雑感:「伝記」について

 小さい頃は家にあった偉人の伝記の漫画を読んだりすることがあったのだが、当時から、いや、幼少の時分だったからこそ「死に方」に注目して読んでいたところがある。ぶっちゃけ漫画の最後のほうだけ確認してから読む、みたいなこともしていたはずで、子供というのはたいていそういったような身もふたもない発想をする。子供というのは、時に、というかむしろ大人なんかよりもよほど残酷なことを平気でしたりするわけで、アリの巣を水攻めにしたりとかがその好例かもしれない。要はセンセーショナルだったりショッキングな展開には誰だって嫌でも「注目」せざるを得ないわけで、最近では「推しの子」が小学生の女子らを中心に「女児アニメ枠」の扱いを受けているらしい話なんかを耳にすると、このような子供と「残虐性」との相性の良さについて頭をよぎるのである。俺は有馬かなさんとデートがしたいのだが、女子小学生らがあのアニメをどういった消費の仕方をしているのか詳しいことは謎である。単純にかわいい恰好をしたかわいい女の子が好きなだけなのかもしれない。
 俺の家にあった伝記のラインナップとしては、「坂本龍馬」「西郷隆盛」「源頼朝」「卑弥呼」「平賀源内」なんかがぱっと思い浮かぶ。いちおうそれぞれについて解説しておく。まず坂本龍馬は「近江屋」で中岡慎太郎とともに襲撃を受け殺害されたのはあまりにも有名な話だと思うのだが、その日付というのが竜馬の誕生日だったという奇妙な「宿命」じみた点が印象に残っており、次に西郷隆盛は、西南戦争の「田原坂(たばるざか)の戦い」で負傷し部下の別府晋介に介錯され、この時の「ゆるっしゃたもんせ」(お許しください、の意)というセリフがやたらと、なにせ読んでから十数年経ったいまでも耳に残っており、おなじ薩摩つながりでいうとたとえば「ちぇすと」とかがあるはずだが、方言には不可思議なまでの「仰々しさ」とでもいえばいいのか、ある種の「強度」のようなものを感じる。おそらく外国語と比べて「日本語」らしさを節々から感じ取れるのにも関わらず、やはりどうしても「異国のもの」としか思えない耳慣れない響きとが混在していることから生まれるものだと思う。あとは源頼朝の死因は「落馬」であり、ラスト2ページあたりで突然ふらっと馬から落ちて、最後は空飛ぶ馬にまたがる頼朝の姿で締めくくられる。おそらくはなんらかの病気だったりあるいは暗殺だったりと、諸々なんとでも予測を立てる余地のありそうなところはあるが、何せ千年程前の出来事なので無理もないだろうという気がする。そして卑弥呼に関しては百人単位の男女がともに生き埋めにされたというところに古代の社会システムの身もふたもなさを感じたし、きわめて不謹慎な感性かもしれないのだが、いずれも、どういう最期を迎えたにせよ、その一点に向かってそれまでの出来事が収束していくような構図をやはりどうしても見出さざるを得なくなる。そしてそれとは関係なく、彼らが残した社会的な実績に関しては確かに実在するということでもあり、それが「歴史」の流れの一部に取り込まれていることはわざわざ付言するまでもないだろうと思う。
 で、俺がこのラインナップの中で一番読み返した回数の多いものは「平賀源内」なのである。エレキテルの開発者としてまず知られる十八世紀の江戸時代の人物のはずなのだが、実はそのほかにも本草学者、地質学者、蘭学者、画家、戯作者などの顔を持ち、あとは鉱山開発事業を手掛けたりと、このようにぱっと思いつくだけでも様々なフィールドで才覚を発揮した「万能」の人で、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチと称されたりすることもあるらしい。本草学者や蘭学者などのざっくりとした「学者」の領域にとどまらず、西洋画を意識した絵や浄瑠璃の脚本までこなしているのだから相当である。「解体新書」であまりにも有名なあの杉田玄白と交流があったらしく、いわば主人公の源内の親友といったふうなポジションで登場しており、だから中学校の歴史で杉田玄白が出てきたときには「平賀源内の相棒」としての杉田玄白のイメージがすでに俺の中では確立されていたのである。
 漫画の脚色は無論のことあるだろうが、とにかくあっちこっちに興味・関心が移り、陽気で好奇心旺盛で活動的、という源内のキャラクターに当時の俺はそれなりに惹かれるものがあったのだろうと思う。讃岐国、現在でいうところの香川県に生まれ、幼少のころから「御神酒天神(おみきてんじん)」というからくりを自作し、掛け軸に描かれた恵比須様? のような神様が、裏でひもを引っ張ると一瞬で赤くなる、というまあそりゃかわいいものではあるのだけども、そういったクリエイティブな面のある子供はいつどこの時代でもいるものであり、ともすればすぐ隣のクラスで異常なまでに緻密、かつ一抱えほどもあるサイズの恐竜の折り紙を作って夏休みの自由研究に提出してきた北田くん(仮名)なんかがいかにもそれっぽかったのだが、まあ当時の俺はそこまでのことを考えて読んでいない。そりゃそうである。
 なにゆえ俺が「伝記」の話をしようと思ったのかというと、本人が書いた「自伝」にせよ、誰か親族や子孫、あるいはまったくの第三者が書いたものだったにせよ、一人の人間が生まれてから死ぬまで、という確固たる、実際に起こった一連の出来事の連なりを、その脚色の大小はさておき、それらの事実に基づいて構築されたものだからであり、文脈の強度がフィクションとかと比べるとかなり保証されているように思えるからであり、そして実際に起こった出来事の連なりを描いたものなので、読みやすさもまた保証されているからなのである。さらに踏み込んだことを言えば、すでに鬼籍に入っているにせよいまだ健在にせよ、そういった個人の一生、個人の存在といったようなミクロな視座から、「歴史」というか「時代の流れ」というか、そういった「全体」とでもいったようなマクロなものを眺望する、という、ある種対照的な構造に落とし込むことができるからなのかもしれない。「個人」の単位で世界を区切る、ということは。「俺」という単位で世界を区切るということにそのままスライドして当てはめることが可能なはずなのである。
 最後に平賀源内に話を戻すのだが、言ってしまえば彼はその「万能」さゆえにその身を滅ぼすことになる。鉱山開発などの事業に行き詰まり挙動が荒っぽくなり、最終的に酔った勢いで友人の大工と口論に発展し刺殺してしまう。投獄をされたのち獄中死を遂げた源内に友人だった杉田玄白が「本当に変わった人だった。好むことも行うことも常識を超えていた。死ぬ時はごく普通に畳の上で死んでほしかった(大意)」とその死を悼んでいる。当たり前の話なのだが、畳の上で死ぬか投獄されて死ぬかは「運」としか言いようがないし、そもそもその「良し悪し」について我々がどうこういうことではないし、本人に死に方を決定することは(基本的に)不可能であることは言わずもがなそうである。ただ、一つ付け加えることがあるとすれば、最終的に「個人」の人生が「社会」との関係性によって大きくその様相を変えるということである。そして、そこに本人のもつさまざまな構成要素、あるいは能力値のパラメータ自体がダイレクトに接続しているわけでは、必ずしもない、ということになるのかもしれない。

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