備忘録*19世紀イタリア統一運動とナポレオン3世*リンカーン大統領暗殺
19世紀の中盤(1848年以降~1850年代初め)、天王星と冥王星が牡羊座から牡牛座にかけてコンジャンクションを形成していました。
この会合周期は、およそ113年から141年というかなり緩みのある間隔です。
現在の私たちは、1965年頃に乙女座で始まったサイクルにいます。
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19世紀、イタリアでは国家統一を目指して革命運動が始まりました。
18世紀のフランス革命後の混乱を収拾したナポレオン・ボナパルトは、イタリアに侵攻して、ピエモンテ、トスカーナ、ローマをフランスに併合し、さらに北部にイタリア王国、南部にナポリ王国を建国し、フランスの衛星国を作りました。
ナポレオン失脚後、これらの衛星国はフランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家の支配下に帰しましたが、共和制の下で育まれたナショナリズムは、1848年革命(諸国民の春)に結実していきました。
天王星は革命(自由)、冥王星は破壊(変容)。
この二つの星がコンジャンクションしたタイミングで起きたのが、1848年革命でした。
振り返ると現在のサイクルが始まった1965年頃は、公民権運動、文化大革命などが起きていますね。
この記事では、19世紀のイタリア統一運動に焦点をあてて書いていきます。
かなり長くなりますが、よかったらお付き合いください。
イタリア統一運動(リソルジメント)
秘密結社カルボナリ
カルボナリは「炭焼(木を燃して炭を製造する職人)」を意味し、18世紀末のフランス革命の初期にフランス東部に存在した炭焼人のギルドを模した秘密結社がその源流とされています。
結社内では独特の隠語が用いられており、党員は自らを炭焼人に見立て、社会をボスコ(Bosco:森林)、政府や与党、圧政者をルーポ(lupo:狼)、秘密の集会所をバラッカ(baracca:山小屋、炭焼き小屋)、地方支部をヴェンディタ(Vendita:炭売り場)、部外者をパガーニ(pagani:異教徒)と称しました。
仲間と挨拶を交わす際はブオン・クジーノ(buon cugino:良き従兄弟)と呼び合いました。
宗教に言及することを固く禁じられていたが、実際には守護聖人を定めて崇拝するなど、宗教的色彩を帯びていたと言われます。
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1814年、ナポレオン戦争終結後のウィーン会議でブルボン朝の王政復古が承認されると、カルボナリは復位したフェルディナンド4世、及びブルボン朝に攻撃の矛先を向けました。
王政復古側は、山賊や無頼の徒を募ってカルデラリ(Calderari)と称する暴力団を組織し、カルボナリに対抗したそうです。
しかし、両者の抗争により生じた社会混乱は大衆の不満を煽る結果となり、現状に不満を抱く幅広い層からカルボナリに支持が集まり、青年貴族や大学生の間でカルボナリへの加入が流行したそうです。
勢力の伸張に伴い、カルボナリは教皇権の打倒をも画策しました。
カルボナリを政治団体として公認する旨の教皇ピウス7世の文書を捏造し、これに激怒した枢機卿たちはカルボナリへの入党や集会の開催、集会場の提供を禁ずる命令を発布しましたが、ついには教皇が兵を差し向ける騒ぎとなりました。
1820年の革命
1820年の革命は、1月1日に起きたスペイン立憲革命から始まりました。
スペインの成功はカルボナリを刺激し、革命の波はシチリア島のパレルモとナポリで起きました。(ナポリ革命)
両シチリア王国の最初の王であったフェルディナンド1世(前述のフェルナンド4世)は譲歩し、立憲君主制を約束しました。
しかし、オーストリア軍の兵士5万人が鎮圧のために派遣され、クーデターの主要人物は次々に逮捕。カルボナリに加担した軍人は処刑されました。
この革命の敗北によって、ナポリから亡命する者が相次ぎました。
ラファエロ前派の画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティの父で、作家のガブリエーレ・パスクアーレ・ジュゼッペ・ロセッティは、マルタ島に3年、その後ロンドンに亡命しました。
カブリエーレ・ロセッテイは、カルボナリの創設メンバーでした。
彼は、ロンドンではイタリア語教授を務めたそうです。
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ナポリ革命も含めカルボナリは幾つかの蜂起を実施しましたが、結果はすべて失敗に終わりました。
しかし、次に「青年イタリア(ジョーヴィネ・イタリア Giovine Italia)」が台頭します。
1830年フランス7月革命
カルボナリは本拠地をパリに移し、フランスのカルボナリ(シャルボンヌリー)と連携しました。
1830年フランス7月革命には学生、小市民、労働者らも加わり、ブルジョアジーの援助を得た約6万人の市民は、7月29日にルーヴル宮殿やテュイルリー宮殿、ノートルダム聖堂を占領しました。(栄光の3日間)
国王シャルル10世(Charles X)はイギリスへ亡命し、ブルボン朝は崩壊しました。
替わってルイ・フィリップを国王に戴く立憲王政が誕生し、新政権にはカルボナリの党員も名を連ねることになりました。
>>>余談
7月革命で私が印象深いのは、アメリカ独立戦争にもフランス革命にも関係していたラファイエット将軍(1757年9月6日 - 1834年5月20日)がまだ生きていて、7月革命でも重要な役割をしていたことです。
フリーメイソンだったラファイエット将軍は、ジョージ・ワシントンを慕い、2度も渡米して英国軍と戦いました。
ワシントンDCにはラファイエット広場があります。またラファイエット将軍の肖像画が現在も米国下院に収蔵されています。
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フランス7月革命は、ヨーロッパ各国の市民革命運動に影響を与えました。
オランダ連合王国に統合されていた南ネーデルラントでは、オランダの支配に反対してブリュッセルで暴動が発生し、翌1831年にレオポルド1世を国王に迎えてベルギー王国が独立を果たしました(ベルギー独立革命)。
なお、オランダが最終的に独立を承認し、領土問題が解決したのは1839年でした。
事実上、ロシア帝国の傀儡国家であり属国であったポーランドは、ワルシャワで革命(11月蜂起)が起きましたがロシア軍によって鎮圧されました。
青年イタリアの出現
青年イタリアの創設者ジュゼッペ・マッツィーニは、カルボナリの党員でした。
青年イタリアの党員は原則として40歳以下の者とされ、全員が本名を秘匿して活動しました。党員の偽名にはイタリア史上の人物名が選ばれ、マッツィーニはフィリッポ・ストロッツィ(Filippo Strozzi:メディチ家に反抗した銀行家)を名乗っていたそうです。
マッツィーニは他にも組織を創設しており、「青年ドイツ」、「青年ポーランド」、「青年スイス」そして「青年ヨーロッパ」がありました。
1837年にはロンドンのチャーティスト運動に参加したと言われています。
1848年の革命に際して、青年イタリアは「ローマ共和国」を打ち立てましたが、ナポレオン3世の軍事介入により短命に終わりました。
マッツィーニは海外に亡命し、外国からミラノ、ジェノヴァなどの革命運動を指導しました。
ナポレオン3世と暗殺未遂
フランスでは1848年2月に革命が起き、ルイ・フィリップは退位しました。
それまでの革命とは異なり、ブルジョワジー主体の市民革命から社会主義者、共産主義者も参加したプロレタリアート主体の革命でした。
革命直後にデュポンドルールを大統領とする臨時政府が、共和政を宣言し、フランスは第二共和政に移行しました。
デュポンドルールは一貫して自由主義、立憲主義の擁護を主張し、同時代人の尊敬を得ていましたが、急進的な社会主義の政府に人々は不満を感じるようになりました。
1848年6月、失業者に仕事を与えるために創設されたばかりの国立作業場が、費用がかさむという理由で閉鎖になったことにより「6月蜂起」(1848年6月23日~6月25日)が起きました。
1,500人以上が死傷し、4,000人がフランス領アルジェリアに強制送還されたとのことです。
イギリスに亡命していたナポレオン3世は、ルイ・フィリップが退位したと聞き、すぐにパリに向けて出発しました。
ボナパルトという名前は政治的権力を持っており、ナポレオン3世は12月の選挙で初代大統領に当選しました。(ボナパルティズム)
>>>余談*ヴィクトル・ユーゴーの反乱
1851年12月2日、二選を禁じる法律のため翌年に辞任しなければならなかったナポレオン3世は、自己クーデター(コードネーム:ルビコン作戦)を起こしました。
このクーデターは国民議会を解散し、大統領の権限と任期を増大させるものでした。以前に立法府によって廃止された、普通男性参政権の復活が含まれていました。
ナポレオン3世に反対していた弁護士ジュール・ファーブルと小説家ヴィクトル・ユーゴー、他の数人の共和党員はクーデターに反対する運動を組織しましたが、約1,000人の反乱軍に対し、政府は30,000人の兵士を大挙し、反乱は急速に鎮圧されました。
ナポレオン3世の自己クーデターに反対した人々は、推定300人から400人が殺害されたそうです。
ヴィクトル・ユーゴーは、1870年に普仏戦争でナポレオン3世が失脚し、政権が崩壊するまで亡命生活を送ることになりました。
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オルシーニの試み(第二次イタリア独立戦争)
ナポレオン3世は若い頃に、オーストリア人に対する蜂起に参加したイタリアで、マッツィーニやガリバルディ(後述)の運動に共感し、また革命家たちもナポレオン3世がイタリア統一に協力してくれると期待していたそうです。
ところがナポレオン3世が皇帝に即位してから、イタリア統一は遅々として進まず、革命家たちは失望を感じ始めていました。
1855年、ナポレオン3世は1回目の暗殺未遂を受けました。その時の犯人ジョヴァンニ・ピアノリは、ジュゼッペ・マッツィーニの信奉者でした。
記録されている2回目の暗殺の試みは、3年後の1858年1月14日の夜のこと。
ナポレオン3世と皇后ウジェニーが、ロッシーニの歌劇『ウィリアム・テル』を観るために劇場に向かっていたときに実行されました。
作家スタンダールは『ロッシーニ伝』において、「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」とロッシーニを絶賛していました。
そのロッシーニのオペラを観にいったナポレオン3世が命を狙われるという・・・なんとも寓話のような偶然。
しかも『ウィリアム・テル』(ギョーム・テル)は、自由を希求する民衆の闘いをベースに描かれています。
犯行グループ(1人は決行直前に逮捕されていた)の3人は、パリのオペラ座正面に止まろうとしていた馬車に3発の爆弾を投げつけました。
皇帝夫妻は軽傷でしたが、皇帝を見ようと集まっていた民衆はパニックになり、死者18人、負傷者150人の大惨事となりました。
翌日、犯行グループは全員逮捕されました。
ナポレオン3世の暗殺未遂事件は、翌年の第二次イタリア独立戦争へと繋がりました。
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リンカーンの暗殺も同じようなシチュエーションで行われました。
(劇場で何かするのは、イタリアン・マフィアのやり方と似てますね)
フェリーチェ・オルシーニについて
ナポレオン3世暗殺未遂の主犯フェリーチェ・オルシーニは、その姓からも察せられるように有名なオルシーニ家の出身です。
フェリーチェは家柄的に司祭になることを勧められていましたが、ジュゼッペ・マッツィーニの青年イタリアに参加し活動家になりました。
フェリーチェは、1844年に革命の陰謀に関与したとして父とともに逮捕され、終身刑を宣告されましたが、教皇ピウス9世(在位1846年- 1878年)は彼に恩赦を与えました。
ピウス9世がフランス2月革命(1848年)まではイタリア統一運動に寛容だったことと、フェリーチェの父方の叔父であるオルソ・オルシーニ(大麻の栽培と取引で財を成した人物)と司教時代から懇意だったことが背景にあったと想像できます。
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1850年、フェリーチェはニースで麻の販売に特化した会社「モンティ&オルシーニ」を商っていましたが、ジュゼッペ・マッツィーニに従ってハンガリーへの秘密任務に就きました。
ハンガリーで逮捕されて有名なマントヴァの牢獄に収監されましたが、2年後に脱獄し、ロンドンに亡命しました。
脱獄したフェリーチェをロンドンは歓迎し、新聞社は彼の脱出物語を英語翻訳して掲載しました。
出版社からも寛大な申し出を受け、1856年に「フェリーチェ・オルシーニの回想録と冒険」を出版しました。1857年には「イタリアのオーストリアの地下牢」というタイトルで刑務所の経験を英語で出版しました。
また1857年には、同じく逃亡者である外科医シモン・フランソワ・ベルナールと出会い、ベルナールの考え(ナポレオン3世に対する試み)に魅了され、ナポレオン3世の暗殺を計画し始めました。
フェリーチェは、ローマ共和国を滅亡させたナポレオン3世を倒すことで、西欧社会がイタリアに目を向け、イタリア統一の気運が高まると考えたようです。
事件から2か月後の1858年3月13日に、フェリーチェとジュゼッピ・ピエリは処刑されましたが、ほかの2人は終身刑でした。
カルロ・カミッロ・ディ・ルディオ伯爵(1910年11月1日没)は死刑判決を受けていましたが、誰かが?恩赦を嘆願し、終身刑に減刑されました。
数か月後、ディ・ルディオ伯爵はデビルズ島の刑務所から脱獄に成功し、ロンドンへ亡命。名前をチャールズ・デルディオと英語化して、1860年にアメリカに渡りました。
デルディオはアメリカ陸軍の将校になり、1864年11月11日に第2アメリカ有色人歩兵連隊の少尉に任官され、1876年のリトルビッグホーンの戦い(南北戦争)で活躍しました。
ガリバルディの赤シャツ隊
ガリバルディの両親は海上貿易に携わっており、彼も常に海の上で育ちました。1832年にガリバルディは商船隊のキャプテンになりました。
1833年4月、ガリバルディはロシアの海港タガンログで、イタリアからの政治亡命犯で青年イタリアのメンバーと出会い、これを機にガリバルディは青年イタリアに参加し、同時にカルボナリにも加入しました。
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1836年、ガリバルディは南米に航海をし、そこでアニータと出会い結婚した後、ブラジル南部のリオ・グランデ・ド・スル州の独立戦争に義勇兵として参加しました。
そのままウルグアイのコロラド党大統領フルクトゥオソ・リベラに雇われ、そこでゲリラ戦術のスキルを身につけたそうです。
1848年の一連の革命騒動の際はイタリアに帰国し、ジュゼッペ・マッツィーニらと共に行動しました。
1860年初頭、両シチリア王国のメッシーナ、パレルモで起きた反乱では、ガリバルディは約1000人の義勇兵を集め、千人隊(皆に赤いシャツを着せたことから「赤シャツ隊」と呼ばれる)を結成しました。
5月15日に、千人隊はブルボン軍と交戦(カラタフィーミの戦い)し、勝利を収めました。ブルボン朝の支配を嫌っていたシチリアの民衆はガリバルディに賛同し、千人隊に加わる人もいたそうです。
千人隊がシチリア最大の都市パレルモに入城すると、ブルボン軍は海上の軍艦から無差別攻撃を行ったため、多くの市民が巻き添えになりました。
両シチリア国王がシチリアを放棄し、軍を南イタリアへ引き上げさせると、ガリバルディはシチリア島全土を支配下に置きました。
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その後ガリバルディは、征服地をサルデーニャ王国王に献上しました。
ガリバルディは共和主義者でしたが、祖国のサルデーニャ王室(サヴォイア家)に崇敬の念を持っていたそうです。
サルディーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は統一イタリアの象徴として国民から敬愛されていました。
国王に謁見したガリバルディは、「ここにイタリアの王がおられる」と宣言し、征服した領土すべてを国王に献上しました。
これによりイタリアの大部分が統合されました。テアーノの握手
ローマ問題
イタリアの統一は、マッツィーニら革命家が望んだ人民革命によるものではなく、サルデーニャ王国によるイタリア諸国の吸収合併という形で進んでいきました。
教皇領のあるローマを併合することについて、新生イタリア政府内でも意見が分かれ、ガリバルディは1862年6月に再びパレルモに上陸して「ローマか死か」(Roma o Morte) をスローガンに義勇兵を集めました。
ガルバルディの動きにイタリア政府は強く反対し、軍を派遣しました。
多くが捕虜となり、ガリバルディも負傷し捕らえられましたが、彼を擁護する世論が高まり、結局ガリバルディは釈放されました。
第3次イタリア独立戦争
ガリバルディの反教皇主義は過激さを増し、議会選挙演説で教皇を「強奪者」、教皇庁を「毒ヘビの巣」と罵り、1867年9月9日にジュネーブで開催された国際和平会議でも極端な反カトリックの言辞を繰り返しました。
当時、彼の人気は頂点に達していました。
1867年10月、ガリバルディは7,000人の義勇兵を率いてローマを占領するための2度目の軍事的行動を起こしますが、ローマ市内における同時蜂起が不発に終わったため、フランス軍部隊が加わって増強された教皇軍にメンターナの戦いで大敗してしまいました。
その後、フランスの守備隊は1870年8月まで留まっていましたが、普仏戦争が始まったことによりローマから引き上げました。
フランス軍が去った1870年9月20日、ローマはイタリア軍に占領され、ついにイタリア統一が成立しました。
1870年は、天王星は蟹座にあり、牡牛座冥王星とセキスタイル(60度)、牡羊座海王星とスクエアでした。
普仏戦争はドイツ統一が目的で引き起こされたのですが、ナポレオン3世がスペイン王位継承問題の罠にかかって始まった戦いでした。
フランスは連敗を重ね、セダンの戦いでナポレオン3世はプロイセン軍の捕虜になり、戦争終結後はイギリスへ亡命し、1873年に死去しました。(イギリスでの晩年)
>>>余談*反ユダヤ主義と近代シオニズムの父
1890年代、この戦争の影響から発展してドレフュス事件(1894年)が起こりました。
パリのドイツ大使館のゴミ箱の中からフランスの軍事機密が発見され、アルザス生まれでユダヤ人のフランス軍大尉アルフレド・ドレフュスがこの事件の犯人に仕立て上げられました。
ドレフュスは、反逆罪により終身禁固刑を宣告されました。(最終的に無実を晴らして1900年に釈放されました)
一連の出来事を取材して記事を書いたオーストリアの新聞記者テオドール・ヘルツルは、ユダヤ人に対する差別・偏見を目の当たりにしたことからユダヤ人国家建設を目的とするシオニズムを提唱し、この思想及びそれに基づく諸運動が後のイスラエル建国へと繋がっていくことになったのです。
さて、このドレフュス事件は偶然起きたのでしょうか?
テオドール・ヘルツルはただの新聞記者なのでしょうか?
私はある国のバックボーンがあったと思っています。気になる事はとことん調べる癖がある私は、いくつか繋がりを発見しました。
詳しくはまた機会を見て書きますね。
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おまけの話*リンカーン暗殺
アメリカ南北戦争(1861年4月12日から1865年4月9日)の時代、天王星は双子座の最後から蟹座に抜けようとしていました。
南北戦争勃発に際し、ガリバルディはアメリカ大統領エイブラハム・リンカーンに北軍の司令官に加わるよう依頼されていたそうです。
ガリバルディは「奴隷の即時解放」を条件に了承しましたが、開戦初期の時点で北部も奴隷解放に慎重な姿勢を取ったため、リンカーンはガリバルディの招聘を断念したと言われています。
1865年4月14日の「聖金曜日(イエスの処刑を祈念した日)」にリンカーン大統領を暗殺したジョン・ウィルクス・ブース(主犯)は銃殺されましたが、リンカーンの誘拐を計画した仲間のジョン・サラットはヨーロッパに逃亡しました。
サラットはイタリアに渡り、ジョン・ワトソンという偽名で教皇軍(ズアーブ)に勤務していたそうです。
その後、身バレして捕らえられますが逃走し、ガリバルディのグループに匿われて生活していたそうです。
サラットはイタリアで何をしようとしていたのでしょうね。
サラットはアメリカに強制帰国になり裁判を受けますが、彼の母は犯行グループに部屋を貸していたため共謀を疑われてすでに処刑されており、サラット自身は時効のため刑罰を受けませんでした。
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サラットは後に、フランシス・スコット・キーの従兄弟のメアリー・ビクトリーン・ハンターと結婚しました。
1872年以降、ボルチモア蒸気パケット会社 (Baltimore Steam Packet Company) で働き、最終的には会社の財務担当になったそうです。
3月のフランシス・スコット・キー橋の崩落から、私が執着して調べているボルチモア男爵とフランシス・スコット・キーの関係(つまりスコットランドとイングランドとアメリカ三位一体(笑)がまたここで繋がりました。
下の写真は、リンカーン暗殺の主犯ジョン・ウィルクス・ブース。
写真を見れば一目でわかるフリーメイソンですが、奴隷制を支持するゴールデンサークル騎士団のメンバーでした。
リンカーン暗殺も深い深い穴です。
長くなりましたので、この続きはまたいつか。
最後までお読みくださりありがとうございました。
ではまた。