端認定され、激しい迫害に遭い消滅しました。
ヴィテルボは忠実なゲルフ(教皇派)の街で、アレクサンドル4世は1257年から1261年の間、ローマではなくヴィテルボに居住していました。
ローマにギベリン(皇帝)主義が強まり、教皇にとって住みづらい場所になり始めたのがアレクサンドル4世の時代でした。
1266年から1268年にかけて、クレメンス4世は、ホーエンシュタウフェン家に対する戦いの拠点としてヴィテルボを選びました。
シャルル・ダンジューがコンクラーヴェ(教皇選挙会議)に介入するようになったため、外国人の選出に同意しなかったヴィテルボの人々が反乱を起こしました(彼らは破門されました)。
その後、フランス国王フィリップ4世によるアヴィニョン捕囚によって、1309年から1376年まで教皇庁が南フランスに移されたこともあり、ヴィテルボは教皇不在になりました。
教皇派、皇帝派の名前の起源は、ザーリア朝のローマ皇帝ハインリヒ5世が亡くなった1125年以後、ホーウェンシュタウヘン家と敵対したヴェルフ家の争いに遡ります。
12世紀のドイツでは、ホーエンシュタウヘンを支持するほうをギベリン、ヴェルフを支持するほうはヴェルフと呼ばれていました。
ところが13世紀の北イタリアでは、ゲルフ(ヴェルフ)が二つに分裂し、黒(ネリ)=保守派、白(ビアンキ)=とややこしいことになりました。
詩人ダンテと『神曲』
叙事詩『神曲』で有名なダンテは白ゲルフ(ビアンキ)でした。
ダンテは、フィレンツェで金融業を営むゲルフ党の銀行家(高利貸し)の家に生まれました。父の名は、アリギエーロ・ディ・ベッリンチョーネ。
先祖にホーエンシュタウフェン朝初代ローマ王コンラート3世(1152年没)に仕え、第2回十字軍に参加して戦死したカッチャグイーダ(1091年 - 1148年頃)という曽祖父がいたそうです。
しかし、ダンテの父、ダンテ自身もゲルフ(教皇)党なのは、フィレンツエという土地柄が強く影響したのでしょう。
イタリアのゲルフ党は商工業者、ギベリン(皇帝)党は貴族の傾向がありました。
フィレンツェのゲルフとギベリン
1266年、シャルル・ダンジューがホーエンシュタウヘン家のマンフレーディを滅ぼしたベネヴェントの戦いの結果、シチリアではキベリン(皇帝党)は徹底的に排除されました。
フィレンツェにおいてゲルフの内紛(黒ネリと白ビアンキの対立)が生じたのは、ゲルフ党がギベリン党に勝利したカンパルディーノの戦い(1289年)以降です。
戦闘に参加していた24歳のダンテは、上記の戦いで1,700人のギベリンが殺され、2,000人が捕虜になったと述べています。
『ロミオとジュリエット』の時代背景は、ちょうどこの時代。
場所はヴェローナですが、ロミオはギベリン(皇帝党)のモンタギュー家、ジュリエットは教皇党ヴェルフのキャピュレット家だったんです。
イタリア語のwikiを見ると、フィレンツエの近くにあるピストイアという街の喧嘩好きで知られるカンチェリエリ家の内部対立から、黒と白に分裂したと書かれていました。
ダンテが所属した白ビアンキは、政治的独立を追求し、市の政府のさまざまな決定に対する教皇の干渉を拒否していました。
一方、黒ネリは、経済的利益のために教皇と密接な関係があり、フィレンツェの内政における教皇の完全な統制を認め、教皇の権威の拡大を奨励しました。
当然、教皇(ボニファティウス8世)は黒ネリを好んだでしょう。
ダンテと同時代の白ビアンキのリーダーは、銀行家のヴィエリ デ チェルキ(チェルキ家)。
黒ネリのリーダーは、コルソ・ドナーティ(ドナティ家)でした。
しかし、ダンテが子どもの頃に決められた結婚相手ジェンマの実家はドナティ家、黒ネリ派でした。
ダンテと妻が不仲だったといわれているのは、そのせいかもしれません。
(でも子どもは4人ぐらいもうけています)
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教皇ボニファティウス8世との対立
ダンテの政治活動は、1290年代初頭に始まりました。
当初フィレンツェの政権を握っていたのは白ビアンキで、ダンテも要職に就き、最高行政機関を構成する三人のプリオーレ(判事のような役職)が選出され、ダンテもこの一人に任命されていました。
1300年頃からダンテと教皇ボニファティウス8世の対立が始まったようです。
ボニファティウス8世は、建前上は黒と白の対立をなだめるためにマッテオ・ベンティヴェンギ枢機卿を派遣しましたが、枢機卿は黒ネリを援助しました。
次に教皇が新しい和平者(実際には征服者)として派遣したのは、フランス国王フィリップ4世の弟シャルル・ド・ヴァロワでした。
もちろん、ヴァロワも黒ネリ派を支持していました。
1301年にシャルル・ヴァロワの支援を受けた黒ネリのクーデターにより、フェィレンツェは征服され、白ビアンキは財産を没収の上フィレンツェから追放されてしまうことになります。
ちょうどその時、ダンテは教皇庁への特使としてローマに派遣されていました。
教皇はダンテがフィレンツェに戻ることを許さなかったので(要するに、ダンテは実質上の捕虜となっていた)、欠席裁判が行われてダンテは教皇への日頃の態度から反逆罪と、(ローマから帰ってこないので)逃亡したとみなされて公金横領罪に問われました。
つまり、ダンテははめられたのです。
さらには出頭命令に応じないということで、フィレンツェから永久追放を宣告され、以来、ダンテは二度と故郷に戻ることは出来ませんでした。
イタリアの各都市を放浪していたダンテは、1318年頃からラヴェンナの領主のもとに身を寄せ、『神曲』はラヴェンナで書きあげられました。
ダンテの墓は現在もラヴェンナにあります。
ダンテがフィレンツエで高評価で迎え入れられるようになったのは19世紀のことでした。
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叙事詩『神曲』は、想像上の冥界への旅行記です。
ダンテは『地獄篇』で、ボニファティウス8世が地獄で罰せられることを描いています。
ダンテは前の記事に書いたコロンナ家と繋がりがあったわけではなく、フィリップ4世側でもなく(むしろダンテはフィリップ4世も弟のシャルル・ヴァロワも嫌っていた)、ボニファティウス8世を軽蔑していました。
フィリップ4世についても『神曲』の中では名前を出さずに「マル・ディ・フランシア」(フランスの疫病)と呼んで登場させています。
詩人は剣ではなく、ペンでこれらの圧政者に精一杯の復讐をしたわけですね。
それが最高峰の文芸作品のひとつとして現在も残っているのですから、復讐は大成功だったのではないでしょうか。
***余談***
ボニファティウス8世が1303年10月に憤死し、フィリップ4世によって教皇庁がアヴィニョンに移されると、アナーニは衰退し過疎化していきました。
アヴィニョンに教皇庁が置かれている間(1309–1376)、教皇は全員フランス人でした。
要するにフィリップ4世は、コンクラーヴェでフランス王家に都合がいい教皇を選出するために、教皇庁をアヴィニョンに移したのですね。
これは、神聖ローマ皇帝(ハプスブルク家)を制する意図もあったと思います。
フィレンツェの銀行家たちもフランスに移住し、富を増やしたようです。
教皇庁がローマに戻り、今度はフランス人の聖職者が排除されるようになると、対立教皇が立てられるようになり「大シスマ」(1378年から1417年)と言われる西方教会の分裂が起きました。
これは、イングランドとフランスのお家騒動だった百年戦争(1337年-1453年)のことで、ジャンヌ・ダルクの登場などもあり、単純に教会の分裂で終わらなかった感がありました。
そして、この大シスマの隙を狙ったように、フィレンツェにメディチ家が現れるのです。この話はまたいずれ。
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ところで、ダン・ブラウンの推理小説『インフェルノ』(2013年)では、主人公がダンテの地獄編をモチーフとしたボッティチェリの「地獄の見取り図」を壁に投影させて推理するシーンが出てきます。
ダン・ブラウンの『インフェルノ』をもとに2016年の映画『インフェルノ』
「真実は死者の目を通してのみ見える」というメッセージが謎解きの肝になっていました。
『ダヴィンチ・コード』も面白かったですが、『インフェルノ』ではフィレンツェやイスタンブールが舞台で、なかなか面白い推理小説とその映画化でした。
アマゾンプライムで無料になったら、また観たいです(笑)
今日はこのへんで。
最後までお読みくださりありがとうございました。ではまた。
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