5世紀の「風の時代」*民族移動と帝国の崩壊とキリスト教への移行
占星術用語の「風の時代」は、約20年毎に起きる木星と土星の会合であるグレートコンジャンクション、略してグレコンが、風のエレメントの星座(双子座、天秤座、水瓶座)で起き、それが約200年続く状態を指します。
そして全てのエレメント(火、地、風、水)が一巡するまで、約800年かかります。
風の時代は「転」のエネルギー
現在は、2020年12月に始まった風の時代です。
その前の風の時代は13世紀、日本は鎌倉時代~室町時代前半の頃でした。
さらに遡ると、5世紀が風の時代でした。
5世紀は、ユーラシア全土で移民(ゲルマン人移動)と政治的不安定の時代だったと言われています。
マヤ文明は古典期にあたり、北アクロポリスが建設されました。
日本は倭国の古墳時代中期にあたり、各地で巨大な前方後円墳が築造されました。倭国が朝鮮半島諸国間の紛争に活発に武力介入を行っていたことが、日本側と朝鮮半島側双方の歴史記録に記述に残されています。
さらには紀元前4世紀、アレキサンダー大王が東方遠征をおこなったのも風の時代です。
この記事では、5世紀のヨーロッパに焦点をあてて綴っていきます。
最後のほうだけ有料になっておりますので、ご了承ください。
上の表では、4世紀の中頃に「風」が「地(土)」の時代の終わりに飛び込んでいます。
いきなり、次の時代にはならないと以前にも書きましたが、「風」がフェードインすると「地」がフェードアウトしていくのです。
それぞれの約20年間の前半の10年は、物事が拡大しピークと終焉があり、後半の10年は全体的に縮小していく傾向があります。
ゲルマン人大移動
3世紀から8世紀にかけて、ヨーロッパでゲルマン人の大移動が起きました。
「ゲルマン民族の大移動」として世界史の授業で習ったはずですので、うっすらとでも覚えていらっしゃる方が多いでしょう。
彼らは、東方民族であるフン族の略奪・虐殺から逃げてきたと見られていますが、本当の理由はまだわかっていないそうです。
【ゲルマン人とは?】
ゲルマン人は、古代から中世初期にかけて、中央ヨーロッパ、スカンジナビア半島の南部や北海の沿岸に住んでいた人々でした。
インド・ヨーロッパ語(英語、ドイツ語、オランダ語、デンマーク語、スウェーデン語など)を話し、金髪で長身などの身体的特徴があります。
ゲルマン人の代表的な内訳は、西ゴート族、東ゴート族、ブルグント族、ランゴバルド、アングロ・サクソン人、ジュート人、アレマン人(ケルト系の混血)、フランク人です。
彼らは、もともと牧畜や農耕で生計をたてていたそうですが、農耕に肥料を使わず、耕地を休ませて交替に使うこと(三圃制)なども知らなかったので、毎年耕地を変えなければなりませんでした。
そのため耕地不足を解消する必要性が、大移動の背景にあったとも見られています。
また、2世紀後半から気候が寒冷化しており、環境の悪化や食料不足などの要因もありました。
環境の悪化や食料不足などの要因により、ゲルマン人は頻繁にローマ帝国の国境を侵犯していたそうですが、3世紀に入るとかつてないほどの大規模な侵入が始まりました。
ローマ帝国内へ移住
最初にローマ帝国の領域に侵入したのは、ゴート族でした。
375年にフン族が東ゴート族を征服し、生き残った者の一部がヴァンダル族とともにローマ帝国に保護を求め、皇帝属州パンノニアに移住しました。
西ゴート族は、東ゴート族がフン族に征服されたのを知り、すぐに移動を開始。ローマ帝国に保護を求め、376年に大挙してドナウ川を渡りました。
これがゲルマン人の大移動のはじまりとみられています。
当時のローマの皇帝ヴァレンス帝やテオドシウス1世は、ゴート族に寛容でした。
初期の大移動は侵略戦争という規模の紛争はなく、ローマ皇帝の許可を得た法的な移民だったと言われています。
ゴート族に続く形で、ブルグント族がフランス北部に、ランゴバルドがイタリアに侵入していきました。
その後、アングロ・サクソン人とジュート人がブリタニアに、アレマン人(ケルト系と深く混血していた)がドイツに侵入していきました。
最終的にフランク人(ゲルマン諸族)が西ヨーロッパを担うようになり、現在のドイツ、フランス、イタリアが生まれました。
ゲルマン人たちは、このころに多神教からキリスト教のアリウス派へと改宗したと見られています。
アリウス派は、イエス・キリストの神性や三位一体を否定していたため、325年のニケーア公会議で異端とされていましたが、アリウス派の教義はわかりやすかったのでゲルマン人に受け容れやすかったようです。
さらにゲルマン人の土俗的な信仰と合体して、独特なキリスト教となっていきました。
東西ローマ分裂と西ローマ帝国の崩壊
ローマ帝国は、紀元前1世紀末ごろには地中海全域を支配した大帝国でした。最盛期にはメソポタミア方面まで支配していたとされています。
「ローマは一日にして成らず」という有名な言葉があるように、ここにローマ帝国の詳細を書くのも読むのも大変なので大幅に割愛しますが、ローマの黄金時代(パクス・ロマーナ)の終わりは、2世紀のコモドゥス帝から始まっていたようです。
3世紀には、3世紀の危機(235年 - 284年)と呼ばれる大規模な動乱時代がありました。
この時代には無数の皇帝が乱立し、ガリア帝国とパルミラ帝国がローマ国家から離脱し、辺境であるライン・ドナウ方面からのゲルマン人の侵入やサーサーン朝ペルシアの侵寇により国土が分裂または失われるなどで、皇帝の権威が次第に衰えていきました。
4世紀の皇帝テオドシウス1世(在位379年 - 395年)は、亡くなる直前に息子たちにローマを西と東の2つに分担統治させることにしたため、ローマ帝国は「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国(ビザンツ帝国)」に分かれました。
ところが、国が分裂したことで国力が減ってしまい、西ローマ帝国では皇帝ホノリウス(9歳で即位)に市民たちは不信感を募らせていました。
◆406年、ヴァンダル・スエビ・アラン人などの集団がライン川を渡りガリアに侵入(406年のゲルマン諸族のライン川渡河)、西ローマ帝国の東辺境が崩壊しました。
◆410年には、西ゴート人のアラリック1世(在位395年 - 410年)によるローマ掠奪が、西ローマ帝国の衰亡を決定的にしました。
ローマ軍が属州ブリタンニアから撤退し、西ローマ帝国のブリタンニア支配も終わりました。これについては、別記事にしようと思っています。
◆476年 、 クーデターでゲルマン人傭兵隊長オドアケルにより皇帝ロムルス・アウグストゥルス(当時16歳)が廃位させられ、西ローマ帝国は崩壊しました。
西ローマ帝国衰退以後
東ローマ帝国は、13世紀まで存続しましたが、1453年にオスマン帝国の侵攻により滅亡しました。
西ローマ帝国が滅んだあと、西ヨーロッパはゲルマン人の王たちに支配されました。イベリア半島を支配したのは西ゴート王国です。
西ゴート王国は、589年にキリスト教アリウス派からアタナシウス派(現在のカトリック)に改宗しました。
フランス、ドイツ、イタリアの起源であるフランク王国は、481年にフランク人のサリ族のメロヴィング家のクローヴィス1世が、ガリア北部に建国しました。
フランク王国は、他のゲルマン諸民族がアリウス派のキリスト教を受け入れたの対し、496年にクローヴィス1世が改宗してアタナシウス派に帰依し、ローマ=カトリック教会と関係を深め、急速に発展していきました。
フランク王国についても、またの機会に書かせていただきますね。
こうしてゲルマン人大移動の影響で西ローマ帝国が崩壊し、東ローマ帝国がビザンチン帝国へとヘレニズム化したことで、古代ローマが終わり、「暗黒時代」とも呼ばれるヨーロッパの中世前期が始まりました。
キリスト教思想の浸透
ゲルマン人移動と時を同じくして、2世紀~8世紀のキリスト教会は「教父主義の時代」とも呼ばれます。
教父のカテゴリーには、新約聖書の著者たちは含まれません。
最初の教父と見做されているのは、イエスの弟子である使徒たちから直接教えを受けた人々で、「使徒教父」ないし「使徒的教父」と呼ばれます。
教父主義は、キリスト教として地位を確立しつつあった4世紀から5世紀にとくに繁栄しました。区分は、古代末期キリスト教になります。
教父たちは、異教が多い時代にキリスト教を擁護する為に、ギリシア哲学を利用してキリスト教思想を説明しました(教父哲学)。
キリスト教会の混乱と対抗
テオドシウス帝によって、392年にキリスト教はローマの国教になっていました。とはいえ、まだ、キリスト教の信徒は、人口の1割程度だったそうです。
380年に、テオドシウス1世ら3人の皇帝が共同でテサロニケ勅令を発しました。
「使徒ペトロがローマ人にもたらし、ローマ教皇ダマスス1世とアレクサンドリア総主教ペトロス2世が支持する三位一体性を信仰すべき」
「他の者たちは愚かな狂人であるため、異端者と認定し、罰する」という内容でした。
この勅令は、三位一体派の保護と非三位一体派の排斥が目的でした。
ぶっちゃけて言うと、「キリスト教以外は認めん。それも三位一体派のアタナシウス派以外は異端とみなす。キリスト教以外を信じる者は死刑に処す」みたいな感じです。
テオドシウス1世がこのような勅令を出すにいたったのには、ミラノ司教アンブローズ( 340年? - 397年)の影響が大きかったと言われています。
アンブローズは、予期せぬことで司教に推薦され、なりたくなくて逃げまわったという、変わったところのある人物です。
しかし、司教に就任するとたちまち手腕を発揮しました。
アンブローズは、ローマ教皇ダマスス1世、教父アウグスティヌス(ヒッポのアウグスティヌス)にも大きな影響を与えたと言われています。
その後、帝国政府は、反異教政策として異教の寺院の宝物を没収したり、補助金の廃止、占いの禁止、神殿を閉鎖、破壊するなど、非キリスト教徒の迫害、異教の排除が行われました。
5世紀には非キリスト教徒のほうが少なくなっていることから、反異教政策と教父による異教徒への哲学的反論がいかに効果があったか窺えます。
しかし、異教徒のアラリック1世(在位395年-410年)によるローマ掠奪(410年)は、ローマカトリック教会にも大きな衝撃を与えました。
紀元前387年にアッリアの戦いでローマ略奪が行われて以来、およそ800年にわたって外敵による直接侵攻とは無縁であった都市ローマが陥落したことは、帝国内外に大きな動揺をもたらしました。
当時の神学者ヒエロニムス(ジェローム)は、「全世界を収奪し続けたローマが、外敵から収奪されている」と記したとされています。
多くのローマ人は、アラリック1世による掠奪を「キリスト教を支持して、伝統的なローマの宗教を放棄したことに対する罰」とみなしました。
キリスト教教会にとっては、従来にない危機となり、教父アウグスティヌス(ヒッポのアウグスティヌス)は、逆にキリスト教本来の信仰を忘れたことに対する神の怒りの顕れであると主張して、413年から『神の国』の執筆を開始し、426年に完成させました。
アウグスティヌスは、『神の国』の中で、キリスト教が広まる前の偶像崇拝や異教の神々が崇拝されていた時、ローマに多くの災害があったと指摘しました。
これらの神々はローマ人に道徳を与えなかったばかりでなく、淫猥な祭典すら要求し、不浄の汚鬼に違いないと断言しました。
アウグスティヌスは、異教を捨ててキリスト教に回心しなければならないと訴えました。
カトリック聖書の統一
遡って第37代のローマ教皇ダマスス1世(在位366年 - 384年)は、神学者ヒエロニムス(ジェローム)に全聖書をヘブライ語、アラム語、ギリシャ語からラテン語に翻訳することを命じており、ヒエロニムスは405年ごろにウルガタ聖書を完成しました。
ダマスス1世は、異端の排除とカトリック教会の信仰を強固にするために、聖書をラテン語に改訂することを望んでいたと思われます。
ウルガタ聖書は、中世から20世紀の第2バチカン公会議にいたるまでカトリックのスタンダードとなりました。
イエス・キリストの物語を創作したのはヒエロニムスだったという説もあるようですが、さすがに真偽はわかりません。
しかし、ウルガタ聖書が風の時代に完成したということは興味深いです。
タブーに触れるかも?しれないので、念のためこの先を有料にしました。
長くなりましたので、風の時代の5世紀後半についてはまた改めて書きます。
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