〈雑記〉引っ越しばかりだったこととCA時代のこと&土地柄(ダラダラと長いです)



昭和のバリバリ時代 
第一子長女として東北に生まれる。
東北(仙台・盛岡・山形・福島・順不同)~東京経由で現在九州在中。


父の転勤で、幼稚園までの間に3ヶ所・
小学校は4回転校・中学は3回・さすがに高校は転校せず、父に単身赴任を頑張ってもらった。


大学を中退し東京へ(航空会社15年勤務)


寿退社でそれまで縁もゆかりもない九州へ~現在に至る。



東京15年の間も
初めは会社の横浜寮に入り、高輪台・戸越銀座・都立大学・南青山
引っ越しは続くのであった。



会社の同期から
引っ越しが趣味なの?と聞かれたことがある。
( -_・)?な訳ないでしょ・・
快適一人暮らしをしているところに、途中弟が転がり込んできたから広い部屋に移っただけのことで
その後タイミングよく南青山の物件が空き、不動産会社からお薦めされた私は迷わず決めた。弟とはバイバイ。


引っ越し貧乏とは、私の為にある言葉のようだった。



骨董通りから入ってすぐのマンションは家主夫妻も住んでおり、とてもお世話になった。

都会暮らし、私の 
"お洒落欲求" が満たされた6年だった。

o f f の日はスッピンにサングラス、白のシャツにジーパン、大根や葱・トイレットペーパーがはみ出る紙袋をぶら下げ近所を歩く。単純な私はそれだけのことでルンルンしていた。

そして、家具を買い替えた生活感のないコジャレた部屋に篭り(暗)
神経をすり減らす環境から開放された空間で
好きな音楽を聞きながら、時に詩や曲を書いたり
感傷にふける
"一人大好き" な独身時代だった。




転校が多かったおかげで子供時代は友達も沢山できた。
私は新しい環境に馴染むのが得意になっていたと思う。
逆に弟は、転校生の紹介時は常に母親の後ろに隠れてべそをかく、、ヘタレ君だった。
泣き虫弟を守る 強いお姉ちゃんが私。


転校生は在校する側の興味の的になる。
集団のこちらに向かう動きが見えたことも
転校のおかげで学べた大事なひとつだったと思う。


幼いうちは皆好意的だった。
小学生も高学年の年頃になると、「自分が一番!」と思う人には注目を集める転校生が脅威に感じるのかもしれない。。。
競う気は全くなかった私からすれば 何故?と思うこともあったが、、
私はあえて仲良くなる!まで粘った。
そして、友情を築いたところで又転校。
楽しかった思い出にしてしまう。



ただ惜しいことは、
幼なじみ といえる人が私には少ない。





仕事では、
一期一会の出逢いの中
多い時は一日2000人のお客様と接した。(昔なので大型機は席数が多い)
気遣いと保安要員として緊張感ある仕事の中に、私ならではのお客様に対しての 礼儀 を決めていた。

仕事はある意味命がけの業種だったから、制服に着替えるとプロ意識に切り替わる。魂が入るんだろうね。緊張は超越する。


専門職ではないから私の変わりは誰でもできる。
仕事を続けるなら、私なりにそこに楽しみや意義をみつけよう

・・私だから出来ることを考えた。
『当たり前のことを、更に丁寧に!』


15年間のCA生活
私は責任者として、お客様ひとりひとりの目を見ながら客室を回ることを信条に満席便でも毎便隅から隅まで(一人一人へのお声かけは時間が足りず不可能ではあったものの)会釈と笑顔で全席をまわりながらお客様へ感謝を表した。搭乗後と着陸体勢に入る前は必ず!
走ってはいけない客室を急ぎ足で
ギリギリでシートに着席したこともあった。
シートに座り客室を見ると
お客様の中には、私の行動を見ていて頷いてくださる方もいらっしゃった。

限られた時間 
機内での出逢い

一期一会 
私のお客様に心を表す対応は、全てのお客様ひとりひとりへのお礼の発信。

お客様が返してくださる笑顔や会釈が、想いの伝わりを見せてくれた。



入社して2年程は、慣れない仕事や、ややこしい上下関係に多少のストレスは感じた。人にもよるが、結構個性豊かな方々がおられた。5年目、10年目が節目だったと記憶しているが、仕事は生活の一部に変化してゆく。

イレギュラーも多く経験した方だと思う。だけど、それは沈着冷静、判断力を養う訓練になり、私自身にとってその後の人生を歩む上で、精神を鍛えられ若干でも身に付いたと感じている。その時々は頭痛が消えなかったけれど。


仕事を休みたい病も、勿論発病しそうになった時がある。

今日休むことで、明日の出社がしずらくなる。
今日がキツいなら明日はもっとキツくなる。
自分で自分を苦しめてどおする・・・
辞める覚悟がないなら出社した方がマシ!

ベットの中で自問自答する。起き上がり化粧に取りかかるまで時間がかかる、そんな月日もあった。



簡単に胸の内を親しい人にも見せられない私は、私なりに自身を保つ術をみにつけていた。多分、明るい私でいることが楽だったからだと思う。
仲間・いつも笑いがあった。
暗い顔をしても問題は解決しないとわかっていたからかもしれない。

雨が嵐に変わっても
長い夜が続いても
人に会うと、笑顔になれた。


人間関係のいざこざを交わす術が笑顔だったのかな❗
有り難いことに、多くの理解者に恵まれた。
考えが違う人とも接点を見つけて、それぞれを認め合うことができた。

狡さを感じる人とか平気で人を裏切る人がたまにいる。


長い独身時代、職場では
お母さんみたいな存在 とよく言われ、
後輩達から「ママ」と呼ばれていた。多分母性愛(母性本能?)が強かったのかもしれない。
笑に溢れる環境の中、相談を受けることが多かった。
先輩後輩同期と笑ったり泣いたり、充実感たっぷりの時代があった。


私自身の内面が一番キラキラしている時代だったと思う。




転々生活で見えたもののひとつに
地域性というものを感じた。

子供の頃はよかった。見えないものも多かった。
大人達に守られていたことが大きかったのだと思う。


嫁いでみて
その土地の住人になり
時間と共に 住みにくさ を初めて感じたことがあった。
表面上は良いのだが・・・
なんか違う。



結婚する時、夫に言われたことがある。

『出る杭は打たれる』
目立つな❗
心しておけ❗ と。

確かに、
よそ者を受け入れ難い土地柄があるのかもしれない。

調子が狂うのである。

仕方がない と諦められない私は歩み寄る努力をする。

出すぎた杭は打たれない かな、とか
杭を引っこ抜けばいいのかな、とか 余計なことを考えもした。


何をしてもダメな時はダメで、静かに時間を過ごすこともあった。


火のないところに煙がたつ場合もある。
人の心は歳に関係なく不安定なのだろう。


でも、自分がやさぐれなければ
空気の流れが変わる時がくる。


私は自分に努力したからよしとする。今は、地元の人以上にしっかり馴染んでいる。




おしまいです。



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