見出し画像

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 小松蓮 編

エリート意識なんて、端から持ち合わせていない。土のグラウンドが当たり前。二桁失点で負けるのも当たり前。それでもただひたすらに「プロサッカー選手になる」という夢だけを追いかけて、ここまで這い上がってきたのだ。だから、諦めない。掲げた目標を全部成し遂げるまで、絶対に諦めない。

「ワールドカップに出ること。ワールドカップでゴールすること。ヨーロッパでプレーすること。それは絶対に達成したいんです。そのためにはゴールです。フォワードだったら、もうこれだけかなと思います」

おそらくは生まれた時からゴールを奪うことを義務付けられた、生粋のストライカー。ブラウブリッツ秋田のナンバー10。小松蓮は自身の身体に宿した得点感覚だけを信じて、これからも目の前のいばらの道を切り拓いていく。

小松 蓮(こまつ れん)
1998年9月10日生、東京都出身。
2024年にブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはフォワード。
https://x.com/renkomatsu
https://www.instagram.com/r_koma9

「もともと僕は右利きなんです」。重要な事実を小松が明かす。卓球やテニスのラケットを持つのは右手。字を書くのも、お箸を持つのも右手。ただ、サッカーボールは左足で蹴るし、野球の時は左打席で打ち、左手で投げる。「なんかよくわからないですけど、たぶん父が野球かサッカーをやらせたくて、左でやった方が特別感があるから矯正されたのかなって。野球とサッカーだけは左なんですよね」。つまりは後天的なレフティなのだ。

生まれたのは東京の世田谷。3歳の時に神奈川の川崎に引っ越したころから、父と一緒にボールを蹴り始める。小学校に入学すると少年団のチームに入ったが、それと並行して週2回通っていたのが東京ヴェルディのスクール。そこにはかなりの強者が揃っていたという。

「同い年で一緒にスクールにいたのが常本佳吾、田中碧、渡辺皓太で、特に碧と皓太はずば抜けて上手かったです」。そんなスクールを指導してくれていた顔ぶれも、ベレーザでプレーしていた女子日本代表の大野忍や、のちにU-20日本代表で監督として指揮を執った富樫剛一とまた豪華。時には当時のトップチーム監督を務めていたラモス瑠偉や澤穂希も遊びに来てくれていたそうだ。

小学校2年生の終わりには父の実家のある長野に移住し、地元チームの諏訪FCへ入団。最初はそれまでの環境とのギャップに戸惑うことも多かったが、少しずつ小松の熱量に周囲も感化されていく。「僕が入ったことによって周りの選手たちもやる気が出て、県内では強豪になっていきましたし、凄く楽しかった思い出がありますね。そのチームが“お山の大将”みたいな感じになっていくスタートだったと思います」。このころからサッカー=ゴール。とにかく点を獲りまくっていた。

もともとサッカーを始めた時から、小松家で掲げた目標は「プロサッカー選手になること」。中学進学時もJリーグのアカデミーでプレーすることを最優先に進路を考えていたものの、縁のあったヴェルディと母の実家から近い大宮アルディージャのジュニアユースのセレクションはどちらも不合格。さらに関東圏の別のJクラブへ入る可能性を模索していた中、“チームメイト”から意外な提案がもたらされる。

「諏訪FCのチームメイトに山雅がすごく好きなヤツがいて、その子も自分がいろいろなチームのセレクションを受けていることは知っていたので、『オレは山雅のセレクションを受けるから一緒に行こう』みたいに誘われたんです。当時はJFLでしたけど、『次の年に松田直樹が来る』みたいなニュースもあって、『じゃあ山雅のジュニアユースを受けてみるか』と」

臨んだセレクションで目にした光景は、衝撃的だった。「数人は“ジーパン”で来てたんですよ(笑)。素人みたいな子もいましたし、大宮とかヴェルディは全部で500人は受けていたのに、40人ぐらいしかいなくて、そのギャップにビックリしちゃって。当時の山雅のジュニアユースは本当に人気がなくて、他のクラブチームの方が全然強いんですよ。そこに行けない子が、『じゃあ山雅のジュニアユースに行っておこうかな』という感じでしたから」

それでも小松は松本山雅FCのジュニアユースでプレーすることを決断する。「もうどこかのJのアカデミーに入るというのは家族の中でも決めていましたし、『その時に強いチームではなくて、プロになることを考えたルートで行こう』ということです」。その意志は以降もキャリアのど真ん中を常に貫いていく。

実際のチームは県大会でもベスト16に入れば良い方というレベル。中学2年時にトップチームがJリーグ加盟を果たしたため、他のJアカデミーと対戦できる“ポラリスリーグ”に参戦したが、結果は惨憺たるものだった。「仙台に0-11、札幌に0-17、福岡に0-15とか、もうそんなレベルですよ。ホームアンドアウェイ方式なんですけど、アウェイの遠征で泊まる旅館が楽しみでした(笑)」

そんな日常の中でも自己鍛錬だけは怠らなかった。「その時は週3の練習があったんですけど、朝練は欠かさなかったですし、練習が休みの日も、学校が終わったらすぐに帰って、暗くなるまで自主練をしていました。それがなかったら今の自分はないですね」。すると、サッカーと真摯に向き合っていた14歳に“蜘蛛の糸”が差し伸べられる。中学2年生の冬。新たにU-18の指揮官に就任した岸野靖之監督が、小松を“飛び級”で練習に呼び寄せるのだ。

「今から思えばそれが大きなターニングポイントだったのかなと。中3になってからはリーグ戦の2日前にジュニアユースで練習して、試合に出るぐらいで、あとは全部ユースで活動していました。最高の環境でしたね。下のカテゴリーの子をユースに上げるという文化は当時の山雅にはなかったですし、岸野さんみたいなプロフェッショナルな人が来てくれたので、実現したんです」。3歳年上の選手もいるような環境の中で、自身の基準も引き上げられていく。何より岸野監督は、メチャメチャ熱かった。

「僕のフォワードとしてのスタイルが確立したのは、キシさん(岸野監督)の指導を受けてからですね。本当に厳しいので、ちょっとでもサボれば怒られましたけど、人として信頼できる人でした。本当に熱くて、負けず嫌いで、一緒にゲームに入ったら勝つまで終わらないので大変なんですけど(笑)、今から思えば『あの人のおかげだな』ということは多いですし、本当に感謝しています」

U-18には当然のように昇格したものの、1年時のチームが所属していた長野県3部リーグの試合は、すべて土のグラウンドでの開催。2年時に挑んだ県2部リーグも、大半の試合は土煙の中で行われていたが、小松も含めた選手たちはそれをごくごく当たり前のこととして受け止めていたという。

「練習もいろいろなグラウンドを転々としていたので、その中には土のところもありましたし、高1の時は真夏も、真冬も、雪の中でも、自転車で往復2時間とか掛けて練習に行っていましたからね。人工芝のグラウンドも使っていましたけど、住宅街のグラウンドで照明がなくて、冬なんてすぐ暗くなるから、4時半にスタートして5時半に終わって、隣の公園で『ジャンプからダッシュ』みたいなことをやったり(笑)。普通のJのアカデミーでは考えられない“アンダーグラウンド”で育っているので、試合の会場が土でも、何とも思わなかったです」

小松が最高学年になった3年時のU-18は、率直に言って強かった。夏のクラブユース選手権では北信越予選を勝ち抜き、全国大会に出場。清水エスパルスユースと三菱養和SCユースには敗れたものの、サガン鳥栖U-18とは2-2のドロー。ちなみにこの試合で小松は2得点を決めている。

「シンプルにああいう全国大会は楽しかったですし、チームとしてのレベルも上がったかなって。個人としてもチームとしても『オレらも意外とやれるな』というのは感じましたね」。そこで纏った自信は、想像もしなかった結果を連れてくる。秋に開催されたJユースカップ。松本山雅FC U-18は強豪を相次いでなぎ倒し、なんと全国ベスト4へと躍進するのだ。

特に2回戦の勝利は強く記憶に残っている。相手はアルビレックス新潟U-18。北信越では1強とも称される強さを誇っていた難敵を、終盤の大逆転劇で4-3と撃破してしまう。「僕らは新潟に1回も勝ったことがなかったですし、そのあとはもう勝てると思っていないので、『新潟だけには勝とう』というのはありました。大興奮ですよね。最高でした。楽しかったなあ。もう『オレら強いな!』って」。

進撃は続く。「勝てると思っていなかった」横浜F・マリノスユースにも逆転で競り勝つと、ヴィッセル神戸U-18戦もPK戦の末に勝利。神戸との試合には山雅サポーターも大挙して会場に詰め掛けており、小松も「あの応援はエグかったです。あの勝利は本当にサポーターのおかげでした」と言及している。

佐賀で行われた準決勝は、スタメンにのちのJリーガーを9人も揃えたサンフレッチェ広島ユースに0-7で完敗。彼らの冒険はそこで終焉を迎える。実はその試合は、チームのキャプテンが警告累積で出場停止を余儀なくされていた。そのことについても小松は笑いながら、こう振り返る。

「累積で出場停止のキャプテンはビデオを撮りに佐賀まで来ていました(笑)。やっぱり僕らは戦力が薄いので、1人でも欠けたら結構キツいんですよ。でも、それを臼井さんの前で言うと、『「あの時、賜がいなかったから負けた」みたいになってるけど、全然違うから』って言っています(笑)」

『臼井さん』というのは現在ブラウブリッツのヘッドコーチを務める臼井弘貴で、『賜』というのは現在ブラウブリッツのアシスタントコーチを務める賜正憲のこと。濃厚な時間を過ごした当時の監督とキャプテンと、今度は秋田で再会するのだから人生はわからない。

山雅のアカデミーで過ごした6年間は、今でもキラキラと輝くような宝物だ。「山雅の6年間で良かったのは、ああいうチームメイトと出会えたことです。サッカーでも、サッカー以外でも楽しいという想いしかなかったです。練習の行き帰りも自転車でふざけながら帰って、寮でゴハンを食べて、風呂に入って、を繰り返していたので、環境は良くなかったですけど、その中で相当楽しくやっていましたね。本当に良い思い出ですし、今でもアイツらとの絆は凄いです」。12歳の時に下した決断は、間違いなく正解だった。

高校3年の夏過ぎには、もう伝えられていた。トップチームへは昇格できないということを。「クラブユースが終わって臼井さんに言われた記憶はあります。小松家としては『18歳でプロになる』というのが目標だったので、それが叶わなかったわけです。ただ、僕はトップの練習にも参加していましたし、ちょっとレベルの差があることは正直感じていて、その時にトップに入って試合に絡めるかといったら、それは全く無理だなと思っていたんですよね」

「僕個人は凄く自信があったわけではなかったので、上がれないことが決まった時も悔しい反面、『まあ、そうか』と思ったのも覚えています。でも、当時のフィジカルコーチだったエルシオは『何で上げないのかわからない』と言ってくれましたね。自信もありつつ、『これでプロに行っていいのかな』という怖さもありつつ、いろいろな感情が入り混じっていました」

臼井監督や家族と相談し、いくつかのJクラブの練習には参加した。その中の1つがアスルクラロ沼津だ。「その時の沼津には謙さん(吉田謙監督)もサカさん(坂川翔太コーチ)もいて、ヒロさん(伊藤洋仁GKコーチ)もいて、サカさんとは夜に餃子を食べに行っているんですよ(笑)」。ここでも不思議な縁の端緒はあったが、入団は見送られる。

きっかけはある練習試合だった。U-18の遠征で湘南ベルマーレユースと対戦した一戦を、産業能率大学の関係者が見に来ていたのだ。そもそも大学という選択肢は頭の中になく、まだプロ入りの道を模索していた時期だったが、その熱意ある勧誘に少しずつ心が傾いていく。

「僕が『どうしてもプロに行きたいんです』と言ったら、『ウチは12月まで待てるから、もしプロに行けなくて、大学に行こうという気持ちに少しでもなってくれたら、ウチを選んでくれると嬉しい』と。その言葉は響きました。それまでは自分から『このチームに入りたい』という人生だったので、どこかのチームが僕を欲してくれるというのは初めてで、素直にそれが嬉しすぎたので、『大学に行くなら産能にしよう』と決めたんです」。結果的に高卒でのプロ入りは叶わず、小松は神奈川県リーグに所属していた産業能率大学の門を叩くことになった。

「意味がわからなかったです」と本人も口にしたその知らせは、唐突にやってきた。Aチームには入っていたものの、まだ公式戦ではスタメンとサブを行き来していた1年の5月。その1日は“補助学生”として、Iリーグの試合の交通整理を担当する日だった。朝練が終わり、担当の仕事の準備に取り掛かろうとすると、加藤望監督から1枚の紙を渡される。

「ノゾさん(加藤監督)に呼ばれて、『代表候補に招集されたよ』と紙を渡されて、『はい!わかりました!』とは言ったんですけど、よくわかっていなかったんです。『来週から大阪で2日間あるから』『はい!』と。最初は大学の選抜か何かだと思っていたんですけど、それで紙を見たら『ええ?U-19の代表?』って。そこからはもう交通整理しながらずっとそわそわしちゃって、父に『U-19の代表候補に選ばれた!』と電話したら、『マジか!』と。まったく想像もしていなかったです」

そこからはトントン拍子に事が進んでいった。大阪での候補合宿での好パフォーマンスが評価され、トゥーロン国際大会に臨むメンバーに選出されると、その大会でも全試合でスタメン起用され、一定の活躍を披露。すると、今度はU-20日本代表にも“飛び級”で招集される。

「僕はもともと選抜とかに行くのは嫌だったんですけど、やっぱり周りがそうそうたるメンバーで自分も活躍できたので、行ったら行ったで楽しかったですね」。当時のメンバーリストには板倉滉、中山雄太、旗手怜央、伊藤洋輝の名前を見つけることができる。さらにその年の12月には、森保一監督にとって五輪代表の初陣となったM-150カップにも招集を受ける。

「僕が決勝でゴールを決めたんですけど、初招集だった綺世がPK戦で外したんですよね。何なら僕も薫くんに偉そうに指示していましたよ(笑)。あの時は本当にそんな感じでしたね」。上田綺世や三笘薫にも負けない存在感を示した小松蓮の名前は、一躍多くのサッカーファンの知るところとなった。

ただ、戦うステージが上がっていくその一方で、新たな葛藤が芽生えていく。代表でプレーしている選手たちは大半がJリーガーたち。さらに上のレベルを目指すために、このままの環境に身を置くことが果たしてベストなのかという想いが膨らむ。だが、行くところのない自分を拾ってくれた産業能率大学への恩義も忘れていないはずがない。

加藤監督、家族、それこそ学校側とも話し合いを重ね、出した結論は「1年生で必要な単位はすべて取得した上で、プロに行く」というもの。年度末までしっかり勉強に励み、約束を果たした上で、3月に“古巣”からリリースが発表される。「小松蓮選手 産業能率大学から加入のお知らせ」。これがアカデミー出身者としては初のトップチーム加入。小松は松本山雅FCで「プロサッカー選手になる」という夢を叶えたのだ。

飛び込んだプロの世界は、そんな甘いものではなかった。「1年目は正直練習に行くのが嫌で、夜寝るのが嫌でした。夏に3回連続で肉離れして、3か月ぐらい離脱しているんですけど、それすら嬉しく思えるぐらい練習に行きたくなくて……。怒られるし、チームメイトにもいろいろ言われるし、委縮してミスを連発するし……」

立ち位置としてはフォワードの6番手か7番手。練習試合でも15分程度しか出場機会を得られない。「試合に出られさえすれば、点は獲れる」という自信はあったものの、それ以外の部分では周囲の選手と明らかに差があった。メンタル的にも難しい時間を過ごしていた小松を見かねて、松本へと来てくれた家族と同居し始めたことで、練習へと通う意欲は何とか保っていたものの、結局ルーキーイヤーの公式戦出場はゼロ。初めてサッカーが嫌いになりかけていた。

2年目はツエーゲン金沢へと期限付き移籍。3月9日。プロ入り後の初先発となった東京ヴェルディ戦は、忘れられない試合となった。前半8分。得意の左足で放ったシュートは、左のポストを叩いてゴールネットへ滑り込む。「あの時は頭が真っ白になりました。ゴール自体もスローモーションみたいだったので、『あ!入った!』って。嬉しかったですし、若かったので『やっぱり試合に出れば獲れるよな』と思っていました(笑)」

このシーズンはJ2で22試合に出場して、5ゴールを記録。夏前には久々に年代別代表にも復帰し、再びトゥーロン国際ユースにも出場。改めて失いかけていた自信を取り戻していく。とりわけ厳格な指導で知られる柳下正明監督から学んだことは、今でも自身の中にしっかりと刻み込んでいる。

「『選手ってチームの一員なんだな』ということを改めて認識しました。チームありきの自分ですし、結局チームのためにプレーできない選手は、試合に出るスタートラインにすら立てなくなっちゃうなと感じたので、そこからは監督が何を言っているのか、何をしてほしいのかというのを理解して、ちゃんとピッチで表現しようということを次の年から始めたんですよ。なので、あの1年は『プロサッカー選手とは何ぞや』というのを考えさせられましたし、それは今でも生きていますね」。ある意味で大人への階段を一歩上がった時期だったことは間違いない。

3年目と4年目はレノファ山口FCでプレーした。最初の年は霜田正浩監督の元、リーグ戦で37試合に出場。シーズンを通して任されたタスクを果たせた手応えはあったものの、得点数は3ゴールとなかなか伸びなかった。期限付き移籍の期間を延長して、迎えた山口での2年目はチームのスタイルにフィットしきれず、出場試合数も減少したが、このチームで学んだことは「サッカーを見ること」の重要性だったという。

「シモさん(霜田監督)は出会った最初に『蓮はこれから絶対A代表にも行けるし、世界にも行けるから』と言ってくれましたし、最後に別れる時も『蓮はサッカーをいっぱい見て、サッカーを勉強しろ』と言われたのも覚えていて、それがきっかけでサッカーを見るようになったんです」

「そのあとのナベさん(渡邉晋監督)も、サッカー自体は僕のプレースタイルに全く合っていなかったですけど、たとえば『相手の立ち位置がこうだから、自分たちがこうやって立ち位置を取った方が優位になれるよね』みたいなことはそこで学べたので、サッカーをたくさん見ることで、サッカーIQを磨くこともできたのかなって」。山口での2年間も小松にとっては欠かせない、大切な時間だったというわけだ。

5年目は腹を括った。「GMの加藤善之さんが山口まで来て、『来年は戻ってやらないか』と。『そろそろ蓮もいい歳だし、自分のチームでチャレンジしないか』と言ってくれたんです。それで『山雅で頑張りたい』と思って、帰りました」。4年ぶりに帰ってきた山雅。このシーズンも大きな意味で転機になる1年だったと言っていいだろう。

2022年6月11日。J3第12節。藤枝MYFC戦の34分。ネットが揺れると、緑のサポーターが爆発する。いったんはPKをGKに止められながら、こぼれ球をプッシュしたこの1点は、小松にとってアルウィンで決めた初めてのゴールだった。

「ジュニアユースから見てきたスタジアムで、自分が“こっち側”にいるのは面白い感覚でした。アルウィンには毎回行っていましたし、『あの選手カッコいいな』と言っていた僕が、その時とは逆の立場になって、こっち側にいられるというのは凄く幸せだなと思いました。たまらなく嬉しかったですし、本当に気持ち良かったです」。夢にまで見た憧れのスタジアムでのゴールは、やっぱり最高だった。

シーズンの成績は28試合5得点。自分では悪くない結果だと感じていたが、クラブからの評価は実に厳しいものだった。「ほぼほぼ試合にも出ましたし、何なら『給料も上がるんじゃないか』という淡い期待も持っていたんですけど、提示されたら減俸でしたし、何なら『また他のチームに行かないか?』とも言われたんです。それで『あ、ヤバいわ、オレ』と。『これはこのままだとクビになるわ』と思ったんですよね」

そのころは奥さんのお腹の中に子どもがいた時期。このままだとサッカーキャリアも終わってしまう。追い込まれた小松は一念発起。すべてを変える決意を定める。まず着手したのはメンタル面の改善だ。「名波(浩)さんに言われたんですよ。『オマエはメンタルの部分だけだから、メンタルトレーナーを付けてみてもいいんじゃないか?』って。それでその通りにメンタルトレーナーを付けたんです」

それだけではない。睡眠や食事をはじめ、すべての時間を100パーセントでサッカーに費やすために、生活習慣から見直しを図る。あとは軸に置くべきマインドも、今までを振り返って最も活躍できるそれを据え直す。「今まで生きてきた中で、僕はやっぱり『自分がキングであること』が一番パフォーマンスを引き出されるんですよね。だから、そういうふうに立ち振る舞うべきだなと思ったんです」。指揮官には山口で師事した霜田監督が就任。あらゆる持ち物を“2023年仕様”に塗り替え、勝負の1年へと突入していく。

「素直に得点王になれたのは嬉しかったですね。実際の僕は次のシーズンがすぐ来るので、喜んでいる時間なんてそんなにないんですけど、家族が喜んでくれますし、応援してくれる人が喜んでくれますし、そういう意味では数字や賞をもらったことは嬉しかったです」。小松は自身の変化を結果で証明してみせた。リーグ戦36試合で19ゴールを積み重ね、J3の得点王とベスト11をダブル受賞。押しも押されもせぬ山雅のエースとして、圧倒的な存在感を示してみせる。

何より心を動かされたのは、やはりアルウィンの雰囲気だ。「あのスタジアムでプレーできることは常に幸せだなと思いますね。ピッチに出るだけで涙が出てきそうになることなんてないんですよ。アルウィンはそれを唯一経験できるスタジアムだなって、僕はそう思っています」。自分のゴールに、チームの勝利に、揺れる緑のスタンドはとにかく最高すぎた。

熟考したことは言うまでもない。ようやく手に入れた『山雅のエース』の座。ここまでたどってきた道のりを顧みれば、こんなに居心地の良い椅子はない。だが、小松にはどうしても譲れないものがあった。そのことに気付かせてくれたのは、かつて日の丸を背負って一緒に戦った仲間たちだった。

「やっぱり2022年の最後にあったワールドカップを見た時に、悔しい想いの方が大きかったんです。一緒にプレーしていて、ペチャクチャ喋っていたような選手がああやってワールドカップで凄く良い試合をして勝ったのを見ると、純粋に『凄いな、カッコいいな』とは思うんですけど、『いや、オレもアイツらとやってたじゃん』って」

「それで『ここから自分はどうなりたいんだ?』と思った時に、やっぱりA代表に入りたいし、海外にも行きたいので、そこを目指す日々を過ごそうと。正直、山雅の方が秋田より環境はいいんです。でも、ここに来たのは自分が必ず目標に到達するための中での選択でした」

「これは秋田が良い悪いというよりは、山雅は僕が小さいころから育ってきたクラブなので、どうしてもいろいろなものが良く見えてしまうんです。その寂しさはありましたし、そこに対しての申し訳なさはありますけど、自分の夢を考えたら、秋田に来ることが一番小松蓮にとって成長できる選択肢だと思ったので、そこに迷いはなかったです」。2024年シーズン。小松は初めての完全移籍で、ブラウブリッツへと加わった。

リーグ戦初ゴールまでは、実に16試合を要した。苦しくなかったはずがない。悩まなかったはずがない。でも、諦めなかった。努力を止めなかった。いつか必ず結果が出ると信じて。「結局どの道を選択したとしても、それが正解か不正解かはわからないじゃないですか。でも、自分が『こっちだな』と思ったら、そっちに行くしかないですから。あとはもうそれを正解にするだけなので」

紆余曲折を経て、ここまでたどり着いた今なら断言できる。自分がこの世界で生きていく意味は、すべてこの言葉に集約される。「今はサッカーが大好きだし、練習することも大好きだし、今の生活がハッピーです」。少しだけ笑顔を浮かべて、小松はきっぱりとそう言い切った。

決してまっすぐな道を歩いてきたわけではない。曲がりくねった道を、さらに遠回りしたかもしれないけれど、きっとすべての道はここへと繋がっていた。応援してくれる人たちのために、ひたすらゴールを奪い続ける。サッカーとともに生きていく限り、小松蓮の核を貫く大事なものは、ずっと、ずっと、変わらない。

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー
ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

いいなと思ったら応援しよう!