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視聴記録:「スコット・ピルグリム テイクス・オフ」
これは以前の記事と重複になるが、俺はアメリカ産のアニメ、カートゥーンがわりかし好きな部類である。「ザ・シンプソンズ」や「サウスパーク」を延々見ていて飽きるということはなかったと思うし、特に後者に関しては全シーズン日本語吹き替えを作って欲しいくらいである。前者はホーマー・シンプソンを担当していた大平透氏がお亡くなりになったため、浦山迅氏に引き継いでシーズン16から新たにキャストを一新した日本語吹き替え版が作られている。まあそんなことはどうだっていい話なのだが、こうやってわざわざ吹き替え版というひと手間を挟まなければ視聴することができないのが海の向こう側の娯楽を楽しむにあたっては少しばかり枷になるのかもしれない。
で、この「スコット・ピルグリム テイクス・オフ」は元々エドガー・ライトという知っている人は知っているらしいアメリカの映画監督が撮った洋画版を、日本のアニメ会社「スタジオSARU」(某軽音楽部のアニメで有名な某監督が所属しているらしい)が作り直したものだ。(だからカートゥーンに分類されるかどうかを正確に突き詰めるとたぶん違う)「テイクス・オフ」の副題はどうやら「脱ぐ」という意味らしい。主人公スコット・ピルグリムやヒロインラモーナ・フラワーズはもちろんのこと、登場人物のほとんどが劇中で一回は必ずファック(と言って仕舞えば流石に大袈裟すぎる)している勢いなのだが、男同士だったり女同士だったりと節操ないところはさすがアメリカである。いや、正確にいうと原作のグラフィック・ノベル(グラフィック・ノベルってなに? 海の向こうのライトノベル?)作品「スコット・ピルグリム」はカナダ発のものだからアメリカというと間違いだということになってしまうのだが、それは些細な違いでしかない。23歳の売れないバンドマンスコット・ピルグリムがある日クラブで知り合ったラモーナ・フラワーズに一目惚れしなんとか彼氏・彼女の肉体関係にまで漕ぎ着けるものの、ラモーナの「邪悪な元彼軍団」に追い回され姿を消す、というところから話は始まる。「スコット・ピルグリム」と題しておいて主人公スコット・ピルグリムは第一話で退場し、それ以降登場しないというタイトル詐欺ぶりなのだがめちゃくちゃ面白いので一切問題がない。消えたスコット・ピルグリムをラモーナが追い、邪悪な元カレ軍団との和睦というか歩み寄りというか関係性の折り合いをつけたりしながらその「真相」に迫っていくのだが、なんと黒幕がラモーナと結婚を果たしたのち、ラモーナとの関係が悪化してしまった数十年後の老いたスコット・ピルグリム自身だったというオチがついている。自分と自分の恋人の関係をさいたのが「元カレ」ではなく自分自身だった、というなんともそれっぽい話である。そういう若者のラブコメ? みたいな話にしっちゃかめっちゃかなチャンバラやタイム・マシーンなんていう大袈裟な舞台装置を導入したりするところははっちゃけているし、セックスも堂々とするのであけすけで身も蓋もなく、もしかしたらアメリカとかのドラマとか見ればこんな感じなのかもしれないが、日本のアニメとはいささかその雰囲気というかノリというか違った様式に則って動いていることがわかる。別にアメリカが上で日本が下だとかいうつもりはないけと、少なくとも「スコット・ピルグリム」に関して言えば非常にそこのところの男女関係の描かれ方に潔さ(なんの潔さなのかは俺にもわからないよ泣)みたいなものは感じたし、画面いっぱいに謎の戦闘シーンを展開するある種の馬鹿馬鹿しさに振り切れた気持ちよさは今年見たもののなかでトップクラスで娯楽性が高かったように思う。Netflixでしか配信していないので、あんまり見ている人がいないのが悔やまれる。
スコットに熱を上げ、ぶっちゃけ頭が空っぽそうなのにもかかわらずやたらと音楽の才能があって、スコット亡き後のバンド活動をかっさらってしまうナイブス・チャウはたぶん中国系? の女の子なのだが、なんかこういうのを見ていると「キャラクター」で「萌える(なんか古臭い表現かもしれないが、これ以外に表現のしようがないのでこれを使う)みたいな概念も向こう側にあるのかもしれない、とか考えたりもする。見る限りだとキャラクター単位で話を作っているような印象は受けるし、そういった想像力というか、需要というか、そういう消費のされ方を想定しているのはおそらく確実だと思う。あと日本のスタジオが制作しているのが関係しているのかどうかはわからないが、基本的に登場人物らの目が大きく、絵柄が日本のアニメ寄りという言い方もできるはずで、そこのところはなにかあったりするのだろうかとか考えたりもする。
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ぜんぜんわからないのだが、国を跨いで映画を合作するということはよく聞くけども(日米合作とかよくあるはず。くわしくはわからないが)、アニメでもそういうことって結構よくあることなのかも考えたりもする。そういえば日本のアニメ監督(神山健治? だったかな?)がスター・ウォーズとか指輪物語とかの外伝をアニメ化するにあたって駆り出されていた、みたいな話がなかったっけ、と考えたりする。まあなんかよくわからないのだがこう言ったところで「文化」が「融合」していく様を見るのは非常に面白い。オープニングは思い切り日本語の歌詞だったし、調べてみるとネクライ・トーキーというどこからどう見ても日本のバンドが担当している。(https://youtu.be/HW-MMu4GLWk?si=gse0TE7zz5M4A8Vn)
あとは実に俺特有のパーソナルな趣味ではあるのだがラモーナ・フラワーズ役をやっていたファイルーズあいさんの演技が正直、非常に言葉を選ばずにいうとたまらんかったのでとても良かった。低めの声質の映える女性声優ってあんまりいないというか、多いか少ないかで言えば少ない側のような気がする(気がするだけ)。
それともうひとつ、スコット・ピルグリムが消息を絶ってしばらくしてから、その友人が彼を題材に脚本を描き始め映画を撮り始める、という下りがあるのだが、「心が叫びたがってるんだ」とか「空の青さを知る人よ」とか「ぼっち・ざ・ろっく」とか「リズと青い鳥」とか「きみの色」とか、映画の中ですら映画を撮ったり、音楽を始めたり、演劇を始めたりと最近見たものではやたらと「劇中劇」とか「作中作」とでも呼ぶべき二重構造ばかりを目にする気がする。海の向こうでもそれはどうやら変わらないようだ。表現の中ですら表現をしなきゃならないのってかなりまどろっこしいと思わざるを得ないのだが、それはどうやら普遍的なスタイルのようである。
どうせ見るのなら昔のやつとか、海外のやつとか、せっかく見るのならそういう珍しいやつを選びたいものである。そういえばNetflixではヴォロディミル・ゼレンスキー主演の「国民の僕」まで配信されていたのだった。インターネットの利点というのはこういうところにあるのかもしれない。「意志」さえあれば「越境」すること自体はいつでも可能なのである。その境地まで至るまでが至難の業であることは言うまでもないのだが……