YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 丹羽詩温編
ストライカーとして、このプロの世界に身を投じたのだ。ゴールを獲りたいに決まっている。もちろん任された役割は、誰よりも丁寧に、確実に果たすけれど、その先に待っている歓喜の瞬間を手繰り寄せることが、何より自分の存在を証明する方法だということも十分過ぎるほどにわかっている。
「やっぱりフォワードなので1シーズン派手に活躍したいという気持ちはずっと持っています。その結果として、上に行けるかどうかは年齢的なこともあるのでわからないですけど、二桁ぐらいゴールを獲って、多くの人の印象に残るぐらい、派手に活躍したいですね」。
ブラウブリッツの前線を活性化させる、“仕事できる”系のハードワーカーから飛び出した『派手な活躍』宣言。丹羽詩温が携えてきたストライカーとしての矜持は、秋田の雪をも溶かすような、強い熱量を秘めている。
小学校に入学すると、4つ上の兄が所属していた西大冠FCに加わり、サッカーと歩む日々を本格的にスタートさせる。高槻市の中では強豪の部類で、大阪府でもベスト8までは勝ち上がることもあったようなチームの中で、「ボランチというか、真ん中にいて全部やる感じでした」という丹羽は地区トレセンにも選ばれるなど着実に実力を伸ばしていくものの、府トレセンの選考会には落選。同年代で当時から有名だった南野拓実は、遥か雲の上の存在だった。
中学生になった丹羽は、クラブチームではなく、進学した高槻市立城南中学校のサッカー部に入部する。ただ、その決断には自分で考えた明確な“戦略”が隠されていた。「中学生年代の街クラブだと、週3日くらい練習して試合みたいな感じですけど、中学校の部活なら毎日練習ができる上に、移動もないので、時間も含めて全部サッカーに打ち込めるかなと。とにかく毎日サッカーできた方がいいかなという感じで選びました」。
この選択は、結果的に正解だった。「もちろん土のグラウンドでしたけど、朝練もできて、学校が終わってからすぐに練習もできましたし、家も学校から歩いて5分くらいだったので、帰ってからまた外へ走りに行ったりとか、自然とそういうスケジュールを組めたのは良かったかなと思います」。学生にとって何より大事な『時間』を有効活用できていたというわけだ。
そして、城南中サッカー部は強かった。公式戦でJリーグの下部組織に勝ったこともあれば、3年時には高槻市内の大会で優勝。丹羽自身も大阪府トレセンや中日本のナショナルトレセンへ参加するまでに成長しており、「他のクラブチームに行っている選手や、ガンバやセレッソに行っているようなエリートの選手には絶対に負けたくないなという気持ちが出てきました」と当時を振り返っている。
実は青と黒の名門から、声が掛かっていたそうだ。「中3の途中で1回ガンバから『ユースを見越して、ジュニアユースに来ないか?』みたいな話があったんですけど、自分が一歩踏み出せなかったのもありますし、小学校からずっと一緒にやってきたメンバーの中で、最後だけ抜けることにも躊躇して、断ってしまいました」。
進路は2つに絞られる。地元に近い金光大阪高校か、少し離れた大阪桐蔭高校か。「金光には高槻市内で一緒にやっていた選手も集まるので、身内の中でやるような環境と、まったく知らないような環境に飛び込むことになる大阪桐蔭と迷って、最後は『厳しいほうに行くべきではないか』と思ったんです」。選択は後者。強豪校の仲間入りをしつつあった大阪桐蔭への進学を決めた。
入学前に招集された鹿児島遠征。ここで丹羽はのちにJリーガーとなる2人の“同級生”と出会う。「康介はスピードがメチャメチャあって、ドリブルも凄かったですね。弦太はメチャメチャ喋る人で、お笑い担当みたいな感じでした(笑)」。白井康介(現・FC東京)と三浦弦太(現・ガンバ大阪)。今でもプロの世界で切磋琢磨している友人とは、そこから3年間の濃厚な時間をともにする仲となる。
1年時はAチームにこそ入ってはいたが、周囲のレベルも高く、公式戦に登場するまでには至らない。ようやく途中出場で出番を掴み始めた2年生の夏には、チームもインターハイで全国へ。この前後には今に繋がるコンバートが敢行されていた。
「1つ上にボランチの良い選手が2人いた中で、監督から『フォワードをやらないか』と言われたんです。その時は2年生だったので、どちらかというと出場機会を得るためにポジションを変えて、みたいなイメージでフォワードをやっていました」。結果的にそのポジションが未来の職業になるのだから、人生はわからない。
3年時には再びインターハイの全国切符を勝ち獲ると、主力選手としてベスト4進出を経験するものの、丹羽にとっては決して満足のいく大会にはならなかった。「2年生までは自分が学年の一番手みたいな感じだったので、3年生になって『全国大会でどれだけできるかな』と思っていたのに、大会を通して1点しか決められなかったですし、優秀選手もチームから選ばれた5,6人の中に自分は入っていなくて、本当に何もできなかった印象です。凄く挫折を味わった経験でしたね」。
残されたリベンジの機会は、高校最後の選手権のみ。だが、大阪桐蔭は全国大会に出場するどころか、府大会のベスト16でまさかの敗退を余儀なくされる。しかも丹羽はその試合で前半のうちに交代していたというのだ。
「あっけなく終わってしまいました。何もしないままに前半の途中でベンチに下がって、そこからは試合を見ることしかできずに、そのまま負けてしまった感じでした。現実を受け入れられなかったですね」。
大阪桐蔭での3年間は、どちらかというと悔しい経験を重ねた時間だった。「1年生の時に期待してもらっていたような結果を3年間で出せず、自分もプロになりたい気持ちを持ちながら、結果的にプロにはなれなかったですし、今から振り返るともっとできたんじゃないかなって。当時は頑張っていたつもりでしたけど、たぶん康介や弦太は自分より頑張っていたと思いますし、後悔の方が大きいかなと思います」。白井と三浦は高卒でJクラブ入りを勝ち獲ったが、丹羽にはオファーは届かず、大学進学へと進路の舵を切る。
既に練習参加の時点で、漂う空気感に圧倒されていたという。「みんな上手かったですし、練習もピリついた感じがあって、それぞれに出身チームのガンバやFC東京の服を着ている人がいたりして、高校とは全然違う世界でしたね。『本当に凄いな。カッコいいな』と思っていました」。その後に受けたセレクションでも手応えがあり、丹羽は明治大学の門を叩くことになる。
丹羽には入学時に自らへ誓っていた想いがあった。「僕は高校の時にやり切れなかったことを、3年間が終わった時に凄く感じていたので、大学では『どんな状況になろうと逃げられない環境に行く』と決めて、覚悟を持ってやっていたんです。だから、本当にキツかったですけど、手を抜いたことは1回もないですし、常に目の前の練習に100パーセントでぶつかっていました」。
2年生までの主戦場はIリーグ。本人も「トップチームのリーグ戦にはかすりもしなかったです」と振り返る日々の中でも、とにかく真摯に毎日の練習と向き合っていく。ようやく3年生の後期でメンバー入り、関東大学リーグで後半から出場できるようになったところで、大学ラストイヤーがやってくる。
「僕たちの代は、どちらかというと谷間の世代みたいな見られ方をしていたんです。しかも1つ上の代は本当に凄いメンバーが揃っていて、『オマエら大丈夫か?』みたいなことを言われながら、僕らは『みんなで頑張ろうぜ』と言い合っていました」。
丹羽にとっても、チームにとっても、明確なターニングポイントは、総理大臣杯の2回戦だった。真夏の堺で行われた東海学園大学との一戦。スタメンリストに丹羽の名前は書き込まれていない。
「僕は4年生まで試合に出ていなかったので、普通に就活をしていた中で、その東海学園大学戦の日に名古屋で最終面接があったんです。それで前日に栗田(大輔)監督に相談しに行ったら、『行ってこい』と言われたので、面接をその日の一番最初の時間にしてもらって、朝イチで大阪から近鉄電車で名古屋に行って、最終面接をして試合直前に帰ってきて、後半から試合に出たんです(笑)」。
試合は75分に東海学園大が先制したが、得点を挙げたのは今季からブラウブリッツに加入した畑潤基。窮地に立たされた明治大は、それでもアディショナルタイムに執念で追い付く。同点弾を決めたのは、後半から登場した“最終面接終わり”のストライカーだった。
「今でも携帯にそのゴールシーンの映像があります。大学のゴールの中でもかなり上位に来る良いゴールでしたし、栗田さんは今の後輩にもその話を語り継いでいるみたいです(笑)」。この激闘をPK戦の末に制した明治大は、勢いそのままに難敵を相次いで撃破し、とうとう日本一に輝いてしまう。
10月。彼らは2つ目のタイトルを手にしていた。6年ぶりの関東大学リーグ1部制覇。しかもそれを怒涛の11連勝で飾るというおまけ付き。先輩たちも成し得なかった偉業を、“谷間の世代”は鮮やかに打ち立てる。
「シーズンが始まる前は『まさか自分たちの代が』という感じだったんですけど、凄く一体感のあるチームでした。僕以外の選手も1・2年生の時はⅠリーグでプレーしていた選手がほとんどだったので、それを知っている人たちからすれば驚きもあったと思いますし、期待されていなかった分だけ、それを見返せたのは嬉しかったですね」。期待されていなかった彼らは、堂々と二冠を達成してみせたのだ。
明治大で過ごした4年間を、丹羽は改めてこう振り返っている。「サッカーのレベルもメチャクチャ高いですし、下級生の頃はサッカー以外でも厳しい規律があって、生活も親元を離れての寮生活で、本当に厳しい環境だったんですけど、心折れることなく練習から100パーセントを出し切って、何とか周りに鍛えてもらって、プロにさせてもらったというような、そんな4年間でした」。かけがえのない経験と、かけがえのない仲間を得た、とにかく大事な時間だった。
本人が『プロにさせてもらった』と言及したように、丹羽は大学を卒業してJリーガーになっている。だが、もともとは就職活動に勤しんでいたはず。そのきっかけこそが、総理大臣杯の東海学園大戦だったのだ。
「大臣杯の時はどちらかというと就職寄りというか、プロは具体的なイメージとして描けていなかったんですけど、あの大会では上に勝ち上がっていく過程でもゴールを挙げられて、やっと自分も『プロになれるかも』と思ったので、東海学園大との試合は本当に分岐点だったかなと思います」。
大会後には3チームから具体的なオファーがあった中で、練習参加した時の雰囲気の良さもあって、最終的に愛媛FCへの入団を決断する。ちなみにもう1つの理由は、高校時代の盟友でもあった白井が在籍していたからだということも、付け加えておこう。
「開幕からの5試合ぐらいはメンバーに入れてもらったんですけど、全然出られなくて、『ああ、このまま終わっちゃうのかなあ』という感じでした」。プロ1年目の2017年シーズン。キャンプでのアピールも実って、開幕からベンチメンバーには指名されていたものの、なかなか出場機会は与えられない。
第7節。ニンジニアスタジアム。この日もベンチからピッチを見つめていた丹羽に、0‐0という試合終盤の局面でとうとう声が掛かる。残された時間は15分あまり。ようやく到来したデビューの瞬間。その五感は研ぎ澄まされていた。
後半44分。ペナルティエリアのすぐ外で、ボールが回ってくる。右足一閃。軌道は左スミのゴールネットへ鮮やかに突き刺さる。「今の自分があの状況で何も考えずにミドルシュートを打てるかと言ったら、それはわからないですし、良い意味で何も考えずに『点を獲るんや』という感じで試合に入っていたので、あの感覚はなかなか思い出せないですね。メッチャ嬉しかったです」。デビュー戦で叩き出したJリーグ初ゴールは、チームを勝利に導く貴重な決勝点。やはり丹羽は大学時代同様に『持っている』男だったのだ。
J2リーグで34試合出場7得点。ルーキーイヤーとしては上々の数字に見えるが、手応えはほとんどなかったそうだ。「数字的には悪くなかったですけど、フォワードとしてのタスクはほとんど何もできなかったんじゃないかなと。ボールを収めるとか、味方を生かすとか、そういうプレーは皆無だったかなと思いますね」。
「それこそ監督が間瀬(秀一)さんだったからこそ、とにかくゴールに向かっていくとか、とにかく守備を頑張るとか、チームのために戦うところを評価してくれて、僕のウィークに目をつむりながら、試合に使ってくれたと思っているので、間瀬さんには感謝しています」。がむしゃらにボールを蹴り続けた1年目は、あっという間に過ぎていく。
2年目のシーズン途中から監督に就任した川井健太も、丹羽にとっては印象深い指導者だ。「最初はウイングバックになったりしましたけど、次の年は一番スタメンで出させてもらいましたし、シンプルなプレーでも健太さんが説明するとちょっと違う角度から見られるようになったり、選手にいろいろな武器を作ってくれる方でした。もし健太さんのことを熱くない人だと思っている方がいたら、そのイメージは間違っていると思います。サッカーに対する情熱はメチャクチャありますし、全然醒めていないです。熱い人ですよ」。
愛媛でプレーした4年間がいろいろな意味で成長を感じられる時間だったことは間違いないが、少しずつ自分の中で無視できない想いが芽生えていく。「愛媛では生え抜きということで育ててもらっている感覚があって、良くない時でも自分のタフさや頑張るところ、練習でも全力でやるところを評価されながら試合に使ってもらっていた気持ちもあったので、そういう周りの目から1回離れて、まったく自分のことを知らないところでエースになれるのかとか、どこまでできるかということを試したい気持ちが強かったですね。『殻を破る』みたいな想いでした」。2021年シーズン。丹羽は愛媛への感謝を胸に、ツエーゲン金沢へと完全移籍を果たす。
プロ5年目。リーグ戦で記録したのはキャリアハイの9得点。それでもチーム状況も相まって、いろいろなことを考えた1年だった。「プロのキャリアの中で一番濃かったです。内容的にも手応えがあったんですけど、前期の終わりぐらいで肉離れをしてしまって、復帰してからなかなか点が獲れなくて、その間にチームも3か月ぐらい勝てなくて。そのシーズンは4チームが降格だったので、どっちかと言ったら残留争いのキツさが記憶に残るシーズンでした」。
とはいえ、金沢では改めて自身の為すべき仕事が整理されたようだ。「よりフォワードらしくなれるような感覚はありましたね。どんどん2トップにボールが入りますし、『2人でどうにかしてこい』みたいな状況も作ってくれますし、点の獲り方とか、そういうところは凄く求められたので、フォワードとしては凄くやりがいがありました」。
ところが、翌シーズンはキャンプで負ったケガによる離脱が長引き、戦線復帰してからもなかなか本来の感覚が戻ってこない。「フィーリング的にもフィジカル的にもしっくりこないまま、ある程度チームができた中で復帰した時には、自分がプラスアルファの何かを加えたかったんですけど、何もできずに終わってしまったなという感じでした」。リーグ戦では23試合に出場して1得点。納得のいく結果は得られなかった。
「秋田は愛媛にいる時にも一度声を掛けてもらっていたんです。トレーニングも凄くしっかりやるという話も聞きましたし、去年が凄く悩んだ時期だったので、もう1回鍛え直してもらうことで、本能的にサッカーができるんじゃないかなと思って決めました」。2023年シーズン。丹羽は期限付き移籍で加入したブラウブリッツの一員として、再起を懸けたシーズンを送っている。
今年の6月で29歳になった丹羽は、以前との変化をこう口にしている。「若い頃よりは良くも悪くも感情の起伏がなくなってきているのかなと。自身の出来にあまり苦しみ過ぎずに、毎日の練習で自分の成長というところに目を向けてやれているので、そういう充実感は欲しつつ、若い時よりチームの勝敗には左右されず、一定の状態で挑んでいる感じですね」。
だからと言って、ストライカーの本能が衰えたわけでは決してない。「やっぱり『秋田のフォワードは点が獲れない』と思われるのは凄く悔しいですし、それでいいともまったく思わないです。実際に自分も点を獲れていない状況なので、何とも言えないんですけど、秋田のフォワードは能力的にもみんな絶対に二桁ゴールを獲れると思うんですよね。だからこそ、僕も含めてそういう気持ちは絶対に忘れてはいけないですし、もっと点を獲りたいです」。
穏やかで、理知的な語り口に惑わされてはいけない。献身性を兼ね備えたハードワーカー。丹羽詩温の内側には、いつだってゴールを希求し続ける熱いマグマが燃え滾っているのだから。
文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18