YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 松本ケンチザンガ 編
ここが自らの仕事場だと腹を括って、フォワードという新たなポジションと向き合い始めてから、まだわずかに2年と少し。もっと上手くなりたいと、もっとゴールを奪いたいと願い、自分自身の可能性を誰よりも信じて、果敢にペナルティエリアの中へ飛び込んでいく。
「守備のタスクは当たり前にこなして、その中で違いを出せる選手、結果を出せる選手になっていかないといけないなと思うので、(吉田)謙さんに求められていることはベースとしてできた上で、ゴールを決められる選手、アシストできる選手になっていきたいなって思っています」
プロ1年目での武者修行を決断した、特大のポテンシャルをその身体に秘めるブラウブリッツ秋田の若きストライカー。松本ケンチザンガはどんな場所でプレーしていようとも、思い描いてきた未来を切り拓くため、今できることを全力で積み上げていく。
サッカーにまつわる最初の記憶は、父と公園でボールを蹴っていた3歳頃のもの。憧れの選手はブラジル代表やバルセロナで活躍していたロナウジーニョ。DVDを見てイメージを膨らませては、世界中の少年がそうだったように、華麗なドリブルを真似していた。
短距離も長距離も、走ることは常に一番。バク転もお手の物という運動神経抜群の少年は、小学校3年生になると桜井サッカースポーツ少年団へ入団。練習や試合ができる週末が来るのが、とにかく楽しみだった。
チームメイトには1人だけずば抜けて上手な子がいたが、松本はその後のキャリアを通じても、常にそういう環境に置かれていたという。「自分がチームで一番ということはあまりなくて、中学でも高校でも自分より上手かったり速かったりする選手がいたので、自分の性格を考えても、そういう子たちのおかげでプロまで来られたのかなと思います」。そう振り返るあたりにも、もともと持ち合わせている素直な性格が垣間見える。
中学に入学すると越谷FCへと入団。地元のチームで3年間プレーすることを選んだが、本人の中には“チャレンジしなかった”記憶も鮮明に残っている。「親からは『アルディージャやレッズのジュニアユースを受けに入ってくれば?』と言われたんですけど、自分は落ちるのが恥ずかしくて、『そういうのは行きたくないから』と言って、セレクションから逃げていた少年時代でしたね(笑)」
チームを率いていた井口司監督は、自身もJSLなどでプレーしていた経験を持つ有名な指導者だったが、松本は思春期や成長期も相まって、少し難しい時間を過ごすことになる。
「中学生になるとみんな成長し始めてきて、僕も目立って足が速い感じではなくなっていったので、身体能力はそれほど高くなかったですね。最初はフォワードで入ったんですけど、途中からはほとんどボランチをやっていました」。ピッチ外ではチームメイトと“ウイニングイレブン”で勝敗を競うことに没頭していたという。
高校でもサッカーを続けることは決めていた。ただ、ここでも中学生の頃と同じような考えが頭の中を占めていく。「みんな私立の高校に練習参加に行ったりする中で、自分も何校かは練習に行こうかみたいな話もあったんですけど、中学生の時と一緒でセレクションに落ちたりするのは嫌だったんですよね」
そんな時、県立の強豪校として知られる浦和東高校の試合を偶然見る機会に恵まれると、そのスタイルや雰囲気に心を奪われる。「関東大会の試合を見に行って、その時は負けちゃったんですけど、なんかカッコよかったんですよね。それに『特待はないから、ちゃんと受験で入ってきてもらわないとダメだよ』と言う話は聞いていたので、『「受かるか、落ちるか」がないなら、練習に行くのはありかな』と思ったんです」
実際に練習に参加すると、自分でもいろいろな部分がしっくり来ることを感じていた。「荻野(清明)先生という年配の先生が『君、いいね。是非浦和東の試験を受けに来てよ』と言ってくれたので、『そうやって言ってくれるなら、行こうかな』と思ったんです。そもそも他の高校からは声も掛かっていなかったので、浦和東以外に行こうという考え自体がなかったですね」。15歳になったばかりの春。松本は浦和東の門を叩く。
1年時は自分の学年の公式戦でベンチに入れるか、入れないかぐらいの立ち位置。トップチームの試合に出られるイメージなんて、まったく持てなかった。「そこまでのサッカーキャリアもうまく行ってきたわけではないので、『こんなもんだろうな。こんな上手い人たちがいたら出られないだろ』と思っていましたし、1年生でトップチームの練習に入っている選手を見て、『いいなあ』という感じで、焦りとかは全然なかったです」
入学時は170センチ前後だった身長が、急激に伸び始めたのもこの頃。身体操作が難しくなり、ボール扱いの感覚も変わっていく中で、もともとやっていたボランチと並行して、センターバックでの出場も増えていく。自身では納得がいかない部分もあったが、スタッフは松本が秘めているポテンシャルをしっかりと見極めていたようだ。
「僕はそれこそ筋トレとかも全然できない方だったんですけど、平尾先生と(鈴木)豊先生が最後まで残ってやっているのを見てくれていましたし、下のカテゴリーの選手なのに凄く気には掛けてもらっていましたね」。2年生になってからはトップチームに定着。公式戦の出場機会は多くなかったが、置かれた環境に自身の向上心は磨かれていく。
「最初は周りも『何でコイツ、トップチームに入ってきたんだ?』ぐらいの感じだったと思うんですけど、やっぱり上手い人たちと一緒にやると、『サッカー上手くなりてえ!』と思えるぐらい楽しかったので、練習で見た先輩のターンを真似してやったりしましたし、そういう環境でやらせてもらえたのは大きかったですね」
3年生に進級した松本は、守備の中心選手として躍動。春先の関東大会予選では、正智深谷高校や西武台高校など私立の強豪を相次いで倒して決勝進出。準優勝という結果を手にしてみせると、関東大会でも県外の難敵相手に好ゲームを繰り広げ、小さくない自信がチームの中に広がっていく。
ただ、やはり高校サッカーはそこまで甘くない。インターハイ予選は大雨の中で行われたベスト16でまさかの敗戦。高校最後の選手権予選は気持ちを引き締め直して挑んだものの、こちらは2回戦でPK戦の末に敗退を突き付けられてしまう。
「関東大会がうまく行っただけで、地力がそこまでなかったのかなと今は思いますね。『まあ、県内の試合なら行けるだろ』みたいな感じがあった気がしますし、ちゃんとやることを徹底して頑張ったら県内でも上の方に行けますけど、フワフワした感じでやったらこんなものだろうというような強さだったのかなと思います」。予想もしていなかったような形で、全国への扉はあっさりと閉ざされた。
最後は望んだような結末は迎えられなかったが、3年間で重ねた努力が与えてくれた自信や手応えは、確かな実感として自分の中に残っている。
「3年間のトータルで見たら、『1日も無駄な日はなかったな』と思えるぐらいの1つの成功体験として捉えていますね。あまり良い立ち位置ではない1年生の頃から、3年生になって自分でも実力を付けたなと思えた上で、中心選手として試合に出られましたし、中学からの6年間から考えても、やっと高校の最後で花開いたなと。そういう意味では充実した3年間だったなと思います」
もう自分の中でかつての“夢”は、現実的な“目標”に変わっていた。「色々なチームと試合をする中で、染野(唯月/東京ヴェルディ)とか藤田譲瑠チマ(シント=トロイデン)、馬場晴也(北海道コンサドーレ札幌)たちのプレーも見て、やっぱり上手かったですし、実力は抜けていましたけど、『大学に行って自分も経験を積んだら、4年後には追い付けるんじゃないかな』と思えるぐらいの感じでしたね。3年生になって試合に出始めて、そういう選手たちと対戦してみて、『プロになりたいな』とハッキリ思うようになりました」
大学選びも基準は『プロサッカー選手になるために、どれだけ成長できるか』。複数の関東の強豪大学の練習に参加し、良い感触も得ていたものの、松本には気になっていた大学があった。その厳しい練習と高い強度を誇るパワフルなサッカーで、独自のスタイルを築いている駒澤大学だ。
「駒澤にはお父さん同士が知り合いのキョーワァンくん(星キョーワァン/秋田)とヒマンくん(森本ヒマン/レイラック滋賀FC)がいて、その2人がカッコいいなというイメージがあったので、『駒澤もいいな』と思っていたら、平尾先生に『日本で一番練習がキツい大学だけど大丈夫か?』と言われたんですけど(笑)、自分は練習に参加してみたかったんです」
「それで実際に練習に行った時にキョーワァンくんが話しかけてくれて、『ここに来て、4年間自分を信じて、アキさん(秋田浩一監督)の元でやったら絶対にプロになれるから』と言ってくれたので、1か月ぐらいいろいろ悩んで、『どの4年間を通った先の自分が一番成長できるかな?』と考えて、思い切って飛び込むには一番イメージのできない駒澤がいいんじゃないかと、それこそ人生で一番覚悟を決めましたね(笑)」。他の大学には丁重に断りを入れて、駒澤大学へと入学することになった。
時代は2020年の春。日本は、そして世界は、コロナ禍に襲われていた。「最初の1か月ぐらいは練習をやって、寮に入ったけれど解散して、実家に帰るみたいな感じになりました」。キャンパスライフに慣れる間もなく、駒澤大学のサッカー部も活動停止を余儀なくされる。
「サッカーノートを振り返っても、その時期を読むと、『この4年間の中でもプロになるためには凄く大事な1か月間になると思う』と書いてはいたので、コロナ禍の全体練習のない中での過ごし方の重要性は理解して、しっかりトレーニングできていたかなと思います。でも、チームメイトのみんなも本気でプロを目指して、覚悟を決めて駒澤に入ってきたヤツばかりなので、みんなその時期は結構しっかりやっていたみたいですね」。意識の高いチームメイトの存在が、松本にとって何より心強かったことは言うまでもないだろう。
1年時に主戦場としてプレーしていたのは、東京都社会人1部リーグに所属している『駒澤大学GIOCO世田谷』。いわゆるBチームだったが、そこで得られる経験はポジティブに捉えていた。「Aチームに入れないことにちゃんと悔しいと思えている自分に、『ああ、ちゃんとプロを目指してやれているんだな』と感じていましたし、『Aチームの試合に出たとしても、レベル感として追い付いていないな』というのはわかっていたので、実戦経験が積めていいなと思っていました」
その頃、Aチームを目指して共闘していたのが、昨シーズンまでブラウブリッツに在籍していたウォー・モハメッド(ロサンゼルス・フォース/アメリカ)だ。「ウォーくんも一緒にGIOCOでやっていて、『Aチームに行くぞ!』という感じでしたね。秋田に来た時はお世話になりましたし、良い意味で外国人っぽくて、マインドとかメンタル的な面でも勉強させてもらいました」。志を同じくする“先輩”と共有した日々は、大きな学びの時間だった。
2年生に進級すると、センターバックとしてAチームへと声が掛かるようになる。リーグ戦のベンチにも入り始め、自身の中でデビューへの期待感も高まっていたタイミングで、松本は不運にも同時に2つのケガに見舞われる。
「2年生の前半は正直ベンチに入っても、試合に出ても、チームのプラスになることはできないだろうなと思いながらも、試合に出たい想いがちょうど溜まってきたタイミングで、恥骨の疲労骨折とグロインペインになったんです」
「そこで大学での残りの2年半を長い目で見た時に、まだ試合に出る自信もないですし、今は抜けてもいいのかなって。それこそ足りなかったフィジカルだったり、体幹だったり、今まで目を向けられていなかったことをやろうと。『いったん半年ぐらい離脱して、3年に懸けよう』ぐらいの気持ちでした」。地道なトレーニングを重ね、復帰に向けての準備を丁寧に整えていく。
人生を大きく左右する“コンバート”は、復帰後に待っていた。3年生になる少し前のプレシーズン。日本高校選抜との練習試合で、1本目のセンターバックに指名された松本はオウンゴールを記録すると、その数日後に行われた練習試合でも、再びオウンゴールを献上してしまう。
「2試合続けて失点に絡んだ上に、その後も自分が裏に抜け出された形で失点する散々な試合で、途中で代えられました。『このシーズンもまたこうやって始まっていくんだ……』と思っていたら、アキさんに『オマエはもう使わない』と怒られて、そこから2週間ぐらいは練習試合も4本目とかまで落ちたんです」
低い序列のまま、リーグ開幕を2週間後に控えた調整の練習試合。1本目が終わりそうなタイミングで、急遽秋田監督から声が掛かる。「怒られた日からほとんど口も利いていなかったぐらいだったんですけど、アキさんに久々に呼ばれたのでダッシュで行ったら、『あと5分で出るから』と。『わかりました』と言いながらも、『ああ、チャンスをくれるんだ!ここで人生を懸けてやらないと!』と思いました」
ただ、命じられたのは想像もしていなかったポジションだった。「アキさんに『誰と交代ですか?』と聞いたら、フォワードの選手だったんです。『ああ、まあそういう感じか。パワープレー要員か……』と思って、もう背負っているものもないので、出られてラッキーぐらいの感じでしたし、みんなも『え?ケンがフォワードで入ってきたぞ』って。でも、その試合は前でボールを収めたり、裏に抜け出したりして、2本ぐらい決定機を創れたんです」
フォワードとしてベンチに入ったリーグ開幕戦が終わると、監督室へと呼び出された松本に秋田監督から告げられたのは、本格的なフォワードへのコンバートの打診だった。「『オマエはフォワードならオレがいい選手にしてやれるぐらいのポテンシャルはあるけど、その性格だとうまくいかない時期が来た時に、「もともとのポジションじゃないから」と言い訳する未来も見えている』と言われました(笑)」
もちろん悩みはしたけれど、思ったよりも自分の中での結論は早く出た。「アレだけ厳しかった人が、1つ自分のことを評価してくれたことが素直に嬉しかったですし、アキさんが育てるというぐらいなので『相当苦しいんだろうな』とは思いましたけど、それでもセンターバックに戻りたいという言い訳をせずに、2年間頑張ろうとそこで思えたんですよね」。覚悟を決める。松本は残された大学での2年間を、フォワードとしての自分に懸ける決断を下した。
入門した“秋田塾”は想像以上の厳しさだった。「かなりいろいろ言われるので、もうサッカーをやめたくなりました……。何度も先輩の鴻くん(宮崎鴻/栃木SC)とか悠生くん(土信田悠生/ツエーゲン金沢)に相談しましたけど、『あの人に求められることを完璧に遂行できたら世界に行けるレベルで、最初からそういうところを要求されているだけだから、そんなに苦しむことはないよ』とアドバイスをもらえました」。先輩たちからの優しいメッセージも糧に、ひたすらハードな練習を繰り返す日々を過ごしていく。
忘れられない試合がある。少しずつ新たな視界や景色にも慣れ始めた秋口。早稲田大学とのアウェイゲームで、“新米ストライカー”は2ゴール1アシストという圧巻の活躍を披露するのだ。
「相手のセンターバックは2人ともJ1クラブに内定していて、そういう選手を相手にどれだけやれるかだと思っていた中で、あの試合で2ゴールもできて、アシストもできたので、自分の中で凄く手応えのある試合でしたし、Jクラブの人も来ていることは聞いていたので、プロから声を掛けられるところまでは来ているのかなと。『このままやっていけばプロに行けるんじゃないか』と初めて実感できた試合でした」
結果的に3年生のシーズンはリーグ戦で5ゴールをマーク。チームは2部降格の憂き目に遭ってしまったが、個人としては小さくない手応えを掴むことに成功する。「前期はフォワードに慣れるのに必死で、正直チームのために点を獲ることまでは考えられなかったんですけど、後期はゴールも少しずつ付いてきて、プロに内定しているような選手とも対等に渡り合えましたし、『ついに大学サッカーが動き出したな』と。サッカー人生の中でも一番キャリアが動いたシーズンでした」
4年時の開幕戦。1部復帰を至上命題に掲げたチームは、いきなり苦境に立たされる。一方的に攻めながら先制を許し、1点ビハインドのままで迎えた後半のアディショナルタイム。松本が放ったこの日自身9本目のシュートが、ようやくゴールネットを揺らす。時間は90+5分。最後の最後でストライカーとしての仕事を果たし、チームに勝点1をもたらしたのだ。
「試合が終わってからアキさんに『もう代えようと思っていたのに、残しておいて良かった』と言われたんですけど、駒澤でやっていたらボールはいっぱい集まってくるので、あとは正直フォワードの能力と得点感覚に懸かってくるところは大きくて、『自分次第で今シーズンの結果は変わるな』と思い直した試合でもありましたね」
大学ラストイヤーは充実の1年となった。チームは2部優勝を果たし、1年での1部復帰を達成。松本は個人としても7ゴール5アシストを叩き出し、ベストイレブンも受賞。フォワードとしての評価を確かなものにする。
「サッカー選手としても人間としても凄く充実した1年でしたね。もうフォワードでやることは受け入れていたので、『ここからはフォワードでやっていきたいな』と思いましたし、試合にいっぱい出て活躍できて、サッカーの本来の楽しさを見つけられたなと思います」
決して順風満帆な4年間ではなかったけれど、大学で過ごした時間の大事さは、卒業した今になってより強く実感している。「大学では人間として大切なこともたくさん教えてもらいましたし、うまく行かない時期の方が長かったんですけど、綺麗事じゃなくて、そういう時期も本当に1日たりとも無駄じゃないんだなと。メチャメチャ落ち込む時間も、長い目で見れば凄く必要な時期なんだということに気付けたので、そういうことを4年間掛けて教えてもらいました」。覚悟を持って飛び込んだ決断は、松本にとって間違いなく正解だった。
大学3年生の冬。松本のことを熱心に誘ってくれているJクラブがあり、練習参加した際にも自分の中で手応えを感じていた。その後にキャンプへ帯同したのがブラウブリッツ。ここでもやはり一定以上の感触を得ていたものの、なかなか具体的な話には発展しない。
4年生のリーグ戦開幕を1週間後に控えた頃。正式なオファーがブラウブリッツから届く。「凄く悩んだんですけど、強化部の朝比奈(伸)さんも東京に何度も足を運んでくれて、謙さん(吉田謙監督)も直々にグラウンドまで来てくれたりして、そういう熱意も感じましたし、サッカーのスタイルとしても駒澤と似ていることもあって、秋田に決めました」
8月。加入内定のリリースがクラブから発表される。少しずつ、少しずつ輪郭を帯びていった『プロサッカー選手になる』という夢と目標を、松本は秋田の地で叶えることになった。
前述したように駒澤大学のグラウンドを吉田監督が訪れたのは、まだオファーが届く前のことだった。その時の真意を松本がチームの一員になってから、指揮官は静かに明かしてくれたという。
「その時は『ブラウブリッツの監督が来ているらしいぞ』とは聞いていながら、誰を見に来ていたかもまったくわかっていなかったんですけど、謙さんから『ミーティングの時の表情だったり、トレーニングに臨む姿勢も全部見させてもらいました』と言われて、『ああ、そうだったんだ』って。メッチャ見られていたんですね(笑)」。何とも吉田監督らしいエピソードではないだろうか。
今シーズンのキャンプでは、同じストライカーを生業とする“先輩”に大きな影響を受けたという。「もちろん『小松蓮が来る』ということは知っていましたし、自分も話したいなと思っていたんですけど、キャンプから凄く話しかけてくれて、オフの日も2人でスタバに行って話したりしました(笑)。あのキャンプで蓮くんからいろいろ教えてもらえたことは、大きなことだったなと思います」。小松蓮。松本山雅FCから完全移籍でやってきた、昨シーズンのJ3リーグ得点王だ。
まず学んだのは練習に臨む姿勢。「蓮くんはクロスからのヘディングにも、シュートの1本1本にもこだわってやっていますし、そういうのを見ていたら、『こうやって毎日やっている人たちとの差は開いていっちゃうな』と感じましたね。そういう意識の差は変えていかないとなと、凄く感じたキャンプでした」
さらに響いたのは、ブラウブリッツのフォワードとして為すべきタスクへの向き合い方だ。「『今チームで求められている守備が100パーセントだとしたら、オレたちフォワードはそこからまた相手のゴール前まで走って、駆け引きして、点を決めるという、残りの50パーセントも頑張らないといけないから、オレたちは150パーセントで走らないとダメだし、考えないとダメなんだ」と言われたんです」
「その時に『去年得点王を獲っている人でもここまで考えてやっているんだな』と凄く感じましたし、自分もチームで求められていることだけをやって、試合に出られたらOKじゃなくて、その中で違いを出せる選手、結果を出せる選手になっていかないといけないなと思いました」。当たり前のことを、当たり前にこなした上で、得点という結果を残していく。小松が教えてくれたその考え方は、今の松本の中心を確実に貫いている。
8月28日。松本が奈良クラブへ育成型期限付き移籍する旨のリリースが、ブラウブリッツから発表された。今季のJ2リーグでは8試合、132分の出場にとどまっており、実戦でのプレー機会を求めて移籍を決めたことは想像に難くない。彼がインタビュー時に話していた言葉を思い出す。
「どのチームに行っても、求められたことをしっかりこなしながら、最後はゴール前の部分で、得点のところだけにフォーカスして、やり続けることが大事なのかなと思います。ここから日本で活躍して、海外に行って、イングランドのプレミアリーグで二桁得点獲れるような選手になりたいです。いや、なります!」
その場所が秋田であっても、奈良であっても、もうそのマインドに迷いはない。求められたことを100パーセントでこなした上で、さらに自分にできる50パーセントを上積みして、結果を残す。フォワード挑戦3年目。松本ケンチザンガはこのシビアな世界を生き抜くため、これからもひたすらゴールという甘美な果実を追い求め続ける。
文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
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