ネタニヤフを作った修正主義シオニズムとカハニズム
昨日の朝、ドローンがイスラエル・ネタニヤフ首相の別荘を攻撃したという事件を扱っていました。
ネタニヤフ首相は不在だったそうで、けが人もいないとのこと。
アルジャンジーラの記事によると、ドローンはレバノン国境から70km(43マイル)まで探知されずに飛行でき(サイレンも鳴らず)、意図した標的に命中したということでした。
不思議ですね。
それと同時期にレバノンから「ロケット弾の大斉射撃」が、イスラエル北部に向けて発射され、1人が死亡、少なくとも13人が負傷したとありました。
ネタニヤフ首相(1949年10月21日生まれ )が政治活動を始めたのは、1980年代でした。
アメリカ・マサチューセッツ工科大学(MIT)で博士号を取り、1976年から1978年にかけてボストン・コンサルティング・グループで経営コンサルタントとして勤務したのち、イスラエルに帰国しました。
イスラエルでは、テロリズムの研究を専門とする非政府組織であるジョナサン・ネタニヤフ反テロ研究所を運営しました。
この時期に後に国防相、外相をつとめるモーシェ・アレンス氏を含む数人のイスラエルの政治家との関係を築いていました。
この記事では、ネタニヤフ首相に影響を与えた人物と修正主義シオニズムについて書いていきます。
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修正主義シオニズムとは・・・
ネタニヤフ氏の祖父は、ロシア帝国のクレヴァ(現在のベラルーシ)で生まれたシオニスト運動家のネイサン・ミレイコフスキーで、1908年にポーランド・ワルシャワに移り、ネタニヤフ氏の父ベンジオン・ミレイコフスキー(2012年、102歳で没)が生まれました。
一家は1920年にパレスチナ委任統治領に移住し、祖父ネイサンはロシュ・ピナの「ヴィルコミッツ」学校の校長になりました。
この時期に一家は「ネタニヤフ」に改姓したと言われています。
アメリカ・コーネル大学で歴史学の教授を務めたユダヤ史の学者である父ベンジオンは、修正主義シオニズム運動の活動家でもあり、ユダヤ国家の創設を支援するために米国でロビー活動を行いました。
>>>修正主義シオニズム
修正主義シオニズムは、ロシア(現在のウクライナ)・オデッサ生まれのユダヤ人ゼエヴ・ウラディーミル・ジャボチンスキー(1880年10月18日 – 1940年8月4日)によって発展したイデオロギー。
ジャボチンスキーは、第一次世界大戦でイギリス陸軍のユダヤ軍団を設立し、その後、ラトビアの準軍事組織ベタール、青年運動ハツォハール、強制パレスチナの過激派組織イルグンなど、いくつかのユダヤ人組織を設立しました。
1936年、アシュケナージ・ユダヤ人(白人系)のコミュニティに関心を持っていたジャボチンスキーは、ポーランド、バルト諸国、ナチス・ドイツ、ハンガリー、ルーマニアから150万人のユダヤ人をパレスチナに避難させる呼びかけをしましたが、第2次世界大戦が始まり計画は頓挫しました。
ジャボチンスキーは、「我々はヨルダン川の左岸からも右岸にもアラブ人を一人も追い出したくはない。私たちは、彼らが経済的にも文化的にも繁栄することを望んでいます」と、ユダヤ人パレスチナの体制(Eretz Israel ha-Ivri)を提案していました。
そのため現在のようなパレスチナからのアラブ人を公然と追放するやり方に抗議し、「国の公的生活のあらゆる分野において」アラブ人とユダヤ人と対等な立場にあると強調していたそうです。
残念ながら創始者の意志とは違って、ガザ虐殺が起きてしまっていますね。
ジャボチンスキーは1940年8月4日、ニューヨークの青年組織ベタールの施設を訪問中に心臓発作で死去しました。
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1940年、ネタニヤフ氏の父ベンジオンはニューヨークに行き、数か月間ジャボチンスキーの秘書官補佐を務めていました。
ジャボチンスキーが亡くなったあとは、アメリカ・シオニスト機構(ZOA)の事務局長に就任しました。1948年まで。
この組織の源流は、1896年創設の「アメリカンシオニスト連盟」(FAZ)でしたが、FAZは「パレスチナのユダヤ人国家の家」の設立を支援することを目的とし、ZOAは「パレスチナの地にユダヤ人の国を創る」という目標を掲げていました。
似ているようで違うところは、ZOAのほうが過激だったため、この2団体は対立していたそうです。
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ネタニヤフ氏の政治活動
首相になる前
ネタニヤフ氏の家族は、父ベンジオンがアメリカで教鞭をとっている間、ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外に住み、フィラデルフィアのチェルテナム高校に通っていたそうです。
高校卒業後にイスラエル国防軍に入隊し、特殊部隊サイェレット・マトカルに所属。第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)では、シリア領土でコマンド攻撃を指揮したと言われています。
1972年後半に米国に戻り、マサチューセッツ工科大学(MIT)で建築学を学び、ヨム・キプール戦争でイスラエルに短期間戻った後、再び米国に戻り、ベン・ニタイという名前で1975年に建築学の学士号を取得、 1976年にMITスローン経営大学院で修士号を取得し、ハーバード大学で政治学を学びました。
1976年から1978年にかけてボストン・コンサルティング・グループで経営コンサルタントとして勤務し(当時の同僚に後のマサチューセッツ州知事となるミット・ロムニーがいた)、イスラエルに帰国しました。
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1984年から1988年の間、ネタニヤフ氏は国連イスラエル大使を務めました。
ネタニヤフ氏は1980年代にラビ・メナヘム・M・シュネアソン氏(1994年6月没)の影響を受け、シュネアソンを「現代で最も影響力のある人物」と呼んでいました。
この頃、ネタニヤフ氏は元米国大統領ドナルド・トランプの父である、ドイツ系アメリカ人の不動産開発業者フレッド・トランプ氏(1999年没)と友人になったそうです。
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第一次ネタニヤフ内閣(1996年~)
ネタニヤフ氏が初めて首相になったのは1996年7月でした。
前任のイツハク・ラビン首相(イスラエル労働党)が暗殺されたために行われた選挙で、シモン・ペレス党首(当時)に僅差で勝利しました。
>>><イツハク・ラビン首相について>
1897年の第1回シオニスト会議や1917年のイギリス政府のバルフォア宣言など、パレスチナにユダヤ人の祖国を作るという主張が公に宣言されたため、イスラエルとアラブ国家はずっと緊張状態が続き、紛争が続いていました。中東戦争
現在のイスラエルとパレスチナの関係は、1967年の第三次中東戦争でイスラエル軍がパレスチナ自治区を占領したことで始まっています。
私の世代で強い印象を残した、アラファト議長(2004年没)率いるパレスチナ解放機構(PLO)は、1964年に創設されました。
その後、アラブ諸国とイスラム諸国から多大な支援を受けたアラファト議長は、パレスチナの初代大統領に就任(1989年4月2日 – 2004年11月11日)しています。
1990年の湾岸戦争では、イラクのサダム・フセインを支持したため、湾岸産油国からの支援を打ち切られて苦境に陥ったアラファト議長は、1993年にイスラエルと和平(オスロ合意1)を結びました。
そのときのイスラエル首相がイツハク・ラビン氏でした。
オスロ合意後、PLOはパレスチナ自治政府を設立しました。
しかし、イスラエルとの和平にハマスやパレスチナ・イスラム聖戦など過激なイスラム組織の反対があり、1995年11月4日にラビン首相はイスラエルの極右過激派カハニズムのイガル・アミール(終身刑で服役)という若者によって暗殺されてしまいました。
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ネタニヤフ氏はこの選挙で、和平交渉はイスラエルの安全保障を脅かすとして、強く反対する姿勢を押し出して当選しました。
パレスチナとの関係
1996年7月に首相となったネタニヤフ氏は、アラファト議長と交渉し、ワイ・リバーの覚書を交わしました。
これには1995年の暫定合意(オスロ合意2)を実施するために、イスラエル政府とパレスチナ自治政府が取るべき措置の詳細が記されましたが、下の写真の表情が物語るように、イスラエルのパレスチナ側への押し付けでした。
1996年にネタニヤフとエルサレム市長エフード・オルメルトは、嘆きの壁のトンネルに出口を開くことを決定しました。
この決定はパレスチナ人による三日間の暴動の口火となり、百人以上のパレスチナ人がイスラエル側によって殺害されました。
ヨルダンとの関係
1997年ネタニヤフ首相は、イスラエル諜報特務庁(通称モサド)に命じて、ヨルダンでハマスの指導者ハレド・マシャルを暗殺しようとしました。
暗殺工作チームは合計8人でした。
この計画は暴露され、2人の工作員がヨルダン警察に逮捕され、他は在アンマンのイスラエル大使館に逃れました。
ヨルダンののフセイン1世は激怒し、平和条約を破棄すると脅しました。
事件が政治的な重要性を帯びるにつれ、ビル・クリントン大統領が介入し、イスラエル側に留め置かれていた大人数のパレスチナとヨルダンの囚人が解放されました。
この事件によりイスラエルとヨルダンの関係は急激に悪化しました。
ユダヤのヒトラーと呼ばれたメイル・カハネ
カハニズム
シオニズムの中に「カハネ主義」というのがあります。ネタニヤフ首相が信奉しているのが、このカハニズムです。
「ユダヤのヒトラー」と呼ばれたラビ・メイル・カハネ(1990年に暗殺)が持っていた過激思想で、「我々は神に選ばれた民であり、我々が滅びなかったのは明白な神との契約があったからだ。我々は異教徒と平等では断じてない。我々は優れているのだ」というカハネの主張に基づいています。
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