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3世紀「地の時代」*ローマ・ブリタニアに繫栄したロンディニウム

紀元1世紀にグレートブリテン島にローマ属州ブリタンニアが出来るまでを3回にわたって書いてきました。

今回の記事では、西暦43年のクラウディウス帝のブリタンニア征服後、現在のロンドンの場所に建設された入植地(ロンディニウム)のことを書いていきます。


クラウディウス帝の命を受けて、アウルス・プラウティウスは43年から46年までブリタンニアの初代総督務めました。

その間にアウルス・プラウティウスは、ブリテン島南東部全域を支配しています。(下の地図の黄色い矢印線)


ローマによるブリテン島の征服。各地域で征服された有力な地元部族/王国を示す


西暦47年~52年

二代目の総督プブリウス・オストリウス・スカプラは、西暦47年~52年まで務め、ブリテン島の南東部のローマ支配地域外の部族と同盟を結び、占領を確実なものにしました。

オストリウス総督は、48年に北ウェールズに遠征し、ディチャンリ族の領土の一部を占領しました。(のちにカノヴィウム砦が造られた)

ローマ侵攻時のウェールズの部族

またオストリウスは、カムロドゥヌム(現在のコルチェスター)に英国初の退役軍人の植民地を設立し、ヴェルラミウム(現在のセント オールバンズ)に自治体を設立しました。

51年に、レジスタンスのリーダーだったカトゥベラウニ族のカラタカスを捕らえたオストリウスでしたが、52 年に突然亡くなりました。おそらく心労によるものと見られています。

カラタカスについては、下の記事をご覧ください。

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西暦52年~57年

次に総督に任命されたアウルス・ディディウス・ガルス(任期52年から57年まで)は、帝国を拡大するよりも反乱軍を鎮圧するのが主な任務でした。

前年のカラタクスの敗北にも関わらず、ウェールズの部族、特にシルル族が抵抗を強め、カラタカスの逮捕に協力したブリガンテスの女王カルティマンドゥアの前夫ベヌティウスも反乱を起こしました。

ディディウスは、カルティマンドゥアのもとに軍隊を派遣し反乱軍を制圧しましたが、69年に再びヴェヌティウスが反乱を起こし、今度はヴェヌティウスはブリガンテスを占領しました。

クラウディウス帝は54年に亡くなり、ローマ皇帝はネロに引き継がれました。ディディウスは、クラウディウスの治世の最後の2年間とネロの治世の最初の3年間、計5年間の任期を経て、後任のクイントゥス・ベラニウスが就任しましたが、ベラニウスは1年以内に亡くなってしまいました。

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西暦59年~60年

59年にガイウス・スエトニウス・パウリヌス(以降、スエトニウスと表記します)が就任し、イケニ族の王妃ブーディカの反乱を鎮圧(ワトリング街道の戦い)するなど、ウェールズ地域にあった諸部族を赴任後2年で完遂しました。

60年、スエトニウスはドルイドの要塞があった北ウェールズのモナ島(現在のアングルシー島)の鎮圧に当たっていました。
彼の不在に乗じて、ブーディカが東部で反乱を開始したと言われています。

「?」のところがアングルシー島です。

反乱の知らせを聞いたスエトニウスは、急ぎオルドヴィーセス族と和平の同意を取り付け、ロンディニウムへ急行しました。(後述)


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アングルシー島について
ローマ人はアングルシー島を「モナ」(Mona)と呼んでいたそうです。
アングルシー島には、有史以前の巨石やメンヒルmenhir(モノリス)が現在でも残っています。

石器時代のBryn Celli Ddu(ブリン・チェリ・ドゥ)の遺跡


ブーディカの反乱のおかげで、ローマ軍がロンドンに引き返したため、オルドヴィーセス族は制圧を免れたのですが、78年に新総督グナエウス・ユリウス・アグリコラによって征服されました。

アグリコラの侵攻経路

イギリスでは、ローマ軍とドルイド教団が争ったのはモナ島(アングルシー島)だけである。
ここはローマへの抵抗の中心地であり、60年と78年の両方に攻撃された。

アングルシー島にいたドルイドとは、ケルトのオルドヴィーセス(Ordovīcēs)族です。

ドルイドについては、教義が彼ら自身で文字に残されていないため、ケルトの神官だったという以外に正確にはわかっていないそうです。
非ドルイドによって書かれたものでは、ドルイドは呪術や人身御供をしていたとされていますが、誤って伝えられている部分もあるとのこと。

まあドルイドに限らず、異教の宗教行事は不気味ミステリアスに見えることがありますよね。

アングルシー島でのローマ兵によるドルイド殺害

ケルトといえば巨木(聖樹)伝説がありますが、ストーンヘンジが代表する巨石信仰は行っていなかったそうです。

聖なる森や聖なる木は、ゲルマン民族の歴史を通じて崇拝(ユグドラシル=宇宙樹)されていたので、ゲルマン民族のキリスト教化の際には、それらは漏れなく破壊の対象とされたのです。

ローマ軍も、アングルシー島のドルイドの神殿や聖樹を破壊しました。

聖樹伝説については「ドイツの始まりとフリッツラーの町」にも少し書いていますので良かったらご覧ください。



さて長々と書いて来ましたが、ここからが本編(笑)
いよいよ、シティ・オブ・ロンドンの原型であるロンディニウムについて書いていきます。
途中から有料になりますので、ご了承ください。

ロンディニウムのはじまり

イギリスの首都ロンドンは、ローマ時代にはローマ帝国の属州ブリタンニアの都市で、ロンディニウム(Londinium)と呼ばれていました。

ロンディニウムの名前は、ケルト語の「リン(湖)」と「ダン(砦)」にちなんでいるとも言われており、「沼地の砦」を意味するそうです。
ローマ人が沼地を埋め立てて建設した砦がその始まりです。

初期のロンディニウムは、現在のロンドン市の面積のおよそ半分で、ハイド・パークとほぼ同等の面積だったそうです。

ロンディニウムの想像図


ロンディニウムが建設されたのは、二代目の総督プブリウス・オストリウス・スカプラの任期中、西暦47年から50年の間と見られています。
確実に年代が特定された最古の建造物は、西暦 47 年の木材排水溝です。

ロンディニウムは、テムズ川の主要な浅瀬に位置し、ローマと同じように川岸の一画を城壁で囲み、水運を利用して商業の中心地として機能しました。現代でいうところの貿易センターの役目をしていたんです。



ブーディカ反乱の知らせを聞いて、アングルシー島から戻ったスエトニウスは市街戦やむなしと感じていましたが、大局的な視点から州全体を救うためにロンディニウムを放棄しました。
住民は軍に同行することを許されたのですが、女性やお年寄りなど留まった人々はブーディカ軍に虐殺されました。

ブーディカ軍はヴェルラミウム(現在のセント・オールバンズ)も破壊し、
合計すると推定7万人から8万人のローマ人とイギリス人が殺害されたと言われたそうです。

ロンディニウムの発展

ブーディカに焼き払われた町は、10年後には復旧し、その後数十年で急速に成長していきました。

おそらく、その頃のローマ皇帝は、ネロの自殺でユリウス=クラウディウス王朝が断絶したあとの内戦(「四皇帝の年」)を勝ち抜いたフラウィウス朝ウェスパシアヌス(在位69年 - 79年)、その息子ティトゥス(在位79年 - 81年)、ドミティアヌス(在位81年‐ 96年)でしょうか。

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ローマ軍は、西暦87年までにブリテン島の南半分を征服しました。
ロンディニウムは、西暦 1 世紀の終わりまでにローマ・ブリタニア最大の都市となり、カムロドゥヌム (コルチェスター) に代わって州都になりました。

ロンディニウムは、典型的な古代ローマの都市計画(碁盤目状のレイアウト)に従って再建されました。西暦100年頃の人口は約6万人。


テムズ川にかかった最初の橋

古代ローマの都市計画は、例外もあると思いますが、ほとんどが船着き場を造れる深さがある川に接していて、自然の川を運河として使いました。
そして三方を城壁で囲みます。

下の模型の橋は、マザーグースで『ロンドン橋落ちた』と歌われた現在のロンドン橋のすぐ近くに基礎が残っているそうです。

ロンディニウムに架けられた木造の橋は、テムズ川に架かった最初の橋と言われています。
ローマ帝国は、テムズ川の最も低い橋渡し地点として、ロンディニウムの位置を決定しました。この橋がなければ、ロンドンという町もなかったかもしれません。

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橋の北に入植地(ロンディニウム)が建設されると、橋の南には別の小さな集落が発展し、そこは現在はサザーク・ロンドン特別区と呼ばれている地域になっています。

ロンディニウムには、円形劇場、浴場などのローマの特徴的な施設があったそうです。


右上が現在のサザーク地区、中央にフォーラム、左手前に円形劇場と最大1,000人の兵士を収容することができる兵舎があります。

左上の建物がない敷地(現在のロンドン塔付近)は、練兵場として使用されていたと考えられています。

左手前の兵舎があるあたりが北西の方角で、現在クリップルゲートと呼ばれる地区になっています。

右にゲート跡の一部が見える。
中央はセント ジャイルズ ウィズアウト クリップルゲート教会
クリップルゲートのイメージ

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200年頃に取り壊されるまで、セントポール大聖堂の南のクイーンハイス地区のPeter's Hillに浴場(テルマエ)があり、合法の売春宿もあったそうです。

Peter's Hill


ローマのコイン(トークン)もロンディニウム付近で大量に発見されています。実際の通貨ではなくて、売春宿でのみ使用するためでした。

皇帝の顔が描かれているコインは「売春宿では使いづらい」というのと、言葉が通じなくても「目的」(プレイ?)と「料金」システムが描いてあるので重宝されていたようです。

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165年~190年の間にアントニヌスペストが西ヨーロッパの他の地域を壊滅させたと記録されており、ローマ帝国全体では、150万人から2500万人が死亡したと推定されています。
ロンディニウムでも人口が減少したそうです。

西暦165年から180年にかけてのアントニヌスのペストは、ガレノスのペスト(それを記述したギリシャの医師ガレノスにちなんで)とも呼ばれ、ローマ帝国に影響を与えた長期にわたる破壊的な伝染病でした。

おそらく165年から166年の冬に、ローマがメソポタミアの都市セレウキアを包囲した際に兵士が感染し、広まったと見られています。



ロンドンウォールの建設

イギリスといえば、「ハドリアヌスの長城」を造った第14代ハドリアヌス帝(在位117年 - 138年)の存在も大きいですね。
ハドリアヌス帝もロンディニウムを訪れています。

ハドリアヌスの長城は、長さ 73マイル(117 km)。
122年に建設され、カレドニア(スコットランドの古名)の境界を示していました。

ハドリアヌスの長城


余談ですが、ハドリアヌス帝といえば美少年好き。
ハドリアヌス帝が小アジアを旅していたとき、ビテュニア町で美しい少年アンティノウスを目にとめ、巡幸に同行させていたそうです。


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アントニヌス・ピウス帝の治世(138年 - 161年)の142年、ハドリアヌスの長城のさらに北にアントニヌスの長城が建設されました。


180年、ハドリアヌスの長城が、カレドニアのピクト人によって破られ、多くのローマ兵士が殺害されたそうです。

【ピクト人】
古くからスコットランドのハイランド地方を支配していた強大な部族だったが、実態はよくわかっておらず、ケルト系の言語を話していたことや何人かの王の名前は判明しているものの記録や遺跡が少なく「謎のピクト人」と言われている。1世紀にローマ軍と戦ったことで歴史に現れ、8世紀にスコットランドに併合され歴史から姿を消した。

彼らは古代ローマ人が命名したピクト (Pictiはラテン語で、体を彩色していた人々か刺青をしていた人々を指していた) 部族と推測される。
『ガリア戦記』でシーザーは、「ブリトン人は体に青で模様を描き、戦場で相手を威嚇する」と語っている。

青い入れ墨をしたピクト人


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ロンドンウォール

西暦180 年から225年の間に、防護壁(ロンドンウォール)が建設されました。現在も一部が残っています。

上述のクリップルゲートもロンドンウォールの一部です。
ロンドンの伝統的な 7つの城門のうち 6つはローマ時代のもので、当時は城壁に沿って等間隔に 22の塔が置かれていたそうです。

タワーヒル駅近くに残る3世紀の城壁

ロンドンウォールの高さは35フィート(10.6メートル)ですが、最初の14フィート(4.4メートル)が初期の時代のものです。

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