読書記録:「「モディ化」するインド」
ナレンドラ・モディの名前を初めて知ったのはたしか、世界のツイッターアカウントのフォロワー数順に並べたものをWikipediaでぼんやり見ていた時のことだったはずで、イーロン・マスクやバラク・オバマやオプラ・ウィンフリーなどのいつもの面々に並んでその名前があったのを目にしたのがそうだった。十数億人の人口を擁する巨大国家のトップなのだから何も不自然なことはないように思ったし、たいして気に留めるようなこともなかったのだが、にわかにこのナレンドラ・モディの名前を、最近、よく耳にするようになったのである。具体的に言うと二〇二〇年代に入ってからのことだ。
インドの極右組織をまとめ上げる独裁者、二十一世紀のポピュリスト、ヒンドゥー至上主義を掲げ、イスラム教徒を排斥し、「モディ朝」とも呼ばれるほどの強大な支持基盤を確立した、ノストラダムスにその登場を予言されていた、とまで称される国家元首。そういえば最近、インドが国号を「バーラト」にする、という話が持ち上がってはいなかったっけ、とぼんやりと思い出したりする。国号を変える、ということはおそらくは国民のアイデンティティを新たに再構築しようと試みているとかそんなだと思う。どうや、「バーラト」は古代インドの伝説の王・バーラタに由来するものののようで、おそらくはそう言った古い呼称を復活させることになんらかの大きな意味合いを見出しているのだろう。現代のインドではどうやらイスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立が激しく、インド北西部ではヒンドゥー教徒がイスラム教徒を虐殺するという出来事が起きている(グジャラート暴動)。「インドは数千年にわたって外国に支配されてきた」というのがナレンドラ・モディの言で、この「外国」というのはイギリスだけではなくイスラムの勢力のことも含んでいる。ヒンドゥー至上主義、というのはおそらくは初耳だったし、アジア一帯やアフリカに至るまで布教しているイスラム教という一大勢力に対して、インドをインドタラ占める、みたいなことを考えながら辿って行ったらヒンドゥーにたどり着くとか、インドについて詳しくはないのだがそういうことなのかもしれない。「まとめ上げよう」という目的に向かって思考を展開していくと、そういう発想に至るのはいかにもありそうだと思う。
しかし、パリンプセスト(書かれていた文字の上にさらに上書きするようにして書かれた古文書)とジャワーハルラール・ネルーが表現した複雑極まるインドの歴史と、多くの人種で構成されるインドという国の全体像を掴むのは一筋縄では行かない。数学だとかITだとかが発達しつつあり先進国への追い上げを見せてきている、ともすればダークホースめいたイメージがやはりどうしてもあったのだが、必ずしも経済的に安定しているというわけではなく、インドの国鉄では三百五十万人の雇用に対して千二百万人の応募が殺到し、結果電車の焼き討ち事件にまで発展したのだから相当である。そもそもスケールが違いすぎてあまり想像がつかない。特にコロナ化の影響で受けた大打撃は無視できず、そこから経済的に回復する企業と回復できなかった企業との差があまりにも激しかったため「K字回復」などと表現される。
ナレンドラ・モディを擁する「インド人民党」の「支持母体」であるところの「民族奉仕団(RSS)」はマハトマ・ガンディーを暗殺した人物が所属していたことで知られ、モディの独裁体制は教条的・排外的な二十世紀のそれとは根本的に異なるようで、一見して極めて「民主的」であり、SNSもそのシステムに組み込まれているという点に注目したい。ごく普通の一般人のアカウントをいくつかフォローバックしたりするところはこう言ってしまっては何だがごく普通のアルファツイッタラーか何かのようだ。アルファツイッタラー、と表現したのはわりとかなり真面目な文脈に則った上で書いたつもりなのだが、もはやそういった10億人単位の共同体をまとめ上げている規模の話もTwitterに接続されてしまう、という、もはやオンラインでダイレクトに大多数の人々からの支持を集める必要がある、あるいは簡単にそういった「支持基盤」をひっくり返すことのできる、抜き差しならぬ切迫した状況にある、ということを表現したかったので、使った次第である。
「ガーンチ」と呼ばれるカーストの食用油の製造・販売を生業とする家庭に生まれたモディはチャイ売りをして生計を立てていたことがよく語られるが、実のところ彼の人生には謎が極めて多い。三、四歳で婚約し、十三歳ごろに結婚の儀式を済ませ、十八歳くらいで同棲を始めるのが普通のインドの社会において、モディも例外ではなく許嫁がいたのだが、十代後半のころに唐突に出奔し、一、二年ほどの空白期間があってその間の彼について知るものはほとんどいない。彼の伝記は数多く出版されてはいるものの、そこのところに関してはヴェールがかけられたように謎に包まれているようなのである。当たり前だが、国のトップに君臨しているほどの知名度がからといって、その経歴のすべてが公にされているとは限らないのだ。いや、書いてみて、十数億人が顔と名前を把握している人物の素性がよくわからない、というのも非常にアンバランスな構造に思えてしかたがないのだが、このナレンドラ・モディという人格、ナレンドラ・モディという一点に権力が集中していて、その中身がぽっかりと謎の空洞がある、という構図はなんだか台風の目のようだ。「想像の余地」のあるところに人々は集い、結束するのかもしれない、なんてことを考えたりする。
この本のタイトルからして「モディ化」なのだから、インドを考えるうえでナレンドラ・モディというキャラクターに焦点が当てられていることは間違いないだろうし、そういう意味では「幸福な監視国家・中国」とはなんだか正反対な印象を受ける本だった。「幸福な監視国家・中国」では中国共産党の検閲について詳しく取り上げられていたのだが、習近平というキャラクターについてはほとんど取り上げられていなかったように思う。あくまで主題は「監視国家」だ。いや、俺はインドと中国に関する書籍をこの二冊しか読んでいないのだが、たまたま着眼点がまったく逆のように思えてしまったのである。