ナザレのイエスと原始キリスト教
イエス・キリストは、 紀元前6年から紀元前4年頃に生まれ、 紀元後30年頃に亡くなったと言われています。
紀元1世紀にパレスチナのガリラヤ周辺で宣教活動をし、キリスト教、イスラム教等に大きな影響を与えました。
イエスという名前は、ユダヤ人の間では一般的な名前なのだそうです。
「ヤハウェ(יהוה)は救い」という意味で、モーゼの後継者ヨシュアと同じ名前です。
名前からわかるように、イエスはユダヤ人でユダヤ教徒の家に生まれています。
当時は姓の風習もなかったため、しばしば出身地を含めた呼び方で区別されていました。イエスは、ナザレまたはベツレヘムで生まれたことから、当時は「ナザレのイエス」と呼ばれていました。
イエス・キリストと呼ばれるようになったのは、もっと後のことです。
タイトル画像は、私がAI生成のテンプレ画像をちょっといじったものですが、実際のイエスは下のイコンのような人だったのでしょうね。
イエスの誕生
イエスの誕生については、新約聖書の『福音書』によるもので、イエスの母マリアの処女懐胎は『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』に記されていますが、マルコやヨハネの福音書には記述がありません。
またマタイとルカの福音書では、イエスはベツレヘムで誕生したことになっています。
これは旧約聖書(ユダヤ教聖書)に、「メシアは古代イスラエルの王ダビデの町であるベツレヘムで生まれる」という予言があることに由来しています。
イエスの父ヨセフはダビデ王の末裔とされており、メシアは彼の家系に生まれるという預言が成就したとみなされています。
母マリアもダビデの子孫とされています。
『ルカによる福音書』によれば、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(紀元前27年-紀元後14年)が、戸籍・人口調査を命令したため、人びとは登録のために自分の故郷へ戻ったとしています。
ダビデ王の流れを汲むヨセフとマリアは、ダビデの町・ベツレヘムへおもむき、そのときにイエスが生まれたそうです。
世間一般では12月25日をイエスの誕生日として祝いますが、聖書にはイエスの誕生日を明言している箇所はまったくありません。
後世のカトリック教会が、便宜上12月25日をイエスの生誕にちなんだ日としたようですね。
『ルカによる福音書』2章には、イエスが誕生した時の様子として「羊飼いたちが夜に、野宿しながら羊の群れの番をしていた。」の記述があります。
冬の寒い時期に羊飼いが夜に戸外にいるのは考えられないため、12月誕生説は無理があると言われています。
ある説では、ローマで「太陽が一年で最も長く、夜に打ち勝っていた」として12月25日頃に祝祭を催していた(たぶん冬至を祝うサトゥルナリア祭)のを採用したのではと言われています。
私は、聖書に書かれているイエスの性格から察して、牡羊座生まれか、(当時は発見されていない)天王星が効いている人じゃないかと思っています。
東方の三賢者がイエスの誕生を聞いて訪ねて来る話は、占星術的にはその時期がわかっています。この話はまたいつかの機会に。
イエスと洗礼者ヨハネ
マリアは、大天使ガブリエルから受胎告知を受けたあと、親戚のエリサベトという女性を訪ねています。このときエリザベトも妊娠中でした。
その赤ちゃんがのちにイエスに洗礼を施すことになる、バプテスト(洗礼者)のヨハネです。彼もまたユダヤ教徒でした。
ヨハネは「יהוה(ヤハウェ)が深く恵む」という意味の名前。
イエスの弟子である使徒ヨハネとは同名の別人です。
洗礼者ヨハネは、イエスが誕生する半年前の6月24日に誕生したと言われています。夏至の直後の時期です。
別のヨハネである使徒ヨハネが書いた福音書の3章30節には、「あの方(イエス)は栄え、わたしは衰えねばならない」と、洗礼者ヨハネ自身が述べたという記述があり、これが夏至以降、太陽の力が衰えて行くことを暗示していると考えられます。
イエスの誕生日をローマの冬至祭12月25日にしてしまったために、先に生まれたヨハネを夏至の頃にしたんだろうなと私は思っています(汗)
長くなるので割愛しますが、夏至と冬至は古代の占星術で大きな意味があります。
『旧約聖書』のイザヤ書に「見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」という予言があり、この使者こそが洗礼者ヨハネと言われています。
イエスとモーセを預言者として認めないマンダ教においては、洗礼者ヨハネは最後のもっとも偉大な預言者とされています。
洗礼者ヨハネは、皇帝ティベリウスの在位十五年にヨルダン川流域で活動を開始したと言われています。イエスも同時期に活動開始しています。
イエスは、群集の一人としてヨハネのところへ赴き、洗礼を受けました。
私が持っている聖書には、このように書かれています。
洗礼後、イエスは御霊によって荒野に導かれ、そこで40日間断食し、サタンの誘惑を3度受けることになります。
その場所は、誘惑の山と呼ばれるヨルダン川西岸地区のエリコの11km西郊外にある山(海抜366m)と言われています。
「40」という数字も聖書に良く出てきますが、当時「40」は特定の数字というよりも、大きな数を表す一般的な表現だったそうです。
荒野の誘惑
イエスの宣教と弟子たち
荒野の試練に打ち勝ったイエスは、ガリラヤに戻り宣教を始めます。
弟子になった者の中から12人を選び、彼らに特権を与えました。十二使徒
十二使徒=シモン・ペトロ、 ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、フィリポ、バルトロマイ(ナタナエル)、マタイ、ディディモ・トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、シモン、イスカリオテのユダ
『ヨハネによる福音書』1章35節は、シモン・ペトロとアンデレは、元は洗礼者ヨハネの弟子であったと記しています。
そのほかにイエスと弟子たちを支える女性たちがいました。
セント・ポールとして有名な使徒パウロ(ユダヤ名はサウロ)は、初期のユダヤ人のキリスト教徒を迫害していたパリサイ派のユダヤ教徒でした 。
パウロはイエスの死後に回心しているため(紀元34年頃)、イエスの直弟子ではなく十二使徒には数えられていません。
イエスの兄弟
新約聖書にはイエスの子ども時代の記述がなく、イエスが12歳になった年の過越しの祭りで、両親と共にエルサレムに旅したところから始まります。
マタイとマルコの福音書によれば、イエスにはヤコブ、ヨセフ、シモン(シメオン)、ユダ及び妹2人がいたことが分かります。
正教会及びカトリック教会は、マリアの処女性を認めるゆえ、ヨセフの先妻との間に生まれた子どもたちであるか、またはヨセフの死後にマリアが再婚し産んだ子どもたちであると解釈しています。
これらイエスの兄弟たちは、イエスの生前はその教えを信じていませんでしたが、イエスの死後にエルサレム教団(ユダヤ人キリスト教徒のグループ)に加わり指導的地位につきました。
『ルカによる福音書』 には、母マリアと兄弟たちがイエスに面会に来たとき、イエスの話を聞きに来た群衆が多くて、近づくことが出来なかったことが書かれています。
誰かが「母上と御兄弟が会いに来ておられます」と告げると、イエスは「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言い残しています。(ルカ8章19節)
要するに面会拒否したわけですね。
マタイ13章によれば、イエスは「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」とも言っており、イエスが宣教を始めてから家族と確執があったことがうかがえます。
マルコ3章では、イエスの身内の者たちは、イエスが気が変になってそのようなことをしていると思い、宣教をやめさせようとしていた節があります。
イエスがガリラヤで宣教活動を行ったのは、わずか3年ほどでした。
『ルカによる福音書』 は、イエスが宣教を始めたときは30 歳だったと述べています。
イエスは様々な教えを説き、病人の治療を行い、重い皮膚病患者を癒し、死者をよみがえらせたなど多数の奇蹟が記されています。
(この記事では割愛します)
お互いに愛し合いなさい
現在もカトリックの教会で行われているという、聖木曜日にへりくだりの行いとして弟子たちの足を洗ったように、司祭が信者の足を洗う儀式があります。
「洗足木曜日」(Maundy Thursday)とも呼ばれます。
私は、この慣習はとても素敵だと思っています。
聖木曜日は、ユダヤ教の「過越しの日」で、イエスと弟子たちの「最後の晩餐」が行われた日になります。
上の絵画でも、背景に食事テーブルが描かれていますね。
「最後の晩餐」に占星術的な意味が隠されていることは、下のリンク記事に書いているので、今回は割愛します。
また、「Gods anointed King*油そそがれた王」という記事にも少し書きましたが、聖書には、イエスの足を香油で洗ったベタニアのマリア(マグダラのマリアとは別人です)という女性が出てきます。
マルタ(姉)とマリアの話も興味深いので、折を見て書きたいと思っています。
イエスの死と復活
イエスは33歳ぐらいで亡くなったとされています。
イエスが処刑された理由として、イエスがユダヤ教の一派であるパリサイ派を痛烈に批判したことが原因として上げられています。
また「神殿から商人を追い出す」(売買人を追い出し、両替商の台を倒した)などの過激な行為により、パリサイ派と対立していたサドカイ派からは政治犯と見なされて恐れられ、訴えられてしまいました。
律法学者たちはイエスが疎ましく、イエスが自らを「ユダヤ人の王」「神の子」と称し神を冒涜したとして、重罪に処すようにローマ帝国に引き渡しました。(ということになっています。)
イエスは、ローマ帝国の法によって、ゴルゴタの丘で十字架にかけられ処刑されてしまうわけです。十字架刑はその残忍性のため、ローマ帝国でも反逆者のみが受ける最も重い刑罰でした。
イエスが磔になった十字架(真の十字架)については、こちらの記事に書きました。
総督ピラト「Ecce Homo (この人を見よ)」
そのときのユダヤ属州の総督が、ピラト(Pontius Pilatus(ポンティウス・ピーラートゥス))という人物で、新約聖書に登場しています。
ピラトの生没年や出身地などは不詳ですが、ティベリウス帝治下に総督を務めたことがわかっています。
歴史家タキトゥスのおっちゃんは、キリスト教徒について述べた著書の中で、イエスにも言及しています。
「彼らは日頃から忌まわしい行為で人々から憎まれ、クリストゥス信奉者として知られていた。この呼び名はクリストゥスという人物の名前から取られており、 ティベリウス帝の治世下において、総督ポンティウス・ピラトによって処刑された。」
新約聖書に描かれているピラトは、はじめのうちはイエスの処刑に消極的であったように書かれています。
ピラトはイエスが無罪であることを知っており、『ヨハネによる福音書』の19章では、「わたしはこの男に罪を見いだせない」と述べ、群集の要求に応えてやむをえずイエスの処刑に踏み切ったように記述されています。
イエスの処刑は、一説では西暦30年4月7日の金曜日、別には西暦33年4月3日の金曜日と推測されています。
『ヨハネによる福音書』19章によると、その日は「過越の祭りの準備の日」となっているので、「ニサンの月の14日」ということがわかり、またその日が金曜日だったことも19章の記述からわかっています。
イエスが宣教を始めたのが、ティベリウス帝の治世の15年、パウロの回心が33年~35年とされていることから、西暦30年4月7日が有力とのことです。
Resurrection(イエスの復活)
聖書の4つの福音書に、イエスが死後に復活したことが記されています。
ただし、さまざまな人物がイエスの墓を見に行ったら、墓が空になっていたという筋書きになっており、誰も目撃した人はいません。
その後、イエスは多くの弟子たちのまえに姿を現し、40日間ともに生活したあとに昇天したと言われています。(『使徒言行録』1:9-12)
ここでも「40」が出てきますね。
キリスト教において「復活」は、キリスト教神学の中心的位置を占めています。
西暦 1 世紀のユダヤ人の主要な3つの宗派において、サドカイ派は魂も肉体も死ぬと滅びると信じていたようです。
エッセネ派は、魂は不滅だが肉体は不滅ではないと主張し、パリサイ派は、魂は不滅であり、肉体も復活すると信じていました。
イエスと初期キリスト教徒は、パリサイ派に近かったようです。
エッセネ派は、紀元前2世紀から紀元1世紀にかけて存在したユダヤ教のグループです。現代では、複数の集団がまとめてエッセネ派という名で言及されていたと考えられています。
パリサイ派から派生したと考えられていますが、俗世間から離れて自分たちだけの集団を作ることにより、自らの宗教的清浄さを徹底しようとした点でパリサイ派と一線を画しています。
新約聖書はファリサイ派とサドカイ派に言及していますが、エッセネ派が一切登場しないため、洗礼者ヨハネやイエスがエッセネ派に属していた、あるいは関係グループに属していたという説もあります。
エッセネ派は、第一次ユダヤ戦争(帝政ローマ期の66年から73年まで)の後に姿を消しました。
イエスの兄弟が指導的立場にあったエルサレム教団も、ユダヤ戦争以後衰退し、5世紀には消滅したと言われています。
弟子たちの大任務(原始キリスト教)
イエスの昇天後、弟子たちはイエスに言われたとおりに宣教活動を始めるわけですが、1世紀半ばまでの原始キリスト教の区分になる、この時期はまだキリスト教は確立されておらず、ユダヤ教の一派でした。
ペトロやヨハネら使徒たち自身も、自分たちはユダヤ教徒だと思っていたようで、イエスが亡くなった後もユダヤ教の安息日を守り、神殿で礼拝を続けていました。
信徒らがキリスト信奉者(クリスティアノイ、クリスチャン)と呼ばれるようになったのは、パウロが中心となって初めてユダヤ人以外に伝道した地アンティオキアでのことで、イエスの刑死から十数年後になります。
初期のユダヤ人のキリスト教徒は自分たちを「道」(ἡ ὁδός)と呼んでおり、おそらくイザヤ書 40:3の「主の道を備えよ」に由来していると考えられています。
信者たちがみずからキリスト者と称するのは2世紀以降です。
パウロの著作や書簡による影響は大きく、ユダヤ人の救世主イエスを普遍的な救世主に変えました。
パウロの時代からユダヤ教とキリスト教の違いが生じるようになり、しだいに分離していったと見られています。
使徒の殉教
当初の信徒はユダヤ人が中心でしたが、しだいにユダヤ人以外にも広がり、イエスを直接知らない者の中から指導的役割を担う者があらわれ、組織化がはかられました。
洗礼や癒やし、悪霊払いなどに加えて、外部に対する奉仕などもおこなわれるようになり、実務担当の役割として「執事」の職が設けられました。
そして、ディアスポラのユダヤ教徒によるエルサレム教会に対する迫害を契機として、執事ステファノのグループがサマリアやシリアに宣教の旅に出かけました。
ステファノはギリシャ語を話すユダヤ人(ヘレニスト、ユダヤ系ギリシア人)でした。
初代教会においてヘブライ語=ユダヤ語を話すユダヤ人(ヘブライスト)とヘレニストの間に摩擦が生じたため、問題解決のために使徒たちによって選ばれた7人(他にプロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、ニコラオ、フィリポ)の一人だそうです。
ステファノは、「神殿偏重に陥っている」とユダヤ教を批判したため、パリサイ派によって石打ちの刑に処せられました。
そのとき、改心前のパウロ(サウロ)が立ち会っていたそうです。
パウロは、ユダヤ教徒時代から分派を嫌っており、イエスの追随者たちを迫害したのも「パリサイ派として、ユダヤ教から異端を排除しようとした」と述べています。
ステファノ殉教後は、ペトロ(ペテロ)やパウロも異邦人への伝道を精力的におこない、イエスの教えはさらに広がり、西暦60年頃にローマに達したと考えられています。
エウセビオスの『教会史』に、クラウディウス帝時代にローマ市内で聖ペトロ(ペテロ)が信仰を広めたとあるそうです。
イエスの最初の弟子で、十二使徒のペトロとアンデレはどちらも殉教しました。ペトロは67年頃にローマで、アンデレは60年にギリシャのアカイアで殉教したと言われています。
またパウロは、ペトロと同時期67年頃にローマで殉教しました。
マルコは、68年に殉教したとされています。
第一次ユダヤ戦争とキリスト教の拡大
その後まもなくユダヤ戦争(西暦66年から73年)が起きました。
当時のローマ帝国は、基本的に被支配民族の文化を尊重していたそうですが、一神教を奉ずるユダヤ人は、多神教のローマへの反感を日増しに強めていました。
戦争の発端は、当時のユダヤ属州総督フロルスが、エルサレムのインフラ整備のための資金として、エルサレム神殿の宝物を持ち出しことが発覚。
これをきっかけに、エルサレムで過激派による暴動が起こったとされています。
反ローマの機運が全土に広がり、隠遁修行生活をしていたエッセネ派も反乱に加わりました。
シリア属州の総督が軍団を率いて鎮圧に向かうも反乱軍に敗れ、事を重く見たネロ帝は将軍ウェスパシアヌスを鎮圧に向かわせました。
(68年6月にネロは自殺)
(↑ 途中から有料記事になっています)
西暦70年ユダヤ暦第6月8日~10日に、ティトゥス率いるローマ軍によってエルサレム神殿は火を放たれて炎上し、エルサレムは陥落しました。
エルサレム陥落後、約1千人のユダヤ人がマサダ砦に籠城したため、ローマ軍は3年がかりで砦の絶壁を埋め、マサダ砦の攻略目前になったとき、敗北を悟ったユダヤ人集団は集団自決したと言われています。
マサダ陥落で、第一次ユダヤ戦争は終結しました。
(2世紀、ハドリアヌス帝の治世に第二次ユダヤ戦争が発生します)
第二神殿の破壊は、ユダヤ教の転換点となりました。
紀元前515年の第二神殿が建設されてから、70年にローマ帝国によって破壊されるまでの間、第二神殿は歴史の変動、西洋やアラブの宗教に多大な影響を及ぼす重要な場所でした。
第一次ユダヤ戦争以後、神殿は再建されず、西の壁の下部は嘆きの壁として現存しています。
神殿が無くなったため神殿に拠っていたサドカイ派は消滅し、パリサイ派がユダヤ教の主流派となり、集会所に集まって聖書を読み、祈りを捧げるユダヤ教を形作っていきました。
初期のキリスト教は、ユダヤ教から離れ、主に「異邦人の宗教」としての地位を確立しました。
イエスの教えは地中海世界全域に広がり、ナザレのイエスは救世主イエス・キリストとして知られるようになっていったのでした。
ナザレのイエスは、現在のキリスト教という宗教を望んでいたのか?って思ったりしますねぇ。
イエスは厳格なユダヤ教徒であり、ユダヤの戒律を守っていました。イエスは、旧態依然となっていた戒律を立て直し、民衆を正しく神ヤハウェへの信仰に立ち返らせるために活動していたと思われます。
長くなってしまいましたので、今日はこのへんで。
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