5世紀*西ローマ帝国と霧のポー渓谷
5世紀に西ローマ帝国が衰退した原因は、皇帝ホノリウス(在位393年 - 423年)が使えないヤツだったから(ヒドイね(^^;)というのが歴史上の定説になっている感じですが、北イタリアのモデナについて気になることがあって調べていたら、ちょっと興味深いことが出て来ました。
モデナModenaは、紀元前183年にはローマ帝国の植民地になり、当時は「ムティナ」(Mutina)と呼ばれていたそうです。
11世紀に建てられたモデナ大聖堂は、ユネスコの世界遺産に登録されていますが、その前の世紀にも教会が建てられていたはずと思って調べると、5世紀に2つの教会が建てられていました。
どちらも破壊されたそうです。
霧の奇跡
もとあった教会は、4世紀の助祭で、のちにモデナの司教になった聖ジェミニアヌス(ジミニャーノ)の墓の上に建てられていました。
名前がいかにもローマ人ですね。
ジェミニアヌスは、カトリック教会、ギリシア正教会の聖人として祀られています。具体的には何をしたかというと、「フン族の攻撃をかわすため街を霧で覆った」のだそうです(^^;)
ジェミニアヌスが没したのは397年1月31日となっているので、それ以前にフン族の攻撃があったと考えますが、彼が没したサン・ジミニャーノ(元の名はシルヴィア)の記録では450年頃のことらしいです。
(ジェミニアヌスの霊が奇跡を起こした?(^^;)
ジェミニアヌスが生きていた時代にフン族の攻撃があった可能性もなくはないですが、ホノリウス帝が亡くなった後(423年)に即位したヨハンネス帝(在位 423年 - 425年)の重臣であったフラウィウス・アエティウスは、フン族を説得し味方に引き入れていたので、すくなくとも423年以降~450年まではフン族の侵攻はなかったと思われます。
***
452年、フン族のアッティラ(在位 434年 - 453年)がローマを略奪する際に、7月18日に占領したアクイレイアから先に進めなかったことがわかっています。
原因は、疫病と飢餓がアッティラの陣営で発生していたと言われています。
このとき、アッテイラの軍隊はポー川を渡らなかったそうなのです。
ポー川はイタリア北部を横断する、イタリア国内で最も長い川です。
ポー平原(渓谷)
イタリアといえば半島の中心を背骨のようにアペニン山脈が通っており、総面積は日本の約4/5だそうです。
イタリアの川の大半は、アドリア海かティレニア海にそそいでおり、自治体同士の境界線となっています。
ポー川は、アルプス山脈とアペニン山脈の間を流れ、アドリア海に注ぎます。総延長は650キロメートルを超えるそうです。
自然は必ず、大きな川を中心に大きくて肥沃な平野(ポー平原)を生み出します。モデナはそんなポー平原に位置します。
しかし、イタリアは降水量が比較的多く、雪原や氷河に富んだアルプス山脈とアペニン山脈があることは洪水リスクも高いことをうかがわせます。
イタリアは、法律でポー平原を「雨水や雪や氷河の融解水が地表を流れ、直接または支流を経由して水の流れが集まる領域」と定義しているそうです。
モデナの気象を調べると、ポー平原(渓谷)は、冬は雨が多く寒く(平均最低気温は氷点下)、夏と冬の間には大きな温度差があり、夏は蒸し暑く最高気温は35°Cをはるかに超えるそうです。
秋と冬には霧は非常に頻繁に発生し、多くの場合、非常に濃く、数日連続するということでした。
きっとこれですね!聖人の奇跡は(^^;)
また、5世紀から7世紀にポー川の右岸の主要な支流セッキア川とパナロ川の氾濫が原因で、モデナは放棄され、住民はより西のチッタノーヴァに移住したとありました。
私もモデナの年表を見て、この期間が空欄なのはなぜだろう?と思っていました。
以下のリンク記事では、西ローマ帝国の崩壊(西暦5世紀)後、灌漑システムのメンテナンスの欠如で洪水が頻発したことが原因というようなことが書かれていました。
専門用語が難しくほとんどわかっていませんが(苦笑)、興味深かったです。
サステナビリティ |無料全文 |完新世後期の洪水管理が中央ポー平野(北イタリア)に及ぼす影響 (mdpi.com)
紀元前のローマ人は、植民地をつくるとすぐに完璧とも思える灌漑工事を行っていたはずですが、それがこの地域では行われていなかったのか、あるいはインフラ整備が追い付かない状況だったのか。
失われたローマの力
たしかに西ローマ帝国は、ホノリウス帝が名将スティリコを疑念から処刑してしまったあと(408年)、ゴート族の脅威に翻弄されていて、戦争ばかりでインフラ整備をする余裕がなかったかもしれません。
権力を維持することも出来ず、市民の生活を思いやることも出来なかった。
スティリコの処刑後には、スティリコが抑えになっていた西ゴート族の王アラリック1世がローマを掠奪しました(410年)。
東ローマ帝国のほうもイスラームに煽られ、ヴァンダル族にもちょいちょい突っつかれていたようです。
西ローマ帝国が衰退したそもそもの原因は、テオドシウス1世が広大なローマ帝国を、ふたりの息子に分割相続させたことに起因しています。
ホノリウス帝も、兄の東ローマ皇帝アルカディウス帝(在位383年 - 408年)も幼くて頼りなく、後ろ盾の大人のいいなりで、お互いに助け合うことができずに、対立もし、ある意味気の毒と思いました。
とくに西ローマは、ギリシャ人の血が入っているコンスタンティヌス朝の王族が大嫌いでしたから、10歳のホノリウス帝が頼れるのは周りにいる大人だけ。その中にどこかのスパイがいたとしたら・・・(いたけど)
東ローマも408年5月1日にアルカディウス帝が突然亡くなり、この前後から人事の入れ替わりが激しく、大きな陰謀があったんだろうなと感じています。東ローマで起こったことは別の機会に書きます。
この頃のローマ教皇は、インノケンティウス1世です。教皇は何が起きているか知っていたことでしょう。
今日はこのへんで。
お読みくださりありがとうございました。
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