雑感:「鴨川」について
京都へ行った時には鴨川へ寄り「鴨川等間隔の法則」があるか確かめることをやる。俺は高校生の頃、森見登美彦の小説を読んだりしていたので、「聖地巡礼」くらいのことはやる。やはり「四畳半神話大系」が出色の出来であり、次点で「ペンギン・ハイウェイ」がくると思っている。「有頂天家族」はもう少し夷川海星の出番を増やしてほしいのだが、まあそれはとりあえず置いておくことにする。
で、鴨川の話になる。鴨川に行くとそこではもう完全に時が止まってしまったかのような趣があり、これではまるきり「終わらないモラトリアム」をそのまま体現したみたいな場所だといつも思う。いつも思う、と言っても年間に何回も京都へ弾丸旅行へ行くとか、それほど熱心なわけではないので、いつもというほどではない。それだけ京都には謎めいた「包容力」のようなものを感じる。京都大学やら立命館大学やら龍谷大学やら、大学は市内にかなり点在しているため学生が多いので道ゆく人々の年齢層は思いのほか若いし、その反面歴史的な文化財も多いので、古風というかオールドファッションというか街全体から歴史的な権威を肌で感じるというか霊験あらたかというか、そう言った古めかしい街並みが背景にあるのでそこがいささかアンバランスなようにも感じるし、そしてやや胡散臭い表現を使ってみると「霊力」じみたもので満たされているため、その二つの相反する特徴が不可思議な融合をして、謎めいた調和を産むことに成功しているのである。付け加えると、盆地であるという地理的な条件も関係しているのかもしれない。山の稜線の向こう側に何があるのか、一望しただけでは何もわからないのである。閉塞的、と言えば確かにそうかもしれない。
そもそも「鴨」は「神」に由来するらしいので、そのように神がかった文脈が確かに込められているのかもしれない、と適当なことを考える。Googleでサーチしてみると賀茂氏とか下鴨神社とかの「カモ」と共通のルーツを持つらしい。ルーツを持つらしい、というか賀茂氏から来ているとかなんとか。「鴨」とだけ書くとカモネギとかカルガモの親子とかが真っ先に思い浮かぶのでなんだか穏やかというか微笑ましいというかともすれば舐められがちというか、とにかくそういうイメージがあるのだが、単なる当て字なのかもしれない。
「鴨川」という地名は全国に点在しており、そもそも千葉県南部には「鴨川市」が存在するのだがこの鴨川との関連性はよくわからない。日本各地に「八幡(はちまん、やはた、やわた)の地名が散らばっているのは「八幡神」を祀った神社がそれだけ大量に建てられているからであり、なるほどと思う。八幡神は戦いとか武力とかを司る神だったはずなので、比企谷八幡は随分と腕力の強そうな名前を親からもらったものだとぼんやり思う。まあどちらにせよ、日本語のルーツをかなり昔まで辿ると、そういう神話とかそんな感じのものに行き着くのは当たり前の話なのでそういう関連がありそうだ。「日下」はなぜ「くさか」と読むのか、というこないだ本屋で見かけた民俗学かなんかの本のタイトルを思い出す。もはや千年単位で時間を遡ればどの語とどの語が関係し合っていたかなんて資料が少なすぎて全然わからなさそうなものだが、そこはまあ技術の発展とかでなんとかなってるのかもしれない。しかし、こういうのを見ていると、どういう意味が本来込められていたにせよ、好きに解釈してなんとでも説を立てられようがある、というのは確実にあると思うし、そういう意味では使い勝手がいいのかも知れなかった。厳密な意味はわからない。しかし「音」や「形」だけは確かにそこに残っている、という、言って仕舞えば明確な意味が与えられたものよりも強固な文脈を持たせることができるため、みんなそれを重宝するのかもしれない。意味があってそこに存在するものよりも、意味がないのにも関わらずそこに存在するものの方がかえって存在感を放つ、という事例はいくらでもありそうだ。
なぜ俺が鴨川の話をしようかと思ったのかというと、俺が川沿いや土手に対してなにかしらの魅力を感じるからなのは言うまでもない。川崎市の多摩川までかなりの時間をかけて自転車で行ったことがあるのだが、地元をちょろちょろと流れている川とはスケールがそもそも違うのである。土手というのは川が増水した時に備えて掘られるもののはずなので、いつもいつもそこにいて生活したりするには適さない場所であることはそうなのだが、しかし川沿いの土手ほど居心地のいい場所はない。海辺に一人佇んでいるのとはまた少し違うのだが、ある種孤独になるのには適した場所ではあると思う。海は海でもっと違う文脈がある気がするのだが、川は海に流れ着くものなので根本的には同じかもしれない。もしかすると陸地の端っこまで足を運ぶことで、逆に陸地の存在を意識できるようになるということはあるのかもしれない。圧倒的な水量を誇る「川」や「海」という、当然ながら人間が生活することのできない領域と、人間の生活が根付いている陸地という境界に立つことで、その存在感をはっきり意識できるとかそういうことだと思う。意識する対象は「川」でも「海」でもなく実は「陸地」のほうだった、という仮説をここで立ててみたい。
京都もでも川でもどこでもそうなのだが、俺はどこか遠隔地に出かけた時はひたすら歩き回るようにしている。珍しい飯屋とか銭湯とかにももちろん寄るのだが、それよりは少しでもいいから自分にとっての「未踏の地」を減らしたほうがいいという直感が働いているのである。日本地図を全部「制覇」するのは無論不可能なのだが、とりあえずせっかく遠くまで来たのならこれまでに一度も足を踏み入れたことのない領域に足を踏み入れること自体に何かしらの意味があるような気がするのである。その日、その時、その場所で「経験」したことが「経験」たり得るのだとして、ほんのわずかでもいいから自分の立っている位置を変えるということ自体にそれなりの意味があるような気がする。常に泳ぎ続けないと死んでしまうマグロの話をここで俺は思い出す。驚くべきことに、俺に関してもその生態が当てはめられてしまうようなのだ。どうせなら家に引きこもっていたいのは無論山々ではある。ここで俺は「孟母三遷」の話をぼんやり思い出す。暮らす場所をあちこちしょっちゅう変えることで、人間の精神に大きな影響を及ぼすということなのだろう。子供なら尚更である。しかしまあ俺は家に引きこもって漫画ばかり読んでいる子供だったので、あまり頭の出来がよろしくない結果に育ってしまったのかもしれなかったが、もはやそれについて云々しても仕方のないことなので放っておくことにする。そんなことよりもまた京都に行き、鴨川に行きたい。明石さんと連れ立って歩いたりしたいものである。