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備忘録*『我がアメリカのいとこ』⑥聖金曜日の意味*英雄になれると思ったジョン・ウィルクス・ブースの誤算

前回の記事の最後に書いた「リンカーンの暗殺はイエズス会に責任がある」という話は、暗殺の翌年1866年に出版された『ローマ教会の50年』(Fifty Years in the Roman Church)の記述によると言われています。



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『ローマ教会の50年』



著者のチャールズ・パスカル・テレスフォア・チニキー氏は、もとはローマ・カトリックの神父でしたが、49歳のときにプロテスタントに改宗し長老派教会の牧師になりました。

Charles Paschal Telesphore Chiniquy(1809年7月30日 - 1899年1月16日)
フランス系カナダ人の家に生まれた。元カトリック司祭で、プロテスタントに改宗し、長老派教会の福音派牧師となった。

チニキー氏の主張は、カトリックは異教徒であり、カトリック教徒は聖母マリアを崇拝し、その神学は反キリスト教であるというものだった。
彼は、バチカンがアイルランド、ドイツ、フランスからカトリック移民を輸入して米国を支配しようとしていると警告し、バチカンが米国大統領エイブラハム・リンカーンの暗殺の背後にいることを示唆した。

チニキー氏は、南北戦争はバチカンによる陰謀であり、南軍の大義とリンカーン大統領の暗殺の背後にバチカンがいたと主張しました。
またジョン・ウィルクス・ブースをはじめとするリンカーンの暗殺者は、教皇ピウス9世に仕える忠実なカトリック教徒だったとも主張しました。


現在で言う「陰謀論者」な牧師さんですね(苦笑)
ざっとですが「ローマ教会の50年」を読んでみたら、リンカーン大統領がイリノイ州の弁護士だった時代、チニキー氏が関係した名誉棄損事件(1856年)で彼を弁護をしたのが、リンカーンだったことが書かれていました。

教皇ピウス9世によってシカゴの3代目の司教に任命されていたアンソニー・オレガン司教とチニキー氏が率いるフランス系カナダ人のコミュニティが対立し、ニューヨークポストに掲載されるようなトラブルに発展しました。
この裁判を機に、チニキー氏とコミュニティがまるごとプロテスタントに改宗したそうです。


アンソニー・オレガン司教

また、オレガン司教も病気を理由にシカゴ司教を辞任し、1866年にロンドンで亡くなりました。
オレガン司教はロンドンでは、国教会からカトリックに改宗したヘンリー・エドワード・マニング司祭と交流していたそうです。オックスフォード運動


アメリカ合衆国長老教会(Presbyterian Church in the United States of America、PCUSA)について
1854年に徳川幕府と米国政府の間に日米和親条約が締結されると、最初に清国在住の宣教師デヴィー・ボサン・マッカーティーに日本へ宣教師として渡航するように命じた。一般のアメリカ人の日本渡航は許されていなかった。

1858年7月29日に日米修好通商条約が締結され、第8条でキリスト教宣教師の来日が可能になった。海外伝道局は、自ら志願したヘボンと清国在住のジョン・リビングストン・ネビアスを日本宣教師に任命した。

ピウス9世については、以下の記事に少し書きました。

※「ローマ教会の50年」の肝心な部分は、次回の記事に書きます。


ホーリーディ*聖週間

リンカーンが銃撃された1865年は4月14日(死亡は4月15日)は、キリスト教では復活祭の前の聖金曜日でした。
キリスト教徒にとっては非常に意味がある日です。

聖金曜日(Good Friday)とは、過越の聖なる3日間の復活(日曜)の前の金曜日のこと。「受難日」、「受苦日」、「聖大金曜日(正教会)」とも呼ばれる。死から生へと移るキリストの過越の神秘を祝う3日間のうち、受難と死を記念する日。
聖金曜日は復活祭にあわせて移動するが、最も早い場合で3月20日、遅い場合だと4月23日になる。

1865年は4月16日が復活祭(Easter)でした。
復活祭は、基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、年によって日付が変わる移動祝日です。


聖火曜日*いちじくの木の呪い

聖週間(受難週)の始まりは、「枝の主日」と呼ばれ、イエスがエルサレムに入城した日を記念しています。
ブースが暗殺を決意した4月11日は聖火曜日でした。

聖火曜日は「いちじくの木の日」と言われています。
イエスが、弟子たちに教えるための例として、実を結ばないいちじくの木を呪ったことを記念します。

旧約聖書ではいちじくはイスラエルの民(現代のイスラエル人ではない)を意味し、「実を結ばないいちじくの木」は、外見上の信仰=信仰の危機という批判でもあります。

ブースが「いちじくの木の呪い」の意味を知っていたかはわからないですが、キリスト教徒であれば聖週間について知識があったはず。


聖木曜日*DCはお祭りだった

暗殺の前日4月13日は、イエスと弟子たちの最後の晩餐を記念した「聖木曜日」でした。
最後の晩餐の日にイエスが仲間の足を洗ったので、カトリック教会では司祭たちが信徒の足を洗う儀式があります。ローマ教皇ももちろん行います。

キリスト教会では復活祭前の1週間は「特別な期間」として尊重されている。その中でも聖木曜日からの3日間は特に尊重され、特別な典礼や礼拝が行われてきた。
聖木曜日はイエス・キリストと使徒たちの最後の晩餐を記念する日であり、その席でイエスが(へりくだりの行いとして)弟子たちの足を洗ったという記述が福音書に見られるため、「洗足木曜日」という呼称が生まれた。
西方教会および一部の東方教会には、この日洗足式を行う伝統がある。

ワシントンDCでは、13日の夜は花火、焚き火、たいまつパレードなど、盛大なショーが行われていたそうです。数日前に南軍のリー将軍が降伏したため、南北戦争が終結したお祝いでした。

そんな祝賀ムードの中で、ブースは復讐の炎を燃やしていたわけですね。
ブースが仲間に暗殺の実行を告げたのは、当日14日になってからだったそうです。


聖金曜日*暗殺は南部の復讐?

チニキー氏がリンカーンのことを「イエス・キリストのような人だった」と回想していましたが、リンカーンはイエスのように復活することはできませんでした。

ブースはフォード劇場で何度も芝居をしていたこともあり、劇場のレイアウトを知っていました。
おまけに演じられていた劇『我がアメリカのいとこ』の内容もよく知っていたので、観客が舞台に引き付けられて大笑いするタイミングを狙ったと言われます。

運悪く、ロイヤルボックスの入り口に警備はいませんでした(後述)

ブースはロイヤルボックスに入り込み、中から鍵をかけ、つっかえ棒をした上で、大統領の背後に近づき後頭部めがけてピストルを発射しました。
リンカーン夫妻と同席していたヘンリー・ラスボーン少佐が、すぐにブースに飛び掛かりましたが、ブースは手に持っていたナイフでラスボーン少佐を切りつけました。
(少佐は、心身に後遺症が残る深い傷を負いました)

ブースは、リンカーンを撃った後さらにナイフで刺すつもりだったのでしょうか。



「暴君はいつもこうなる」

ブースは手すりを越えて飛び降りましたが、靴のかかとが飾り幕にひっかかり転げ落ちるように舞台に着地しました。

ブースはナイフをかかげ、観客に向かって「Sic semper tyrannis(シク・センペル・ティラニス)」と叫んだそうです。

Sic semper tyrannisはラテン語で「暴君はいつもこうなる」という意味です。現代の言葉で言えば、暴君的な指導者は必然的に打倒されることを意味します。
このフレーズはまた、暴君には悪いが正当な結果が降りかかるべき、あるいは最終的に降りかかるであろうことを示唆しています。
これは米国バージニア州のモットーでもあります。

これは、ジュリアス・シーザー(カエサル)が暗殺されたことに通じます。
シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』だったかにそんなせりふがあったような、おぼろげな記憶があります。

ブースは、『ジュリアス・シーザー』の劇ではシーザー殺害に関わったブルータス役が一番好きだったそうです。

シーザーの暗殺は史実では3月15日ですが、シェークスピアは2月15日(ルペルカリア祭)に設定しています。


「メリーランド、わがメリーランド」

ブースが「Sic semper tyrannis」と叫んだのは、南部の復讐を果たしたという意味があったのかもしれません。

2021年までアメリカ合衆国メリーランド州の州歌だった「メリーランド、わがメリーランド」という歌は、1861年にジェームズ・ライダー・ランドールが書いた9節の詩から取られたそうですが、その詩は1861年のボルチモア暴動と南部連合の支持を訴えた内容でした。
歌詞はリンカーンを「暴君」と呼んでいました。


1861年のボルチモア暴動

1861年4月19日に起きたボルチモア暴動は、リンカーンに招集されワシントンDCに向かっていた北軍の兵士と南部支持者の間に衝突が起こり、兵士5人と12人の市民が死亡しました。
この暴動は、南北戦争初期におけるメリーランド州の複雑な立場を示す出来事となりました。

南北戦争中のメリーランド州民11万5千人のうち、約8万5千人が北軍に入隊し、残りは南軍に入隊したと言われています。

1回目の大統領就任時にボルチモアでの支持率が低かったリンカーンは、メリーランド州議会の暫定停止、ボルチモア市長のジョージ・ウィリアム・ブラウンを含む奴隷制擁護派の議員の逮捕・投獄、フェデラルヒルに大砲を据えてボルチモア市を威嚇するなどの強硬策を取りました。
その結果、新たに選出された知事と議員はおのずと北軍寄りでした。

フランシス・スコット・キーの孫であるフランシス・キー・ハワードも新聞社説欄でリンカーンを批判したために投獄されていました。


1862年のアンティータム戦は、アメリカ国内戦争で最も血なまぐさい戦いの一つで、約23,000人の死傷者が出ました。


ところでブースは片手に銃、片手にナイフを持っていたということですが、片手でピストルを撃てるほど銃の扱いに慣れていたということですよね。
ブースは従軍経験がなかったのに、どこで訓練したのでしょう。


リンカーンの不吉な夢

リンカーンは死の3日前に、悲しげな音の源を探してホワイトハウスをさまよう夢を見たと語っていました。

私は東の部屋に着くまで歩き続け、そこに入った。そこで私は胸が悪くなるような驚きに遭遇した。
目の前には棺桶があり、その上に葬儀用の祭服に包まれた死体が置かれていた。その周囲には警備員として兵士たちが配置され、顔を覆われた死体を悲しげに見つめる群衆や、哀れに泣く人々がいた。
「ホワイトハウスで誰が死んだのか?」私は兵士の一人に尋ねた。「大統領だ」と彼は答えた。「暗殺者に殺されたのだ」

リンカーンからこの夢の話を聞かされたと主張する、自称ボディガードのウォード・ヒル・ラモン氏は、暗殺当日に限ってほかの場所の任務を命じられ、ワシントンDCにはいませんでした。

のちに出版した『エイブラハム・リンカーンの回想』の中で、リンカーンが「この夢の中で殺されたのは私ではなく、他の誰かだった。この幽霊の暗殺者は他の誰かを殺そうとしたようだ」と語ったと記しており、ラモン氏はリンカーンに「自分がワシントンを離れている間は、特に劇場には夜出かけないで」と懇願したことも明らかにしているそうです。

ラモン氏はなぜ「劇場には夜出かけないで」と言ったのでしょう?


ウォード・ヒル・ラモン


暗殺当日、リンカーン夫妻とヘンリー・ラスボーン少佐と彼の婚約者のほかには、のちのユリシーズ・S・グラント大統領夫妻が招待されていましたが、グラント氏の妻がリンカーン夫人を嫌っていたので誘いを断ったと言われています。

他の者たちも次々とリンカーンの招待を断り、最終的にヘンリー・ラスボーン少佐 と婚約者のクララ・ハリス(ニューヨーク州選出のアイラ・ハリス上院議員の娘)が承諾したそうなのです。


リンカーンのボディーガードの一人、ウィリアム・H・クルック氏もリンカーンに劇場に行かないように勧めたそうです。
クルック氏は、その日は午後4時に次のボディガードと交替して非番になっていました。


ウィリアム・H・クルック

リンカーンは、3 夜連続で暗殺される夢を見ているとクルックに話していた。
クルックは大統領に、その夜フォード劇場で上演される劇『我がアメリカのいとこ』を見ないように、あるいは少なくとも追加のボディーガードとして同行させようとしたが、リンカーンは妻と行く約束をしていると言った。

リンカーンは劇場に向かう際、クルックの方を向いて「さようなら、クルック」と言った。それまでリンカーンは、いつも「おやすみ、クルック」と言っていた。
クルックは後にこう回想している。「彼が私に『おやすみなさい』を言わなかったのは初めてで、彼が『さようなら』と言ったのもこの時だけだった。


クルック氏と交替したジョン・フレデリック・パーカー氏は、ボックス席の入り口の警備を任されていましたが、リンカーンに劇中は持ち場を離れていいと言われたのでバーに行ってしまったとのことでした。

パーカー氏は職務怠慢で告訴され裁判にかけられましたが、1865年6月に告訴は却下され、その後もホワイトハウスの警備員として任命されており、未亡人となったリンカーン夫人のボディガードも務めたそうです。

奇妙な話だと思うのは私だけでしょうか。
パーカー氏は何者?


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ブースの逃亡と誤算

ブースは、劇場の裏口に待たせてあった馬に乗って仲間との待ち合わせ場所に急ぎました。
途中ヘロルドと合流し、以前に(メアリー・サラット所有の)サラットヴィラのバーに保管していた武器と物資を回収した後、医師サミュエル・マッドの自宅でブースは骨折した足(劇場で飛び降りたときか、馬で逃げている途中に落馬したか)を治療してもらい、マッド博士の家で一日過ごした後、再び移動しました。


マッド博士は、最初の証言では「ブースを知らなかった」と言っていたそうですが、1564年11月頃にはブースの計画に参加していたようです。
マッド博士とブースを繋いだのは、カナダのモントリオールにいたマーティンと言う人物だったそうです。
モントリオールは、南軍の秘密活動の中心地でした。

1865年に完成したカトリック・ノートルダム大聖堂(モントリオール)


ブースたちは、サミュエル・コックスという人物によって南軍の同調者であるトーマス・ジョーンズのところへ連れて行かれ、森の中の隠れ家で5日間、過ごしました。
その間に、ブースには10万ドル(2025年の価値で199万ドル)の懸賞金がかけられていました。


ブースが有名な演劇一家の人気俳優だったがゆえに、ブースに対して激しい憤りが向けられました。新聞はブースを「呪われた悪魔」「怪物」「狂人」「みじめな悪鬼」と書きたてました。
南軍の将軍もブースの行為を「時代の恥辱」と呼び、南部の州民たちは北軍の報復を恐れたそうです。


ブースの逃走ルート


ブースは森に隠れている間、ジョーンズが毎日届ける新聞を読み、共謀者のうちの数人がすでに逮捕されていることや、反リンカーン派の新聞にも自分に対する同情がほとんど載っていないことに知りました。

暗殺のニュースは国の隅々まで届き、リンカーン批判者に対しても憤りが巻き起こりました。多くの人が、ブースの犯行は彼らの影響だと非難するようになりました。

ブースは、暗澹とした気持ちを日記に記しています。

【4月21日】
6か月間、我々は捕獲に努めた。しかし、我々の目的はほぼ達成できず、決定的で偉大なことをしなければならない。
私は大胆に攻撃したが、新聞に書かれているようなことはしなかった。我々は殺すことを嫌っていたが、決して後悔はしない。

【4月22日】
あらゆる人々の攻撃にさらされ、私は絶望の中にいる。
なぜか。ブルータスは名誉を受けたことを成し遂げたのに。
それなのに、私は彼らが知るよりも偉大な暴君を倒したにもかかわらず、ありふれた殺し屋とみなされているのだ。


ブースの最期の言葉

ブースが1865年に亡くなったギャレット農家のポーチ


ブースとヘロルドは、ラッパハノック川を渡る前に会っていたウィリアム・ジェットに案内されて、4月24日にギャレット農場に移動しました。
ギャレット夫妻は、その時はまだリンカーンが暗殺されたことを知らなかったとか。
(南軍の郵便配達は南軍の崩壊とともに停止したため、ギャレット一家はリンカーンの暗殺を知らなかったという)

成長したギャレット家の息子が牧師となった際に、その日のことを講演で詳しく語ったそうですが、ギャレット夫妻がブースたちをもてなした夕食の際の会話で、夫妻はリンカーンが暗殺されたことを知ったそうです。

翌日、ギャレット氏はブースたちにタバコ納屋(収穫したタバコの葉を乾燥させる納屋)に移るように伝えました。

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4月26日の夜明け前、北軍兵士たちがタバコ納屋を包囲しました。
北軍はブースたちを案内したウィリアム・ジェットに目をつけて追跡していたので、ブースがそこにいることをすでに知っていました。

というか、ジェットがギャレット農場に案内したのも計画のうちだったんじゃないかと思います。

ヘロルドは降伏しましたが、ブースは降伏を拒否したため、兵士たちはタバコ納屋に火をつけました。
火を放ったのはブースをいぶり出して生け捕りにするためだったのですが、ボストン・コーベット軍曹がブースを撃ちました。

ブースは数時間後に死亡したそうですが、最期の言葉は「役に立たない…役に立たない」だったそうです。
なんのことを言っているのかわかりませんが、ブースがリンカーン暗殺を決意した日が「いちじくの木の呪い」の日だったことを思いだします。

ブースは「実をつけないいちじく」を、カトリックに従わないリンカーンに重ねていたのかもしれません。(詳しくは次の記事で)



コーベット軍曹は、「ブースを生きたまま逮捕せよ」という上長の命令に従わなかったためにいったんは逮捕されましたが、メディアや国民から英雄視されました。

ブースは自分が英雄になると思っていたのに、みじめな殺人者として死んでしまったんですね。

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コーベット軍曹は、1840年に親に連れられてアメリカに移住してきたイギリス人でした。敬虔な宗教的信念と風変わりな行動で知られた人物だったそうです。
伝えられるところによると、コーベット軍曹はある日、酔っぱらって街をうろついているときに、禁酒を主張する福音派のキリスト教徒に遭遇し、酔いが覚めるまで彼らに拘束され、その過程で宗教的な啓示を受けたとか。

コーベット軍曹の職業は、帽子職人でした。帽子に使われるフェルトを作るために硝酸水銀を使っていたため、その作業によって意識障害を持っていたと考えられています。
コーベット軍曹は1887年に精神病院に収容されましたが、1888年に脱走し行方不明になったそうです。

北軍の軍服を着たコーベットの写真。


私はコーベット軍曹は刺客だったのだろうと思います。
ブースが生け捕られた場合、尋問で秘密が漏れるのを恐れた誰かの命令だったんじゃないかと思います。
コーベット軍曹が精神病院に入れられた理由も、秘密を知っていたからでしょう。もしかしたら、自分の身をまもるために精神がおかしくなったふりをしていたかもしれませんが。


重要人物の暗殺者が精神異常者として死刑を免れたり、人々がその事件を忘れるまで収監されるのはレーガン大統領暗殺未遂事件もそうだったし、数年前に日本でも起きた首相暗殺事件の犯人もいまだに・・・。


ブースは生きていた?『リンカーン陰謀論』

1977年に出版され、その後映画化された『リンカーン陰謀論』によると、ブースの代わりにギャレットの農場で殺害されたジェームズ・ウィリアム・ボイドという南軍の二重スパイだった実在の兵士が登場します。

この説では、米国政府は間違いに気づいたが、それを隠蔽したためブースが逃亡できたともされています。


長くなりましたので、今日はこのへんで。
次回は、ウィキペディアにも出ていない陰謀論(イエズス会)と私の独自調査による記事です。内容がアレなので有料にさせていただきますね。
よかったらまたお付き合いください。

最後までお読みくださりありがとうございました。ではまた。


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