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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 山田元気 編
30歳を目前に控えた今、改めて感じていることがある。もちろんゴールキーパー陣のムードメーカーとして、グループの雰囲気を良くすることは大事だけれど、それだけの存在で終わるつもりなんて毛頭ない。スタメンで試合に出ること、そして、その試合に勝つこと。それだけが自分の価値を高めてくれると信じて、目の前のトレーニングと向き合っていく。
「チームに裏方として貢献したり、『オマエの練習している姿を見て刺激になったよ』と言われても、結局それはサッカー選手の価値なのかなって。やっぱり試合に出て活躍しないと、自分の価値を示せないと思うので、それこそ下積み時代に練習をやっていた頃のような気持ちを忘れずに、今もギラギラしながらやっていかないとなと思っています」
熱く戦うチームを最後方から力強く支える、ブラウブリッツ秋田が誇る正守護神。山田元気は嬉しい思い出も、悔しい経験も、すべてを自身が成長するための燃料に変え、ソユースタジアムのゴールマウスに堂々と立ち続ける。
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山田 元気(やまだ げんき)
1994年12月16日生、岐阜県出身。
2023年にブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはゴールキーパー。
https://x.com/GENKI011216
https://www.instagram.com/yamada_genki33/
山田は一卵性双生児として、この世に生を受けた。兄は大地。弟は元気。本人も自身の名前を気に入っているという。「母に名前の由来を聞いたら、『ああ、そのままやで』と(笑)。そのぐらいの方がいいですよね。親にはこの名前を付けてもらって感謝していますし、誇りを持っています。まあ、元気にやっていかないといけないというのもありますし、“良い十字架”を背負いました」
サッカーを始めたのも、兄と同じタイミングの小学校2年生。野球チームとサッカーチームの体験練習の日程が重なると、彼らは後者を選ぶ。「2人で親と一緒に体験に行って、それが楽しくて『サッカーやろう!』となったんだったと思います」。地元の岐阜県中津川市で活動しているFC XEBEC(ジーベック)で、大地と元気は本格的にボールを蹴り始める。
“将来の職業”でプレーし始めたのは4年生の頃。きっかけはある成功体験だった。「たまたま身長が大きい部類だったこともあって、キーパーをやった大会でPKを止めて勝ったんです。そこからは自然とキーパーをやる感じになりましたね」。新たなポジションで頭角を現した山田は、5年時に岐阜県トレセン、6年時にはナショナルトレセンに選出されるなど、地域でも指折りのゴールキーパーになっていく。
同じ東海地方の有力選手としてよく顔を合わせていたのが、ブラウブリッツの25番を背負う同級生だ。「東海地方の県選抜同士が集まって試合をする機会があって、その時の三重県選抜に藤山智史がいたんですよ。あの顔のままだったのはメッチャ覚えています(笑)。まさか一緒のチームになるとは思っていなかったので、こんな巡り合わせもあるんだなって」。同い年でフィーリングも合うという2人が、プロの世界でチームメイトになるのだから、人生はわからない。
中学時代までの8年間を過ごしたFC XEBECでの活動は、山田にサッカーの楽しさを教えてくれた貴重な時間だった。「それこそ当時のチームメイトは幼馴染みたいなものですよね。今でも年末に会うヤツもいますし、大切な仲間たちです。そこがなかったら今の僕はないので、本当に感謝しています」。みんなとボールを蹴り合うことが、ただただ楽しかった。
初めて年代別代表に選出されたのは、FC XEBECでプレーしていた中学2年生の3月。本人もその時のことをエピソード付きで思い出す。「代表キャンプの前に東海地方の選抜キャンプがあったんですけど、僕は『4番目ぐらいの感じで呼ばれてるよ』と指導者の人に言われていたので、『まあ3番手ぐらいになれるように頑張ってこよう』という感じで行った中で、最終日の練習にU-15日本代表のGKコーチになる大橋(昭好)さんが視察に来てくれたんですけど、その時は『ああ、そんな人が来るんだ。凄いなあ』って」
「そのキャンプが終わって地元に帰ってきたある日、普通に練習に行こうと思っていたら、監督から親に電話が掛かってきて、『オマエ、代表候補に入ったらしいぞ。Jヴィレッジでキャンプをやるって』と。僕からすれば『Jヴィレッジってどこ?代表って何?』って(笑)。最初は訳がわからなかったです。まさか東海地方で3番目になろうと思っていたキャンプで、大橋さんに見てもらえていたとは思わないじゃないですか。半日で人生が変わったエピソードですね」。そこから年代別代表の常連になった山田の名前は、より多くの人に知られることとなる。
中学卒業後のチームを選ぶ上で大きなモチベーションになったのは、やはり代表での経験だった。高いレベルの選手たちと切磋琢磨していく中で、自分の中に明確な目標が生まれていく。「日本代表の肩書を背負いつつ、ワールドカップ予選にも行かせてもらった中で、『プロになりたいな』という想いがそこで初めて出てきたんです」。山田には高体連の強豪からも多くの関心が寄せられていたが、進路をJクラブのアカデミーに一本化する。
いくつかのクラブからオファーが届く中で、最終的な決め手は練習参加した時の“フィーリング”だったという。「京都のユースの練習に参加させてもらったんですけど、寮も綺麗で環境が良かったですし、先輩の雰囲気がメチャメチャ良かったんです。その時のフィーリングが良かったので、もう帰ってきてすぐに『京都に行こう』と思いました」。山田は京都サンガF.C.U-18へと入団。親元を離れ、古都でプロサッカー選手になるための勝負をする決断を下す。
「正直、最初はしんどかったですね。2個上には駒井善成くん(北海道コンサドーレ札幌)だったり、伊藤優汰くんとか錚々たるメンバーがいて、1個上にも代表に入っている人が5人ぐらいいて、『全然付いてけねえわ』と“秒”でホームシックになったのは覚えています(笑)」。身を投じた名門のアカデミーは、とにかくレベルが高かった。
さらに大きな壁として立ちはだかったのは、同じGKのポジションを争う1つ上の先輩だった。「大地くんがずっと試合に出ていたんですけど、『この人を蹴落としてやろう』というよりも、『この人がいると試合に出れないな』と思っていました」。のちにトップチーム昇格を果たす杉本大地(名古屋グランパス)の存在もあって、公式戦の出場機会はほとんど巡ってこない。
アピールの場所を失った山田は、少しずつ年代別代表からも遠ざかっていく。「呼ばれる頻度がガクッと減ったので、自分でも覚悟はしていたんですけど、目指してきたU-17のワールドカップのメンバーに自分は選ばれなくて、今まで一緒に活動してきた選手たちがそこでプレーしているのを見ると、『いいなあ、出たかったなあ』と思っていた記憶がありますね」。U-18で過ごした最初の2年間は、先の見えない状況に葛藤していた時期だったようだ。
迎えたU-18でのラストイヤー。最高学年になった山田は、そのリーダーシップを買われてキャプテンに就任。シーズン開幕時はヒザのケガで欠場を余儀なくされていたものの、復帰後はコンスタントに公式戦の出場を重ね、チームを牽引する役割に没頭していく。
忘れられないのは夏のクラブユース選手権だ。キャプテンマークを巻く守護神に率いられた京都U-18は、並み居る強豪を相次いで撃破して準決勝まで進出。最後は横浜F・マリノスユースに惜敗したものの、全国ベスト4という素晴らしい結果を手に入れる。
「あの“クラセン”は自分の中で良い経験になりましたし、財産にもなりましたね。キャプテンをやらせてもらって、試合にも全部出て、全国で3位になったのはかなり自信になりました」。なかなか試合に出られなかった時間を経て、ようやくプレーで貢献して掴んだ明確な結果は、山田にとっても1つの勲章として、今でも心に刻まれている。
「自分の人生においてサッカー選手の基盤を作ってくれた3年間ですね。サッカー漬けの毎日をちゃんと送ることができて、人としても非常に成長させてもらいましたし、まったく先輩に歯が立たない1年生の時期があり、気持ちが宙ぶらりんな2年生の時期がありながら、3年生ではいろいろな意識が変わりましたし、本田さん(本田将也監督)やGKコーチの平井(直人)さんとも出会えて、自分にとっては非常に濃くて、必要な3年間でした」。決して順風満帆だったとは言えないけれど、京都U-18で過ごした3年間は、今のキャリアを形成する上でも、かけがえのない時間だったことは間違いない。
「トップチームには2種登録されていて、練習にはちょくちょく行っていましたし、キャンプにも行かせてもらっていたんですけど、1年前に大地くんが昇格していたこともあって、『オレは本当に上がれるのかな?』と。上がれなかった時のことも考えて、大学に行く準備もしていたんです」
もう年末に差し掛かっていた11月29日。同期の齊藤隆成(FC大阪)とともにトップチーム昇格を知らせるリリースが、とうとうクラブから発表される。「上がることが決まった時は、『ああ、良かった』と思った記憶があります。でも、『プロになれた!やった!』というよりは、『頑張らなきゃな』という方が強かったですね。覚悟と不安と、いろいろな感情が入り混じっていたなと思います」。少しの高揚感と小さくない危機感を携えて、山田はJリーガーとしてのキャリアを歩み出す。
飛び込んだプロの世界は、想像以上にとんでもないところだった。「あまり試合に出たいという気持ちはなかったですね。『絶対に出れないな』と思っていたので。紅白戦もまともに出れない時期もあって、プロとアカデミーの違いは凄く感じました」。1年目の公式戦出場はゼロだったが、試合に出るイメージはまったく湧いてこなかったという。
念願のJリーグデビューは、京都の選手として迎えたものではない。2014年のJ3リーグには、若手選手の試合出場機会増加を念頭に置いたJリーグ・アンダー22選抜というチームが参戦していたが、山田はそのシーズンの開幕戦に臨む選抜チームの招集を受け、FC琉球と対峙するピッチに送り出される。
「やっぱり複雑でしたよ。アンダー22選抜はリーグ戦が始まる3日前に通達を受けて参加するんですけど、ということは自分のチームではベンチ外確定で行くわけなので、試合に出させてもらえるのは本当にありがたいことですけど、モチベーションが本当に大変でしたね」。試合は0-3で敗戦。なお、そのうちの1点は現在のチームメイトの青木翔大が奪っている。
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2年目も京都での公式戦デビューは叶わなかったが、アンダー22選抜ではJ3で4試合に出場。「その機会がなかったらずっとベンチ外で腐っていたかもしれないですし、同じ立場でハングリー精神のある選手が集まっていた中で、大敗もしましたし、勝ったりもしましたし、いろいろな経験をさせてもらったなとは思いますね。あとは友人の輪が凄く広がったので、人の繋がりを作る上では非常に良かったなと思います」。味わった経験をポジティブに変換しながら、プロ3年目となる勝負のシーズンへ向かって行く。
「本当にガチガチでしたね(笑)」。2015年4月19日。J2第8節。鳴門・大塚スポーツパークポカリスエットスタジアム。京都の選手としてとうとう迎えた公式戦デビュー。徳島ヴォルティスと対峙した一戦のスタメンリストに、山田の名前が書き込まれる。
「その時は圭ちゃん(清水圭介)がスネの骨を折ってしまって、大地くんが出ていたんですけど、結果も出ずに、自分に出番が来たんです。でも、あまり記憶にないぐらい緊張して、見に来ていた親も『アップからガチガチ過ぎてもう見てられなかった』と(笑)。『自分がJ2の舞台に立つんだ!やっと来た!』という気持ちが強かったかもしれないですね。あそこで使ってくれた和田(昌裕)監督にも感謝していますけど、本当にガチガチだった印象しかないです」。試合はオウンゴールの1点で敗れたが、その一戦を機に定位置を確保。先発として起用され続ける。
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それまでとは一変した環境。今度は大きなプレッシャーが、20歳へ容赦なく襲い掛かる。「まだ若かったので『自分がミスしちゃいけない』『チームを勝たせなきゃいけない』というプレッシャーもあって、それに押し潰されそうになりながら、必死になってやっていましたね。その期間はしんどかった印象もあります」
チームもなかなか結果が付いてこない。「クラブ自体も大変な時期に試合に出ていたので、試合が終わったらヤジが飛んできたりすることも初めてでしたし、試合に出られるのは凄く嬉しいことで、誇りに思わなきゃいけないとは思っていたんですけど、自分がチームを助けられているのかわからない葛藤も、自分のプレーに納得できていない葛藤もありましたね」。
最終的にスタメンで登場した15試合の結果は4勝8敗3分け。清水が戦線復帰した23節以降は出場機会を得られなかったものの、継続的に試合に出続ける経験を得て、新たな感情が顔を覗かせる。「その前の2年間は自分が試合に出るイメージがなかったところから、『自分が試合に出て活躍していく』という明確なビジョンが、鮮明に自分の中に芽生えた年でした。よりハングリーになったというか、『やっぱり試合に出たい』と思うようになった1年だと思います」。プロ3年目はメンタル面で一皮剥けた重要なシーズンだった。
「今までで一番成長できたんじゃないかなというぐらいの1年でした」と山田が振り返ったのは2016年の1年間。シーズンを通して公式戦の出場は1試合もなかったにもかかわらず、そう言い切るのにはもちろん確かな理由がある。
「スゲさん(菅野孝憲)という偉大な方が来て、圭ちゃんもレベルが高くて安定しているので、『こんな2人とサッカーができる自分はなんて幸せなんだ』と。試合には出たかったですけど、『この人たちにはまだオレは敵わないな』と思っていましたし、その中で何をしていかないといけないかというのも自分の中ではわかっていたので、冷静に自分に矢印を向けて、自分の成長に取り組めた1年だったんじゃないかなと思っています」
「ただ、試合にはほぼ絡めなかった悔しさも非常にあったので、成長できたという実感と試合に出たいというハングリー精神が次の年の移籍に直結するんですけど、2016年に味わった悔しさと充実感は今でも覚えていますね」。自身の成長の手応えを試合で確認したい気持ちは、どんどん膨らんでいく。
翌2017年。山田はレノファ山口FCへと期限付き移籍で加入。「初めての移籍で、不安もあった中で行ったんですけど、山口の人たちが非常に温かく受け入れてくれて、『移籍ってこんな感じなんだ。悪くないな』って思った記憶もあります」。すぐに新しい水にも慣れ、プロ5年目にして初の開幕スタメンを奪取。『DAZN週間ベスト5セーブ』の常連になるほど好守を続けたものの、チームの勝利が付いてこない。
「いくら自分が良いプレーをしても勝てないという試合が続いて、やっぱりもどかしさもありましたし、監督が代わったタイミングで僕も出れなくなってしまって……」。5月に上野展裕監督が退任すると、カルロス・マジョール監督下では出場時間が激減したが、初めての移籍はまた新しい感覚を呼び起こしてくれた。
「『これはまだまだやれるな』と。自分のパフォーマンスがJ2で通用することもわかったので、京都で試合に出ていた時とは違う余裕や落ち着きも出ましたし、自分の成長にフォーカスしながら試合にも出られていた1年だったので、山口の1年目はいろいろな経験も積ませてもらって、非常に重要な1年でした」。環境の変化を受け入れつつ、日々のトレーニングに励むことで、選手としての幅が広がったことも実感していたようだ。
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2018年はケガに苦しんだ1年だった。3月17日。J2第4節。アウェイの水戸ホーリーホック戦。ベンチスタートだった山田は、ウォーミングアップ中に予期せぬ事態に見舞われる。
「今までにないぐらいのハイボールの高さでキャッチしたら、踏み込みの左足が伸び切った瞬間に『バキッ』と音がして……。もともと半月板の損傷はずっと持っていたんですけど、『まさかこのタイミングか』と。半月板がヒザにロッキングされて、ヒザが動かなくなっちゃったんです」。診断の結果は左内側半月板断裂。全治8週間を言い渡される。
不運は続く。ようやく戦線復帰した7月。今度のケガは右膝内側側副靭帯損傷。再び離脱を強いられてしまう。「最後はギリギリで復帰して練習試合には出ていたんですけど、当時はもうしんどい気持ちしかなかったですね。レンタル期間を延長して『やらなきゃな』と思った年だったにもかかわらず、凄く悔しい1年を過ごしました」。チームはJ2で8位と好成績を残した一方で、この年の山田にリーグ戦の出場機会は一度も回ってこなかった。
「『このまま終わるのは絶対にダメだろ』と。僕の中で心残りもありましたし、山口も凄く好きになっていて、『活躍できる』という想いもあったので、自分を追い込む意味でも、覚悟を山口の人に示すという意味でも、完全移籍に移行してもらって、山口に残りました」。
2019年。直近の2シーズンを送っていた山口へと覚悟の完全移籍。退路を断って挑んだシーズンだったが、開幕戦で起用された吉満大介(アルビレックス新潟)の負傷を受けて、スタメン出場した2節のヴァンフォーレ甲府戦で、山田は失点に繋がる信じられないミスを2度も繰り返してしまう。試合も2-5で完敗したものの、この試合は当人にとってターニングポイントになったという。
「当時は本当にしんどくて、メチャメチャ非難も来ましたし、『山田元気イップス説』みたいなものも出ちゃったんです。『キック蹴れないんじゃないか?』みたいな。でも、その試合の後にシモさん(霜田正浩監督)が『次も山田は何もない限り使います』という話もしてくれて、改めて『本当に自覚を持ってやらないといけないな』と再確認した試合でした」
「実際に次の試合に勝って、そのあとは悪くないパフォーマンスが出せていましたし、自分の中で甲府戦は『あの試合を経験したら、もうこの試合はしんどくないだろ』ぐらいの試合になったので、二度と経験したくないですけど、あれはするべくしてした経験なんだろうなと思っています。実はその試合にスタメンで出ていたタツくん(小柳達司/ザスパ群馬)には今でも言われますよ。『あの試合なあ』って(笑)」
2020年シーズンは吉満、林瑞輝とポジション争いを繰り広げ、リーグ戦18試合に出場したものの、10月に両スネの疲労骨折が判明。そのままシーズンは戦い抜いたが、クリスマスの日に入院すると、もともと緩かった“内側靭帯”も含めて、3か所の手術に踏み切る。
その影響もあって、翌2021年シーズンはリハビリスタート。6月にはトレーニングに復帰したが、山田はかつての自分とは大きく身体が変化してしまった、受け入れ難い現実を突き付けられる。
「あれだけ大きい手術も、半年以上離脱するのも初めてだったんですけど、『元の身体には戻らないんだな』という、認めなくてはいけない現実を受け入れたくなかった部分もありましたね。その時期は『何で今までは止められていたのに、止められないんだよ……』ということが増えたりして、それは凄く苦しかったです」
苦しむ山田の支えになったのは、2018年からの4シーズンに渡って指導を仰いでいた土肥洋一GKコーチ(現・横浜FC)の存在だ。「練習はほぼ毎日違うメニューを組んでくれて、凄く楽しかったですね。言葉で直接伝えてくれるというよりは、自分に何ができるかを考えながらやっていく感じでしたし、でも、寄り添ってくれるところはちゃんと寄り添ってくれるんです」
「試合の中で『キーパーとしてやるべきこと』を教えてくれたというか、自分のストロングも伸ばしてくれましたし、それ以外のところも引き上げてくれましたし、土肥さんに会えたことは人生の中でもありがたい出会いでしたね。今でも会ったら話もしますし、凄く感謝しています」。なかなか試合に絡めなかった寺門陸(横浜F・マリノス)も交えて、土肥GKコーチと3人で重ねた居残り練習は特に印象深いという。
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2022年シーズンはJ3に所属するカターレ富山へと期限付き移籍を果たす。前年はまったく公式戦に出ていなかった山田に声を掛けてくれたのは、高校時代から“師匠”と仰ぐ平井直人GKコーチだった。
「僕の中ではお父さんみたいな存在の平井さんから『(西部)洋平もいるけど、一緒に争ってくれへんか?』と言われて、『お願いします』と。カテゴリーはJ3でしたけど、自分を必要としてくれているチームに行きたいなと思いましたし、もう試合にも出なきゃいけない年齢でもあったので、覚悟を持っていきました」
開幕スタメンは西部洋平(現・清水エスパルス広報部)。2節は山田が出場し、3節は齋藤和希がピッチに立つという状況の中、4節のいわきFC戦でスタメンに再び指名された山田は、本来のパフォーマンスを発揮できず、チームも1-1で引き分けると、平井GKコーチからシビアな言葉を投げかけられる。
「『全然良くなってないぞ。別にオマエのことなんて誰も信頼してないし』という言い方もされて、そこからスタメンを外されたんですけど、その時期は本当にしんどくて、平井さんと泣きながらケンカしたり、言い合いもしたんです」。体当たりでぶつかってくる“教え子”を、“師匠”は9節でスタメン復帰させると、そこからは山田も定位置を死守。チームに結果をもたらすようなプレーを披露し続ける。
10歳以上も年の離れた西部との出会いも、かけがえのないものだった。「洋平さんはキーパー陣のコミュニケーションを図ってくれていたんですけど、自分はライバルとしか見ていなかったんです。でも、シーズンの最後の方にいろいろ話すことができて、納会の時には洋平さんの前で泣いちゃったんですよね(笑)。今ではエスパルスの試合の時に会ったら話しますし、ちゃんとこの世界で活躍してきた人間力がある方なので、良い出会いの1つでした」
「僕も『富山のために』と思って戦ったので、試合に出ていた時期では2022年が一番充実していたんじゃないですかね。自分の中でも余裕をもって、自分の成長とチームの結果にフォーカスした中でやれていましたし、楽しみながらプレーできていたので、チームメイトにも恵まれて、凄く良い時間を過ごせました」。1年間の在籍ではあったが、山田の中に富山の記憶はしっかりと刻み込まれている。
2022年シーズンを終えた山田には、2つの選択肢があった。1つは富山に残るというもの。「平井さんから『また一緒にやれへんか?』と。『洋平も引退するし、オマエが残ったら若手の3人と一緒にやりたいと思っているから、来年も一緒にやろう』と言われていました」。もう1つは新天地を求めるというもの。「そんなタイミングで秋田さんからの話が上がってきて、やっぱり『J2かあ』と。そこはすごく魅力的でしたね」。熟考に熟考を重ね、最後は自分で決断する。
「謙さん(吉田謙監督)とヒロさん(伊藤洋仁GKコーチ)とはZoomで話をさせてもらって、熱意も伝わりましたし、『本当に必要としてくれているんだな』と思って、もうそこで『この歳でJ2からオファーが来て、行かない選択肢はないだろう』と。『このチャンスを逃したら、次はいつ来るかわからんし、上を目指してやっているんだから、それは行くよな』と自分に言い聞かせました」
「やっぱり寂しかったですけどね。ちょうど富山でも人間関係ができてきた中で、少し居心地が良すぎた部分もありましたし、またステップアップして、厳しい環境でやっていかないといけないんだろうなと、自分で決めたことでしたけど、簡単じゃなかったですね。凄く葛藤はありました」。山田はブラウブリッツ秋田への完全移籍を決意。新たな環境に飛び込む方を選択する。
勝負の2023年はケガから始まった。キャンプ序盤で肩を傷め、以降は完全に別メニュー調整に。「去年はケガで出遅れたのが一番大きかったです。キャンプもほとんど棒に振ってしまって、秋田に帰ってきてちょっとしてから復帰したぐらいだったので、気合が空回りしたのかわからないですけど、入りが良くなかったですね」。思い描いていたような時間を過ごせず、焦りばかりが募っていく。
環境の変化、トレーニングの変化も、繊細な感覚に影を落とす。「180度トレーニングが変わって、自分の身体への刺激の入り方も変わってきましたし、その中で身体の適応にも凄く苦労したというか、苦しい時間を過ごした中で、今まで止められたシュートが止められないシーンが非常にあって、復帰してからずっともどかしいままやっていたタイミングで、たまたま甲府戦が来たんです」
7月5日。J2第24節。甲府と対戦するアウェイゲーム。そこまでリーグ戦全試合にフル出場してきた圍謙太朗が警告累積で出場停止となり、山田に出番が回ってくる。やっと巡ってきたスタメンのチャンス。ところが、ブラウブリッツは1-5とまさかの大敗を喫してしまう。
「『大丈夫かな……。でも、やらなきゃな……』と思っていた中で、自分のパフォーマンスが10パーセントも出せないまま試合が終わってしまったという想いがあって、ある意味であの試合は『やっぱり自分をもう1個変えていかなきゃいけないな』っていうきっかけになりましたね」
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「僕は『物事は起こるべくして起こる』と思っているんですけど、『自分の中で何かを変えろよ』という神様からのメッセージだったのかなって。結局、それからは1試合も出られずに終わってしまいましたし、悔しさばかりの1年でしたね。非常に苦しかったです」。新天地1年目は、山田にとって厳しい試練の時間となった。
迎えた2024年。自分の立ち位置は過不足なく理解しているつもりだった。「今年はカコくん(圍)が絶対的だということはもうわかっていたので、自分のコンディションを最優先にして身体作りをしていこうという、ある意味で良い割り切りができたんです。その分、しっかりとオンとオフを分けたことで、キャンプ中もコンディションは良かったですし、チームの状態が良くない中で出場したルヴァンも勝てたんですよね」
だが、ある出来事が山田に小さくないショックをもたらす。過密日程でターンオーバーが予想された5月のアウェイ・甲府戦。前節から半分以上の選手が入れ替わったにも関わらず、ブラウブリッツのゴールマウスにはそれまでのリーグ戦と変わらず、圍が送り出される。
「もう腐るような年齢でもないので、別にどういう立場だろうがコツコツ変わらずやっていけますし、スタッフにもそこはありがたいとちゃんと言ってもらえていましたけど、アレはメチャクチャ悔しかったですね。結果はある程度出ているのに、『その“土俵”にすら立てていないんだな』というのが凄くショックでした」
その2か月後。圍はJ1の京都へと完全移籍。期せずして山田の立場はスタメンへと変わったが、どうしても複雑な感情は拭えなかったという。「自分の中でやっぱり実力で勝ち獲ったスタメンではないですし、『それは“第二”に入っていたヤツが出るよね』という見方をされるだろうなと。自分でも『オレなんかまだ信頼なんて勝ち獲ってないだろ』と思いながらやっていました」
それでも試合を重ねるにつれて、徐々に心境の変化が訪れていく。「カコくんの今まで築いてきたプレースタイルが秋田に合っていたのも事実ですし、自分もカコくんと同じ土俵に並ばないといけないと思ってキックも練習してきたので、最初は『カコくんぐらいボールを蹴らなきゃ』とか思っていた時期もあって。つまりは自分の中で比べちゃっていたんだろうなって」
「でも、結局自分は自分でしかないですし、人と一緒のプレーをするなんて絶対に無理なので、『自分の価値を示すには、自分のストロングを出すしかないな』と思ったんです。それこそ勝った鹿児島の試合ぐらいからは、タツくんとか翔大くんにもいろいろ話を聞いてもらって、『絶対に自分にベクトルを向けた方がいいよ』と言ってもらえたので、『もう誰かと比べるよりも、自分らしく行かなきゃ』って」
「そこからですね。自分のパフォーマンスもちょっとずつ上がってきたのは。ある意味で力が抜けたというか、割り切ってボールだけに集中して、ちゃんと試合に入れるようになりましたし、試合に出続けていた富山の時の感覚が戻ってきて、今は充実感を感じながらやらせてもらっています」。人は人。自分は自分。そう考えたら、少しだけ視界が晴れ、少しだけ心が軽くなった。
もともと明るく元気なタイプ。周囲に気を遣うことができ、その場の空気をポジティブな方向に持っていける能力は、どのチームでも重宝されてきた。でも、そんな“いい人”ばかりではいられない。今抱えている率直な想いが、山田の口からこぼれ落ちる。
「僕はキーパーというクセが強い人間が揃う中でも、仲介役になれるタイプなので、『良い雰囲気を作らなきゃな』と思って、自然とキーパー陣の“バランサー”をしているような感覚なんです。でも、たとえば自分がベンチに入っていて、チームが勝った時に100パーセント嬉しいかと言われたら、やっぱりそんなことはないですし、何なら悔しさの方が大きいんですよ」
「けど、それがなくなったらサッカー選手をやめた方がいいと思うので、それは絶対に必要な気持ちですし、試合に出て勝つことでしか自分の存在価値は示せないので、自分の中ではハングリー精神や練習中の自分に対してのイラつきだったり、サッカー選手として当然の感情を出しつつも、自分にフォーカスしていくプレーで、チームを底上げできたらいいかなって。いつまでも若手のメンタルを持ちながら、まだ僕はギラついていたいなと思います」
背番号1がスタメンに定着した8月以降、ブラウブリッツは明らかに無失点試合が増えている。もう誰も彼のことを“代役”だなんて思っていない。快活さと繊細さを合わせ持つ、数々の苦労を潜り抜けてきたナイスガイ。プロ12年目の正守護神。山田元気が繰り出すビッグセーブは、いつだってソユスタを蒼く染めるサポーターの心を、熱く、熱く、揺さぶっていく。
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文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18
YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー
ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/