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備忘録*シリアの歴史と20世紀アサド政権以前
アサド政権が崩壊して10日あまり。
CNNのビデオがでっち上げだったことを知り(観てすぐわかりましたが)、メディアのいいかげんさも極まってきたなとつくづく思うこの頃です。
「絶滅刑務所」で行われた拷問の程度も疑わしくなってしまいますわ。
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なんと、この救出された囚人役は、アサド政権の軍人だったそうです。
>Verify-Syは、 CNN出演後の元アサド空軍将校サラマ・モハメッド・サラマ氏と過去の活動を結びつける新たな証拠を発表した。
>CNNの報道は今や偽物とみなされる。
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さて今回の記事では、シリアの歴史のポイント(全部は書けないので)と、アサド政権以前の近代のシリアについて、備忘録を兼ねて書いていきます。
いつものように長くなっておりますので、よかったらお時間あるときにでもご覧ください。
シリアは16世紀以降はオスマン帝国の領土でしたが、20世紀初頭にフランスの植民地になり、1946年に独立しました。
1963年に社会主義のバアス党が政権を取り、1970年に同党のクーデターによりハーフィズ・アル・アサドが政権を掌握しました。
以後、軍と秘密警察を後ろ盾としたバアス党独裁体制が築かれていました。
*****
現在のシリアを構成する土地は、新バビロニア帝国(紀元前605年-紀元前539年)の一部であり、紀元前539年にアケメネス朝ペルシャのキュロス2世に征服されました。
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紀元前330年頃に、アレキサンダー大王が支配したマケドニア帝国に征服されています。
紀元前83年から一時的にアルメニアの支配下に置かれましたが、紀元前64年にローマ属州になりました。
シリアはローマの支配下で繁栄し、シルクロードに位置していたため莫大な富があり、ローマ人とペルシャ人の戦場となりました。
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十字軍時代の1098年から1189年にかけて、シリアの一部は十字軍国家のひとつアンティオキア公国となり、その後、モンゴルとエジプトの占領下に置かれましたが、1516年にオスマン帝国(トルコ帝国)に併合され、ダマスカスはメッカ巡礼の主要な中継地となりました。
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油田発見とアラブ反乱
第一次世界大戦の真っ只中の1916年にサイクス・ピコ協定が結ばれ、オスマン帝国は戦後にそれぞれの勢力圏に分割されました。
サイクス・ピコ協定は、第一次世界大戦中の1916年5月16日にイギリス、フランス、ロシア帝国の間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定。
イギリスの中東専門家マーク・サイクス (Mark Sykes) とフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコ(François Marie Denis Georges-Picot)によって原案が作成され、この名がついた。
協定の内容は以下の通りです。
◆シャーム、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とする。
◆シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする。
◆黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡両岸地域をロシア帝国の勢力範囲とする。
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終戦直前にモスル地域で石油が発見されたことで、1918年にフランスと再び交渉が行われ、この地域をイギリスの勢力圏に割譲することになり、それがイラクとなりました。
第一次世界大戦中に、アラブ人の独立とアラブ国家の樹立を目指していたイスラム王家ハーシム家のフサイン・イブン・アリーは、イギリスのカイロ駐在のマクマホン高等弁務官と「フサイン=マクマホン協定」を結び、4人の息子と共に「アラブ反乱」を起こして1916年にオスマン帝国からの独立を果たしました。
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アラビアのロレンス
『アラビアのロレンス』で知られるイギリス人のトーマス・エドワード・ロレンスは、英国外務省管轄下のアラブ局の情報将校としての任務を通じて、フサイン・イブン・アリーの家族と接触し、アラブの反乱を支援しました。
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しかし、アラブ地域全体をハシミテ王国としたいフサイン・イブン・アリー一族の要求は、サイクス・ピコ協定との絡みから受け容れられることはありませんでした。
フサイン・イブン・アリーの三男ファイサル1世は、ダマスカスのアラブ民族会議(シリア国民会議)によりシリア・アラブ王国の国王に選出され、兄のアブドゥッラー1世もイラク王に選出されました。
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しかし、1920年8月10日に締結されたセーヴル条約により、シリアはフランスの委任統治領になったため、フランスはシリアの立憲君主国家を認めず、フランス・シリア戦争に発展しました。
シリア・アラブ王国はフランス軍に占領され、ファイサル1世は追放されてイタリアに亡命しました。
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9月にはシリア地域は大レバノン、ダマスカス国、アレッポ国、アラウイ自治地区に4分割され、各地域には知事が置かれました。
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このため1921年8月のカイロ会議での決定に従って、イギリスはファイサル1世にイラク王国を与え、兄アブドゥッラー1世には、委任統治領パレスチナとなる予定の地域のうちヨルダン川東部の広大な乾燥地帯に「トランスヨルダン王国」(1921年 - 1946年)の建国を認めました。
1921年に行われたカイロ会議は、公式議事録に「1921年3月12日から30日にカイロ、エルサレムで開催された中東会議」とあるように、イギリスの高官が中東問題を検討・議論し、共通の政策を立案する目的で行われた一連の会議であった。
イギリスの専門家による秘密会議によって、イラクとトランスヨルダンの双方をイギリスの影響下におくための青写真が作成された。
カイロ会議によって、イラクとトランスヨルダンは、イギリスから指導と財政支援を受ける事となり、レバノンとシリアは引き続きフランスの支配下に置かれました。
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またイギリスはパレスチナの委任統治を維持し、そこをユダヤ人の故国とする事の支援の継続すること、フサイン・イブン・アリーをヒジャーズ王国(1916年から1932年の間、アラビア半島西部に存在した)の王として認めること、フサイン・イブン・アリーと対立していたワッハーブ派のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードはアラビア砂漠の中心にあるナジュドを支配下におく事で合意されました。
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アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード(1876年 - 1953年11月9日)は、ワッハーブ派イマーム、ヒジャーズ国王、ナジュド国王、ナジュド及びヒジャーズ国王、初代サウジアラビア国王。
ワッハーブ派イマームとしてはアブドゥルアズィーズ2世、サウジアラビア国王としてはアブドゥルアズィーズ1世と呼ばれる。
シオニストとアラブの若い王
ファイサル1世、アブドゥッラー1世の兄弟は、ユダヤ人のシオニスト運動を歓迎していたと言われています。
ファイサル1世は、1919年にのちに初代イスラエル大統領となるハイム・ヴァイツマン(1874年 - 1952年)と会い、ファイサル・ヴァイツマン合意に調印し、互いの民族国家建設のために協力することを約束しました。
しかし、ファイサル1世は英語の読み書きができなかったため、T.E.ロレンスが文書の内容を説明したそうです。
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ファイサル1世は誰にも相談することなく署名しましたが、署名欄に
「私は、1919年1月4日に外務省の英国国務長官に送った私の覚書に記録された条件の下で、アラブ人が独立を獲得し次第、この条約の条項を施行するつもりである。
しかし、もし[私の覚書の条項]が少しでも変更されれば、私はもはやその時点で無効であった条約に一言も拘束されず、それを遵守する義務もなくなるだろう。」と書き加えました。
したがって、この合意は実行されることはありませんでした。
兄のトランスヨルダン国王アブドゥッラー1世は、1928年にロンドンでハイム・ヴァイツマンと会い、ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地を認める代わりにアミール(首長)の地位拡大を支持するよう頼んだと言われています。
アブドゥッラー1世は、反ユダヤ主義の過激派ムスタファ・シュクリ・アシュ(Mustapha Shukri Usho)によって1951年7月20日、エルサレムを訪問中に暗殺されました。
1925年から1927年にかけてのシリア革命
1925年、ファイサル1世の友人でアラブ反乱にも参加していたスルタン・パシャ・アル・アトラッシュ(1891年 - 1982年)は、シリアのフランス植民地政権に対する反乱を主導しました。
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グノーシスの影響が強いドゥルーズ派
スルタン・パシャ・アル・アトラッシュは、イスラム教ドゥルーズ派。
ドゥルーズ派はグノーシス主義や新プラトン主義の影響を受けたとみられる独自の教理を発展させました。
その主な教義は神の統一、生まれ変わり、魂の永遠を主張しています。
歴史的にはシーア派の一派イスマーイール派から分派したものだが、教義からみてシーア派の枠内に収まるかは微妙で、イスラム第三の宗派と呼ばれることもある。
さらにイスラム教の枠に収まるかも怪しいと考えられ、多くのムスリム(イスラム教徒)はドゥルーズ派はイスラムではないと考えている。
19世紀前半にはレバノン山地北部に共同体を形成するキリスト教徒のマロン派と激しく対立し、カトリックに近いマロン派にはフランスが後援者としてついた関係から、イギリスがドゥルーズ派を後援するという国際紛争にまで発展、とくに1860年には激しい衝突を起こした。
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シリアの大きなドゥルーズ派コミュニティは歴史的にゴラン高原に住んでいましたが、1967年と1973年のイスラエルとの戦争の後、これらのドゥルーズ派の多くはシリアの他の地域に逃げました。
スルタン・パシャ・アル・アトラッシュが率いる反乱軍は、シリア・レバノン共産党(CPSL)の支援を受けていました。
1925年8月23日、スルタン・パシャ・アル・アトラッシュは公式にフランスに対する革命を宣言し、すぐにダマスカス、ホムス、ハマで戦闘が勃発し、シリア全土とレバノンの一部を巻き込むまでに広がりました。
スルタンは、フランスの占領を終わらせ、シリア国民の統一を要求しました。
抵抗は1927年の春まで続き、いくつかの村々は破壊と焼き討ちの結果、住民がいなくなってしまったそうです。
フランスはスルタンに死刑宣告をしましたが、彼は反乱軍と共にトランスヨルダンに逃亡し、最終的には恩赦されました。
1937年にシリアに戻った彼は大衆に大歓迎されました。
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この革命は、フランスからの独立を求める民族闘争において一定の進展を遂げましたが、最終的にはシリア独立とフランス軍のシリアからの撤退という主要な目標を達成できませんでした。
シリア独立
1936年にフランス・シリア独立条約が締結され、フランスの統治は終了しました。
フランスの傀儡であった委任統治領シリア共和国大統領ムハンマド・アリ・ベイ・アル・アビドに代わって、ハシム・アル・アタシ(Hashim al-Atasi)政権が立てられましたが、1940年から1941年まではシャルル・ド・ゴール将軍率いる自由フランス軍に占領され、軍事的に支配されたままでした。
独立宣言が行われたのは1944年。
シリア共和国が国際連合によって法的に承認されたのは1945年であり、1946年4月にシリア全土からフランス軍が撤退したことで、シリア第一共和国として独立しました。
シオニズムに反対したクワトリ大統領
独立後のシリアの初代大統領となったスンニ派のシュクリ・アル・クワトリ(在任:1943年 - 1949年)は、先のシリア革命で反体制派として投獄されていましたが、1930年にフランス当局は彼を恩赦し、その後、シリアの政党・ナショナル・ブロックの主要な指導者となりました。
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シリア政府の閣僚には親米派の人物が多数存在し、クワトリは当初アメリカと友好的な関係を築いていましたが、米ソ冷戦が始まり、クワトリがシリアにおけるアメリカの利益を害しているというアメリカ政府の見方により、両国の関係は崩壊し始めました。
クワトリは、トランス・アラビア・パイプライン(TAP Line)の建設を拒否しました。
彼は、パイプラインの建設が英国所有のイラク石油会社を脅かし、国民が混乱に陥ることを恐れていました。
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トランス・アラビア・パイプラインは、1945年に株式会社が設立され、1947年からパイプラインの建設を開始し、1950年に完成しました。
管理はアメリカ合衆国のベクテル社。
当初は、イギリス委任統治領パレスチナのハイファを終点とする計画でしたが、委任統治終了に伴うイスラエルの建国により経路の見直しが行われ、代替経路としてシリアのゴラン高原を経由し、レバノンのサイダを終点とする経路となりました。
パイプラインを建設したトランス・アラビアンパイプライン株式会社は、スタンダードオイルニュージャージー(後のエッソ石油、現エクソンモービル)、スタンダードオイルカリフォルニア(現シェブロン)、テキサコ(現シェブロンのブランド名)、モービル(現エクソンモービルのブランド名)の合弁会社として設立され、最終的にはアラビアン・アメリカン・オイル・カンパニー(アラムコ、現サウジアラムコ)の子会社となった。
パレスチナ戦争
ハリー・S・トルーマン大統領の下でのイスラエルに対するアメリカの支援と、シオニズムに対するクワトリの断固たる反対はさらなる緊張を呼びました。
クワトリは、パレスチナの56%をユダヤ人国家に割り当てる計画は、パレスチナ人の権利を侵害していると主張し、パレスチナ委任統治領の提案に反対しました。
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ユダヤ人国家とアラブ人国家に分割することを勧告した。
この提案は国連の投票を通過し、シリアはその後すぐにアラブ解放軍(ALA)を共同設立するなど、1948年パレスチナ戦争(→アラブ・イスラエル戦争(第一次中東戦争)に発展)の準備を進めました。
第一次中東戦争は、第二次世界大戦終結直後の1948年に新たに独立を宣言したユダヤ教国家イスラエルとその建国やシオニズム思想に反対するアラブ世界の国々の間で勃発した戦争。パレスチナ戦争ともいう。
この戦争では当初はイスラエルに攻め込んだアラブ諸国側が有利であったが、後にイスラエルが反撃し逆転した。
この戦争はイスラエルの事実上の勝利に終わり、国連の仲介による停戦後も独立国としての地位を固め、更には当初の国連による分割決議より広大な地域を占領する事となった。
戦争中、双方による虐殺やテロ行為が行われた。
リダやラムレ、ハイファの戦いなどで起きたアラブ人に対する虐殺や暴力のキャンペーンにより、70万人以上のパレスチナ人が追放・逃亡し、都市部の大半は無人化し破壊された。パレスチナ人に対するこの暴力と土地の剥奪は、今日ではナクバ(アラビア語で「災害」)として知られており、パレスチナ難民問題の始まりとなった。
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CIA協力によるクーデター
1949年3月の軍事クーデターでクワトリは打倒され、エジプトに亡命しました。このクーデターは2年前から計画されており、CIAが関与したと見られています。
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マイルズ・アックス・コープランド・ジュニア(1916年 - 1991年)は、アメリカのミュージシャン、実業家、中央情報局(CIA)の創設メンバーであり、エジプトの指導者ガマル・アブデル・ナセルとの関係と諜報問題に関する彼の公の解説で最もよく知られている。
コープランドは、1949年3月のシリア・クーデターや1953年のイラン・クーデターなど、数多くの秘密作戦に参加した。
1953年のイラン・クーデターについてはこちらの記事に書いています。
マイルズ・コープランド・ジュニアは、英国MI6とソ連の二重スパイだったキム・フィルビーと友人であり、フィルビーを監視してもいました。
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新しく大統領になったフスニ・アル・ザイム(シリアのクルド人)は、フランス陸軍の将校でした。
1946年のシリア独立後、参謀総長に任命され、1948年のアラブ・イスラエル戦争(第一次中東戦争)でシリア軍を指揮するように命じられていました。
クーデターの4日後、ザイムはトランス・アラビア・パイプライン(TAP Line)協定を批准しました。
しかし、ザイムの治世は短く、1949年8月にかつてのクーデターの共謀者によって裁判にかけられて処刑されました。おそらく口封じ・・・
石油パイプラインについては、今回のアサド失脚の原因のひとつにも数えられていますね。
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米国の焦りと「シリア危機」
3期目に返り咲いたシュクリ・アル・クワトリ(在任:1955年 - 1958年)は、国内で左派の傾向が強まっていることを懸念し、あらゆる政治的立場の政党を含む挙国一致内閣の樹立を求めました。
また冷戦のさなかに公式に中立主義を採用するとともに、シオニズムと帝国主義に反対する外交政策を主導しました。
ちょうど1955年2月にバグダッド条約としても知られる中央条約機(CENTO)がイラン、イラク、パキスタン、トルコ、イギリスによって結成されていました。
CENTOの目的は、ソ連の中東への拡大を防ぐためでした。
中央条約機構は、冷戦時代の同盟国の中で最も成功しなかったものの一つと見なされている。
米国は当初は参加できず、のちにオブザーバーとして参加しました。
アイゼンハワー大統領の下で国務長官だったジョン・フォスター・ダレスは、「それは、親イスラエル・ロビーと議会の承認を得るのが難しかったためだ」と主張しました。
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1957年8月のシリア危機
8月6日、クワトリはソ連と長期協定を締結しました。
これには、シリアの開発事業へのソ連の長期融資と、シリアの農産物および繊維製品の余剰の大部分をソ連が購入することが含まれていました。
8月12日、シリアが共産主義政権に近づいているという米国の懸念からCIAが支援するクーデターが起こりましたが、シリア情報局長のアブデル・ハミド・アル・サラージによってクーデターは阻止されました。
シリア政府は米国の駐在武官をダマスカスから追放し、米国はこれに応じてシリア大使をワシントンから追放し、シリアから大使を召還しました。
クーデター後、政府内の左翼勢力の影響力はさらに強まり、8月15日にはマルクス主義に傾倒するアフィフ・アルビズリ大佐がシリア軍参謀総長に任命され、中級将校数名が共産党員と交代しました。
それにより隣国のイラク、ヨルダン、レバノンでは、シリアで共産主義者による政権奪取が起こったという疑惑が広がりました。
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長いので端折りますが、ジョン・フォスター・ダレス米国務長官が「シリアがソ連の衛星国になる。阻止しなければいけない」と煽って、周辺国は上を下への大騒ぎになりました。
各国はシリア政府を打倒するため、アラブまたは西側諸国の軍事介入を検討するようになり、トルコはシリアとの国境に数千人の兵士を配備しました。
サウジアラビアとイラクは、シリアへの支援を宣言しました。
ヨルダンは内政干渉するつもりはないと退きました。
エジプトはトルコを牽制するため、シリア北部のラタキア港に1,500人のエジプト軍を派遣しました。
イギリスを交えたその他の国で話し合いが持たれ、イスラエルがシリアに対して軍事行動を起こすことになりましたが、最終的にはイスラエルは反応しないように圧力をかけられたのことです。
ソ連のニキータ・フルシチョフ書記が「トルコがシリアを攻撃すれば、トルコにミサイルと撃ち込む」と脅し、アメリカがトルコに軍隊の撤退を促した後、フルシチョフ書記がモスクワのトルコ大使館を訪問したことで10月に騒ぎは終結しました。
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余談ですが、インドネシアで1965年9月に起きた軍事クーデターと赤狩り(共産党員狩り)もCIAが関与したのだろうと思います。
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エジプトのガマール・アブドゥル・ナセル大統領と数ヶ月に及ぶ統一交渉の後、1958年にシリアとエジプトが連合したアラブ連合共和国が樹立され、ナセルが大統領に就任し、クワトリは政界からも引退しました。
しかし、1961年にシリアで再びクーデターが発生し、シリアが連合を離脱したためアラブ連合共和国は解体しました。
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バアス党が政権を握る*一党独裁の時代へ
1961年、1962年とクーデターが続き、政権が安定しないまま1963年にもクーデターが起き、バアス党が政権を握りました。
1963年2月、イラクのバアス党がクーデターを起こし、アブドルカリーム・カーシム政権を打倒したラマダーン革命に触発されて起きたクーデターでした。(ラマダーン革命には、サダム・フセインは参加していなかった)
バアス党は、シリア・イラクなどのアラブ諸国で活動する汎アラブ主義政党。公式名称はアラブ社会主義復興党。「バアス」とはアラビア語で「復興」「使命」を意味する。
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クーデターはバアス党の軍事委員会によって計画されており、軍事委員会の主要メンバーは、ムハンマド・ウムラーン、サラーフ・ジャディード、ハーフィズ・アル=アサドでした。
彼らが新しい政権の主要メンバーとなり、アサドは30代にしてシリア空軍の事実上のトップになりました。
クーデター自体はおおむね無血で完了しましたが、政権交替の過程で820名が殺され、その後も20名が処刑されたと報告されています。
1963年1月25日のシリアの金環日食図を見ると、乙女座で天王星と冥王星がコンジャンクション、天王星はICにコンジャンクション。魚座の木星とオポジションになっていました。
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それから3年後の1966年2月、若手バアス党員による初代バアス党政権に対するクーデターが起きました。
ダマスカス、アレッポ、デリゾール、ラタキアで流血の戦闘が発生し、バアス党の創設者達はシリアを脱出しました。
ハーフィズ・アル=アサドは、ロンドンへ逃れました。
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後にル・モンド紙のインタビューでアサドは「軍の介入は遺憾なことであった。バアス党は民主的な政党であり、紛争は民主的な方法で解決されている必要があった。」と語っていた。
しかしながら、民族指導部の独裁に終止符を打つのに必要だったという見解も示している。
1966年のクーデターにより、バアス党はシリア派とイラク派の2つに分裂しました。
そして1970年のクーデターでは、ハーフィズ・アル=アサドが大統領となり、悪名高き独裁政権の50年が始まることになります。
1970年のクーデターについてはこちらに書きました。
息子のバシャール・アル・アサドについてはこちらの記事に。
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今日はこのへんで。
最後までお読みくださりありがとうございました。
ではまた。