「火の時代」皇帝クラウディウスとブリタンニア征服
ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザーGaius Iulius Caesar)は、ブリタンニア侵攻(紀元前54年)からガリアに戻ると、再びブリテン島に戻ることはありませんでした。
軍隊も残さなかったため、本気で征服しようという気はなかったと思われています。
20世紀以降、『ガリア戦記』は、シーザーのイメージを高めるためのプロパガンダだったという解釈も広まっています。
今回もマニアックな内容になっています。よかったらご覧ください。
カトゥベラウニ族のその後
シーザーによって降伏させられたカッシヴェラウヌスの後継者、タショヴァヌス は、ハートフォードシャー州のウィートハムステッドの北にあったデビルズ・ダイクから、本拠地を同じハートフォードシャー州のヴェルラミオン(現在のセント オールバンズのプラエヒル)に移しました。
セント・オールバンズは、ロンドンの北西20 マイル (32 km)にあります。
カトゥベラウニ族Catuvellauni族の定住地で、ヴェルラミオンは現在の市中心部からほど近いヴァー川の谷の中に築かれていました。
ヴェルラミオンという名前はケルト語で「沼地の上」または「沼地近くの土地」を意味するそうです。
タショヴァヌスは、紀元前15 年から紀元前10 年にかけて、鉄器時代の呼び名カムロドゥノン(ローマ統治時代はカムロドゥヌム(現在のコルチェスター) からコインを発行しています。
カムロドゥノンは、トリノヴァンテス族(TrinovantesまたはTrinobantes)の支配地だったので、タショヴァヌスがカムロドゥノンでコインを発行したことは、カトゥベラウニ族がカムロドゥノンを占領していたことを示唆しています。
カムロドゥノンは紀元前 1 世紀に建設された要塞都市で、柵で囲まれた溝と城壁で構成されており、三方を川で守られていたそうです。
まだローマ建築(区画)が取り入れられる前のヒルフォートの形式だとすると、下の画像のような感じだったでしょう。 オッピドゥム(oppidum)
しかし、カトゥベラウニ族によるカムロドゥノンの占領は長くは続きませんでした。
トリノヴァンテス族の王アディドマルスは権力を取り戻し、タショヴァヌスは再びヴェルラミオンに追い戻され、両部族間の現状維持はその後20年間続くことになりました。
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クノベリヌス王
その後、タショヴァヌスの息子クノベリヌスCunobelinus(在位:西暦9年頃-40年頃)が、アディドマルスの息子ドゥブノベラウヌスに取って代わり、現在はケントと呼ばれている地域にあったトリノヴァンテス族の領土カンティアチを含むブリテン島南東部のかなりの部分を支配しました。
クノベリヌスという名前は「ベレヌスの猟犬」または「輝く猟犬」という意味だそうです。
歴史家スエトニウスは、クノベリヌス王を「ブリトン人の王」(ブリタノルム・レックス)と呼んでいたそうです。
シェイクスピアの戯曲『シンベリン』に出て来るブリテン王シンベリンは、クノベリス王を題材にしていると言われています。
クノベリヌスはローマ帝国と非常に良好な関係を維持し、彼の治世では大陸との貿易が増加しました。
この時代のローマ皇帝は、初代ローマ皇帝アウグストゥス帝(在位 紀元前27年 - 紀元14年)、後継のティベリウス帝(在位 紀元14年 - 37年)だったでしょう。
しかし、クノベリヌス王に圧迫された諸部族がローマに助けを求めたため、ローマではブリタンニア侵攻計画が持ち上がるようになりました。
クノベリヌスにはエパティクスという兄弟と、アドミウス、トゴドゥムヌス、カラタカスという3人の息子がいました。
エパティカスは、20年代初頭に(ベルガエ人系)アトレバテス族の領土に勢力を拡大し、アトレバタンの首都カレヴァアトレバトゥムCalleva Atrebatum(現在のハンプシャー州シルチェスター) を占領しました。
その後カラタカス(後述)が彼の後を引き継ぎました。
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クノベリヌスの息子のひとりアドミウスは、父親に代わってカンティアチを統治していたようです。
カンティアチの首都はドゥロヴェルヌム・カンティアコルム(Durovernum Cantiacorum)、現在のカンタベリーでした。
別の息子トゴドゥムヌスとカラタカスは、反ローマの姿勢を取っており、クノベリヌス王は晩年、息子たちを制御できなくなったとみられています。
アドミウスは、父王クノベリヌスが亡くなったとされる紀元40年に追放され、ローマ皇帝カリギュラ(在位 37年 - 41年)の元に避難しました。
アドミウスはカリギュラにブリテン島に侵攻するよう請願しましたが、カリギュラは土壇場で侵攻を中止しました。
クラウディウス帝のブリテン侵攻
クラウディウスが皇帝になるまで
ローマによる本格的なブリテン島の征服は、第4代ローマ皇帝クラウディウス(在位41年 - 54年)の治世でした。
クラウディウスは、ガリアのルグドゥヌム(フランス・リヨン)生まれ。
彼はイタリア国外で生まれた最初のローマ皇帝でした。
ルグドゥヌムLugdunumは、紀元前 4 世紀のラ・テーヌ時代から継続的にガリア人の定住地でした。
Lugdunumは「ルグス(ケルトの神)の要塞 」を意味するそうです。
時の流れとともに、ルグドゥヌムがリヨンに変化していったとのこと。
ルグドゥヌムは、紀元前44年頃にローマの植民地化が始まりました。
クラウディウスは、ジュリアス・シーザーの玄孫になります。
父である大ドルススは若くして亡くなりましたが、伯父は第二代皇帝ティベリウス、甥っ子は第三代皇帝カリギュラになります。
母方の祖父はアントニウス、初代ローマ皇帝アウグストゥスは大叔父(母方の祖母の弟)でした。
クラウディウスは生来病弱で、吃音やよだれを垂らしたり、片足を引きずって歩く癖があったそうです。
脳性麻痺だったと言われていますが、現代ではジル・ドゥ・ラ・トゥレット症候群だったという診断もあるようです。
古代ローマは優生思想が大変強く、障がい児は誕生するとすぐに殺害されたそうですが、クラウディウスが生き延びられたのは、皇帝を出している家柄のせいだったと言われています。
しかし、母親には「人間の姿をした怪物」と呼ばれ、妹からは「絶対にローマ皇帝になって欲しくない」と言われていたそうです。
皇位継承者のひとりであったのに、公けの場所に出ることは許されていなかったため、クラウディウスの友は宮廷の女性や解放奴隷でした。
教育は存分に受けられたので、エトルリア史やカルタゴ史を研究し、歴史家としての足跡を残しています。
リヨンで発見された石板に、クラウディウスがエトルリアについて演説した内容が保存されているそうです。
そのようなわけで公務からも遠ざけられていたクラウディウスですが、甥っ子のカリギュラが皇帝になると、コンスル(執政官)に就任、同時に元老院議員に加えられました。
これはカリギュラが叔父を名誉職に引き立てたというよりも、カリギュラのおもちゃのような「いじめられキャラ」にされてしまったようでした。
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カリギュラの死後、皇帝に推される
41年1月24日にカリギュラが暗殺された直後に、帝政の存続を望むプラエトリアニ(親衛隊員)によってクラウディウスは皇帝に担ぎ出されました。
クラウディウスは50歳になっていましたが、政治経験が乏しく軍事経験も皆無だったため、皇帝が務まるのか不安視されてもいたようです。
もしかしたら「神輿は軽いほうがいい」ということだったかもしれません。
下の絵には、低頭平身のクラウディウス帝が描かれています。
彼はカリギュラとその家族が暗殺されたことを知り、皇位継承資格のある「自分も殺されるのではないか」と思い隠れていたそうです。
こんな軟弱なクラウディウスですが(3番目の妻メッサリナの尻にも敷かれていたし)、即位すると同時にローマの財政を建て直すことに着手し、シーザーのブリタンニア遠征から97年ぶりに、ブリタンニア南部を征服する偉業を達成しました。
クラウディウス帝のホロスコープと功績
ネロの記事にも書いたように、クラウディウスは結婚運、家庭運が悪く、最後は4番目の妻でネロの母だった小アグリッピナに毒殺されてしまったらしいのですが、どんなホロスコープをしていたのか興味がありました。
アストロデータバンクにはなかったので、 「私みたいなモノ好きはいないのかぁ」と思ったのですが、「いや、待てよ」と探したら、ほかのサイトにありました。やっぱりモノ好きはいるよね(笑)
クラウディウスは、 紀元前10年8月1日生まれ。獅子座です。
獅子座生まれは、本人が気がつかない場合も多いですが人気者になる要素を持ち合わせています。
水瓶座10度の土星が太陽とオポジション。
私もそうなのですが、太陽と土星がオポジションだと人生が思い通りいかない確率がほかの人より高いです。
生まれ時間がわかりませんが、月は乙女座です。
クラウディウスの功績を見ると、確かに乙女座の月っぽい。有能です。
即位すると同時にカリギュラがわずか3年で破綻させたローマの財政を建て直しました。
カリギュラが食料に課した税金を廃止し、干ばつや飢餓に苦しむ民衆の税金をさらに減額しました。
また、飢餓を回避するために耕地を増やしました。
多くの公共事業に着手し、2 つの水道橋を完成させ、テヴェレ川北岸にローマの外港であるオスティア港を築造しました。
クラウディウス帝は、ローマとオスティア港を結ぶ全長24kmのポルトゥエンシス街道も造ったと言われています。
クラウディウスの治世中、数多くの布告が発令されたそうですが、もっとも乙女座らしいと思ったのは、医学的アドバイス(ヘビ咬傷の治療法としてイチイの果汁を使う)や道徳的判断に至る布告でした。
奴隷の待遇改善、雇い主が奴隷を虐待した場合に厳罰に処するなど人道問題にも心を砕き、側近にも解放奴隷やローマ以外の出身者を採用しました。
クラウディウス自身が障がい者として家族からも遠ざけられていた子ども時代の体験から、虐げられた者をかばう優しい気持ちが生まれたのでしょう。
解放奴隷だったナルキッススは、クラウディウスにとても忠実であったと言われています。
クラウディウスもナルキッススを信頼に値する人物として重用し、ナルキッススをプラエトル(法務官)に就任させています。
しかし、ナルキッススが監督したフシーネ湖の排水トンネル工事が失敗し、皇妃アグリッピナはナルキッススが資金を横領していたと非難したため、ナルキッススは失脚してしまうのでした。
アグリッピナは、クラウディウスの暗殺とネロの即位のため、ナルキッススを排除したと考えられています。クラウディウスの死から数週間以内にナルキッソスは処刑されてしまいました。
クラウディウスは軍事経験がなかったので戦略は上手ではなかったそうですが、功績を見る限りは民衆にとっては良い皇帝だったのではないかと思います。
アクが強い第3代のカリギュラ帝と第5代のネロ帝に挟まれて、歴史的に目立たないのは残念ですね。
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そもそも毒婦が好きだった?
結婚運が悪かったと言われるクラウディウスですが、歴史家スエトニウスや他の古代の作家は、クラウディウスが女性と妻に支配されており、女たらしであると非難しています。
クラウディウスは2回の婚約に失敗、4回結婚しました。
乙女座の月は、家庭的な妻を望んでいたでしょう。金星も乙女座なので、しっかり者の女性を好んだでしょう。
しかし、冥王星が金星とコンジャンクションしています。(古代の人を占うには土星までしか使えないとは思いますが)
金星と冥王星のアスペクトは、たとえると「美女と野獣」あるいは(松村潔先生いわく)「貞子アスペクト」。つまりアブノーマルなんです。
その上、水瓶座天王星と蠍座木星とでTスクエア。だから、妻が毒婦で結婚生活が普通じゃなかったんでしょうねぇ。
むしろ、女性の言いなりになるのが快感だったかも?
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古代の歴史家は、クラウディウスを寛大で低俗な人物で、平民たちと昼食を共にすることもあったと述べています。
また怒りっぽい性格であったことは、クラウディウス自身も認めており、自分の気性について公に謝罪したとありました。
双子座火星が月とスクエアのせいかもしれません。
たぶん、その時々で言うことがコロコロ変わるような欠点があったんじゃないかと察します。
クラウディウスは学者肌でエトルリア研究もしていたぐらいですから、エトルリアの占いにも興味がありました。
水星と冥王星のコンジャンクションが木星、天王星とTスクエアになっているのがそれを表しています。
クラウディウスは、共和国時代に多くの人が実践していたエレウシス秘儀を強調したり、外国の占星術師を追放し、後任としてエトルリア人の占い師を採用しました。
エトルリア人は特別な占いと儀式を行っており、ローマ時代はエトルリア人の臓卜(ぞうぼく)師が活躍していました。
歴代の皇帝たちも臓卜師に相談していたそうです。
クラウディウスは、新興宗教(キリスト教)に対して懸念を示し、49年にはユダヤ人追放令を出しています。
新約聖書のパウロによる「ガラテヤ人への手紙」が書かれた頃のことです。
エトルリアには、伝統的な教典があったことからキリスト教の聖書対して最良の抵抗手段と考えられたこともあったようです。
ブリタンニア征服へ
西暦42年頃、ブリタンニアの属国王だったアトレバテス族のヴェリカは、クノベリウス王の息子カラタカスに攻め込まれ、ローマに亡命しました。
このヴェリカの亡命が、皇帝になったばかりのクラウディウスにブリテン征服の口実を与えたと見られています。
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ブリタンニア征服は、西暦43年にアウルス・プラウティウスの指揮で始まりました。
アウルス・プラウティウスは、「ローマで初めてのキリスト教徒」と言われたポンポニア・グラエキナ(83年没)の夫です。彼は、43年から46年までブリタンニアの初代総督を務めました。
3 世紀初頭に書かれたローマ史によれば、アウルス・プラウティウスの侵攻軍は3つの師団に分けて航行し、 3カ所に上陸したようです。
西暦 43 年にローマ軍が侵攻した場所
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メドウェイ川の戦い(西暦43年6月上旬)
メドウェイの戦いはアウルス・プラウティウス率いるローマ軍のブリタンニア侵攻の初期の戦いと見られています。
戦いが行われたメドウェイ川には橋がなかったので、ローマ軍は泳いで渡ってブリトン軍を攻撃しました。戦いは2日続き、ローマ軍が勝利しました。
カラタカスとトゴドゥムヌスの兄弟は、アウルス・プラウティウス率いる約4万人の軍隊に対して、主にゲリラ戦を用いて抵抗しました。
続くテムズ川の攻防戦では、ブリトン軍が優勢に立ったものの、結局ローマ軍が勝利し、トゴドゥムスは戦死したと伝えられています。
テムズ川の戦いの後、ローマ軍はいったん戦闘を中止しました。
クラウディウス自ら戦象部隊を率いてブリテン島に到着すると、間もなくカムロドゥノン(現在のコルチェスター)は陥落しました。
すでに勝利が確実になっていたので、最後は皇帝に花を持たせたのですね。
ブリテン島南東部の11部族が降伏しました。
クラウディウスは、カムロドゥノンをラテン語表記のカムロドゥヌムに改めて属州ブリタニアの設置を宣言すると、アウルス・プラウティウスを属州ブリタニア初代総督に任命しました。
クラウディウスのブリテン島滞在はわずか16日で、ローマへ凱旋したクラウディウスは「ブリタンニクス(ブリタンニア人の征服者)」の称号を受け、自らの子にもブリタンニクスの名を与えました。
※息子ブリタンニクスは、のちにネロ帝によって暗殺されました。
カラタカスの最後の戦い
しかしカラタクスは抵抗を続けており、ローマに服属しない部族もまだ多く存在していたため、征服戦争は継続されました。
47年後半、ブリタンニアの新総督に任命されたプブリウス・オストリウス・スカプラは、現在のウェールズのディチャンリ族とチェシャー・ギャップ(チェシャー平原)を攻め、ローマの領土にしました。
オストリウスは、49年にカムロドゥヌム(現在のコルチェスター)にブリテン島初の退役軍人の植民地を設立し、おそらくヴェルラミウム(セントオールバンズ)には自治体を設立したと伝えられています。
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カラタカスはほぼ10年間ローマ軍に抵抗しましたが、51年にオストリウスによって追い詰められ、ついに捕らえられてしまいました。
シュロップシャー州のカエル カラドック Caer Caradog、カラドグの砦)が、カラタカスが最後に戦った場所とされています。
カラタカスの妻と娘は捕らえられ、カラタカス自身はブリガンテスの領土(現在のヨークシャー)に逃亡しましたが、ブリガンテスの女王カルティマンドゥアはローマに忠誠を誓い、カラタカスを引き渡しました。
カラタカスはローマに移送され、死刑を宣告されました。
ところが通常なら囚人は、皇帝の勝利パレードの終わりに処刑されるはずなのですが、カラタカスは処刑前に演説を行うことが許され、クラウディウスに自分自身と家族の死刑を免除するよう説得しました。
それを聞き、クラウディウス帝はカラタカスと彼の家族や臣下に恩赦を与え、彼らはローマで平和に暮らすことが許されたと伝えられています。
どんな名演説だったかというと、歴史家タキトゥスのおっちゃんの記録(真偽不明)によれば・・・
カラタカス、面白い人物ですね。
ブリテン島を守るためにシーザーと戦ったカッシヴェラヌスの子孫が、約100年後に同じようにローマと戦ったというのも興味深いです。
そして、カラタカスを戦友のごとくに扱ったクラウディウスも面白いと思いました。クラウディウスは弱者の味方で、本質的に良い人でした。
クラウディウスは自らの勝利を称える一方で、征服されたブリトン人の名声を高めることになったのです。
カラタカスの名は、近隣の島々や地方にも伝わり、誰もが長年にわたってローマに反抗してきた偉大な人物と認識したそうです。
そうして本格的にローマの支配下になったブリタンニアでしたが、西暦60~61年のブーディカ率いるイケニ族の反乱により、カムロドゥヌムもヴェルラミウム(セントオールバンズ)も破壊されました。
長くなりましたので、このへんで終わります。
もう1回、1世紀のブリテン島についてUPする予定です。
最後までお読みくださりありがとうございました。また近いうちに。