ブルグント王国と復讐の王妃クロティルダ
前回の記事で書ききれなかったブルグント王国のお話です。
フランク王国メロヴィング朝の最初の王クローヴィス1世(在位481年 - 511年)は、最初の妻との間に長男テウデリク1世(485年頃 - 534年)をもうけていました。
511年、クローヴィス1世の死に伴い、領土はテウデリク1世と他の3人の異母兄弟(パリのキルデベルト1世、オルレアンのクロドメール、ソワソンのクロタール1世)とで4分割し、テウデリク1世はランスを相続しました。
若干ですが、長男テウデリク1世の領土が大きいように感じますね。
実際は領土の大きさより土壌が豊かであるかが大切なんですが、あとあと領土の大きさでやはり揉めることになるのです。
ブルグント王国(ブルゴーニュ)の建国
ブルグント人はどこからやってきた?
前回の記事でグンドバトのことを書きましたが、彼の祖先はデンマークのボーンホルム島Bornholmからやってきて、ライン川の東に居住していたと考えられています。
ボーンホルムという名前は、古ノルド語で Burgundarholmr (ブルゴーニュ人の島) を意味するため、ブルグント人と結びつけられたようです。
最近は、この説も疑問視されているとか。
反ノルマン主義やゴート起源説への反発もあるのかな。
ブルグント人がローマ帝国の資料に登場するのは、まだフランク族がローマの同盟者になる以前の時代、皇帝プロブス(在位276年 - 282年)の治世の時だったようです。
プロブス帝はレフ川の近くでヴァンダル族とブルグント族を破り、その多くがブリテン島へ送られたと言われています。
369年にはローマ皇帝ウァレンティニアヌス1世(在位364年 - 375年)が他のゲルマン民族(アレマン族)との戦争で、ブルグント人と同盟を結ぼうとしていたことが記されているそうです。
しかし交渉はうまく行かなかったようですが。
ウァレンティニアヌス1世は、以前の記事に書いた(ハドリアノポリスの戦いで焼き殺された)ウァレンス帝(在位364年 - 378年)の兄でした。
この時代のブルグント人は、ポーランドのヴィスワ川流域に住んでいたと見られています。
ライン川の渡河
その次にブルグント族の名が現れるのは407年。
406年12月31日に、ヴァンダル族、アラン族、スエビ族を含む蛮族の混成集団が、ライン川を渡ってローマ領土に侵入しました。
この日付は逆算して出されたもので、405年という説もあるようです。
この直前にフランク族(ローマの同盟者となっていた)とヴァンダル族の戦闘があり、ハスディンギ・ ヴァンダル族の王ゴディギセルを含む約2万人が戦死しています。
ヴァンダル族の戦況が絶望的になったとき、アラン族がヴァンダル族を救援してフランク族を破り、直後に渡河が行われたようです。
ゲルマン部族は、凍っていたライン川を渡ってきたというのが以前の定説でした。
数万人から数十万人規模の人が渡れるほど、ライン川が凍るとはどんだけ気温が下がったんだろう(氷河期か?)と想像したものですが、イギリスの歴史家エドワード・ギボン(フリーメイソン)が仮説として述べたことが、そのまま採用されていたようです。
エドワード・ギボンは『ローマ帝国衰亡史』の著者として知られています。
ゲルマン部族は、現在のマインツ付近のライン川にかかっていたローマ橋(ポンス・インジェニオーザ橋)を渡ってガリアに侵入したと見られています。
橋があるなら渡りますね。
でも、冬に広大なライン川を渡るとは想像しただけで凍えそう。(この記事を書いているのは猛暑なので涼しくなってよい)
よほど切羽詰まった状況だったかもしれません。
きっかけはフランク族がゲルマン部族に敗北したにせよ、大帝国の衰退が隠せない歴史的事件でした。
ローマ帝国領の境界線(リーメス)
古くはライン川を境界として、西岸はケルト人、東岸はゲルマン人が主に居住していました。
ユリウス・カエサル(シーザー)のガリア侵攻によって西岸がローマ帝国領となり、ライン川はローマとゲルマンの境界でした。
皇帝ドミティアヌス(在位81年 - 96年)以降、ローマ皇帝はライン川流域にリーメスと呼ばれる防塁(溝、土手、柵)を次々に築きました。
ユネスコ世界遺産に登録されているザールブルク(ドイツ・ヘッセン州)
リーメスは、大河や山脈のような自然の境界線には沿っておらず、ヨーロッパ史上初めて人為的に地上に表した主権国家の領土境界でした。
しかし、「ローマ帝国の3世紀の危機」と呼ばれる政治的、経済的危機の間に幾度もゲルマン人(アラマンニ族)にリーメスは破られています。
第一次ブルグント王国
ゲルマンの伝説に登場するブルグントの王グンテル(ギュンター)は、5世紀初頭に実在した王グンダハリウス(グンダハール(437年没)だそうです。
グンテルは、王位簒奪者と知られるローマ皇帝ジョヴィヌス(在位411–412年)から同盟者として領地を与えられ、413年頃に現在のドイツ・ラインラント=プファルツ州のヴォルムスにブルグント王国を作りました。
ヴォルムスWormsという地名は、ケルト人の集落名ボルベトマグスBorbetomagusに由来するそうです。
ボルベトマグスは「水辺の集落」を意味しました。
この初期のブルグント王国は、436年に西ローマ帝国の将軍フラウィウス・アエティウスが率いるローマ軍とフン族(アッティラ)の連合軍によってほぼ破壊されたため、ほとんど遺跡は残っていません。
約2万人が殺害され、グンテルもその戦いで戦死しました。
この戦争の物語は、ニーベルンゲンの歌の題材となり、それを元にワーグナーが『ニーベルングの指環』を書いています。
余談*フランク王をめぐる伝説(陰謀?)
余談ですが、フラウィウス・アエティウス(454年没)は、残っている記録からなかなかの名将だったのではないかと思いますが、面白いエピソードがあります。
アエティウスは、428年のフランク戦争(ヴィカス・ヘレナの戦い)でサリ・フランク人の王クロディオを破り、フランク族が占領していた領土の一部を奪還しました。
クロディオは敗北したにもかかわらず、サリ・フランク人は帝国の盟友であり続け、その後も繰り返しローマのために戦いました。
449年、クロディオが死去すると、アエティウスはクロディオの息子を自分の養子にして、多くの贈り物とともにフランク人の宮廷に送ったというのです。
この養子が、イエスの子孫とも噂されている伝説のフランク王メロヴェク( 411年頃- 458年)を指しているか断定はできません。
メロヴェクの息子とされているキルデリク1世(435年頃出生 – 481年没)もクロディオの息子の可能性がありそうです。(後述)
また、キルデリク1世は、フラウィウス・キルデリク1世と呼ばれることもありました。フラウィウス家
イギリスの歴史家ガイ・ハルソールは、キルデリク1世はフラウィウス・アエティウスに仕えローマ軍人としてのキャリアを積んだと推測しています。
キルデリク1世の墓とされている場所から発見されたビザンチンの宝飾品は、東ローマ帝国との結びつきの強さを感じさせます。
*****
メロヴェクの受胎に関する伝説は、1982年にマイケル・ベイジェント、リチャード・リー、ヘンリー・リンカーンによる『聖血と聖杯』に取り入れられた。
彼らは、この「魚の子孫」の伝説は、初期キリスト教徒のシンボルも魚であったことから、メロヴィング朝の家系がイエス・キリストの血統と結婚したという概念を指しているのではないかと仮説を立てた。
著者の仮説以外の根拠のないこの理論は、2003年にダン・ブラウンのベストセラー小説『ダ・ヴィンチ・コード』によってさらに普及した。
しかし、メロヴェクがイエスの子孫であるというこの主張を裏付ける証拠はなかった。
第二ブルグント王国
話を戻して、ブルグント人のその後・・・
436年にフン族の侵攻を生き残った人々の一部はフン族に吸収されましたが、ローマの同盟者を続けることを望んだ人々もいました。
将軍アエティウスは、443年に南のローマ領サパウディア(現在のサヴォイア)に彼らを移住させました。
グンドバトの父ゴンディオク(473年死去)が即位し、443年にヴィエンヌで第二ブルグント王国が始まりました。
ブルグント族は、ローマの同盟者としてガリア国境を守るという任務を与えられました。
カタラウヌム(カタルーニャ平原)の戦い
451年、ゴンディオクは、西ローマの将軍アエティウスと西ゴート族の王テオドリック1世らが率いる西ゴート=西ローマ連合に参加し、カタラウヌムの戦いでフン族と戦いました。
この戦争では、テオドリック1世が戦死しています。
西ゴート=西ローマ連合には、フランク族、サクソン族、アラン族も加わっていました。
アッティラ率いるフン族側には、東ゴート族、テューリンゲン族、アレマン族ら多くの部族が加わっていました。
***
戦争自体は引き分けでしたが、第一次ブルグント王国を滅ぼしたときには、アエティウス(西ローマ)とアッテイラは協力関係にあったのに、この戦争では対立しています。
アッティラがガリアに侵入した理由は、西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世(在位425年 - 455年)の妹ホノリアからもらった手紙と印章指輪を結婚の約束と解釈したことが要因にあると言われています。
440年代に、ウァレンティニアヌス3世は、アッティラを西ローマ帝国の名誉軍司令官に任命し、アッティラは東ローマ帝国側の州を襲撃することに専念していました。
449年、ホノリアはアッティラに手紙を書き、兄ウァレンティニアヌスが取り決めた政略結婚から救ってくれるなら西ローマ帝国の半分を与えると申し出ました。
アッティラがホノリアの手紙を真に受けたのかはわからないですが、アッティラはガリア侵攻の前に(それまで散々荒らしまわった)東ローマ帝国と和平を結んでいます。
アッティラはその後、パリ以外のガリアを荒らしまわり、翌年イタリアに侵攻しました。
***
また余談ですが、この戦争のきっかけはホノリアの手紙以外にもあるようで、私が興味深く思ったのは449年にフランク王クロディオが死去したあと、二人の息子が後継者をめぐって争ったことが関係しているという説です。
5世紀のローマの歴史家プリスカスは、アッティラがフランク人と戦争を始める口実として、フランク王の死と王位継承をめぐる息子たちの意見の不一致を挙げています。
アッティラは「長男」を支持していたそうです。
英語のWikipediaによれば、メロヴェクは西ゴート=西ローマ連合に加わっており、メロヴェクの息子とされているキルデリク1世はアッティラ側(東ローマ側)に加わっていました。
政権争いで親子、兄弟が戦うのはよくありますが、メロヴェクとキルデリクは親子ではなかったんじゃない?と疑っていたところだったので、二人が歳の離れた兄弟としてみるとありえる話だと思いました。
しかし、メロヴェクのほうが年上なのに、なぜキルデリクが長男になるのか?
あるいは同じフランク族でも、サリ・フランク人とリプリー・フランク人の対立もあったかもしれません。
また、この戦いでメロヴェクは戦死したという説もあります。
*****
西ローマ帝国の斜陽
アッティラはイタリア侵攻を断念し、ドナウ川を越えた本拠地に戻っていましたが、453年に血管が破れ大量出血し急死(暗殺の可能性)しました。
将軍アエティウスも454年に、帝位を簒奪される恐れを抱いたウァレンティニアヌス3世自身によって殺害されてしまいました。
そのあとの軍務長官が、前回の記事に書いたリキメルです。
リキメル政権では、彼とゴンディオクが義理の兄弟であったため、ブルゴーニュ人にとって非常に有利でした。
ゴンディオクは西ゴート族の王テオドリック 2 世(在位453年 - 466年)と同盟を結び、456年と457年、反乱を起こしたスペインのスエビ族の制圧にテオドリック2世が動いたとき、ブルグントは支援しました。
このときの西ローマ皇帝マヨリアヌス(在位 457年 - 461年)は、ローマの貴族の出身でした。
リキメルの傀儡と見られていましたが、ブルグント族、西ゴート族はマヨリアヌスを拒否していました。また東ローマ皇帝レオ1世もマヨリアヌス帝を西ローマ皇帝と認めていませんでした。
***
マヨリアヌス帝は、将軍アエティウスの下で軍歴を積んでおり、上述(余談*フランク王をめぐる伝説(陰謀?)のところに書いたヴィカス・ヘレナの戦いを含む一連の戦争で活躍しました。
即位後はガリリアーノの戦い (457)でヴァンダル族を撃退し、アレラーテの戦い(458年)では西ゴート王テオドリック2世を破り、ブルグント王国、スエビ王国に対しても軍事行動をとりました。
ブルグント族からルグドゥヌム(現在のリヨン)を奪還し、彼らをローヌ渓谷から追い出したと言われています。
長くなるので詳細は省きますが、マヨリアヌス帝は、汚職を減らし、国家機関を再建し、古代の遺跡を保存する改革を実施しました。
西ローマ帝国にとっては良い皇帝だったのではないかと思いますが、この改革はローマ元老院との敵対関係にもつながり、不満を持っていたリキメルは461年にマヨリアヌス帝を殺害しました。
それから3ヶ月後、リキメルは傀儡皇帝としてほとんど無名の元老院議員リウィウス・セウェルス(在位461年 - 465年)を皇帝に選びましたが、これは元老院貴族を喜ばせるためだったと言われています。
リウィウス・セウェルス帝の死後、リキメルはおよそ2年間、皇帝を置かずに西ローマ帝国を支配しました。
467年に東ローマ皇帝レオ1世が指名したアンテミウス(在位467年 - 472年)が西ローマ皇帝になりましたが、リキメルに殺害されています。
しかし、リキメルは、472年8月18日に不意の大出血によって死去し、後継者として西ローマの宮廷で教育を受けていたグンドバトが軍務長官を引き継いだわけですが、474年に東ローマ皇帝レオ1世が親戚のユリウス・ネポスを送ってきたために、グンドバトは失脚しました。
復讐するクロティルダ?
前回の記事で、グンドバトが486年にクロティルダ(クローヴィス1世の妃)の父親キルペリク2世を殺害したことを書きましたが、彼女の母カレテーヌはグンドバトと再婚しました。
(カレテーヌの処刑話は、トゥールのグレゴリーによる創作でした)
グンドバトとカレテーヌの間には、少なくとも二人の男子、ジギスムントとゴドマール2世が生まれています。
つまり、クロティルダとジギムントたちは父親が違う姉弟です。
その頃のブルグント王国は、ガリアで最も権威のある民族でした。
グンドバトはアリウス派のままでしたが、息子はカルケドン派キリスト教に改宗させています。
兄のジギスムントが516年に即位した際には、東ローマ皇帝アナスタシウス1世(在位491年 - 518年)が使節を送るなど、コンスタンティノープルと密接な関係を築いていました。
ジギスムントは、東ゴート王国の王テオドリックの娘オストロゴートと494年頃に結婚していましたが、オストロゴートは518年以前に亡くなったとみられます。
522年にジギスムントは二番目の妻にそそのかされて、自分の息子シゲリック(テオドリックの孫)を殺害してしまいました。
その後、後悔の念に打ちひしがれたジギスムントは、自らが設立した修道院(サン・モーリス・ダゴーヌ修道院)に隠遁したそうです。
クローヴィス1世の息子たちは、この騒動を利用してブルグント王国を攻撃しました。
クローヴィス1世は511年に亡くなっており、トゥールのグレゴリーの説(創作)によれば、クロティルダが(自分の父をグンドバトに殺された復讐として)息子たちを焚きつけて、ジギスムントに敵対させたと見られていました。
ジギスムントは廃位、投獄され、翌年には斬首され遺体は井戸に投げ入れられたそうです。妻子も処刑されたと言われています。
(535年にジギスムントの遺骸が、クルミエの井戸から発見されました)
このときに、ジギスムントの娘スアヴェゴータは、クローヴィス1世の長男テウデリク1世の妻にさせられたようです。
しかし、ジギスムントの弟ゴドマール2世が、東ゴート王国の支援を受けて反撃に出、ブルグント王国の領土を取り戻し、ヴェズロンスの戦いでクロティルダの息子のひとりクロドメールを討ちました。
フランク族は撤退し、当分の間ブルゴーニュでの戦いを諦めたようでした。が、532年に再びフランク族が再びブルグントに侵攻しました。
このときはゴドマール2世はフランクに敗れ、ブルグント王国はフランク王国に組み入れられました。
ゴマドール2世のその後は知られていません。
*****
余談*聖ジギスムントと神聖ローマ皇帝
余談ですが、ブルグント王国はカロリング朝の時代にはブルゴーニュ王国と呼ばれました。
プロヴァンス北部オランジュはオラニエ第一家、ボー家(エグロン家)の所有となり、1544年以降は現在のオランダ王家であるオラニエ=ナッサウ家の所有になりました。
1366年、最後のブルグント王国王でもあった神聖ローマ皇帝カール4世は、ジギスムントの聖遺物をプラハに移し、それによりジギスムントはボヘミア王国(現在のチェコ共和国)の守護聖人になりました。
カール4世はルクセンブルク家の出身で、ハプスブルク家との対立でも知られていますが、4番目の妻であるポメラニア公ボギスラフ5世の娘(ポーランド王カジミェシュ3世の孫娘)エリーザベトフォン・ポンメルンとの間に生まれた息子をジギスムントと名付け、そのジギスムント(1368年 - 1437年) は神聖ローマ皇帝になっています。
*****
ところで、クロティルダの戦死した息子、クロドメールの妻グンテウカは、グンドバドとカレテーヌの長女だった可能性があると言われています。
グンテウカはクロドメールの弟クロタール1世と再婚しましたが、遺児たちは継父になったクロタール1世によって殺されてしまいました。
クロタール1世は、彼らが成人したときに父であるクロドメールの遺産を分け与えたくなかったからです。
末息子クロドアルドは逃がされて生き残り、後に聖職者となりましたが、クロドアルドの死によりクロドメール直系の血統は絶えました。
~~**◇◆◇**~~**◇◆◇**~~
この記事もしっかり長くなってしまいました。
西ローマ帝国の衰退は、西ゴート王国とブルグント王国の興亡に関係し、それには東ローマ帝国とフランク王国の繋がりが大きく影響しています。
クローヴィス1世について、もっと詳しく書こうと思ったのですが(虚像を暴こうと(苦笑)、またいつかに取っておこうと思います。
最後までお読みくださりありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?