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ランゴバルト王国の美しき女王とロンバルディアの王冠 part2

ヨーロッパの歴史の中で、フランク王国の存在を無視することは到底出来ないのですが、キリスト教の東西分裂がフランク王国の政治に大きく影響していたことを、強くかみしめている私です。

簡単にいうとメロヴィング朝は、東ローマ教会に動かされ、カロリング朝はラテン教会(西)に動かされていました。
クローヴィスもシャルルマーニュもチェスの駒でした。



さて、前回の続きになりますが、先に補足を入れますね。

ランゴバルト人

ランゴバルド人は、スカンディナヴィア半島南部のSchonen(スコネン)が発祥地で、現地人と戦闘を交えながら南下して、PART1の記事にも書いたスエビ族の一部族となったと考えられています。

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ローマ時代のランゴバルド人は、チェコ北部とドイツ東部を流れるエルベ川流域のマウリンガ(Mauringa)と呼ばれた地(現在のドイツ・リューネブルク地方とメクレンブルク地方に相当する)に居住していました。


5世紀末、ランゴバルド人の一部がエルベ川を去って、ドナウ川中流域に移動。しかしフン族と混合することはなかったようです。

546年に東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によって、ローマの同盟者としてノリクムパンノニアへの移住が許されました。

ローマは、東ゴート族ゲピド族との長い戦争に手を焼いている時だったので、緩衝材として(国境防衛のため)ランゴバルト人を移住させたのでしょう。


パンノニア(現スロバキア・ハンガリー付近)における分布(6世紀前半)


王国の支配領域であるポー川流域一帯はランゴバルド人の土地と言う意味で、現在のロンバルディア州の語源になった。
ランゴバルドとは「長い髭 (longa barba) 」を意味しているとの説がある。

ランゴバルド王国とバイエルン

メロヴィング朝クローヴィス1世の長男、テウデリク1世の息子テウデベルト1世は、ランゴバルド国王ワッコの娘ウィシガルドと婚約していましたが、ガリア南部の遠征中に出会ったガロ・ローマ人 デウテリアとの間にテウデバルトをもうけました。


テウデバルトは、父の2番目の妻となったウィシガルドの叔母であるランゴバルドのヴァルドラダと結婚しました。
ところがテウデバルトは子を為さず亡くなり、彼の領地は叔父の領地に併合されました。

未亡人になったヴァルドラダは、クロタール1世(561年没)と結婚しようとしていましたが、教会の大反対により、クロタール1世はヴァルドラダをアギロルフィング家のバイエルン公爵ガリバルド1世(540年ー591年頃没)と再婚させました。

ガリバルド1世


ガリバルド1世の出自については明らかになっていませんが、548年頃に早世したテウデバルト王からバイエルン公の称号を授与されていました。

ヴァルドラダとの結婚は、ガリバルド公爵にとって大出世を意味しました。
ガリバルト公爵は、フランク王国の地方領土のひとつだったバイエルンで公爵以上の力を持つことになったのです。

ここまでが前回の補足です。

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フランク王国はランゴバルド人と敵対していましたが、バイエルンは568年にランゴバルド国と独自の同盟を結んでいました。

574年に、ランゴバルド人がクロタール1世の息子であるグントラムの領土ブルグント(ブルゴーニュ)のプロヴァンスに侵入し、フランクは東ローマ軍の支援を受けて長期戦に発展しましたが、ランゴバルド人はバイエルン軍の協力を得て勝利しました。

プロヴァンス


ガリバルド公爵は、その時のランゴバルドのリーダー、エウインと自分の娘を結婚させています。

ランゴバルド国にとってバイエルンの王女との結婚は、同盟を通じてフランク人の脅威から国を守ることに繋がり、ガリバルド公爵も同じように考えていました。

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このようなバイエルンとランゴバルドとの接近は、フランクにとって新しい脅威となり、のちに幾度もフランク人は軍事行動を起こすことになります。




メロヴィング朝の宮廷は、ガリバルド公の娘テオデリンダとアウストラシア王キルデベルト2世(グントラムの養子)との結婚を取り決め、フランク王国とバイエルンを密接に結びつけようとしました。
同時にメロヴィング朝は、キルデベルト2世の妹とランゴバルド王アウタリを結婚させ、ランゴバルド王国をフランクの配下に置こうと考えていました。
しかし、この2つのもくろみは失敗に終わりました。

589年、テオデリンダは、ランゴバルド王アウタリに嫁ぎました。

テオデリンダ


この結婚は、もちろん政治的同盟を強化するための結婚でした。
ランゴバルド人とバイエルン人の長年の絆と、フランク人に対する互いの敵意の強化でした。


ランゴバルドの美しく悲しき女王

カルケドン派キリスト教の熱心な信者だったテオデリンダにとっては、アリウス派の王との結婚は、また別の意味がありました。

私たちがキリスト教という言葉を聞くとき、バチカンやローマ教皇(ローマ・カトリック)を思い浮かべると思いますが、この時代はコンスタンティノープルを中心とした東ローマ帝国(ビザンチン帝国)と東ローマ教会が強い力を持っていました。

東ローマ帝国末期の国章「双頭の鷲」
画像はコンスタンティノポリス総主教庁の正門に今も掲げられているもの


その権威をラテン教会(ローマ・カトリック)に転換させようとしたのが、西暦800年のカール大帝の戴冠でした。

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なぜアリウス派が多かったのかは別記事に書きました。


アウタリ/ニュルンベルク年代記(1493年)

アウタリ王は信仰に寛容な態度を取っていたが、ランゴバルド人の息子たちがカトリック教徒として洗礼を受けることを禁じた。
それは、カトリック教徒としての洗礼は「帝国の道具」であり、彼らの「戦士としての活力」を奪うものだと考えたからである 。

結婚から1年後、590年にアウタリ王が40歳で突然死去(毒殺)しました。

すると古代ランゴバルド王家の子孫でもあるテオデリンダは、王女として次の夫を選ぶことを認められ、591年にトリノ公アギルルフを次のランゴバルド王に選び再婚しました。

アギルルフは先代のアウタリの親戚で、テューリンゲン出身のアリウス派でした。アギルルフは、603年にニカイア派に改宗し、息子のアダロアルド(602年 - 628年)にも洗礼を受けさせました。


ロンバルディアの宝とキリスト教会

テオデリンダの一連の結婚に介入していたのは、ローマ教皇グレゴリウス1世(在位590年 - 604年)でした。
グレゴリウス1世は、バイエルンのカトリック教徒とアリウス派ランゴバルド人を結びつける結婚を奨励していました。
教皇は、フランクの王女ベルタ(クローヴィス1世の曾孫)とケント王国のエゼルベルトとの結婚を奨励したこともありました。

グレゴリウス1世は、ローマ元老院議員の息子で、30歳でローマ市長官になりました。政治家としてのキャリアを積んだ彼は、思うところがあって修道院に入り、590年(50歳頃)に教皇に選ばれました。
カンタベリーのアウグスティヌスをイングランド宣教に派遣したことでも知られています。

テオデリンダは教皇グレゴリウスと頻繁に手紙を交わしており、その一部は8世紀の歴史家パウルス・ディアコンによって記録されている。
これらの手紙の内容の一部は、夫の改宗に関するものであった。
キリスト教カトリックの信仰をさらに広めるため、彼女は領土全体にカトリックの宣教師を迎え入れた。
彼女の信心深さを最大限に利用し、おそらく彼女のカトリック信仰を奨励するために、グレゴリウス1世は彼女にシリア・パレスチナの職人技による一連の銀製のアンプル、福音書の棺、ビザンチンの金の十字架を贈った。

アギルルフの改宗後、テオデリンダとアギルルフはモンツァ大聖堂を建設しました。

モンツァ大聖堂は、「ロンバルディアの鉄王冠」が納められていることで有名です。(ランゴバルドがロンバルディアに変化)

鉄の王冠(ロンバルド語ではCorona Ferrea )は、伝統的にキリスト教世界
で最も古い王家の紋章の1つであると考えられている聖 骨箱入りの奉納冠である。


余談ですが、王冠は14世紀までイタリア王の戴冠式に使用されており、カール大帝が774年にイタリア王として戴冠した際にも使用されたそうです。
神聖ローマ皇帝として戴冠するときに「イタリア王であること」が必須条件でした。

なぜテオデリンダがこの鉄王冠を所持していたかについては複数の説があり、教皇グレゴリウス1世が、外交上の贈り物としてテオデリンダ王女に贈ったとか、ランゴバルド族がイタリアに侵攻したときに奪ったものだったとか(それを教会に返した)。

いずれにせよ、グレゴリウス1世がテオデリンダとの関係を維持することは、ロンバルディア朝宮廷への足掛かりとなり、教皇庁の利益にかなうものでした。

ロンバルディアの平和の時代

アウタリの死後、テオデリンダは教皇グレゴリウス1世との協力関係を強化し、宗教的な蜜月だったと想像します。

そして、モンツァ大聖堂には今は失われている、聖ヨハネに捧げられたアギルルフの王冠もかつて納められていました。

現在のモンツァ大聖堂
テオデリンダの礼拝堂


アギルルフの治世(590-616)の間は、フランクとの戦争がなく平穏でした。

ブルゴーニュ王グントラムが592年に死去したため、フランク王国は兄弟の領土争いで内戦状態になり、それによりフランクの兄弟たちによるランゴバルドへの共同攻撃が行われなかったからです。

アギルルフは、バイエルンとの良好な関係を維持しました。

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テオデリンデ王妃の礼拝堂


モンツァ大聖堂のテオデリンダ礼拝堂にあるフレスコ画
テオデリンデの結婚式の食事
テオデリンデ・パルテンツァ・ディ・テオドリンダの夢と出発。


アリウス派の反撃

アギルルフは616年に亡くなり、息子アダロアルドは14歳で即位しました。

アダロアルドについても情報が少なく、(フレデゲール年代記によれば)気が狂って数人の貴族たちを理由もなく処刑したため、626年に廃位させられたとWikipediaに書かれています。

おそらく周囲に敵が多かったのでしょう。
「王様が理由もなく処刑した」と記録されているときは、たいていそうです。

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