「声がデカくて圧をかければ意見が通るのは健常者の特権だから覚えとけよタコ」
ここ数日、flashbackの嵐だ。
トリガーは実家の母がデカく、ヘルシーで想像力がいまいちない彼氏の態度、疲労だ。
flashbackはガッツリ1回性が強いと思ったら徐々に真綿を占めるタイプがあるらしく、私が今回それだった。
久しぶりにBZDをODしてしまい、脱抑制一歩手前まできてしまった(逆によくブレーキかかった)。そんなBZDゴリキメ中に起こったことがある
彼氏に「あなの健常者というコントラストがきつい」といったら(詳細は解離で忘れているが)、「そんなもの勝手にコントラストと思ってさ、健常者の間だって起こるものなのに云々」とデカい声で言われてしまい完全にフリーズ。
前頭前野を叩き起こし「話し合いをしたいと言ったのに、声をあげて圧をかけることで意見を通そうとするのは健康なマジョリティだからできるということを忘れるな」といい、鼻水スプラッシュしながら「お前なんか大っ嫌いだ。私の言葉を私の体験と私の文脈で使われている私の言葉として受け止めてくれないお前なんか大嫌いだ」と言い返した。よく言えたよ。BZDゴリキメなのに。
「口の立つやつが勝つってことでいいのか」
私の好きなカフカ研究の頭木さんが書いた本にこんな一文がある。
病態水準が重い人と接していると、思うことも、発言することも、主張することも「症状だから」と封じられることをよく見る。それに加えて、ヘルシーな人から「お前と俺は変わりない人間なんだぞ!同じなんだぞ!」と前者と打って変わった要求をされることもよく見るし、よく体験する。
そうすると私たちは口をつぐむ他ない。要求に応えられず互いに傷ついたり、言ってみたもののやっぱ症状っすよねとか言われちゃうし、言葉を尽くしても「世間一般(健康な人たちの世界)ではこうじゃん」と、文字として言葉を受け止められて理解されず撃沈したりする。頑張って訴えるけど、それはそれはエネルギーがいる。そしてやっぱり傷つくので大半は黙ってしまうのだ。
けれど、その沈黙の中にさまざまな彼ら、私たちの世界や辛さ、悲しさ、わかって欲しいという欲求や諦め、色々な私たちを構成する情緒が織り混ざっているのだ。
ドロドロと綺麗ではないけれど、ちゃんと人間としてそこにある「言語化されなかった言葉のスープ」を健康な人は想像したことがあるだろうか。
だから私は怒る、私のために言葉にして怒るし、私の患者のために必死に言葉にして怒る。
これはコミュニケーションの話なんかじゃない、弱者の「権利」の話なんだ