見出し画像

聖クリスティーナと聖バルバラの物語

12月4日は聖バルバラの祝祭日だったそうで、過去記事から聖バルバラについて書いた部分を抜き出して、加筆しました。

聖バルバラ(Sancta Barbara)は、正教会、非カルケドン派、一部の東方典礼カトリック教会で崇敬される聖人。
(カトリック教会では現在、聖人暦から外れている)。
ニコメディアのバルバラとも呼ばれる。
建築家や石工、砲手、消防士、鉱夫、囚人の守護聖人である。3つの窓をもつ塔、棕櫚の枝、孔雀の羽根、剣、聖杯、稲妻、本などと共に描かれる。

バルバラの崇拝は9世紀以降に一般的になったそうですが、1969年に聖人暦から外されたのは、歴史的に実在した証明ができないという理由でした。
おそらくですが、同じころに実在していたと言われている聖クリスティーナとダブっていると思われます。


クリスティーナの物語

聖クリスティーナは3世紀末頃に殉教したキリスト教徒で、イタリアのボルセーナで生まれました。両親は貴族だったと言われています。

ボルセーナ

ボルセーナは、古代エトルリアのヴォルシニ(エトルリア語ではVelzna)という都市でしたが、紀元前264年にローマ人によって侵略され、現在のボルセーナが再設立されました。

エトルリア文明の範囲とエトルリア同盟の 12 都市
ボルセーナ

地名Velzna は、エトルリア語のFelsina (現在のボローニャ)の名前の基礎にもなりました。

ローマ建国の初期にはエルトリア文化の影響があると言われています。ロームルスが作ったポメリウムもエルトリア人の街造りに酷似しているとか。

パクスロマナーナと呼ばれるローマが平和だった時代(紀元前27年のアウグストゥス帝に始まり、西暦180年までの期間)は、ボルセーナはデメテル/ケレス崇拝の中心地でした。

※ティルス誕生説
クリスティーナは、レバノンのティルスで誕生したという説もあります。
ティルス説では、彼女の父親はティルスの総督ということになっています。

ティルス(Tyrus)は、レバノンの南西部、地中海に面する都市遺跡で、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
ティルスの都市は聖書にたびたび登場します。ヨハネの黙示録18 章ほか。

サンタ クリスティーナ、ロレンツォ ロット作

クリスティーナの殉教

聖人伝には、クリスティーナはディオクレティアヌス帝によるキリスト教徒の迫害中に殉教したと記されているそうです。
ディオクレティアヌス帝の迫害は、西暦303年頃のことです。

ヤコポ・ダ・ヴァラッツェの「レジェンダ・アウレア」(黄金伝説)では、クリスティーナは、ボルセーナ民兵組織の指揮官ウルバヌスの娘として書かれています。
ウルバヌスは、娘がローマの司祭(キリスト教ではない)になることを望んでいました。クリスティーナが11歳になったとき、ウルバヌスは彼女を12人のメイドとともに塔に閉じ込め、そしてクリスティーナに金銀の彫像を崇拝するよう命令しました。

しかし、天使の導きによりクリスティーナはキリスト教徒になり、金銀の像を壊し、その破片を貧しい人々への施しとして与えてしまったのです。

父親の黄金の偶像を贈る聖クリスティーナ、ワルシャワ国立博物館

ウルバヌスは怒り、娘を拷問したと言われています。拷問の方法は、鞭打ちや釘で肉を裂いたとか、車輪に縛り付けて火をつけたとか、首に石臼をくくりつけて湖に投げ込んだとか。
いくら怒りに任せてとはいえ、我が子にそこまで出来るかぁ?という感じです。異教=野蛮という刷り込みのために過激に書かれているんじゃないかとも思います。

クリスティーナは、天使の助けにより生き延び、直後にウルバヌスは急死しました。父親の死後、裁判官は彼女を拷問し、裸でアポロン神殿に連れて行きましたが、裁判官は致命的な病気で急死しました。
クリスティーナは、死刑執行人が放った二本の矢に貫かれて死亡したと言われています。

いやいや、天使はなんで最後は助けないんだよ・・・というツッコミはおいといて・・・彼女の遺体はカタコンベに葬られ、11世紀にその上にサンタ・クリスティーナ教会が建てられました。

ボルセーナのサンタ クリスティーナ大聖堂

サンタ クリスティーナ大聖堂は、1263年に興味深い「聖体の奇跡」が起きました。キリストの肉体を意味する聖体パンから血が滴って、テーブルに敷かれていた聖体布を赤く染めたと言われています。

これを聞いた教皇ウルバヌス4世(在位1261年 - 1264年)は、1264年に聖体祭(コルプス・ドミニ祭)を制定し、この奇跡の聖体布を納めるためにオルヴィエートの大聖堂が建てられました。

ウルバヌス4世は、教皇派(ヴェルフ)と皇帝派(ギベリン)が争っていた時代のローマ教皇です。


バルバラの物語

バルバラは、聖クリスティーナと同じ頃にギリシャのニコメディア(現在のトルコの都市イズミット)に生きていたようです。

ニコメディアは、紀元前8世紀ころにギリシャのメガラ人が入植し、都市が建設されたことがわかっています。
紀元前3世紀頃にマケドニアの王リュシマコスによって破壊された後、紀元前264年にビテュニア王のニコメデス1世によってニコメディアという名前で再建されました。
それ以来小アジア北西部で最も重要な都市の1つとなり、286年にローマ帝国の東方正帝ディオクレティアヌス帝(在位284年 - 305年)により東部の首都に制定されました。

※ボルセーナと同じ紀元前264年ですね。第一次ポエニ戦争

ニコメディア

父親のディオスコルスが土地の有力者だったので、彼女は裕福な家庭で育ちました。お年頃になった娘に悪い男が寄りつかないようにと、ディオスコルスは屋敷の塔にバルバラを閉じ込めていたらしいです。
バルバラは、『塔の上のラプンツエル』のモデルとも考えられています。


ある日、バルバラのために専用のバスルームと窓を2つを増築することしたのですが、父親が旅に出ることになり、バルバラは父親が留守の間に窓を3つ作らせたそうです。
経緯は不明ですが、バルバラは密かにキリスト教を信じるようになっていました。3つの窓は三位一体を象徴しているそうです。

ただクリスティーナもそうですが、バルバラの伝説も後世に脚色された感が強いので注意が必要です。

三位一体を最初に言及した、2世紀のアンティオキアのテオフィロスは、聖霊を神の知恵とみなす初期キリスト教の慣習に従って、『創世記』の最初の3日間を、神、言葉(ロゴス)、知恵(ソフィア)と定義しました。
西暦160年頃に生まれたテルトゥリアヌスは、三位一体を父、子、聖霊と定義しました。
しかし三位一体の解釈が確立するのは、まだ先のことです。第1ニカイア公会議

バルバラは、建設中の窓が北と南の2つしかないことに気づき、三位一体を思い出すために3 つ目の窓を建設するよう石工に命じました。
(キリスト教建築の観点から想像すると、3つの目の窓は「東」だったかもしれません)

別バージョンでは、バルバラは不従順に対する罰として塔に隔離されていましたが、一時的に解放された時、キリスト教に改宗したと言われています。

バルバラの殉教

いずれにせよ、旅から帰ってきた父親は、バルバラがキリスト教の洗礼を受けたことに激怒し、自らの手でバルバラを殺そうとしましたが、不思議な力によってバルバラは遠くに連れ去られ、危機を逃れます。
ところが羊飼いに発見されてしまい、連れ戻されて再び数日の拷問を受けました。火で身体を焼かれるなどしましたが、翌朝には神のもたらした奇跡によって傷は癒されていたそうです。

しかし、12月4日についにバルバラは、父親によって斬首されて亡くなってしまいました。また最後は天使は助けなかったわけですね・・・。
父親のディオスコルスも直後に雷に打たれて死んだそうです。


その後バルバラは十四救難聖人の一人に上げられ、父親を殺した雷との関わりから、爆発に関連した鉱山や火を扱う(砲撃手)など危険な場所で働く人々の守護聖人になりました。
聖バルバラ騎士団

聖杯と大砲を持つ聖バルバラ

12 世紀に、聖バルバラの聖遺物はコンスタンティノープルからキエフの聖ミカエルの黄金ドーム修道院に運ばれ、その後同市の聖ヴォロディミール大聖堂に移されました。2012年11月、ウクライナ正教会キエフ総主教庁のフィラレット総主教は、聖バーバラの遺物のごく一部をイリノイ州ブルーミングデールの聖アンドリュー・ウクライナ正教会大聖堂に移管しました。

聖ヴォロディミール大聖堂

聖バルバラの日

バルバラの枝
拷問を受けていたバルバラが手折った枝から花が咲いたという逸話から、ドイツやフランスのアルザス地方では、サクラやアンズ、リンゴ、レンギョウなどの枝を12月4日の聖バルバラの日に水にさし、クリスマスの頃についた花の数で幸福を占うそうです。
バルバラの麦
同様に聖バルバラの日に水に浸した小麦がクリスマスに芽吹いた数によって翌年の豊凶を占うということも行われ、これらの麦はバルバラの麦と呼ばれています。
ことわざ
ドイツのことわざでは「白い衣装のバルバラは、良き夏の季節を告知する」といい、聖バルバラの日に降る雪は翌年の夏の豊作を示すものと考えられていたそうです。

聖バルバラの日の伝統的料理。 ゆでた小麦粒、ザクロの種、レーズンなどが入っている。
聖バルバラの日に湿らせた綿に麦の粒を育て始めると、クリスマスの頃に芽吹き、その数で占いをしたりクリスマスの飾りつけに使ったりする。

カリフォルニア州サンタバーバラ

アメリカ合衆国カリフォルニア州の都市サンタバーバラは、聖バルバラにちなんで名づけられました。

1602年、ヌエバ・エスパーニャ副王のモンテレイ伯爵ガスパール・デ・スニガ・イ・アセベードによりカリフォルニア探検隊に任命された、スペインの海洋探検家セバスティアン・ビスカイノが、激しい嵐のあと無事に到着したことを祝って「サンタ バーバラ」と命名したそうです。

セバスティアン・ビスカイノは、1611年(慶長16年)に日本にも来ており、駿府城で家康に謁見しています。この時ビスカイノ一行はスペイン王家の紋章を掲げ、楽隊を引き連れて賑々しく駿府城に向かったそうです。
しかし第一に通商を望んでいた日本側に対し、スペイン側はキリスト教の布教を前提条件にしたため、具体的な合意には至りませんでした。

1786年12月4日、聖バルバラの日にフランシスコ会によって設立されたセントバーバラ伝道所

殉教(martyrdom)について

キリスト教では、殉教者の原語 martyrはもともとあかしを立てる人の意で、イエスの生涯と復活の証人として使徒たちをさしたが、その後2世紀なかば頃から自己の信仰を真理として宣明し、迫害に対し信仰を死守した者の呼称に転化した。
4世紀初めに信仰の自由を得る(313年、コンスタンティヌス大帝によるキリスト教公認)まで、古代教会はおびただしい殉教者を出した。
特にディオクレティヌス帝の迫害下においてその数が多く、日本においては 16~17世紀のキリシタンの歴史は信徒の血に染まっている。
日本二十六聖人

2世紀のキリスト教神学者テルトゥリアヌスが「キリスト教徒の血は種子である」と言った言葉があります。殉教者は、教会発展の礎(いしずえ)として非常に尊敬されたそうです。

【テモテへの手紙ニ 4章7-8節】
私は立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれを私に授けてくださるのです。
しかし、私だけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます。

私は今世ではキリスト教徒ではありませんが、過去世でキリスト教徒を何度もやっていたので、殉教したこともある気がします。
昔、旅行で長崎や島原の教会を訪ねたとき、殉教者の悲しみがまだ残っているのを感じて胸が詰まる想いでした。
迫害や拷問にあっても信仰を守り抜く、そのような強い精神性は素晴らしいことのように思えるけれども、「(特定の宗教を)信仰」=「生きること」になってしまうのはとても恐ろしいことだと思います。

今日はこのへんで。お読みくださりありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?