雑感:「刺激」について

 視覚と聴覚と触覚と、ありとあらゆる方面からの単調な刺激で、スマートフォンに完全に縛り付けられている人がいるとする。スマートフォンというのは極めて狭い、「向こう側」へと通じる窓だ。「社会の窓」とか俗に言うズボンのジッパーではないが、そうそうそれを開けたり閉めたりしてコントロールできるのは、やはりそれ相応の訓練を積んだ人でないと難しいだろう。なんかこの書き方だとまるで俺が常にズボンのジッパーを絶えず開けたり閉めたりしている人みたいになってしまうので書き直したほうがいいのかもしれないが、まあとりあえずあれくらい「狭い」覗き穴から「あっち」を覗き見ているみたいな感覚がわかればいいと思う。いや、これなら素直に「節穴」みたいな表現を使ったほうがいいのかもしれないが、俺はこの生理的欲求にどうしても抗えなくなる感覚を「社会の窓」という表現に委託しているようなところがあり、いたくしっくりくるのである。アンデシュ・ハンセンというデンマークだったかスウェーデンだったかの学者が著した「スマホ脳」という本を今年の初めに読んだのだが、あの「脳みそ」と言われてぱっと思い浮かぶことでおなじみの、しわしわのむき出しの大脳皮質に半分溶けかかったスマホが食い込んでいるといういささかセンセーショナルというかなんというかそういうものを感じたのはわざわざいうまでもないだろうが、そういう表紙が描かれた新書が新宿の紀伊國屋書店で平積みにされていた記憶がある。みんな恐れているのだ。「認知」という貴重な資源を少しでもいいから保持することに必死なのである。認識は世界を形作り、言葉は世界を形作るのである。目とか耳とかから入ってくる情報によってその根本的な世界観の構築がまったく異なってくるというのは、おそらく俺と同年代か少し下の、スマートフォンが爆発的に普及し始めた2012年以降に人格形成の段階にあった人たちならうっすらと同意してくれるはずだと思う。人格形成というか思春期といった方がいいんだろうか? まあとりあえず「大人ではない時期」であることは確かだと思うし、少しばかり指す範囲の年代が広がってしまうような気がしなくもないわけだがそれはとりあえずいいのである。
 で、アンデシュ・ハンセンである。読み進めているとショーン・パーカー、Facebookの初代CEOを務めたショーン・パーカーの発言からの引用が唐突に登場して「ソーシャル・ネットワーク」に出てきたあのいけすかない野郎のことだとすぐに記憶と照合される。「ソーシャル・ネットワーク」に出てくるやつは誰も彼も全員いけすかないだろうと言われて仕舞えばまあ本当にそうかも知れなかったのだが、「ソーシャル・ネットワーク」のことを確かどこかで批評家みたいな人があれはデビッド・フィンチャーなりの「市民ケーン」だ、というようなことを言っていたことを思い出し、それは確かにそういう描かれ方にはなるかとも思う。「ソーシャル・ネットワーク」と言えばそれと似た系列の「ウルフ・オブ・ウォールストリート」を三時間ほどかけて視聴したわけだけども、こっちも「市民ケーン」らしさはあるにせよ、強面のレオナルド・ディカプリオ演じるジョーダン・ベルフォートが出所後講演会に登壇し、オーディエンスの一人にペンを手渡して「これを俺に売ってみろ」とにやりとするラストで締めくくられるので趣はまったく正反対である。「ソーシャル・ネットワーク」のマーク・ザッカーバーグがそれまでの盟友、エドゥアルド・サベリンと決別をし、置いてけぼりにされる結末と比べてみると、「ソーシャル・ネットワーク」のほうがどちらかと言えば「市民ケーン」により近いはずだ。「市民ケーン」も「ソーシャル・ネットワーク」も「ウルフ・オブ・ウォールストリート」も大きく成功した実業家が没落するまでの過程を描いた話である点においては共通しているはずだし、三つとも同じくくりにして何かキレ始める人がいるとも思えないのでそういうことにする。俺はこの三つの中だと「ウルフ・オブ・ウォールストリート」が一番好きであり、なぜなら世界で一番fuckという単語が登場することでギネス世界記録に載っているからである。
 で、そのショーン・パーカーを代表するように、そういった「資本家」側がスマートフォンという媒介を通じて、見るからに弱みのある人々をシステムの内側に取り込んで、組み込もうとしている、とでも言えばいいんだろうか? おそらくそういう文脈で引用されていたわけだけども、そういう話を聞くたびに人間というものが極めてシステマティックに動いている、とでも言えばいいのだろうか、レバーを押しまくる箱のなかのネズミとかよだれを垂らす犬とかそういうカテゴリの、なにかしらの一つの大きな力に引っ張られて右往左往しているというか、苦しんでいるというか悦んでいるというか、実のところ「楽しさ」はかなり限定的で狭い領域に大概回収されてしまうんじゃないかとか、そういうふうに考えたりするのである。どういう状況を「楽しい」と思うかにせよ、当たり前の話だが、それが常にずっと、途切れることなく続くわけがないのである。
 スマートフォン以外のものを触っていると思うことなのだが、そう、例えば、PCでぱたぱたとキーボードを叩きまくったりしていると実のところ「手」の動きによってスマートフォンの「引力」は発生せしめられているのではないか? という発想がちらつくのである。iPhoneでもAndroidでもなんでもいいのだがハンドサイズの板の上をぽちぽちやるのと、たぶん大学ノートを一回り大きくしたくらいのノートパソコンのキーボードで指先でキーをプッシュするのとでは、使っている神経の数が桁違いというか、刺激がかなりの多方面から来ているような気さえする。おそらくなのだが「手」からくる刺激によって動く脳の領域は大きいんじゃないかという気がするのである。やたらとでかい手をもつ「ホムンクルス」の図が思い浮かぶ。画面がカラフルなこととか、タイムラインをスクロールしまくってポコっと表示されるツイートとか、ああいうのも結局のところそれに応じる形で「手」と「指」を動かしている、ということにかなりの比重が置かれているような気がするのである。それもかなり限定的で、単調な動きを反復することにより、過剰学習するように仕向けられているような気がする。問題は視覚でも聴覚でもなく「触覚」なのではないか? という気がするのだ。
 いや、ここまで書いて、「視覚」と「聴覚」についても掘り下げたいという機運が高まってきたのだが、視覚というのはこちら側から「能動的に」注意すべき対象に目を向けるのに対して、聴覚の場合、対象を限定することというのはできないはずなのだ。「視覚」にもかなり能動的に世界に対してはたらきかける機能としての側面は大きいはずだし、そこのところをいくと聴覚というのは極めて「受動的」に情報を受け取る機関だと思わざるを得ないのである。まあなんでもいいのだが、なんらかのメカニズムによって視覚・聴覚・触覚といった感覚を支配され、こちら側からそっち側へと向かうように操作されている、という感覚は誰にでもあるはずだ。そのあたりの関係性について考えて見たいとは思う。何せ死活問題なのだ。情報を取り扱う能力というのはおそらく2024年11月現在最も重要な能力の一つだと思わざるを得ないのだ。そして情報というのは視覚とか聴覚とか触覚とか、あと嗅覚とか味覚とかそういうところからしか手に入らないはずなのである。能動的に情報を選び取らなくてはならないのだ。
 

 
 

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