読書記録:梶谷懐・高口康太「幸福な監視国家・中国」


 なんで「幸福な監視国家・中国」を読もうと思ったのかというと木澤佐登志・江永泉・ひでシス・役所暁「闇の自己啓発」の中で「課題図書」として取り上げられていたのを目にしたのがきっかけだった。「闇の自己啓発」は読書会という形式が取られている本で、ほかにはニック・ランドとか海猫沢めろんとかの著書が取り上げられていたわけだが、その中の一冊がこの「幸福な監視国家・中国」だったのである。
 タイトルからしてかなり捻くれた内容であることが想像できたし(何せ、監視国家を、「幸福」などと言ってしまっているのである)、そもそも中国共産党の一党独裁体制とその統治下の社会には前々から興味があった。中国という日本の隣に確かに実在する巨大な国家について知ることで、その存在を媒介にして、世界の構造とでも呼ぶべきものを理解したいという魂胆があったのだ。誰がなんと言おうと、その好悪に関係なく、確かに中国共産党とその検閲によって成り立っている監視国家が実際にあって、そしてそれがある程度の強度を持って運用が続けられている、という確固たる事実から目を背けることはできないのだ。YouTubeを基本見ることができないとか、中国共産党に都合の悪いことは書き込めないだとか、あとまあ少し話はズレるのだが、日本のネットにもプロフに「天安門事件」とか書いているアカウントとかいたりするけど、ああいうオタクにはやはり負のイメージを払拭できない。まあそんなことはどうでもよくて、つまり日本のすぐ隣に、なにやら得体の知れない、とてつもなく大きな謎めいたシステムで運用されている謎の国家があり、その存在感が無視しがたくでかい、ということは俺でなくてもたいていの人は同意してくれるはずだ。ある意味、距離感が近いのも手伝って、アメリカよりも存在感が大きい。俺は別にノンポリだし無学だし無知なので共産党がどうとかはどうでもいいのだが、「国」という構造体について知ることはおそらく無駄ではないだろうという意識も確かにあって、それに大学名は忘れたがどこかの大学の授業ではこれが教科書として使われているらしく、俺も社会に多少コミットメントする意識を高めようかなあと思いながら読み始めたのである。
 さて、この本の内容を簡単にまとめる必要がありそうだ。著者の梶谷懐はジャーナリスト、高口康太は経済学者、という肩書きのようで、この二人で交互に本文を執筆するというスタイルをとっているようだ。実際に中国に取材に行ったりした様子を交えつつ、中国の監視国家の実情について描き出そうとしている……という感じだ。
 日本人の俺からしてなかなか迫力のあるシステムを一つ挙げるとするならば「信用スコア」だろう。犯罪歴や仕事の出来不出来や、そこらへんの行動が全てポイント形式で加算されたり減点されたり、数値によって社会的な活動に制限がかかる、というものだ。いや、中国に限らず日本だろうがアメリカだろうが、人を殺したりすればそりゃ制限がかかるのは当然のことなのだが、それが「スコア」という形で「見える化」されてしまっているところに斬新さを感じるのだ。学業の成績ならともかくとして、それを人生すべてに敷衍してそういう数値化で当てはめてしまうところにかなりの身も蓋もなさというか、まじで何か取り繕う気がさらさらないんだなというか、そういった狂気じみたものの片鱗を感じるのである。なにの「狂気じみたものの片鱗」を感じるのかといえば「国家」というシステムの中枢にいる何者か、のだ。そして中国共産党や習近平を賛美する文言をネットに投稿するとそらが回復する、という仕組みもなかなかそれに拍車をかけている。
 あと日本で言うところのAmazonの位置付けのアリババ。ざっくりいうと出品者と客が直接コミュニケーションを取れるという距離の近さがかなり大きな特徴として挙げれるようだ。あと中国の国民が生まれてから死ぬまでやたらと大量のカードやら番号やらで管理されるということを揶揄するようなスラングがあったり(そこらへんのことはどうやらネットの暗部で言えたりするようなのである)、別に国にむちゃくちゃに管理されるのは日本も同じじゃねとは俺も思うのだが、うっすらと全体的に見て「個人」と「国」との間の距離がやたらと近い、という印象を強調しているように見受けられる。実際に本文でも「リキッド・サーベイランス」というタームが当てはめられて説明がなされている。日本語に訳すと「液状監視」みたいになるんだろうか? 俺はこの「リキッド(液体)」という表現がかなり気に入っており、なんで「液体」なのかというとジョージ・オーウェルの「1984年」のように、監視者と被監視者というくっきりとした二項対立で分けられる世界観ではなく、全員がうっすらと相互監視して、その「圧」がいったいどこから来るものなのか全然理解できない、という、その得体の知れなさ・不透明さ・曖昧さを「リキッド(液体)」と表現しているようだ。これが「固体」だったなら話が全然違ってきただろう。本文では「ポストモダン的監視」とか「万人の万人による監視」とかさまざまな表現がなされていたが、俺はこの「リキッド」という表現が一番スマートな気がする。
 

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