レーガンの功績とパパ・ブッシュと石油(ヒンクリー家)
過去のアメリカ大統領選挙を調べていて、あることに気づきました。
もしかしたら当時、深く追求したジャーナリストがいたかもしれないですが、Wikipediaには書かれていません。
もったいぶっていますが、ある暗殺事件についてです。そのため後半は有料にしております。
(金額をいつもより少し上げているのは、表に出ていない内容と思われるからです。何年かしたら公になるかもしれません。)
長い記事になっていますが、よかったらお付き合いください。
1980年大統領選挙とロナルド・レーガン
1980年はアメリカ大統領選挙の年で、現職のジミー・カーター大統領(民主党)は前年11月4日に起きたアメリカ大使館人質事件の対応の不手際、救出の失敗から支持率が低下し、1980年9月22日にはイラン・イラク戦争が起きたために完全に失速したことは、上の記事にも書きました。
イラン・イラク戦争は、最終的に国連の介入により停戦しましたが、アメリカは1987年10月のアーネスト・ウィル作戦での報復としてイランの2つの油田を攻撃 (Operation Nimble Archer 作戦) し、歴史上最大の株価暴落 (ブラックマンデー) を引き起こしました。
民主党の大敗北
1980年の選挙は、1932年以来初めて選挙で選ばれた現職大統領が敗北した選挙であり、1888年以来初めて民主党の現職大統領が敗北した選挙だったそうです。
共和党は、ロナルド・レーガンとパパ・ブッシュ(ジョージ・H・W・ブッシュ)が指名候補を競い、レーガンが党指名を獲得し、パパ・ブッシュをランニングメイトに指名しました。
下図でも共和党・レーガン氏の支持が圧倒的だったのがわかりますね。
レーガン氏は、この選挙で「Make America Great Again」(アメリカ合衆国を再び偉大な国にする)をスローガンとして掲げていました。
このスローガンは、後年の2016年アメリカ合衆国大統領選挙においてドナルド・トランプ氏により再び用いられることになりました。
カーター大統領を破ったロナルド・レーガン氏が、政治家になる前はハリウッドの映画俳優だったことはよく知られていると思いますが、レーガンといえば冷戦(1979年-1985年)時代後期の大統領というイメージが強いです。
レガーノミクスによる「双子の赤字」とプラザ合意
レーガン大統領は2期8年務めました(1981年~1989年)。
1期目は、ベトナム戦争によって起きた高インフレ状態を脱するために「レーガノミクス」と呼ばれる大幅減税と積極的財政政策を実施し、経済の回復と共に双子の赤字をもたらしました。
米国の歴史の概要 - 新しい保守主義と新たな 世界秩序 |About THE USA|アメリカンセンターJAPAN (americancenterjapan.com)
日本をバブル景気に導いた「プラザ合意」がなされたのも、レーガン政権時代で、中曽根康弘首相・竹下蔵相・澄田智日銀総裁らによって決断されました。
この合意は、アメリカ経済が悪化することは世界経済全体に悪影響を及ぼすという利害の一致から、ドル相場を協力してドル価格を下げ、アメリカ製品の輸出を増やしてその経済を救うと言う意見の一致によります。
要するに、「双子の赤字」で大ピンチになったアメリカ経済を救うために結ばれたのがプラザ合意でした。
こうして「ドル安」時代が始まり、日本はバブル景気に踊ったわけですね。
しかし、バブル経済は1991年初頭に崩壊しました。バブル崩壊
ソビエト・アフガン戦争(1978年-1989年)
1979年12月のソビエトのアフガニスタン侵攻によって始まったソビエト・アフガニスタン戦争(この戦争では約100万人の民間人が死亡しました)に対し、ジミー・カーター政権ではムジャヒディーン(「ジハードを遂行する者」を意味する)に武器や資金の提供を行っていました。
ソビエト・アフガニスタン戦争の背景に、サウル革命(1978年)というのが起きていました。
1973年7月17日に起きたクーデターにより王政が廃止されて共和制となったアフガニスタン共和国は、追放された国王ザーヒル・シャーの従兄弟ムハンマド・ダーウードが政権を握っていましたが、イスラーム主義者に対する弾圧を強化したため対立する人民民主党が軍事クーデターを起こし、ムハンマド・ダーウードの家族18人が殺害されました。
これにソビエトが介入して、ソビエト・アフガン戦争に発展していったのです。
このサウル革命は、当初ソビエトの関与が疑われたのですが、ソビエトは否定しアメリカ政府もソビエトの関与の可能性は低いと見ていました。
1979年にイラン・イスラム革命が起きたことを考えると、サウル革命は単独の革命ではなく一連のイスラム革命だったのでしょう。
レーガン・ドクトリン
レーガンもまたは、対ソ政策を中心にした外交政策(レーガン・ドクトリン)を行いました。
アジア、アフリカ、ラテンアメリカにおいてソ連の支援を受けていた共産主義政権に対して、反共ゲリラやレジスタンス運動をCIAの秘密工作によって支援しました。アメリカのお家芸ですね。
こうしたレーガン・ドクトリンの資金援助は、メロン財閥により設立されたヘリテージ財団とアメリカ企業研究所(アメリカン・エンタープライズ・インスティテュート)によって行われました。
ヘリテージ財団は、1980年代から1990年代前半にかけてのレーガン・ドクトリンの主要な立案者かつ支援者でした。
米国政府はこれによりアフガニスタン、アンゴラ、カンボジア、ニカラグアなどで反共主義を掲げて公然、非公然諸々の介入を行い抵抗運動を支援しました。また冷戦の期間中、全世界的に反共主義を支援しました。
>>>余談*タリバンの出現
しかし、アメリカはアフガニスタン戦争でソビエトをアフガニスタンから追い出すことが出来た反面で、ムジャヒディーンに反対するイスラム教スンナ派のタリバン(ソビエト・アフガン戦争の孤児が成長して作った組織)やアルカイーダを生み出すことになります。
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CIAが直接タリバンを支援していたことを証明する文書はないそうですが、1980年代にCIAとパキスタンの統合情報局(ISI)がソ連に抵抗するアフガニスタン人に武器を提供し、ISIがソ連と戦うために世界中から過激なイスラム教徒を集める過程を支援したため、タリバンにも間接的に武器に提供されたと見られています。
タリバンの目的は、サウル革命で亡命した元国王ザーヒル・シャー(2007年没)を呼び戻すことだったそうです。
タリバンは当初、ムジャヒディーン軍閥の腐敗、残虐行為、絶え間ない戦闘にうんざりしていたアフガニスタン人から、莫大な好意を享受していました。
「アフガニスタン・トランジット・トレード」として知られるパキスタンを拠点とするトラック輸送マフィアを、アフガニスタンを横断して中央アジア共和国に至る南部道路から盗賊ギャングを排除しました。
そんな彼らが、現在のようなイメージになったのは、アフガニスタン内戦 (1996年-2001年)でイスラム国との死闘以後の変化かもしれませんね。
詳しくは割愛しますが、「911アメリカ同時多発テロ」以降、アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)ではアメリカ軍に支援されたアフガニスタン・イスラム共和国新政府と、ターリバーンやアルカーイダなどの武装勢力が争いました。
>>>余談終わり>>>>
ディスペンセーション神学については、以下の記事の無料部分に書きましたのでよかったらご覧ください。
1989年東欧革命と米ソ冷戦の終結
米国は西ドイツにパーシングミサイルを配備すると発表し、続いて続いてレーガンが米国戦略防衛構想(スターウォーズと呼ばれた)を発表すると緊張が高まりました。
1983年、レーガンがソビエト連邦を「悪の帝国」と決めつけると緊張はさらに悪化しました。
「悪の帝国」は、1983年3月8日に全米福音派連盟での演説において、対立国であるソビエト連邦を揶揄して用いられました。
レーガン・ドクトリンを通じて、レーガンは世界中のソビエトの影響力を縮小するために、ソビエト連邦が支援するグループと戦う反共産主義運動を支援しました。
グレナダ侵攻(1983年10月25日〜11月2日(8日間)
リビア爆撃 (カダフィ暗殺未遂 1986年4月15日)
イラン・コントラ事件(1985年8月20日– 1987年3月4日)
共産主義の崩壊と言われる東欧革命(1988年5月12日~1991年12月26日)は、冷戦を終わらせた革命とも言われています。
この革命は、世界の2大超大国のうちの1つであったソビエト連邦の解体(1991年)につながりました。
1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、1990年のドイツ再統一が行われたのも印象深いです。
これらの出来事は世界の勢力均衡を劇的に変え、アメリカが世界唯一の超大国となりました。
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米ソ冷戦の終結とソ連解体
レーガンは、ソビエトに民主主義と言論の自由を認めるよう説得することができれば、それが改革と共産主義の終焉につながると信じていました。
1987年6月、ベルリン750周年記念式典のスピーチでレーガンは、「この壁を壊しなさい!」と発言しました。
この言葉は、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長に向けて発せられました。
ゴルバチョフはグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(再構築)を推進し、東側諸国の自由を拡大する方針でした。その方針を象徴する行為として壁を壊すようにレーガンは呼びかけたのです。
その年の12月、レーガンとゴルバチョフはワシントン・サミットで中距離核戦力条約に署名し、それぞれの短距離および中距離ミサイルの備蓄の全廃を約束しました。
そうして両国間の貿易と開放の新時代が始まり、アメリカとソビエト連邦はイラン・イラク戦争などの国際問題で協力しました。
1991年にゴルバチョフに対するクーデターが起き、その結果、連邦の維持というゴルバチョフの意に反してソ連は解体されました。
副大統領、パパ・ブッシュとCIA
パパ・ブッシュ(ジョージ・H・W・ブッシュ)は、レーガン政権とフォード政権で副大統領 (1981年1月20日 – 1989年1月20日)1989年1月20日からの4年間は、 第41代大統領(任期 1989年1月20日 – 1993年1月20日)でした。
前回の記事にも書いたので重複しますが、1985年8月、アメリカ軍の兵士らがレバノン内戦での活動中に、イスラム教シーア派系過激派のヒズボラに拘束され、人質となったことがありました。
人質を救出する為にレーガン政権は、ヒズボラの後ろ盾であるイランと非公式ルートで接触しました。
しかし当時、アメリカ大使館人質事件によりアメリカはイランとの国交を断絶していました。当然のことながらイランに対する武器輸出を公式に禁じていたので、イラン・イラク戦争で劣勢だったイランに対し、極秘裏に武器を輸出する事を約束したのです。
この時のイランとの窓口が、副大統領だったパパ・ブッシュでした。
パパ・ブッシュと息子のブッシュについては書きたいことがたくさんありますが、一言で言うと「CIA工作員」「石油利権」です。
あら、二つも言っちゃった(笑)
スカル・アンド・ボーンズ
パパ・ブッシュ(在任:1989年1月20日 - 1993年1月20日)は、第二次世界大戦後イェール大学に進学し(入学した年に父のプレスコット・ブッシュも属したスカル・アンド・ボーンズに加入した)、卒業後にCIAと深いつながりを持つようになりました。
1975年11月29日付のCIA内部メモによると、パパ・ブッシュは、1953年にトーマス・J・ディバインCIA職員との共同事業としてサパタ石油会社(サパタ・ペトロリアム・コーポレーション)を立ち上げています。
CIAがメキシコでの工作活動(キューバ革命への介入)に乗り出した1959年には、パパ・ブッシュはCIAに積極的に協力していました。
1954年、サパタ・オイルの子会社としてサパタ・オフショア・カンパニーが設立され、パパ・ブッシュが新会社の社長に就任しました。
米国政府は1954年にカリブ海、メキシコ湾、中米沖の島々の鉱業権の競売を開始し、1950年代後半から1960年代初頭にかけて、サパタ・オフショア社はこれらの地域に事業を集中させています。
サパタ・オイルとキューバ危機
サパタ・オフショアには掘削装置が数台しかなかったそうですが、パパ・ブッシュはメキシコ湾、ペルシャ湾、トリニダード、ボルネオ、コロンビアでも事業を展開し、クウェート・シェル石油開発会社も同社の顧客に含まれていたと言われています。
ピッグス湾事件とキューバ・ミサイル危機の際、サパタ石油会社の石油掘削装置はリスニングステーション(傍受所)として使用されていました。
パパ・ブッシュは子会社であるサパタオフショアの社長を続け、1966年に持ち株を売却し、米国下院議員に立候補しました。
ウォーターゲート事件
ニクソン政権(在任: 1969年1月20日 - 1974年8月9日)で、パパ・ブッシュは国連大使となり。1971年のインド・パキスタン戦争の際に東パキスタン(現在のバングラデシュ)でパキスタン政府がジェノサイドを行ったというインドの動議を支持し、パキスタンに軍を派遣していたニクソンと対立しました。
ニクソンが1972年の大統領選挙で再選された後、ブッシュは共和党全国委員会(RNC)の委員長に任命されました。
そしてウォーターゲート事件が発覚します。
ニクソンがウォーターゲート事件を隠蔽するためにCIAを利用しようと企てたことを確認した音声録音が公開された後、ブッシュは他の党指導者たちと共にニクソンに辞任を促しました。
アメリカ合衆国で史上初めて大統領が辞任するに至り、2年2ヶ月にも及んだ政治の混乱は終息しました。
続くフォード政権では、ブッシュは中華人民共和国の米国連絡事務所の局長としての任命されました。(事実上の駐中国大使)
アイゼンハワー政権( 1953年1月20日 – 1961年1月20日)の1955年11月から始まったベトナム戦争が1975年4月30日に終結し、1976年1月にフォード大統領はブッシュをCIA長官に任命しました。
1976年の大統領選挙で、民主党ジミー・カーター氏(在任:1977年1月20日 - 1981年1月20日)がフォードを破った後、ブッシュはCIA長官を解かれ、1960年代以来初めて公職から退くことになりました。
製薬会社イーライリリー
公職から遠ざかっている間、ヒューストンのファースト・インターナショナル・バンクの執行委員会の議長、ライス大学のジョーンズ・スクール・オブ・ビジネスで非常勤の経営科学教授のほか、製薬会社イーライリリーの取締役を務めていました。(1977年から1979年まで)
パパ・ブッシュを取締役に推したのは、イーライリリーの主要株主のジェームズ・C・クエールで、のちに1989年にパパ・ブッシュ政権で副大統領になったダン・クエールの父でした。
パパ・ブッシュの副大統領時代(1981年~1989年)
レーガン政権の2期目の1986年、イラン・イラク戦争中に秘密裏にイランへの武器販売を手配していたことが明らかになりました。
パパ・ブッシュが交渉窓口になっていた件です。
当局者はその収益を、ニカラグアのサンディニスタ政府と戦う親米反政府組織のコントラの資金として使っていました。
民主党は、予算でコントラを支援してはならないという法律を可決していたので、その代わりにイランに武器を撃った利益をコントラに流していたのです。 イラン・コントラ事件
この事件がマスコミに報じられると、パパ・ブッシュは「資金の流用について知らなかった」と述べたとのこと。
レーガン大統領暗殺事件
レーガンが大統領に就任してもなく、1981年3月30日にレーガン大統領暗殺未遂事件が起きました。
この暗殺未遂の犯人ジョン・ヒンクリーは、女優ジョディ・フォスターの気を引くために大統領暗殺を企てたということになっています。
彼は心神喪失を理由に無罪となり、ワシントンDCにあるセント・エリザベス精神病院で30年にわたって治療を受けていましたが、2022年に行動制限が解除されると本格的に音楽家としての活動を始め、YouTubeやiTunesなどにギターの楽曲を投稿しています。
レーガン大統領暗殺未遂のヒンクリー氏が退院、90歳母との生活へ 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News
エリザベス精神病院は、連邦政府が運営する精神病院でした。
精神病院の暗いイメージを一掃するような部屋、そして週末には外出許可も出るような施設だったそうです。
ヒンクリー家について
興味深いのは、ジョン・ヒンクリーの父親ジョン・ワーノック・ヒンクリー・シニア(1925-2008)は、デンバーに本社があった石油・ガス探査会社の社長でした。
1975年5月、ダラスに石油会社ヴァンダービルト・エナジー・コーポレーションを創設していました。1979年9月時点で80の油井と120の天然ガス井を持っていたそうです。
ヒンクリー一族は全員石油産業に関わっていました。
陰謀論によると・・・・
JFケネディが暗殺されたとき(1963年11月22日金曜日)、ヒンクリー家はダラスのリバプリック(銀行)センタービルに事務所を開いていたそうです。
暗殺犯のオズワルドが1962年の夏に親しくなった、ロシアの男爵ジョージ・ド・モーレンシルトは石油地質学者で、ブッシュ家とも旧知でした。
これは陰謀論ではありません。
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