YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 松田太智 編
19歳からの7年間を過ごしてきたのだ。強い思い入れがないわけがない。でも、自分で決めた。新しい世界へ飛び込むことを。新しい景色を見に行くことを。今度はそこで、誰よりも成長して、誰よりも進化して、きっといつかまた、胸を張ってここへ必ず帰ってくる。
「我々が掲げているAKITA STYLEを学べたのが自分の中で大きくて、『最近の若者は……』と言われるような、若者に足りないようなものを得られる経験が、僕の秋田での時間には詰まっていました。まだまだ人としては全然未熟ですけど、少なからず人としても、サッカー人としても、スタートラインに立てるぐらいの状況まで秋田に育ててもらったと思っています」
ブラウブリッツ秋田を長年にわたって陰から支え続けた、縁の下の力持ち。松田太智主務は縁もゆかりもなかった土地で手にした、かけがえのない数々の経験を自分の中に刻み込み、サッカー人としてのネクストステージへと足を踏み入れていく。
その人生は唐突に動き出す。2018年9月。サッカー専門学校として知られるJAPANサッカーカレッジの学生だった19歳の松田に、思いもよらない話が舞い込んできた。「ブラウブリッツ秋田から主務の話が来ているけど、興味はあるか?」
もともとプロサッカー選手を目指していたものの、高校3年の春に大きなケガを負ったことで、未来予想図を考え直す。「いざサッカーができなくなって、何がしたいか考えた時に『やっぱりサッカーだよな』と思って、いろいろ調べていく中でサッカーの仕事に就くことを考えて、JAPANサッカーカレッジに行きました」。興味があったのはフロントの仕事。学校でもそのジャンルの勉強に力を入れていた。
ただ、Jクラブに入れるチャンスなんて、どこにでも転がっているわけではない。1週間のインターンシップという形で秋田に赴き、チームに帯同しているうちに、心が傾きつつある自分に気付く。
「今までの人生を振り返ってみても、どんなことも楽しく乗り越えてきたという変な自信もありましたし、あとはグラウンドにいて、ボールも蹴れて、週末に自分のチームとして試合に臨んで、という雰囲気が凄く楽しいなって思ったんです」
ホームゲームの試合後。岩瀬浩介社長から声が掛かる。「岩瀬社長に『焼肉行くぞ』と言われて、焼肉屋さんに連れて行ってもらったんですけど、そこからすぐに連絡をいただいて、『準備が整えば合流してください』ということでした。今から思えばあの焼肉が最終面接だったんでしょうね(笑)」。早期就職という形で11月には正式採用が決定。松田は社会人としてのキャリアを秋田の地でスタートさせることとなった。
2018年いっぱいは、主務を兼任していた佐藤博志コーチから仕事のイロハを教わる毎日。ただ、翌2019年シーズンからは主務は松田が専任となり、周囲の協力を得ながら、何とかシーズン前のキャンプへとこぎつける。その期間内にあった成人式にも出席できず、同級生たちが楽しそうに笑っているインスタの写真を見ながら、ホテルで洗濯に勤しんでいた。
その“事件”はキャンプ終盤に起きた。「FC岐阜さんと練習試合をさせてもらって、スタンドからビデオを撮っていたんですけど、いろいろなプレッシャーやストレスや疲労が重なったのか、その場に倒れてしまったんです。今となっては良い思い出ですけど、勝手に追い込まれていたというか、それぐらいキツかったですね」。松田にとってこの一件は、自分のキャパを知る大事な経験になったそうだ。
当時の指揮官だった間瀬秀一監督には、プロフェッショナルとしての在り方を教えてもらったという。「シュウさんは長らくオシムさんと一緒にやられていて、ご自身も海外にいたこともあって、発想が“外国人的”でしたね。どちらかというと日本人は何事も計画を立てて、緻密にやっていくと思うんですけど、シュウさんはその場で最適を見つけることが多かったです」
「たとえばそのころは練習場も毎日違う場所を予約していたんですけど、当日の朝に『今日はこっちの練習場にしよう』『いやいや、今からは無理でしょ』ということが何十回もありました(笑)。でも、シュウさんの中では今週の試合に勝つために、今日の練習をより良くするためにこうした方がいいというところから来る判断なので、トップチームの現場にいる以上は、計画通りにやればいいということではなくて、勝つために何をするかというスタンスは叩き込んでもらいました」。主務としてのベースは、間違いなくこの2019年の1年で培われていった。
吉田謙監督が新指揮官に就任した2020年。世界はコロナ禍という未曽有の事態に見舞われる。「3月の頭ぐらいでしたね。J-GREEN堺でキャンプをしている時にクラブから連絡を受けて、『リーグが開幕しないかもしれないから、とりあえず帰って来い』と。ただ、もうコロナがどうこうという話になっていたので、まず飛行機に乗っていいのか、新幹線の方がいいのかとか、そこからでしたね」
先の見えない日々に、もどかしい時間が続く。「試合の日程もわからなかったですし、みんな家でトレーニングしているので、正直僕はやることがなかったんです。チームの共有のカレンダーでオフの日は赤く塗りつぶしているんですけど、もう4月の予定表なんて真っ赤で(笑)。家で何をしていいかわからない時間を過ごしていました」。ようやく6月になってリーグが開幕すると、今度はピッチ内外で今までとはまったく違う準備を強いられ、目まぐるしく毎日が流れていく。
「Jリーグから日程が来ても、『決まりました』『また変わりました』が何回も続いたので、ホテルや交通手段のチケットを、取って、取り消して、取って、取り消して、を繰り返したりもしましたね。いざ試合をやることになっても、今まではスクイーズボトルを回し飲みしていたのを、1つ1つに背番号を貼って、『これしか飲んじゃダメだよ』と言ったりとか、それこそ“マスク警察”じゃないですけど、移動の時も、ホテルの時もマスクの着用をチェックしたり、『他の人の部屋に行っちゃダメだよ』と言わなきゃいけなかったりで、とにかく大変でした」
ただ、チームは快進撃を続けていく。「勝つチームってそうだと思うんですけど、本当に試合内容が悪くても、なぜか失点しないですし、セットプレーでポンと1つ獲って勝つとか、もちろん監督、選手、コーチ陣が良い準備をしてやってくれているのは間違いないんですけど、何でああなったのか教えてほしいです(笑)。アレは凄かったなあ」
松田には印象に残っている光景があるという。J3第10節。カマタマーレ讃岐と引き分け、開幕からの連勝が9でストップした試合後のロッカールームのことだ。「初めて点が獲れずに、スコアレスで終わって、全員が“お葬式状態”だったんですけど、ふと誰かが『大丈夫だよ。オレたちまだ負けてないから』って言い出して、そこでみんなも『ああ、確かにそうだな』って。『忘れてた。オレら、まだ負けてないから大丈夫だよ』という雰囲気になったんです」
第28節。ガンバ大阪U-23に勝利を収めたブラウブリッツは、無敗のままでJ3優勝とJ2昇格を同時に決めてしまう。「嬉し泣きはあの1回だけでした。他クラブのマネージャーの先輩が連絡をくれて、『オレなんて長いことやっているけど、シャーレなんて持ったことないよ。松田くん、持ってるね』って。コロナ禍のような誰も経験していないことをみんなで乗り越えたこともあって、あのメンバーでなければ生まれなかった一体感もありましたし、本当にスペシャルなチームだったと思います」
就任1年目でいきなり昇格を達成。以降もJ2残留を果たし続け、来季も指揮を執ることが決まっている吉田監督に対して、5シーズンもの時間を共有してきた松田は、独自の視点でその人となりについて言及する。
「謙さんはゴールのないポゼッションとか全然やらないので、ゴールをメチャメチャ欲しがるんですよ(笑)。大人用のゴールはもちろん、少年用とか、もっと小さいミニゴールとかを求められて、そんなにいっぱいは買えないので手作りするんですけど、僕が頼まれても時間が掛かっちゃったりすると、自分でホームセンターに行って部品を買ってきて、金づちでトントントンとやりながら自分で作っちゃうんです」
「謙さんは良い意味でサッカーのことしか考えていないですし、勝つことしか考えていないですし、選手が成長することしか考えていないです。僕にもいろいろな要求が来て、一瞬『何それ?』と思うんですけど、ふと冷静に考えれば、全部それに当てはまるんです。自分の手間が掛かろうが、選手が成長するためなら、チームが勝つためなら、何でもしますと。感心している場合ではないですけど、感心します。本当に凄いです」。指揮官のその姿勢は、一度たりともブレなかった。
忘れられない一言がある。それも2020年のこと。何気ないタイミングで、吉田監督からこんな言葉を掛けられたそうだ。「アウェイの試合では勝点3のうち、2はオマエに懸かっているんだぞ」。短いメッセージに込められた意味を、それから松田はずっと考えてきた。
「そのころの僕が頼りなかったので、掛けてくれた言葉だと思うんですけど、それはメチャクチャ大事にしています。ホームゲームはある程度いろいろなことが決まっていて、僕が用意することはさほどないんですけど、アウェイは秋田を出発して、秋田に帰ってくるまですべて僕がオーガナイズするので、移動の快適さ、食事や宿泊の充実度も含めて、予算が限られていることはわかっているけど、その中でベストな準備をしてくれよという、いろいろな意味が込められた短い言葉だったのかなって」
「実際に僕の準備で試合結果が変わるかどうかはわからないですけど、それぐらい責任を持ってやらなきゃとは思っていますし、いろいろキツい想いをする分、勝った時には『よし、オレのおかげだ』と思うようにしています。そう思えば思うほどモチベーションも上がるので、アウェイで勝ったら『よし!オレが勝因だな』と(笑)」。選手と同様に松田も、ある意味で指揮官の掌の上で踊らされているのかもしれない。
ブラウブリッツがシーズン前に行うキャンプは、実に2か月近い時間に及ぶ。ここでも松田のやるべきことは少なくない。ホテルの手配、移動手段の確保は言うに及ばず、もっと細かいディテールにこだわっていくことも、主務の重要な役割だ。
「僕が来た当初は予算的に難しかったところもあって、2人部屋だったんですけど、アスリートは休息も大事なので、ここ何年かは完全に1人部屋にしています。あとはホテルに大浴場がなかった場合は、近くで選手が入れるような入浴施設を探したりとか、それこそいつでもコーヒーを飲めるようにしておいたりとか、そういう細々としたことでも、ちょっとした癒しになればと考えてやっていたつもりです」
「それと今年のキャンプでは、“中日”を設けて1回秋田に帰りました。そこで新加入選手は住居も探せますし、時間が合えば家族にも会えますし、それは結構良かったかなと思いますね。あと、以前はキャンプ中にも鹿児島に行って、高知に行って、大阪に行ってという感じで、いろいろなチームと試合をしていたんですけど、ここ何年かは丸々2か月高知にいる形に落ち着きました。リーグ開幕後のアウェイにも高知から行くので、その2か月間は『ブラウブリッツ高知』として活動しています(笑)。その方が僕としても準備はやりやすいですね」。試行錯誤を繰り返しながら、最適解を探し続けてきた。
この7年の中での大きな変化として、松田が真っ先に挙げたのは練習グラウンドが整備されたことだ。「それまでは毎日違うグラウンドで、人工芝の方が多かったぐらいですけど、それだと監督やコーチも本当はこういう練習をしたいけど、人工芝だと身体に負担が掛かるからこういう練習にしようとか、選手ももう一歩行きたいけど、人工芝で怖いから足を止めてしまうとか、そういうことがどうしても出てきてしまうんですよね。それが凄くもどかしかったですけど、天然芝のグラウンドでできることで、監督やコーチも本当にやりたい練習ができますし、選手もそれに応えて100パーセントを出せるのが一番大きいんです」
そう言いながらも、松田はグラウンド探しに奔走した日々を楽しそうに思い出す。「それこそ休みの日も練習場に行って、そこのおじちゃんとたわいもない世間話をしながら、コンビニで買っていったアイスを一緒に食べたり、アウェイに行けばお土産を買っていったりして、だんだん距離を詰めながら機を見て、『そういえば、あの日に練習をしたいんですけど……』とか(笑)。そういうことをさせてもらっているうちに、練習場の方もだんだん心を開いてくれて、『最近頑張っているらしいな。使ってよ』と言ってくれたりするんです。それはそれで楽しかったですね」。今季からは新クラブハウスも稼働。間違いなくブラウブリッツはピッチ内外で進化を続けている。
11月4日。シーズン最終節を控えたタイミングで、クラブから松田の退任を知らせるリリースが発表された。「さすがにこれだけ長い間クラブにいさせてもらった中で、試合の日にスタジアムでしか会えない人もたくさんいるので、そういう方々にも最後に気兼ねなく挨拶できるように、リリースを出させてもらいました」
去年のシーズン途中から、少しずつ自身の将来について考える時間が増えたという。「今後の人生をどうしようかと考えた時に、選択肢としては在籍させてもらえる限りはずっと秋田にいて、“ワンクラブマン”みたいに長くできればいいなというのが1つと、今のうちにサッカー界の中でいろいろな経験をして、最終的に自分が一番しっくりくる職種や場所で仕事をしていきたいなというのがもう1つでした。まだ何をやるにもギリギリ間に合う年齢だと思っているので、『今のうちにいろいろな経験をしたいな』とはぼんやりとずっと思っていたんです」
最終的に決断したのは、今年の季節が春から夏へと移り変わるころだった。「クラブハウスも社長と一緒に、部屋の配置も含めて『ああでもない、こうでもない』と言いながら一緒に作らせてもらって、昇格も優勝も経験させてもらって、J2でもある程度長い時間をやらせてもらって、『いったん今すぐにやれることはやったかな』という想いと、それこそ練習場も決まった場所が使えるわけで、おこがましいですけど『もう誰が来ても大丈夫な環境が整ったな』と。いろいろなタイミングで今かなと思いました。この決断に後悔はまったくないですけど、寂しさはありますね」。限られた人たちにだけは、今シーズンいっぱいで退団する意志を伝えていた。
チームが最終節を勝利で飾った試合後。松田はサポーターの前に立っていた。「最初は謙さんが『前に出てこい』と呼んでくれて、そんなつもりもなかったですし、何を話していいかテンパりましたけど(笑)、今までサポーターの人の熱量に支えてもらったところもありましたし、普段直接サポーターの人に話す機会なんてまずないので、ああいった形で感謝をお伝えできたのは、自分にとっても貴重な時間でした」
「まあ、寒い中で選手を待たせてしまったのは申し訳なかったですけど(笑)、想いを伝えきろうと思ったら、あと20分ぐらいは必要でしたね。素晴らしい機会をいただいたなと思っています」。抱えてきた想いがあふれ出る。夢中で話しているうちに、気付けば涙が頬を伝っていた。
秋田で過ごした7年の時間を経て、ブラウブリッツを取り巻く環境の変化も、松田ははっきりと感じている。
「街全体のブラウブリッツへの興味、関心、熱量が上がってきているのはもう間違いなくて、僕なんかでも街中で声を掛けてもらえることが増えましたし、試合の日の僕はチームバスには乗らずに自分の車で行って、スタジアムの前の飲食売店のところを横切っていくんですけど、4,5年前まで閑散としていた場所が、人をよけていかないと正面入り口までたどり着けないぐらいにサポーターであふれていて、考えられない光景が広がっています」
「あとは謙さんのスタイルが秋田県に合っているんだろうなというのは本当に感じます。県民性として、粘り強さとか、わかりやすく前に挑んで勝負するところも、秋田の人たちに響いているんだろうなと心から感じていて、いろいろなものが重なり合って、今年はこれだけお客さんが増えていますし、アウェイに来てくださる方も今までとは桁違いなんです。仙台戦なんて凄い数の方が来てくださって、スタンドに今まで見たことのないような青い区画ができていて、もちろんホームでも応援してくださっているのは前から伝わっていましたけど、本当の意味で後押しになったり、助けてもらっていることをここ最近は特に感じるようになって、本当に心強いサポーターの方たちですし、ありがたいですよね」
「ただ、他の街を見ていると、もっとサッカーで熱狂しているところがたくさんあるので、個人的には秋田にもそうなってほしいですし、そうなるポテンシャルはあると思っています。謙さんのサッカーのスタイルやフロントの方の努力で、地道に観客も増えていくはずなので、ずっと僕もサポーターとして応援したいなと思っています」
来年からは自分で決断した、新たな道を歩んでいく。忘れない。このクラブで学んだことを。忘れない。この地で得られた数々の思い出を。そして、誰よりも成長して、誰よりも進化して、きっといつかまた、胸を張ってここへ必ず帰ってくる。
「最終節のセレモニーでも『いつかここに帰ってきたい』と言いましたし、それは本当に社交辞令ではなく、心から思っていることなので、それがどんな形になるかはわからないですし、必要としてもらえるかもわからないですけど(笑)、これからもサッカー人として持たなければいけない気持ちやスタンス、その土台をすべてこのクラブが創り上げてくれたので、秋田で育ててもらったその土台を芯に持ちながら、AKITA STYLEを一番体現できる男になって、いつかまたここに帰ってきたいなと思っています」
19歳で身を投じた秋田は、いつしか故郷のような土地になった。19歳で身を投じたブラウブリッツは、いつしか家族のような居場所になった。「信じたこの道を、オレたちは行くだけ。すべては愛する秋田のため」。いつまでも、いつまでも、松田太智の心のど真ん中には、ブラウブリッツ秋田が息衝いていく。
文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
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